第10話 烏は霧の向こうに

 翌日、なおは宣言通り放課後に理事長室へと赴いていった。

 一緒に行こうと何度もなおを説得したが、一度言い出した彼女には何を言っても無駄だと言うことを、栞は嫌という程理解していた。中学の時に知り合ってからもう、数年の付き合いになる。流石に友人の特性ぐらいはわかっているつもりだ。

 不安な気持ちをどうにか抑えようと、目的もなくフラフラと廊下を歩く。数学の課題が昨日であらかた片付けられたのが唯一、安心できることだ。偲も静もよく手伝ってくれて、本当に助かった。偲と打ち解けられるか不安だった栞ではあったが、それなりに話せるようになっただけで進歩だ、と自然に口角があがる。数学の問題も、スタンプラリーもあとわずかだ。このまま何も起こらず、残りの承認判を得ることができればいいのに。無理な願いだとはわかっていても、栞はそう思わずにはいられなかった。烏丸と白鳥の対立は根深いのだと、かつて白鳥の家にいた頃散々言って聞かされたからだ。理由は教えてもらえなかったが、何となく察してはいた。何気ない行き違いや、権力争い。きっとそう言ったところだろう。一度仲がこじれてしまえば、それを修正するのは難しいだろうということくらいは、栞でもわかっていた。

 ふと、F組の前を横切ろうとしたところで、噂話に興じる少女たちの姿があった。随分と見た目が派手だったから、目を引かれたのだ。くるりと巻いた髪や、短く折られたスカートは、風紀委員が見たら目くじらをたてるだろう。けれどすれ違いざまに聞こえた単語は、そんな考えを吹き飛ばす。


『ねえ、聞いた? 図書館の地下に《学園の王子様》がいるって噂』


 ——戦慄した。足が竦む。心臓がばくばくと音を立てて、うるさい。

 今すぐ噂をしている女の子達の肩を掴んで、問い質したい衝動に駆られる。はく、はく、と呼吸が乱されてうまく息ができない。


(どうして、どうして、あなた達が“あの子”を知っているんですか!)


 学園の王子という単語が指し示すのはただ一人。かつて栞が約束した相手のことだ。栞はその人物について、ある時が来るまで口に出して語ることが許されない。それが二人の交わした約束であり、同時に魔術でもあった。そうすることによって、《王子》をありとあらゆる物から守る事ができる。そういった類の護りの誓いだった。

 けれど、誰か一人でも《王子》の本当の名を口にしてしまえば、その誓いは破られてしまう。それだけは避けなければならなかった。どうしてそうしなければならないのか、理由は忘れてしまった。けれど、失った記憶の隙間から、怯える声が栞に囁く。誓いを破ってはいけない、脅威はまだ去っていない!


『大事な人を待ってるんですって』『あら、約束の時間になっても待ち人来らずなんて、可哀想な《王子様》』『誰を待っているのかしら』『きっとお姫様よ、そうに違いないわ』


 悪夢のように笑い声が響く。少女達の瞳が赤く光ったような錯覚さえ覚える。くすくす、くすくす。反響する声を背にして、栞はいつの間にか図書館の方へと駆け出していた。







 ぴょこんぴょこんと髪の毛を揺らして、雨燕なおは校舎の中を探索していた。ただでさえ広い校舎の中で、普段お目にかからない人物を探すのは骨が折れる事だ。しかしなおは、どこかうきうきとした気分のまま理事長室を探し回っていた。ある種の高揚感と共に鼻歌を歌っていると、不意に看板が現れる。右手の突き当たり、それなりに重厚な扉の奥が理事長室であるとそれは示していた。


「理事長室……こっちだ!」


 ふんす、と鼻を鳴らして角を曲がろうとすると、そこには会いたくない少年が立っていた。前回のにやにや笑いとは異なり、今回はどこか真面目な雰囲気だった。焦げ茶の髪、甘い顔立ち。けれどその実意地悪な野郎なのだということを、なおは知っている。


「おっと、こっから先は許可なしには立ち入れないぜ、なおちゃん」

「げっ」

「俺の名前、覚えてくれた?」

「五位鷺なんちゃか……」

「千蔭だよ! 五位鷺千蔭! ……ま、そっちを覚えてくれてるならいいか」


 あからさまに嫌そうな顔をしながらおぼろげに覚えていた彼の名字を呼ぶ。はあ、とため息をつきながらも千蔭はホッとした顔をして懐からなにやら本を取り出す。若緑色のそれは、戯曲の台本に見える。まずい、と本能で察知した時には、千蔭の瞳は若緑色にキラリと輝いていた。


「『そうして雨燕なおは、五位鷺千蔭に足止めを食らう。体は石のように変化して、瞳だけは煌かせたまま』」


 朗々と語られるそれは戯曲のようだった。反撃の言葉を紡ぐ前に、若緑色の光に絡め取られるようにしてなおの両手足がぴしりと止まる。否、止めさせられた。ゆっくり侵食するように、指先の感覚が失われていく。体がうまく動かないのだ。魔力を紡いで反撃しようにも、その力を生み出すことすら困難だった。


「どうして邪魔、するの!?」


 息苦しいまま、なおは千蔭を睨みつける。バツが悪そうに眉根をひそめる千蔭は、何かモゴモゴと言い訳めいた言葉を口の中で転がした。それから少女から目をそらして、小さな声で呟く。


「ごめん。でも、偉い人達に怒られたくないんだよな」

「意気地なしっ!」


 なおは叫んだ。目の前の少年がなぜこんな行動を起こすのかわからない。なぜ自分の邪魔をするのかわからない。けれど、そんな理由で邪魔されたなら、たまった物じゃない! 叫ぼうにも、体がみるみる石のように動かなくなっていく。身動きが取れないのを歯がゆく思っていると、千蔭がふとなおの方に視線をやる。


「ごめんな、なおちゃん」


 寂しげに笑う少年はそのまま、人避けの結界を張って立ち去っていった。後に残るは、なお一人。






 急き立てられるように。追い立てられるように。野ウサギのように走って走って、どん、と誰かにぶつかった。栞はよろめいた。


「おや」

「すみませんっ」


 慌てたまま頭を下げて顔をあげる。


「君は……」


 男はじっと、栞のことを見つめていた。頭のてっぺんからつま先まで、何度か視線を往復させる。なんだろう、と栞が目を瞬かせていると、ふと、胸のところのネームバッヂに気をとられる。きらり、と輝くそこには理事・烏丸と彫られていた。この人が、烏丸理事長。学校で行われる各種の式典などで顔を見たことがあるはずだが、人間、意識していないものは覚えていられないようだ。かっちりとしたスーツに似つかわしい冷たい相貌だ、栞はそんな印象を受ける。オールバックにした髪は綺麗にまとめられていた。


「……白鳥くんだね?」

「ご存知、です……?」

「もちろん。五年前に定例会で顔を合わせたときに君のことは覚えたよ。君はまだ幼かったし、私のことを覚えていないかもしれないがね」


 幼い幼くないを除いて、栞に五年前の記憶はぽっかりと抜けているのだが--なぜだか、それは言わない方がいい気がして、こくりと頷く。定例会とは言詠に連なる一族が定期的に集まり、会議や親睦を深めるための交流の場だった。主に新年に行われるため、新年会とも呼ばれる。けれど、栞は前回の記憶がすっぽりと抜けている。前々回はおそらくまだ幼すぎて、おぼろげな記憶しか辿ることができなかった。


「……ご両親は、まだ目を覚まされないか」


 問われ、栞は再び頷く。


「眠ったまま目覚めない、困難な病だと聞いているよ。さぞ辛かろう」

「いいえ。……きっと最高位になって、目覚めさせるって決めてます」


 眠りの原因が果たして、そんな病によるものだったか、栞に判断はつかなかった。けれど何が理由であれ、栞は両親のためにも努力をすると決めていた。その覚悟を伝える相手が烏丸伶の血縁だろうと、栞はもう躊躇わなかった。


「そうか。……君も、伶に負けじと励んでくれたまえ。応援しているよ」


 少しだけ朗らかに微笑んで、烏丸理事長は去っていく。栞はその背を見送って、烏丸も悪い人ばかりじゃないのだろうかと、少しだけ考えを改めた。

 と、本来の目的を思い出し、栞はおもむろに本の森へと足を踏み入れる。烏丸理事は今から職員室の方へ向かうだろうから、なおが話をつけるまでまだ時間がかかるだろう。その間に、さっき耳にした噂——《学園の王子》についての真偽を確かめるため、栞は地下へ至る階段を降りて行くことにした。

 訳あって今はこの学園に“いない”はずのその生徒が、なぜ、噂されているのか。栞はばくばくと心臓が鳴り響くのを感じていた。冷や汗がつぅ、と伝い落ちる。


(称号で呼ばれただけなら、まだ大丈夫。本当の名前を呼びさえしなければ、誓いは有効なはずです)


 かつて交わした約束を反芻しながら、けれど不安が募って仕方がない。

 トン、トン、と階段を降りて行くたびに、だんだんと薄暗くなって行く。螺旋状になっている階段はどこまでも続いているようで、闇へ手招かれているようだ。どのくらい降りていただろうか、しばらくしてようやく床に足がついた。地下の電気を手探りでつけようとして、ぱちり、とスイッチを押しても明かりがつかない。引き返そうか、いやしかし、例の噂を確認しなければ。そんな気持ちで、携帯電話を懐から取り出し、心もとない光で地下室を彷徨い始める。埃っぽい書庫は霧がかったように前がよく見えない。それでも、かすかな光を頼りに、この暗がりに目が慣れれば少しは歩きやすくなるだろう。地下の書庫は広く、迷子になってしまいそうだった。書庫には所々蜘蛛の巣が張られており、引っかかりそうになりながらも先へ先へと進んでいく。

 くすくす、と笑い声が聞こえたのはその時だった。


「だ、誰?」


 声は奥の方から聞こえてくる。おそらく少年の声だろう。電気もつけないこんな暗がりで、一体何をしているのだろうか。


「誰か、いるんです?」


 ぼう、と赤い光が見えた気がして、栞は背筋に寒いものがはしるのを感じた。頭の中で、微かに警鐘がなる。


「……いるよ」


 角を曲がればそこに人影。黒髪の少年が、足を組んで椅子に腰掛けていた。


「"あいつ"の話をすれば、きっときみは来るとは思ってたけど……当たりだったね」


 彼はにこ、と笑みを浮かべながら独り言ちる。あいつ、とは恐らく《王子》のことだ。口ぶりからして、目の前の彼が適当に噂を流しただけだということが察せられる。栞はほんの少しだけ緊張を解いた。あの子はここにいない。それだけで、栞の不安は幾分か解消されたはずだった。けれど、少年の前に立っているだけで、なぜだか背筋にぞくぞくと寒いものがはしる。何かとんでもない物と対峙しているような雰囲気に飲まれないよう、栞は拳を握りしめる。そんな様子に目を細めてゆったりと彼は立ち上がり、栞の方へと歩み寄ってきた。

 学生服を纏っているからこの学園の生徒なのだろう。暗がりでどの学年なのかはわからないが、少しだけあどけない顔立ちをしているから同学年だろうか。それにしても、綺麗な顔だ。あまり容姿に頓着しない栞でも、整った顔に目を奪われる。真黒い髪がところどころ跳ねている。背は高く、おそらく180cm近くはあるだろう。少年はうっすらと笑い、口を開いた。


「会いたかったよ、栞ちゃん」


 その少年は、とても懐かしそうな眼差しで、栞のことを見つめていた。栞は首を傾げた。知っているような、知らないような。どこかで会ったことがあるようで、けれども彼のことを栞は知らない。


「えっと、わたし、あなたにお会いしたことありましたっけ」

「やっぱり覚えてないんだね。まあ、無理もないか」


 そのまま彼のことを知らないと伝えると、少年は一瞬動きを止めて、くすくすと笑いを零した。何がおかしいのかわからない栞は、反対側へと首を傾ける。


「でも、俺のこと、ちゃんと思い出してもらわないと……ね?」


 パチン、と指が鳴らされた。彼の目が赤く光る。


「なっ……!?」


 魔術師らしい気配は全くなかったのに、指が鳴らされた瞬間、膨大な魔力が湧き上がる。しかも、栞にとって未知の魔力だ。慣れ親しんだ言詠の、どこか煌めく星に似た気配は全く存在しない。例えるならば泥濘、あるいは深淵から汲み取ってきた、どこか悍ましい雰囲気の力。防御陣を展開しようと唇を開く前に、しゅるりしゅるりと何かが手足に絡みつく。細い糸だった。指先の自由を奪われ、振りほどこうと体を動かそうとする。真っ白く、たおやかな糸が幾重にも胴体に巻きついているのに気が付いたのはその時だった。


(いつの間に——ッ!)


 身動げば身動ぐほど、糸が体に食い込んで離れない。決して逃さない、そんな意図が込められているようにさえ思えた。気がつけば繭のようにぐるりぐるりと囲われて、入り口の方まで蜘蛛の糸が張り巡らされていた。

 糸に絡め取られ、すっかり身動きができなくなった栞のことを満足そうに眺めていた。少年は優しく、愛おしいものを見つめるように栞に微笑んで、


「いい加減思い出したらどうかな、『出来損ないの白鳥アグリーダック』」


 残酷な言葉を囁いた。

 ぱりん、と記憶の蓋が割れた。洪水のように、思い出したくない言葉が蘇り、押し流される。


『全くこの子は本当にダメで』『それで本当に白鳥の後継者なのか』『どちらも出来損ないなんて!』『これじゃあまるで』『みにくいアヒルの子だ』『不良品などこの家には必要ない』『魔術師になれない子供など』『最高位を目指せない白鳥なんて』『また追い出してしまいましょうか』


 頭の中で響く言葉たちが、ざくざくと心を引き裂いていく。ガタガタと震える体を抱きしめることも出来ないまま、気がつけば目の前が滲んでいた。目頭が熱くて、泣き出してしまいそうなのを必死に堪える。嫌だ、嫌だ。思い出したくない。かつて何があったのか、思い出したらきっとまた、立ち上がれなくなってしまう。はく、はく。喘ぐように呼吸する様をにこにこと笑いながら眺める少年は、どこか恍惚とした表情で栞の頬を撫ぜた。


「ああ、名乗るのが遅れたね。俺の名前は片桐七緒かたぎりななお。--別の名前を、烏丸漆からすまうるし。《七番目の烏セブンス・クロウ》って呼ぶ人も、いるよ」


 振り払うことも出来ず、撫ぜられ続ける。知らず、頬を伝う涙を拭う手は優しいのに、声色だって優しいのに。烏丸を名乗った少年が、怖くて怖くて仕方がない。


「栞ちゃんには、七緒って呼んでほしいなあ」


 どろりとした薄暗い感情が少年の手のひらから伝わるのを跳ね除けられないまま、栞はぽろぽろと星屑のような涙を零していた。

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