第6話 約束は休息に

 ちゅんちゅん、と鳥のさえずりが聞こえる。陽はまだ低く、朝の光がカーテンの隙間から差し込んできていた。四方をカーテンに覆われているベッドの上で、ぱちりと少女が目を覚ます。


「ここは……病院? 私、確か、踊っていて……」


 横たえられていた少女は起き上がり、纏ったパジャマをまじまじと眺めた。傍らには白いチュチュ、そして白い粉に塗れた赤かった トウシューズ。足元の方ではベッドにもたれかかるように眠るポニーテールの少女がいる。シニョンにした髪は解けて、ぱらぱらと肩に落ちていた。


「目が覚めましたか、鳰海先輩」


 シャーっという音とともに、個室として括るためのベッド周りのカーテンが開かれた。


「貴女は……?」


 ネグリジェを纏った栞を、不思議そうな顔で鳰海舞は見つめた。


「白鳥栞と申します。昨晩は、あなたの踊りを邪魔してしまってすみません」


 舞はしばし宙空に視線を漂わせ、それからぽん、と合点したように手を叩く。破顔して、頭を下げた栞の髪にそうっと、触れた。


「ううん。とめてくれて、ありがとう」

「……そう、ですか」


 頭を柔らかく撫でられて、栞はほっと息を吐く。もう、舞が昨日ほどの激昂を見せることはなさそうだった。


「白鳥さんちの子、なんですね。あれ、でもここ、夜鷹先生の診療所では……? 運んで来てくださったの?」

「ああ、ええと、はい。実は譲の――夜鷹先生の所にわけあって居候中なんです。本当は他の人の診察があったんですけど、ちょっと融通利かせてもらいました。先輩の服を着替えさせたのはそこで寝てる雨燕なおで、脚の手当てをしたのは譲のオッさんです」

「そうなんですね。ふふ、懐かしいな。つま先に血豆ができるたび、手当てしにもらいに来たのが昔のことみたいです」


 栞の居候する夜鷹譲の家からほど近い、一般の診療所。その裏口から入ると、言詠達を専門に診るために譲が借り受けた診察室になっている。夜鷹譲は相手が魔術師ならば、一般的な怪我から魔術師にしか罹患しないような病まで全てを網羅するとの評判だった。譲のもとで働く若い看護師からその話を聞いて、譲は見た目の割に優秀なんですね、と栞が評価を改めたのは昨晩のことだ。怪我をたくさんした三人娘を、深夜にもかかわらず的確に治療していく姿は、いつものどこか胡散臭い雰囲気とは真逆だった。あらかた治療を終えた譲は“疲れたから寝る、用があったら起こしな”と言い残して、仮眠室でぐーぐーといびきをかいている。栞も空いている寝台で仮眠を取ったものの、やはり眠気が強い。今日が休日で本当によかったと、舞の前であくびをかみ殺した。


「譲はいま寝てやがりますけど、起こした方がいいです?」

「ううん、大丈夫です。……あの。少しだけ、私の話を聴いてもらっても、いいですか」

「はい」


 おずおずと言い出した舞に頷いて、栞は近くの椅子に腰かけた。


「私、好きな人がいるんです。土曜日の夜になったら、見に来てくれるっていうので、毎週のように踊ってたんです。……でも、いつまでたっても来てくれなくて……。悲しくて、つらくて。ずっと泣きながら踊ってたんです。それである日、声がして」

「声?」

「ええ。男の子の……怖い、声音で。『そんなに醜い赤い靴じゃ、もう脱げないよ。ずっと、踊り続けなくちゃ』って」


 ゆっくり、柔らかな想い出を呟く舞の言葉に、不穏な色が混ざった。残酷な言い方に、栞は思わず眉根をひそめる。


「気がついたら、トゥシューズが脱げなくなってたんです」

「そんな……酷いことを」


 舞の脚に目をやれば、今もかすかに痕が残っている。絡みついた真っ白い糸、一人の踊り子を駄目にしてしまいかねないほどのそれを施したのは、一体誰なのか。仮にその声の主だとするなら、一体、どうして。思考に暗雲が立ち込めてくる。


「でも、いいんです」


 推理の海に飛び込んだ栞を引き上げたのはしかし、舞の能天気な声だった。思わず顔を上げると、舞はにこにこと笑顔を浮かべながら判子を手にしていた。


「これ、承認判です。栞さん、最高位をめざすんですよね。きっと素敵なエトワールになれると思います」


 台紙に判を押してもらいながら、栞はああ、と合点する。フランスはパリ、オペラ座における最も輝かしい花形の踊り手をエトワールと称する。英語圏ではその地位を“プリンシパル”と呼ぶこととかけているのだ。確かに、主役を目指し競い合うダンサーに近いものがあるだろう。最高位候補たる少女はこくりと頷いた。

 そんな和やかな雰囲気の中、むにゃ、となおが目を覚ます。寝癖がたくさんついたまま、栞と舞の姿を認めてへにゃりと笑う。数拍おいて、突然その身を起こし、舞の方へと慌てて言葉をかける。


「舞ちゃん先輩、脚へいき!? あっ名前言ってなかった、私、雨燕」

「なおさん、ですよね」


 びっくりしてきょとんと眼を丸くするなおに、さっき言いましたからね、と栞が説明する。そんな二人の様子を慈愛に満ちた眼差しで見つめて、舞はなおの頬を撫ぜる。はわわ、と焦るなおも、その優しい手つきにうっとりと目を細めた。


「……あなたの踊り、すてきでした。目が醒めるようでした。もしよかったらまた、私と踊ってほしいです。栞さんも、今度は一緒に」

「はい」


 舞は頭上でくるくると手を回し、その手を栞の方へと差し出す。たおやかな白い手に手を重ね、ささやかな約束を交わすのだった。






 仮眠を取っている譲と、もう少し眠ることにした舞、それから大きなあくびの止まらないなおと別れ、栞は譲の家へ戻ってきた。家人に迷惑のかからないよう、栞はそっと家の扉を開く。不思議なことに、早朝だというのにキッチンからいい匂いがする。


「お。……おかえり」

「湊さん」


 香りを追いかけていると、エプロン姿の湊がおたまを片手に出汁を取っていた。


「腹、減ってるか。簡単なもんなら作るけど」

「そんなに、お腹は減ってないんです……それよりも、すごく眠くて」


 眠い目をこすりながら栞がぼやけば、湊ははは、と乾いた笑いをこぼす。そりゃあ、そうだろう。そう呟いて、冷蔵庫から味噌を取り出し、コンロの火を止めて味噌を片手鍋に溶き入れる。


「夜中にあんな体動かせば疲れもするだろ。その様子じゃロクに寝てないんだろ?」

「まあ、そうなんですけど。……そうだ、昨晩は助かりました」

「ああ、大したことじゃない。気にすんな」


 コンロに向かう湊の表情はうかがえない。栞は本当に助かったんですよ、と尚もいい連ねる。けれど、湊はどこか生返事だった。もう一度かち、とガスコンロに火をつけ、味噌汁を加熱する。


「ま、なんか食っとけ、あんまりお前が痩せると俺が怒られる」

「譲に、ですか?」

「いや、母さんに……ああ、いや。今のは失言だ。忘れろ」


 ふい、とそっぽを向いてしまった湊に首を傾げる。どうして彼の母親がわたしの健康を慮るのだろう。優しい人なのだろうか。眠い頭の栞が深くそれを考える前に、きゅうううう、と腹の虫が切なげな鳴き声をあげた。意志に反して体が空腹を訴える。ならば仕方ない、と大人しく栞は湊に望みを告げる。


「……おにぎり、ください」

「おう。飯食って、しばらく寝てろ。適当に起こしてやるさ」






 何度か寝たり、ぼんやりしたり課題をこなしている間に休日が終わり、寝不足の体を休めるように、数日はのんびりと過ごしていた。今ある承認判は五つ。この調子なら、なんとかなるかもしれない。そんなことを考えながら学校へ登校した栞の机に、見慣れない封筒が無造作に置かれている。なんだろう、と手に取ると、宛名のない招待状だった。

 "放課後、二階美術準備室にて待つ"

 招かれたからには、向かうべきだろう。机の上に今日の授業の教材を並べながら、栞は残された期限を指折り数える。暦は五月、期限までは残りおよそ二ヶ月。六月の三十日、栞の十六歳の誕生日が、ゆっくりと迫っていた。






 場所は変わって、高校一年生達の集められた校舎一階の廊下。そそくさと教室を出て行く栞の姿を認めたなおは、また一人で無茶をしかねない友人の影を追っていた。


「もー、栞ちゃんすぐ置いていくんだから!」


 ぽこぽこと怒りながら、ポニーテールがゆらゆらと揺れている。二階に登るための階段に差し掛かり、勇み足で一歩踏み出す。と。


「きゃあああっ!?」


 天地がひっくり返り、高いところへと釣り上げられる。気がつくと網の様なものの中に閉じ込められていた。下着が見えそうになるのを必死で隠しながら下の様子を伺うと、一人の男子生徒が網に繋がったロープを手にしながら、腹を抱えて笑っていた。


「っはははは、傑作、いやほんと面白いわ。よお、ポンコツちゃん。どうだい、高いところからの眺めは」


 整った顔立ちはどこか甘く、ふわふわとした焦げ茶の髪がよく似合っている。少年の見た目は抜群に良いが、なおはむすっと頬を膨らませた。下に向かって大声で、


「な、なにするのー! っていうかわたしポンコツじゃないもん!」


 叫ぼうものなら、きょとんとした表情で少年が言い返す。


「こんな罠に引っかかるポンコツにポンコツって言って、何がいけないんだよ」

「むきー! サイテー! こんな可愛い女の子によくもー!」

「あはは、自分で言うんだ、それ」

「だいたいあなた誰!? なんでこんなことするのっ!?」


 魔術を発動させて網から抜け出そうとして、なおはふと気がつく。うまく言葉が紡げない、と。ひとしきり笑い終えた少年は、芝居がかった身振りで笑いかけた。


「俺の名前は五位鷺千蔭ごいさぎちかげ。よーく覚えて帰ってくれよ、雨燕なおちゃん」






 二階、美術準備室。施錠されているはずの鍵は開けられていた。中へ入ると、小さなテーブルの上に、絵本が数冊置かれていた。十羽の鳥が描かれた、孔雀色の装丁。吸い寄せられる様に手に取って、思わずページをめくってしまう。

 童話の体をなしているらしいその物語に、栞はゆっくりと沈み込んでいく。いろいろなタイトルが目次に書かれていた。まず栞の目を引いたのは、“みにくい二羽の雛”と言う掌篇だった。


“むかしむかし、二羽のみにくい雛がおりました。みにくくとも美しい心を持っていた二羽はけれど、過酷な運命に翻弄され続けます。二羽を可愛がっていた親鳥がいなくなると、周りの鳥達は酷い態度を取り始めるのです。そうして一羽は無用のものとして家から追い出され、もう一羽は美しい鳥になるために厳しい躾をされておりました。仲のいいきょうだいだったその雛達は、以来お互いのことを忘れて生きていくしかありませんでした。めでたし、めでたし”


 全然めでたくないじゃないですか。頬の内側を噛みながら、栞は憤る。気にくわない、この物語を認めたくない。なのに、どうしようもなく惹きつけられる。ぎゅう、と拳を握りしめた時、ジジ、と思考にノイズが混じる。ぼさぼさの髪、優しげな眼差し、寝物語に童話を読み聞かせてくれた面影。ああ、まただ。わたしはやはり、何か大事なことを忘れているんじゃないのだろうか。

 クラクラと眩暈がする中、なんとか次のページをめくる。次の話は“寂しい寂しいカラスの仔”と言うタイトルだった。


“むかしむかし、一羽のカラスが恋をしました。愛した鳥はけれど、カラスに振り向いてくれることはありません。悲しい、苦しい、悔しい。けれど仕方がないのです。その鳥に触れることも、会うことも、カラスには禁じられているのですから。カラスにできるのはただ一つだけ。それは——”


 続きの文を読む前に、ふと、人の気配を感じる。ばっ、と振り返れば、扉の前で腕を組む人影があった。


「お気に召したかい、《本の栞ブックマーク》?」


 三つ編みの女生徒が、そこに立っていた。

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