第5話 舞踏は軽やかに:後編

 来たる土曜日。あたりが一面朱色に染め上げられた、黄昏時のこと。

 険しい顔をした栞を目ざとく発見したなおは、帰り道へ向かおうとする栞の目の前に立ちふさがっていた。両手を広げ、頬をふっくらと膨らませ、目を釣り上げる姿はなかなか珍しい。栞はぱちくりとその姿を見つめて、どうしたのかと尋ねる。


「栞ちゃん、ハンコ集め行くんでしょ。私もいく!」


 ふんす、と鼻息を荒くして、なおは真剣に栞のことを見つめていた。一人きりで体育館に向かおうとしていた栞は、なおを説き伏せようと言葉を並べる。


「で、でも危ないかもしれねーですし。前回は話し合いで済んだけど、今回は戦うかもですし」


 鳩村静の件は滅多にないことであると、栞自身も理解していた。あんな平和的に解決できるのなら、誰も、最高位を目指すのに苦労はしていない。みな血眼になって、奇跡を希うためにしのぎを削っているのだ。言葉に詰まる栞に、ずい、となおは身を乗り出す。


「だったら尚更、栞ちゃんのこと一人にできないよ。困ったことがあったらちゃんと言ってって、前に言ったのにー!」


 じぃーーーっ、とまっすぐ見つめられる。栞ははぁと観念したことを伝えるよう、大きくため息をついた。


「わかりました、わかりましたッ! ……手伝ってください、なお」

「おまかせだよ!」


 えっへん、と胸を張られる。なおの自信に満ちた様子に、栞は不安と安堵がないまぜになるような、不思議な気持ちを抱くのだった。






 夜の帳が下りた。時計は十時を指そうとしている。監視カメラを避けるようにして裏門から学園に忍び込んだ二人は、あらかじめ鍵を開けておいた一階の端にある女子トイレの窓から、校舎へと忍び込む。罪悪感を感じながらも、判子のことを考えるとそう悠長なことも言っていられない。栞はわくわくしているなおを横目に、ふう、とため息をついた。一度入り込んで仕舞えば、そこまで監視カメラは設置されていないため、あとは普通に体育館へ向かえばいいだけだった。一階部分、通常の入り口から体育館ね入ろうとしても、夜間は施錠されている。けれど、校舎から繋がる二階部分は施錠が甘いことを、なおがにこにこしながら教えてくれたのだった。

 暗くなってからの校舎には、何の気配もない。常ならば、見回りの警備員か仕事の終わらない教師くらいはいるのだろう。けれど、今日の学校は静まり返っていて、人の姿はとんと見当たらない。異様な雰囲気だった。

 二人で並び、体育館へと向かう。真っ暗闇の廊下に、足音が反響する。かつん、こつん、かつん、こつん、と、無口な二人の会話の代わりをつとめていた。

 やがて校舎の端、体育館との連絡通路にたどり着く。アイコンタクトを交わして、栞は一歩足を踏み出す。ぐにゃり、と一瞬めまいのような感覚がして、たたらを踏む。何らかの魔術的な結界が張られた空間に入り込む時、そのような感覚がするのだということを、栞は身をもって知っていた。ただ、体にその知識はあっても、実際にそれを得た経験を思い出すことがうまくできないのだが。

 心配げに見つめてくるなおに、大丈夫ですよと微笑んで、栞は体育館の重たい扉を、力を込めて開く。

 しん、と静まり返った体育館。バスケットボールやバレーボールをするための床は綺麗に磨かれていて、何の変哲もなかったけれど。

 栞は異様な雰囲気を感じ取って、じっとある方向に視線をやっていた。

 ブーーーーー、と音がなる。舞台の上。ブザーとともに、真紅の色をした幕が上がる。くるくると回転しながら現れたのは、赤い靴を履いた女の子。その靴はただの靴ではなく、トゥシューズと呼ばれるべき、バレリーナのための靴。


「まあ、お客様! よくぞいらっしゃいました。私は舞、鳰海舞。星謳学園の二年生」


 優雅なお辞儀をする少女。舞は髪をシニョンに結い上げて、可憐な白いチュチュを纏っていた。


「私の踊りを見にきてくださったのね」


 瞳はどこか胡乱で、栞やなおの方に視線を向けているにも関わらず、夢見るように蕩けている。観客に話しかけるような透き通った声音は、見た目の可愛らしさにそぐわず蠱惑的だ。

 雰囲気に飲まれかけて、栞は慌ててぶんぶんと首を振る。ぽんやりとしているなおの脇腹を肘で小突いて、栞は舞に声をかける。


「ちがいます、そうじゃなくて、わたしは判子をもらいにきたんです!」


 栞の透き通った声が、舞の元へ届いたようだ。そう、判子だ。それさえ渡してもらえれば、いくらでも彼女の踊りを鑑賞させてもらおう。そんな風に考えていた栞はしかし、すぐに己の見通しが甘かったことを知る。

 夢見るようだった瞳が、みるみるうちに悲しみと嫌悪に塗り替えられていく。


「判子……? 私の踊りを、見にきてくれたんじゃないんですか……?」


 そうして不安そうに揺らめく舞の瞳に気づけないまま、なおが首を傾げて応えてしまう。


「踊りは後ででも見られるでしょ、今は判子が欲し……もがっ」


 舞の様子がどこかおかしいことに気がつき、しまった、と栞が青ざめた時にはもう手遅れで。舞の瞳に怒りの色がちらり、と過ぎった。栞が慌ててなおの口を手で押さえたところで、すでに発されてしまった言葉は取り返しがつかない。舞は虚ろに、能面のような無表情で呟いた。


「いや。いやよ。今しか踊れない、今しか見てもらえない。後なんて、知らない」


 スポットライトを浴びたバレリーナの瞳が濁緑に光り、流麗さとは真逆の、地を這うような声で、彼女は言った。


「『私を見て、私だけを見つめていて』」


 ぐい、と顔が操られるように動き、栞もなおも強制的に舞台へと視線を釘付けにさせられる。スピーカーからひび割れた調子でオーケストラの演奏が流れ始め、そうして優美な踊りが始まる。舞はポワントと呼ばれるつま先立ちのまま、くるくると回転してみせる。そうして数回回って一呼吸置いた時、舞は開かれた扉の方を指差した。

 ばたん、ばたん、ばたん!

 観客を逃すまいと、体育館の扉が次から次へと閉まっていく。

 扉が閉まる前に外へ出ようとしたなおは、弾き飛ばされるように体育館の中央へと戻された。舞台の上の舞が衣装についていたリボンをしゅるりと解いて、ふぅ、と息を吹きかける。


「『捕まえて』」


 生き物のように意志を持ったリボンが、長さを増して、栞となおの体をぐるぐる巻きに縛り上げる。サテンのリボンが体に食い込み、ぎゅうぎゅうと肌を締め付けた。


「さぁ、見ていてお客様。私はここで、永遠に終わらない舞台を続けるの」

「永遠なんて……! そんなに踊り続けられるわけねーです!」

「できます。だって、この靴は赤い靴。これを履いている限り、私は踊り続けなければいけないの」


 優雅に一礼して、再び踊りを始める。ひび割れた音のまま響き渡る音楽は、狂気をさらに加速させて行くようだ。彼女を止めなければ、おそらく本当に、永遠にこの場から出られないだろう。彼女の執念と呪いのような強迫が合間って、異質な空間を形成していた。外からの助けも望めないかもしれない。赤い靴を履いたまま踊る舞を止めるべく、栞は這い蹲りながらも思考をめぐらせる。


「栞ちゃん」


 こそ、となおが小さな声で栞の名前を呼んだ。なんですか、と応じると、なおは泣きそうな顔をする。


「赤い靴って、どんな話だっけ……?」

「赤い靴に執着するあまり、踊り続ける呪いをかけられた、女の子の話です」


 幼い頃、家族に読み聞かせてもらった声を思い出しながら、栞はなおの方を振り向く。刹那、つんざくような叫び声が二人の鼓膜をゆすぶった。


「よそ見、しないで! 『逃げる足なんて、いらない!』」


 罰を与えんと言わんばかりに、舞は踊り子用の扇子を振りかざす。再度暗い緑に瞳が光る。赤い靴を履いた少女の言葉が紡いだのは、鋭利に光る巨大な斧だった。舞台を遮らないよう、しかし間近な位置に現れた凶器は、なおと栞の足をいつでも切れるよう固定されている。少しでも舞から目をそらしたり、身動いだりすれば、足首から先が無くなるのは容易に想像がついた。


「足を切られるのがこっち側ってことですかッ……!」


 赤い靴では、たしか斧で足を切られたのは赤い靴を履いていた少女の方だったはずだ。いよいよ背中に冷たい汗が流れて行く。がくがく、と震えるなおの手を握って、大丈夫です、と小声で呟く。励ましながらも、栞は心が恐怖で埋め尽くされていくのを感じた。

 怖い、怖い、どうしよう。誰か、誰か、助けて。泣きそうになりながら、ふと、ポケットが振動していることに気がついた。大音量で流れている音楽に紛れて、舞には気づかれていないようだった。なんだろう、と惚けていると、なおが小さな声で囁く。


「栞ちゃん、電話だよ!」


 促され、ハッと意識に冷静さが戻る。栞はどうにか布越しに、電話の受信ボタンを押した。ピッ、と小さな音がして、電話の向こう側の人物の声が聞こえてきた。相当小さい声のはずなのに、なぜだかはっきりと聞き取れる。


「苦戦してる頃じゃないかと思ってさ。どうだ?」


 十年来の知り合いに話しかけるような口調で語りかけてきたのは、夜鷹湊の声だった。どうして、なぜ彼はそれを知っているのだろう。疑問はたくさん浮かぶが、今はそれどころではない。視線を舞に向けたまま、栞は声にひそひそ声で返事をする。


「どうもこうもねーです、もうめちゃくちゃ大ピンチです!」

「っはは、だろうな。何すりゃいいかは……わかんねーだろうし、まあ、ヒントくらいやるよ」


 これ、本当は怒られるから、俺が言ったっていうのは秘密な。そう言って湊は、いつになく真剣な声で告げる。


「――彼女の執着を断ち切れ」


 ぶつり、と前触れなく電話が切れた。ヒントのような意味深な言葉に、栞もなおも眉根をひそめた。

 執着。彼女の執着とは何だろうか。そこで栞ははじめて、舞の踊りをしっかりと観た。完璧な姿勢、美しいピルエット。なのに、泣き出しそうな顔で踊り続けるバレリーナ。赤く染まった靴は、そういえばさっきよりも色が濃くなって、褐色に近づいている気がする。じわり、と赤が滲み出た時、舞の表情には苦悶が浮かんでいた。


(ひょっとして、血が、滲んでいる……?)


 栞ははっ、と息を飲んで、その凄絶な踊りを見続ける。血が滲むほどに踊るなんて、普通の人間には耐えられない。もしかしたら無意識のうちに、痛みをごまかしながら踊っているのかもしれない。けれど、そうまでして踊らなければならないのはどうしてなのだろう。赤い靴の物語に囚われているような舞の口ぶりに、栞はふと思いつく。

 だったら――赤くなければ、踊り続ける必要はないのでは?

 いまだにじわりと血がにじみ出ているのだろう。痛々しい足に目を向けて、栞は必死に考える。血豆が潰れ、赤く染まった舞のトゥシューズを、もう一度白くするのなら。


「なお、頼みがあります」


 舞の踊りを見つめて、栞は呟く。考えた作戦を耳打ちすると、なおは決意に満ちた声音で、わかった、と了承した。


「『ちょきちょきちょっきん、かにばさみ!』」


 なおの瞳がきらりと輝く。薄緑色の光がふわりとあたりを取り巻いて、現れたのは宙に浮かぶ小さな鋏。そのままリボンにめがけて鋏が落ちてきて、シャキン、と鋭い音がした。サテンのリボンが蟹を模した鋏で切られ、二人の体はもはや自由に動けるようになっていた。スピーカーがノイズを吐き出し、ちょうど音楽の切れ目に合わせて、なおがすっくと立ち上がる。


「ひとりで踊るなんて寂しいよ、舞ちゃん先輩!」


 突然立ち上がった観客に、舞は怯えと困惑の表情を浮かべていた。なおはそれに構わず舞の方へと近寄っていった。

「な、何を……」

「なおと踊ろうよ!」

 そのまま舞台に乗り込むと、自由なステップで踊り始める。バレエとは異なる型のない踊りにあっけにとられて、後ずさりしている舞をよそ目に、栞は体育倉庫へと一目散に駆け出した。

 倉庫の中の、白い粉の予備。校庭にラインを引くための石灰が、そこには備蓄されていた。持ち上げるとずっしりと重く、栞の筋力で運ぶのはなかなか骨が折れる。それでも、急がなければ。いつまでなおが舞のことを惹きつけておけるか解らない。五つほど石灰の袋を入り口付近へ運び終えると、胸ポケットから取り出した蟹を模した鋏で、僅かに袋に裂け目を入れた。


「なお!」

「おまかせ!」


 栞の叫びに応じて、なおは舞台から飛び降りる。走って、走って、最後には華麗に側転を決めて、なおが体育倉庫へと入り込んできた。舞台から引きずり降ろされたバレリーナは、観客からダンサーへ転じた裏切り者を追いかけて、追いかけて、そして足を取られてよろめいた。


「な、なぁに……っ!?」


 もつれる足、倒れる体。赤い靴が、足ごと思い切り粉にまみれて白に染まった。舞がそれを見つめているとわかった瞬間、栞はもう呪文を唱え始めていた。虹彩が美しい孔雀色に染め上げられ、栞の言葉に音が乗る。


「『ミルクに蜂蜜、セントジョーンズワート。誘えバレリアン、糸車。乙女よ沈め、眠りの底まで!』」


 歌うような調子で紡がれた魔術に呼応して、倒れこんだ舞の瞳がゆっくりと閉じていく。石灰の袋をクッションに、舞姫はゆるやかに眠りの世界へと誘われていった。

 抱き起こし、石灰が充満する倉庫から舞の身体を運び出しながら、栞はすやすやと眠るバレリーナの状態を確認していく。煙たい空気にげほげほと咳き込みながら舞の表情を見やれば、微笑みを浮かべながらよく眠っている。目が覚めたら平静な状態に戻ってくれるだろう。どっと疲れが押し寄せてきて、かいた汗を袖でぐい、と拭う。魔力の消耗もあるが、それよりも体力的な疲労がすごかった。はあはあと肩で息をしていると、足元の方で舞のことを見ていたなおがあれ、と声をあげる。ちょいちょい、と栞を手招きしていた。

 足首とトウシューズをがんじがらめにするように、おびただしい量の細い糸が絡み付いていた。指で解こうとしても頑丈で、うまく外せそうにない。


「鋏ありますけど……」

「ううん、その鋏じゃと切れない思うよ。さっきのリボンとは違くて、これ、強力な魔術だと思うもん。あ、そうだ、栞ちゃん、歌ってみて」

「ほへ」


 蟹を模した鋏をしゃきしゃきと動かしていた栞から、間抜けな声があがる。呪文を解く魔術を試みたことはあまりない栞だったが、なおの真剣な眼差しに促され、両手を組んで囁く。目を閉じて、祈りを捧げるように。


「『ほつれた糸を解きましょう。ゆるやかに、まっすぐに、いたみなく』」


 白い糸がきらきらと光り、解けてゆく。後には何も残らず、けれど糸で締め付けられた痛々しい痕が、舞の美しい脚についていた。譲のもとへ連れていって、診てもらった方がいいかもしれない。


「なお、まだ動けますか」

「もちろんだよ。……譲おじさんのとこ行く?」

「はい。放っておけねーですし」


 軽すぎる踊り子を二人で支え、体育館を後にした。そうして舞台の幕は降り、観客は一人もいなくなる。

 ただ一羽、真っ黒な烏が、窓からその様子を覗いていた。

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