第十一話 わたし
あの暴君のような男が、津村によって赤子のように丸め込まれていた。信じがたい光景に、しばらく呆気にとられていた。
津村が何やら叫んでいた。そこからは意味が抜け落ちていて、大きい音にしか聞こえない。
「殺せ!!」
──我に帰る。そうだ。わたしは、この男を殺すために、この場にいるのだ。立ち上がる。立ち上がるが、床が強粘性のテープに敷き詰められたような錯覚に陥る。何かが、足にこびりついている。ふらふら、よろよろと歩き、血の付いた包丁を拾う。言葉を発せる状態ではなかったが、父は、わたしを恐れているようだった。
父を見下す。わたしがそうやって怯えている時、おまえは慈悲を見せたことがあったか?弱いわたしをいたぶって、さぞ楽しかったことだろう。今度は、わたしがおまえをいたぶる番だ。
包丁を逆手に持ちかえ、父の太股に突き刺す。父の身体がびくっと痙攣する。普段使いの包丁ではそこまで深くは刺さらないが、刃を抜くと容器を抑えつけたケチャップのように出血した。
手が震える。もう後戻りは出来ない。動悸が激しい。気づけば、肩で息をしていた。父の目は、虚ろになっている。
「さあ、腹に刺せ。突き刺したあと、なかで刃を返せ。それで終わる」
津村の声が聞こえる。終わらせよう。わたしの人生に呪縛を強いた男を殺し、決着をつけよう。
包丁を振りかぶる。これを腹に突き刺せば、わたしの人生は動き出す──。
ごきっ。
くぐもっていたが、嫌な音が、確かに鳴った。
手を止め、父は見る。
「いや、悪い悪い。つい力が入ってしまって」
津村が笑いながら、手を離す。糸が切れた操り人形のように、父の上体がどうと倒れる。首は、かなり不自然な方向に曲がっている。
「いやあ、ついね。おまえの鬼気迫る顔を見ていたら腕に力がこもってしまって」
津村はにやにやと嫌な笑いを顔に貼り付けて、のたまう。わたしはこの顔に、見覚えがある。必死に、記憶を探る。──初めて喋った、図書室のことが、唐突に呼び起こされる。
あの時も、津村は笑っていた。今みたいな表情で。津村はわたしに本性を隠し、近付いてきた。にやにやと、笑顔の仮面をつけて。
悪寒が走る──。津村は、何かを隠している。確証はないが、わたしの脳に警鐘が鳴り響く。この男は、得体が知れない。
わたしは包丁を握りしめたまま、警戒を続ける。
わたしの父親がこの包丁を手にして、彼に切りかかったのは偶然ではない。そうさせるように、彼に思考と行動を操られていた。彼は正当防衛の成立する傷を得ることに成功し、警察の調べをすり抜ける手立てを得た。あとは、わたしが父親を刺殺すれば、津村は罪に問われることなく、ゲームを終わらせることが出来る……はずだった。
だが津村は、直前になって計画を投げた。父の首の骨を折り、
「自分でも、嫌になるんだが」津村はゆっくりと立ち上がった。胸からの出血は既に止まっている。血の流れた跡が、下腹部に及んでいる。その下では、禍々しい色のぺニスがいきり立っていた。
「組み上がる直前の積み木を、どうしようもなく崩したくなるんだ」
わたしも、急いで立ち上がる。津村は、わたしを殺す気でいる。包丁を握りしめる手に力が入る。
津村が、飛びかかってきた。
わたしは、夢中で包丁を振り回す。
刃先に、手応えを感じたが、振り回すことを止めない。
二、三度、刃が空を裂いたとき、わたしは津村が倒れていることに気付いた。首から、
「その包丁、研いどいて、良かったな」
口の端からごぽごぽと血の泡を噴きながら、津村は言った。
「わざと……切られたの?」
左手で出血箇所を抑えながら、苦悶の表情でわたしを見据えている。
「ふふ……おまえが恨むべきは、あんなハゲオヤジじゃない。おまえが処女を捧げるべき相手は、あんな弱っちい野郎じゃない」
津村が
「これでおれは、おまえの中に永遠に生きられる。おまえが父親を殺そうとする瞬間の顔は、本当に、美しかったぞ」
言い終わると、津村は出血箇所を抑えていた手を離した。しばしの間はもがき苦しんでいたが、すぐに動かなくなった。
わたしは、しばらく立ち尽くしていた。
津村が殺そうとしていたのは、わたしでなく、津村自身だった。結局、わたしは、津村の考えたゲームにまんまと乗せられていたのだ。
部屋には、二つの死体がある。
一つは、今までわたしを縛っていた男。
もう一つは、これからわたしを縛る男。
電話機を手に取り、警察にかける。
住所と、「人を殺した」とだけ伝えた。
10分くらい経つと、サイレンが聞こえてきた。
わたしの人生を終わらせる、運命の音。
かくして、わたしの二度目の親殺しは失敗に終わったのだった。
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