第九話 わたし

 父親について自分の口から他者に語るという行為が、ここまでストレスになるとは思わなかった。話している最中、何度か嘔吐しかけた。咳払いで誤魔化したが、おそらく津村には勘づかれているだろう。そもそも、わたしのこのザマを観察したいがために父親のことを話させたのでは、と疑いたくなる。

 津村は一貫して、腕組みをしながら黙って聞いていた。質問を挟むこともなく、目をつむり、冷酷な薄笑いを浮かべていた。彼の脳裏で、一体どんな邪智暴虐が謀られているかなんて、わたしには想像もつかなかった。しばらくの静寂ののち、彼は一息ついた。

「まあ、これで良いか」

 さきほどの、話を聞いている薄笑いとはうってかわって、無邪気で、きらきらと輝くような笑顔を見せる。クリスマスの前夜に、子供がプレゼントを待ち止まぬような屈託の無い表情。改めて、津村考太という人間の危険性を認識する。彼にとって、殺人や強姦も、一種のスポーツやゲームと似た感覚にあるのかもしれない。道徳や良心を持たずに、生まれてきた化物けもの

「こういうのは早い方がいい。だ。今日、ろう」

「え」

 我が耳を疑う。今日?津村の言葉の端々に、精気がみなぎっていた。信じがたいが、冗談とも聞こえなかった。

「聞こえなかったか?今日だ」

 目眩めまいを覚える。殺人をそそのかしたのは確かにわたしだが、こういう展開は予想だにしなかった。

 津村はわたしの腕を引いて歩き出す。

「ちょっと待って。まさか、今から?」

「もちろん」

 津村の腕力は、有無を言わさずわたしを連れていく。

「せめて、話して。どうやって殺そうっていうの」

 わたしの叫びに、津村は笑顔で答える。

「秘密」

 目の前が暗くなる。だが、この男がいなければ、父親を伐つことが出来ないのも、また事実だ。こうなったらやぶれかぶれだ。この野獣の直感に委ねようと、一種の諦念のようなものがわたしに芽生えてしまった。

 街を通っていく。通行人には、わたしたちが恋人にでも見えるのだろうか。実際は、精神病質者サイコパス多淫症ニンフォマニアの女が、殺人を犯すために歩いているのだけれど。夕焼けが、世界を燃やし尽くすかのように辺りを覆っている。ふと、後ろを振り返る。自分の足から長く伸びた影は、皮肉にも楽しそうな男女に見えなくもなかった。

 夕方だというのに、何故かほの暗く感じる公営住宅。電灯の切れた廊下を進み、階段を上がっていく。

 ドアを開く。錆びた蝶番ちょうつがいが、不吉な音を奏でる。

 津村は、初めてあがる他人の家で、ずかずかと台所まで進んでいった。包丁を手に取り、刃の横腹を指先で撫でた。

「これじゃあ、殺せないな」

 棚にあるアルミホイルを取りだし、包丁に巻き、力を込めて、抜き差しを行う。簡素ではあるが、包丁を研いでいる。

「よし」

 出来映えに満足したのか、包丁をまな板の上に置き、ぐしゃぐしゃにしたアルミホイルを、──窓から捨てた。彼には、ごみをごみ箱に捨てる文化が無かったのだろうか。

 まるで自分の家かのように、津村はソファに座る。この男にマナーがあるとは思えなかったので、構いはしない。彼は壁時計を見つめて、何やら考えている。

「どうした。座れよ」

 わたしが促されるままにソファに近付いた瞬間、津村はわたしの腕を取り、床に組み伏せた。

「さっきから、昂ってしょうがないんだ。おまえもそうだろう?なあ?」

 馬乗りになった津村が、顔を近付けてくる。。津村が、わたしの胴体の上で、ズボンの中から性器を取り出す。グロテスクに屹立したモノが、あらわになる。

 壁時計が目に入る。午後6時32分。

 父親が帰ってくるまで、まだまだ時間はあった。

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