最終話 聖しこの夜
真っ暗な部屋。俺が外出中はいつもそうなってるわけで。俺はそれを気にしたことはなかった。でも今日は、その暗さがやけに切なかった。堪え難かった。
ぱちっ。壁のスイッチを入れて部屋の明かりを点ける。ごちゃごちゃといろんなものが積み上がった座卓の奥の隙間に、体を落とし込む。そして……しばし虚脱。
「ふう……」
今年も、六人のお客さんにはどこまでも歌の宅配を喜んでもらえた。俺が五年間ずっと続けてきたことは、ちゃんと実を結んでいると思う。それには、ものすごく満足している。だが……その中にあって、俺の隙間だけがいつまでも埋まらない。
佐藤先生に最初に指摘されたこと。
『あなた自身が一番危なかったのよ』
そう、俺はそれを歌に向き合うエネルギーで押さえつけてきたんだ。クリスマスイブに歌を届け、お客さんに喜んでもらうことで、俺の善意とか奉仕の気持ちは空回りせずにきちんと機能していると思う。でも、最後に自分の部屋に戻った時には燃え尽きちゃってるんだよな。やり遂げたあとの空虚感が反動でどかあんと来る。今までは、それを来年の宅配の糧にしようっていう形で先延ばしにしてきたんだ。だけど……。
「ここを出る、かあ」
突然突きつけられた現実に俺のささやかな達成感が突き崩され、粉々になってしまった。
もちろん、ここを出て他のアパートに住み替えたところで、俺の日常や出来ることが大きく変わるわけじゃない。でも、仕事に転機が来ていることと合わせて、俺は自分自身の現状をもっとシビアに見なければならなかったんだ。歌を届けている俺が、俺自身が、いつの間にかぎりぎりまですり減っていた。俺は……そんな自分をどうしても見たくなくて、現実からずっと目を逸らし続けていたんだろう。
「ふう……」
プレゼントを配り終わったサンタクロースは、そのあと寂しくないんだろうか。誰かが待っているわけでもなく、疲れた体を引きずって一人きりの部屋に戻って。それが一年の間のたった一日のことならまだ分かる。でも、サンタクロースが独り者だとしたら、クリスマス以外の残りの三百六十四日をどう過ごしているんだろうか?
ああ、馬鹿げた空想ばかりがむくむくと膨らんで、俺を勝手に蝕んでいく。
「そうだよな。お客さんは六人じゃない。もう一人いたんだよな」
七人目の客。それは……俺自身だ。自分で歌って、自分を励まし、慰める。ひどく自虐的だなと思いながらも、俺の手は勝手に動いていた。
明るい、浮き浮きする曲は歌いたくなかった。俺自身のしょうもない迷いと嘆きを、クリスマスくらいはなんとかしてくれないかなという想いを乗せて。俺は聖しこの夜を歌うことにした。それはさながら、凍えたマッチ売りの少女が最後にマッチを擦るような姿だったかもしれない。
もともとゆったりしたテンポの曲。それをさらに溜めて。前奏の時間をたっぷり取った。さあ、歌い出そうと思ったら。
「あれ?」
外から聖しこの夜の歌声が聞こえてきた。以前聞いたみたいに、どこかでキャロリングをやってるのかな? でも、風にちぎれて断片が聞こえるって感じじゃない。歌声は小さいけど、歌われている場所がすごく近いな。どこだろう?
俺はギターを弾くのをやめて、そいつを壁に立てかけた。それから歌声の出どころを確かめようとして、サンダルをつっかけてドアを開けた。
そしたらそこに。六人プラスおまけ付きのサンタが……ずらりと並んでいた。
「わ……」
俺が宅配の時に着ていたのと同じサンタ衣装で。俺が歌を配って歩いてきた六人のお客さんと純くんが、真剣な表情で歌っている。そうか。他の部屋の人に迷惑にならないよう、小声で歌ってくれてたんだ。
胸が……詰まった。涙で視界がぼやける。でも、俺はただ受け取るだけにはしたくなかった。俺も一緒に歌おう。今年は特別サービスで、みんなに一曲追加ってことにしよう。合唱隊に加わって、小声で唱和する。伴奏のないアカペラの、じわりと沁み入るような聖しこの夜が。師走の住宅街の片隅に、静かに灯った。
◇ ◇ ◇
聖しこの夜を歌い終わったあと、サンタ服のまま木塚さんのお宅に引きずり込まれた。もちろん、サンタ全員揃って。せっかくだから、クリスマスパーティーにしましょう。そういうことらしい。
俺は五年間歌を宅配してきたけど、お客さんが互いに顔を合わせたのはたぶん初めてじゃないかな。みんなが席についたところで、笑顔の木塚さんがさっと立ち上がった。
「みなさん、今日は村野サンタさんの慰労会にお集まりくださって、本当にありがとうございます」
うわ……慰労会かあ。恥ずかしくて顔から火が出るわ。
「みなさんそれぞれに、とても苦しかった時、悲しかった時、辛かった時に、村野サンタさんの歌で元気付けられてきたんじゃないかと思います。少なくともわたしはそうでした」
みんなが頷いてる。
「しかもね。村野さんは何も受け取らない。これはサービスですって言ってね。しかも、そのサービスの質が年々上がっていくの」
「そうだそうだ! サービス過剰だぞ!」
田島さんが大声で混ぜっ返した。
はははははっ! 明るい笑い声が、リビングいっぱいに広がった。
「ずうっともらってばかりじゃ心苦しくてね。今年は、ささやかなものでいいから村野サンタさんに何か贈れないかと考えました」
ぐるっとみんなを見回した木塚さんが、最後に俺を見据えた。
「わたしたちは、『今は』まだ歌を贈れません。なので、村野さんの贈り物をもらってどうするかをそれぞれ話すことで、贈り物に代えたいと思います」
ばん! 椅子を鳴らして真っ先に立ち上がったのは、金指さんだった。
「済まんね。俺ぁ何でも一番が好きなんで、いの一番にやらしてもらうわ」
金指さんは、ぐりっと目を剥き出して俺を直視した。
「さっき村野さんが来た時に言ったけどよ。あんたんとこの大家さん、森末さんに、アパートの空き部屋に住まわせてくれって申し込んだんさ」
あっ!
「でも、取り壊し……」
「そう。古いんでもう壊すって聞いて、がっかりしたんだ。でもよ、そしたら森末さんがどっかで一人暮らしってことになるだろ?」
「ええ」
そう……大家さん、そのあとどうするのかなと思ったんだよな。
「俺は長いこと独りで、しかも鼻つまみ者だったから、誰とも付き合いがねえ。ぼっちの辛さは身にしみてる。アパートみてえな人の気配があるとっから離れたら、めちゃめちゃしんどくなるぞ。森末さんにはそう言った」
「ええ」
「でな。俺が屋敷ぃ売っぱらったカネぇ注ぎ込むから、跡地ぃ売るんじゃなく建て替えにしねえかって振った」
「ああっ! そうかあ」
「そう。俺はその投資を、森末さんに払う家賃に代える」
げえー。じゃあ、さっきの大家さんの態度は演技? でも大家さんの表情は、さっき俺が大家さんの部屋に行った時と変わっていなかった。硬い……表情。
「とにかくよ。村野さんにはそれだけ報告しとくわ。俺は」
金指さんが、苦い言葉で発言を締めた。
「ほとんど真っ黒けで、白いとこがほんのちょっとしかねえ。でも村野さんだきゃあ、最初からそのほんのちょっとの白いとこぉ見てくれたんだ。俺は……それにどこまでも礼を言いたい。ほんとにありがとな」
深々と頭を下げた金指さんと入れ替わって、大家さんが立った。
「今、金ちゃんから話があったみたいに、建て替えにしたの。でもね、今の住人にそのまま溜まられるのは困る」
う……。
「だから、惣ちゃんだけでなく、今住んでる人全員に同じことを言ったの」
そうか。俺だけじゃなかったんだ。
「家賃も上がるし、部屋の使い方にも注意してもらわないとならなくなる。いや、それ自体は大したことじゃない。それより……」
大家さんに、ぎっと睨まれた。
「ちゃんとまともな生き方が出来るのに、自分を放り出してなめくじみたいな真似をされるのは困る。それは、金ちゃんにも同じことを言った」
「おう」
「惣ちゃんは、すごくまともだと思うよ。でも、そのまともさを生かしきれてない。一年に一度だけってことじゃなく、もっとしっかりまともさを使ってほしい。独りってことにだらっと甘えるんじゃなくてさ」
き、きつぅ。でもそれは、大家さん渾身のプレゼントだ。謹んで受けとめよう。
「てことでな」
今度は田島さんが立った。
「惣ちゃん、今肩叩きされてんだろ?」
「ええ」
「クソみたいなところで、ひがみながら仕事すんのはつまらんぞ」
「確かに。そうなんですよ」
「今度俺が行く社は、出来立てほやほやの小せえとこさ。まだ会社としてはひよっこもいいとこだ。でも、それなら出向先とそんなに変わらんだろ?」
「ええ」
「一緒にやろうぜ。惣ちゃんは、俺とはタイプが違う。わけえ連中の受け皿は一色でない方がいい」
意外な申し出だったけど。自分のセカンドライフに何もやりがいや方向性を見出せなかった俺には、ものすごく魅力的な誘いだった。
「いいんですか?」
「結構忙しいし、今まで以上にチャレンジが要ると思う。俺もごたくそ言ってられん。まあ、歌の宅配なんてぇとんでもないこと考えついた惣ちゃんだ。プロ意識持って宅配してるし、俺は心配してねえけどな」
そう言って、にやっと笑った。正直、ものすごく嬉しかった。
「じゃあ、面接受けさしてください」
「んなもなあいらねえよ。来たその日から仕事だ。今ンとこの後始末だけしてくれりゃいいから」
「分かりました!」
どすんと腰を下ろした田島さんと入れ替わって、大井さんがおずおずと立ち上がった。
「あの……」
さっき以上に真っ赤になってる。
「さっきは息子が失礼なことを言って申し訳ありません」
俺は、それに苦笑を返すしかない。
「でも……村野さんに五年間ずっと歌をいただいてきて。わたしにも少しだけ勇気が育ちました」
伏せていた顔を上げた大井さんが、俺をじっと見つめた。
「わたしと。お付き合いを……していただけませんか?」
わあああっ! 俺を置き去りにして外野がめっちゃ盛り上がってるけど……。
「うーん、私はとても嬉しいんですが、正直冴えないおっさんですよ? 何か取り柄があるわけではありませんし」
「いいえ」
大井さんが、ふわっと笑った。
「わたしは。一緒にいてこれほど安らぐ人に出会ったことがありません。それに、ものすごく人見知りをする息子が一瞬でなじみましたから」
あらら。そういや、いつも歌を届けに行く時には無邪気で素が丸出しになっている純くんが、ここでは借りてきた猫になってる。そういうことだったのか……。
「そうですね。五年間でたった五回しか顔を合わせていませんから、まずお付き合いをさせていただいて、それからどうするかを考えましょうか」
「ええ」
俺の返事がイエスだったことでほっとしたんだろう。大井さんがハンカチで目元を押さえた。
にこにこしながらみんなの宣言を聞いていた木塚さんが、すっと立ち上がった。
「わたしもね、一番辛い時を村野さんの歌で支えてもらったの。五年の間に感情の澱が沈んで、いろいろ踏ん切りがつきました。それでね」
指で天井を指差した木塚さんが、その指でばってんを描いた。
「ここは、わたし一人で住むには広すぎる。膝が悪くなってきて、二階への上り下りがどんどんしんどくなってるの。だから小さな平屋に建て替えて、わたしの身の丈にあった家の広さに調整します。そしてね」
木塚さんが、俺を真っ直ぐ見つめた。
「家だけでなくて、敷地もこんなにいらないわ。税金のこともあるし、一人だと維持管理が大変なの。切り分けて売りに出してもいいんだけど、隣人は選びたいの」
え?
「もし、村野さんがお付き合いを深めてご結婚されるということになったら、ぜひそこに住んで欲しいなあと。あくまでもわたしの希望。わがままです」
「いいんですか?」
「わたしには、もう身寄りがないの。もしわたしが夫と息子のもとに行ったら、この家や土地には何も意味がなくなってしまう。わたしたちの痕跡はどこにもなくなるの」
「そうか……」
「それはちょっと、ね」
うん。俺もそれはちょっと……と思う。
すっと着席した木塚さんと入れ替わって、最後に佐藤先生が立ち上がった。
「うん。村野さん、見事だわ。歌を教えているわたし自身が、歌のパワーを見くびっていたかもしれない。目が覚めたっていう感じね」
それから。俺ではなく、木塚さんの方を向いた。
「あの、木塚さん」
「はい?」
「建て直しは、ものすごくお金がかかります。それより、現有スペースの有効利用を考えられた方がいいんじゃありませんか?」
「どんな風に、ですか?」
「わたしは、別れたダンナの束縛がなくなったことを前向きに考えたい。ボーカルレッスン専用のスタジオを始めたいんです」
おおっと!
「村野さんは、わたしが厳しく指導したことに全力で応えてくれました。だからものすごく腕を上げたんです。でも、わたしが受け持ったクラスで村野さんくらい上達された生徒さんが他にいる? いないんですよ」
俺に視線を移した先生が、悔しそうに顔を振った。
「それは、生徒さんの努力が足らないからじゃない! 生徒さんに向き合うわたしの姿勢に真剣さが足りないからです。自分の指導力不足を痛感しました」
さっき木塚さんが宙にばってんを書いた天井を見上げ、先生がきりっと宣言した。
「身分が保証される雇われ講師としてじゃなく、覚悟の要る専業で指導をしたい。レッスンスタジオを始めることで、村野さんみたいに真剣に歌に取り組む生徒さんを、もっともっと増やしたいんです」
「なるほどねえ」
「二階を改装し、生徒さんの出入りが木塚さんのご迷惑にならないよう、階段を外階段に変えます。室内は防音仕様にして、世帯を一階と完全に切り離します。もちろん、その費用とお家賃はわたしが全額持ちます。どうでしょう?」
木塚さんの返答は早かった。
「承知しました。賑やかになるのは、すごくありがたいわ」
「でしょう?」
「ええ!」
「わたしは二階に住み込みますので、普段から相互に行き来できるようにしましょう」
はははっ。先生もちゃっかりしてるわ。でも木塚さんは、俺と佐藤先生という二つの接点を手に入れることができる。万一のこともあるから、それは決して悪くないと思う。
「そしてね」
佐藤先生の提案は、もう一つあった。
「今まで五年間村野さんの歌をお聞きになってきて、みなさんいいなあと思われたでしょ?」
みんなが一斉に頷いた。
「今回はわたしが音頭を取り、村野さんのお客さんに全員集まっていただいて即席の聖歌隊を組みました。村野さんがずっと歌を届けて下さったことに、歌で応えたい。それなら誰でも、すぐにできるから。そして、わたしたちの届けた歌は村野さんにすごく喜んでもらえました」
俺は、みんなに向かって深々と頭を下げた。喜んだんじゃない。俺は……救われたんだよ。
「でもね」
先生が、にやっと笑った。
「みなさん、物足りないなあと思われたんじゃないですか?」
あはは。そう来たかあ。
みんなの意思を確かめるように、先生が一人一人の目を覗き込んでいく。
「さっき村野さんのお宅でやったみたいに、イブの宅配をみんなでやりましょう! そのためのレッスン料金はタダにします」
最後に俺を見て、ぱちんとウインクした。
「わたしたちは、もう村野さんの歌にすがる必要がない。それなら、村野さんから受け取った歌とそれに込められた思いは、もっと大きく育てないともったいないです」
ああ、そうだ。そうなんだよ。五年の間に、俺はみんなに届けてきた歌以上のものをお客さんから受け取ってきた。俺は歌を届けた見返りに、自分の孤独をお客さんに薄めてもらってたんだ。それは純粋なサービスじゃない。看板に偽りありだったな。俺も、浅ましい魂胆をもうご破算にしないとならないんだろう。
みんなにどうしてもお礼を言いたくて、最後に立ち上がって挨拶した。
「今日はパーティーにお招きいただき、ありがとうございます」
「クリスマスソングの宅配をする。もし私が恵まれた立場だったら絶対に考えつかなかったし、誰かに誘われてもお金を積まれてもしなかったでしょう。でもこのサービスを始めた時は、私自身が自分の意味を見失いかけてた。消えてしまいそうだったんです」
部屋の中が、しんと静まった。
「タダでいいから自分を受け取ってほしい。それが……このサービスを始めたきっかけです。出発点は、私個人のわがままだったんですよね」
「そしてね。私の拙い歌をみなさんが喜んでくれたことで、私は、嬉しいというより怖くなったんです。私の歌はすごく下手くそで、本当なら誰の心も動かすことができないはず。その不恰好な歌に倒れ込まれたら、私はきっと耐えられないだろうって」
「だから、もうちょっとだけマシな歌にしようと思って、一年のうちのたった一日のためにずっと欠かさず練習をしてきました。それで、みなさんの中に残るものが少しでも増えたのなら。もっと楽しんでもらえたのなら。私は本当に嬉しいです」
みんなに向かって深々と頭を下げ、それから佐藤先生に目を向けた。
「今日一日の間に、みなさんからいろいろな話や事情を伺いました。それにはいいことも悪いことも入っていて、でも紛れもなく現実です。私もそうで。今までずっと勤めてきた会社をもうすぐリタイアしないとならない。セカンドライフの設計、アパートの住み替え。環境も状況も変わります。その変化の中には、五年間続けてきた歌の宅配も含まれるんでしょう」
「変わっていく現実に向き合いながら、これまでの五年とは違う形で、みなさんと一緒に歌の宅配の発展型を考えていければいいなと思っています。今日は思いがけないプレゼントを頂戴して、本当に嬉しかったです。ありがとうございましたっ!」
ぱちぱちぱちぱちぱちっ!
◇ ◇ ◇
いい年こいたおっさんが何バカなことを。そう呆れられても仕方なかったクリスマスソングの宅配。無謀なことだったのに五年間続けてこれたのは、俺がお客さんに恵まれたからだ。それは俺が単に幸運だっただけで、これからもその幸運がずっと保証されているわけじゃない。
それでも、俺はしみじみ思ったんだ。佐藤先生が言ってたように、歌には特別な力が備わっているんだなあと。たった一曲でも、数分に満たなくても、一年にたった一度であっても、歌は俺とお客さんをずっと支えてくれた。だから、俺はその力を信じたい。俺にだって出来たってことは、その力を束ねればもっとエネルギーを強く出来るってことだ。一人と一人が肩を寄せ合うのも大事だけど、もう少し重ねる手を多くしたい。伸ばせる手を多くしたい。
大井さんを家まで送っていく道すがら、
「村野さん、何を考えておられるんですか?」
「ああ。来年の宅配はどんな風になるのかなあと思ってね」
「あら」
「今日来られた方のところには、もう配達する必要はないでしょう。みなさんとは、練習で顔を合わせることになるでしょうし、今日みたいにご苦労さん会をやれば、みんなでわいわい楽しめるし」
「うん、すっげえ楽しかった!」
純くんが上気してる。最初は大人しかったけど、みんなでクリソンを歌った宴会後半からがっつりエンジンかかったんだよな。一番でかい声を出して歌ってた。佐藤先生に、いい声してる素質あるよってほめられて、その気になったみたいで。はははっ!
「私の力不足で、五年間に六人のお客さんにしか歌を届けられませんでした。宅配に来て欲しいと思ってるお客さんは、まだまだいると思ってます。そこにどう歌声を届けるか。レッスンがてら、いろいろ考えないとね」
「ええ」
「まあ、今度は私一人じゃない。みんなでできる。佐藤先生っていうプロがいるからアドバイスももらえるし。すごく楽しみです」
そのあと俺は、大井さんに向かってこそっと手を伸ばした。気づいた大井さんが、恥ずかしそうに俺の手を握った。
これまで俺は誰の手も握れなかった。誰も俺の手を握ってくれなかった。歌を贈るだけでなく、伸ばされた手を確実に掴む。手と手をしっかり結び付ける。それが……きっと次の宅配の鍵になるんだろう。
「ああっ! ずるいっ!」
ちぇ。見つかっちゃったか。
「じゃあ、純くんにはこっちの手を」
「へへっ」
俺の左手をぐいっと掴んで、ぶんぶん振り回す純くん。本当の親子であっても、男同士で手をつなぐことに抵抗を感じる年頃のはずだ。でも……純くんも俺と同じで、繋げられる手をずっと探していたんだろうな。
ママの役得を取らないでよっ。そんな感じでぷうっと膨れていた大井さんが、俺にこそっと聞いた。
「あの、この状態って親子三人に見えるんでしょうか?」
陽気にサンタベイビーを歌いながら、それを混ぜっ返す。
「うーん、どうかなあ。なにせ全員サンタですからねえ」
苦笑した大井さんに、一言付け加えた。
「でもね、サンタなのは今日一日だけ。あとの三百六十四日は、そのまんまの私たちなんです。クリスマスイブの今日が楽しい……じゃなくて、一年中楽しいけど今日はもっと楽しいよ。そんな風にしたいですよね」
俺は、二人の手をぎゅっと握った。来年は、家族として歌を宅配できればいいな。そういう、ささやかな願いを込めて。
*** F I N ***
BGM:Silent Night (BYU Vocal Point)、Santa Baby (The Real Group)
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