決め手
ギア
決め手
それは吐いた息が白く色づき消えていく12月も半ばのことでした。
学校帰りに自動販売機の前で暖かい飲み物を買おうと立ち止まりました。目の前にはカラフルな缶たちが並んでいます。立ち止まっていると寒さが身にしみてきます。
でも、いつものことなのですが、決断力に欠ける私はすぐにボタンを押すことができませんでした。1つのボタンに指を伸ばすと、途端に選ばなかった飲み物たちがそれより魅力的に見えてきてしまいます。万事が万事、この調子です。結局、何も買わずに立ち去ることになるのです。
しかし、その日は違いました。背後から伸びてきた手が、スッと私の顔をかすめてコーンポタージュのボタンを押しました。ガタンッ、と取り出し口が揺れます。私は笑いながら振り向きました。通学路が同じ友人が勝手に押したのだろう。そう思ったのです。だから一言でも何か言ってやろうと思ったのです。
でも、そこには誰もいませんでした。服の隙間に冷たい風が忍び込みました。周囲を見渡しても、道路の向かいに通行人が見える程度です。私はぶるりと震えました。
それからしゃがみこんで自動販売機の取り出し口から缶を取り出しました。それは素手で持つには少々熱すぎました。軽く缶をお手玉しつつ、私は小さく頷きました。あらためて考えると、これが飲みたかったような気がしてきたのです。
プシリッと飲み口を開けて一口飲むと、体の中止に届いた熱がじわりと全身が広がりました。寒気が押し出されていくのを感じます。もう一口飲み込むと、心持ちも軽く暖かくなりました。私は高揚感に満たされつつ家路に着きました。
それから何度も、その手が私を後押ししてくれました。元々、私は悩むのが嫌いでした。選択肢を突きつけられたときにとる行動は2つ。背を向けるか、選択を先延ばしにするか。ただそれだけでした。だからこの謎めいた指先には恐怖より先に感謝を覚えてしまっていたのです。
選択式のテストのときや、職員室のドアをノックしなければならないときや、友人に謝りたくてスマホを手にしたとき。そんなとき、その指先は私が本当に望んでいる方を選んでくれました。
選択肢の4番か5番で迷っているときに4番を指差してくれました。テスト返却時にそれが正解だったと分かりました。職員室のドアを前に躊躇する私のかわりに背後から伸びたその手がノックしてくれたので休み時間中に用を済ませることができました。友人に謝ろうと手にしたスマホの電源をその手がオフにしてくれました。その友人とは今も疎遠ですが、元々、あまり好きな子でも無かったのだと思います。
大学生になって数ヶ月経ったときのことでした。
私は電車通学でした。毎朝、同じ時間に、同じドアから乗車して、同じ男性を見つめていました。彼はいつも私より先に乗車していて、私が降りるより前の駅で降りてました。扉近くの手すりにもたれながら、私が好きな作者の本を読んでいるか、ヘッドホンで音楽を聴くかしていました。
ある日のことです。いつものように私は彼と反対側の扉近くの手すりにもたれて、いつもと同じ考えにふけっていました。話しかけたら話が合うかもしれない、とか、先週まで彼が読んでいたあの本の結末に納得いったのかどうか聞いてみたい、とか、いつもどんな音楽を聴いているのか知りたい、とかそんな考えです。マフラーに口元までうずめながら、そんなことをいつものように思い描いていました。そして、いつも結局話しかけずにいる間に彼は電車を降りていきました。
今日も電車がブレーキをかけ、彼の降りる駅のホームが近づいてくるのが窓越しに見えます。ブレーキ音が甲高く響き、私の体がゆっくりと手すりに押し付けられます。扉が開き、彼は他の乗客と一緒に私のすぐ目の前を通り過ぎました。
そのときです。
私の背後から伸びたあの手が彼の肩口を押しやりました。バランスを崩した彼はつんのめるように電車から押し出されましたが、なんとか転ぶのだけは避けました。でもその拍子に持っていた本を落としてしまいました。足元に転がってきたその本を私はそっと拾い上げました。電車の発車が間近であることを告げる放送が流れています。幸か不幸か、迷っている時間はありませんでした。
電車が徐々にスピードを上げて去っていくのを、私は降りる予定ではなかった駅のホームで聞いていました。振り向いた彼は私の手にある本を見て、にっこり笑いました。とても素敵な笑顔でした。
こうして私たちは付き合い始めました。
好きな本の話をしたり、好きな映画の話をしたり、一緒に出歩いたりもしました。初めのうちはただ会えるだけで楽しかったです。それからしばらくもなんとなく会い続けていました。そして半年も経つ頃には、もう知りたいことも話したいことも無くなっていました。
私はそれとはなしに会うことを避けようとしていたのですが、彼はひっきりになしに連絡をとってきました。そんな彼の様子を見ていると、とても会いたくないとは言えませんでした。彼は幸せそうでした。私が我慢していれば済むことでした。
ある日、私達は一緒に郊外へ出かけることになりました。もちろん、彼の誘いでした。バス停で待ち合わせて、駅へと向かい、ホームで電車を待ってました。彼は楽しそうに、今日の予定を私に話していました。
そのとき、特急が通過するというアナウンスが私たちの立っているホームに流れました。彼は私に背を向けると線路の先から来るであろう特急電車が見えないかとホームの端に近づきました。
私は退屈な話から解放されて、ホッとしました。そして彼に近づきました。熱心に線路の先へ顔を向けていました。私は特に何かを考えていたわけではありません。少なくとも、そのときはそう思っていました。遠くに小さく見えた電車がみるみる大きくなってきます。音も近づいてきます。スピードを落とす様子もなくやって来た特急列車を前に、彼が軽く身を引こうとしました。
そのとき、あの手が彼の背中を軽く押しました。
いえ、よく言われるように映像がスローモーションになる、ということはありませんでした。ほんの一瞬で過ぎました。予想外の方向から加えられた力に、彼は抗うこともなく線路に飛び込み、一度大きく線路の先へ弾き飛ばされてから目の前を流れていく車両で彼の姿は見えなくなりました。
いつもと違ったのは、あの手がまだ私の視界にあったことです。私はその手を左手でつかみました。手は逃げませんでした。幻でもなんでもなく、その手は確かに人の肉の弾力と温かみを持っていました。周囲が少しずつ騒がしくなっていましたが、まるで1枚何かを隔てた向こうから聞こえてくるようでした。
はい、すいません。でもこれで全部です。
信じてもらえるかどうかは分かりません。だけど駅員さんが私を呼び止めたとき、私が自分で自分の右手を握り締めていた理由は、これで全部です。はい。周囲の方々も私が押すところを見ていたそうです。
他の誰かに決めてもらった。そう思ったほうが楽だった。それだけなんです。
決めていたのは私だったんです。
決め手 ギア @re-giant
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます