ハルタ

深井 ゆづき

第1話 出会いと、別れ。

突然彼は訪れて、私に微笑んだ。


どこかで見たことのある口元だなとおもったが、そのままにしておいた。


「元気にしてた?」

彼は、ずっと私のそばにいたかのように尋ね、横に並んだ。



3月。

普通ならば春になる手前で、桜の蕾が割れんばかりに膨らみ、空気が暖かくなる頃で。

でもここは北の端だから、まだ少し雪が残っている。都会ではないこの街には、昔、桔梗の花が咲き乱れていたとかで、桔梗町という名前が付いていた。


小学校の6年間だけ、この街で暮らした。父の転勤でこの土地に移り、

私は幸せではなかった。

何年ここに住んでも、馴染めないのだと、幼心に思ったことを覚えている。古くから根付く地元意識、新しい人を迎え入れない風習に、いつもなにか厚い壁が立ちはだかっているようで、私はいつになってもこの土地を歩けている気がしなかった。

この地域特有の天候も、好きではなかった。

夏でもカラッと晴れることは少なく、曇りが多い。雨は降らない代わりに、みずみずしさがなく、いつもそのままだと、私は思っていた。

なにも変わらない。

ここからでないと、私はこの場所と同じように、なにもない、鮮やかさのない人間になってしまうと思った。


中学校進学とともに、私はこの狭い世界から外に出た。

これもまた父の転勤が理由であったが、私は特に悲しさを覚えなかった。

「ああ、やっと出られる。」

こう思ったのだから。



中学に進学して、ケイは遅れるまいとがむしゃらに勉強した。

こちらに移ってくるときに、母が、はやく馴染めるようにと、中学受験を勧めてくれたが、見事に全ての学校から受け入れてもらえず、結局公立の中学に通うことになった。

母の希望に添えなかったことは残念に思ったけれど、自分切望した進路ではなかったから、そこまで落胆することはなかった。

それならばと、失敗した中学よりも良いところにいってやろうと奮起したのだ。


ケイは、なにより母といる時間が楽しかった。知らない世界をたくさん知っていて、20年以上、多く生きてきたとはいえ、ケイはこんな風に自分がなれるとは思っていなかった。

だから、その母に褒められること、認めてもらえることはなによりのご褒美だった。

そのためなら、勉強だって部活だって頑張れたし、委員長も務めた。


もう一つ。

ケイが頑張ろうとする理由は、ある一人の男子生徒にあった。

彼は、ケイと同じ中学で、ずば抜けて勉強ができた。それでも威張ることはなかったし、スポーツもよくできた。

でも。

でも、彼の、その何者にもまさるスペックに対抗して頑張っていたわけではない。

ケイは、ハルタが好きだった。


中学三年の春、同じクラスになったハルタの凄さは、これまでのケイの努力、これからの決意をすべて踏みにじるようなものだった。

クラスではみんなの中心になって、なのに誰のことも傷つけない。

注意をしても嫌味でない。

負けた。

と感じた。

なにに負けたかもわからない、どうすれば勝てるかわからない、ケイは彼が嫌いだった。

季節を二つこえ、木々は葉を落とした。先月のように晴れる日は減り、曇りが多くなった。

この季節になると、ここも曇るのかと、以前住んでいた土地を思い出して鬱陶しくなった。

足取りが重く頭がいたい。

つくづく、過去のことを引きずるタイプだなと自分に少し絶望した。

靴箱で上靴に履き替え顔をあげると、ハルタがいた。

「おはよう。」

彼の笑顔は、まっすぐだった。

ケイの先程までの憂鬱な気持ちを何も知らないせいか、ケイがハルタのことをいいように思っていないのを知らないせいか。

「あ、おはよ」

間の抜けた返事をして、あ、今はもう少し、明るく、言えばよかったかな。などと思う。

負けた。

と、また思った。

自分の心の狭さと不器用さ、そして今、揺らいでしまったこと。

全部がケイの負け。

ハルタ。

呼んだこともない名前をくちびるの中で繰り返してみる。

ハルタは、どうやって生きてきたの?

どうしてそんなにまっすぐなの?

一瞬の沈黙は10分にも感じられたが、それを先に破ったのは、ハルタの方だった。

「ケイちゃん、喋ったことなかったよね。話してみたかったんだ。」


屈託なく笑うハルタは、ケイのことをこれから先も、ずっとちゃん付けで呼んだ。

ケイはこうやって呼ばれるのが好きだった。他のみんなはケイと呼ぶなかで、彼だけがケイちゃんと呼ぶことに、なぜか心がくすぐったいような、少し浮き立つ気持ちが芽生えた。

ケイとハルタは似たようなところが多く、駅までは一緒の帰り道、2人で話を始めると尽きることはなく、気づけば駅に着いていて、また明日というのがさみしいと思うようになった。

駅の近くのドーナツ屋さんに寄って続きを話して帰ることもあった。

木の葉が完全に落ちて、マフラーを巻き、吐く息がもう白くなった頃、こんなにも受験を意識するころになってもなお、お互いに避けてきた話題に初めて触れた。

高校の話だ。

ケイはハルタと離れたくなかった。

それでも、この理由で志望校を変えることはもっと嫌だった。

自分のプライドが許さないし、第1、ハルタはそういう外部からの影響で自分の考えを変えることが嫌いだ。

軽蔑されたくなかった。

悲しい思いは持ちたくないと、高校の話はしたくなかったが、

「おれ、R高に行くよ」

と突然放たれた言葉に、ケイは頰を張られたような気持ちになった。

「わたしも」

ケイのかねてからの志望校と、ハルタの行きたい高校は、見事に同じだった。

「最高だね」

ハルタは笑った。

ケイは、ハルタの、最後まで言わないところも好きだった。何か意味を含んでいる時、ハルタのくちびるの左側は少し上がる。

それをみて、ケイは心から幸せと感じた。

ケイは、ハルタが好きだった。

もうずっと好きだった。

嫌いだと思っていた頃からきっと、ずっと。


2月7日。受験を明日に控えた日、ハルタは学校に来なかった。

「前日だからって、抜け駆けはひどいなー。わたしも家で勉強したかったよ。」

と頰を膨らませて愚痴を言えてしまうほど、ケイはハルタと仲良くなっていた。

けれど、ざわざわとした違和感も、共に感じた。

何か忘れ物をしていて、でもそれが何か分からない時の、あの。

しかもそれに気づいたのが、もう電車に乗ってしまった後で、戻れない時のような。

怖くて、頭からハルタのことを消した。

大丈夫、昨日も一緒に帰った。

始業のチャイムがなって、席に着いて、もうそこからはよく覚えていない。


「佐々木 春太が今朝トラックに轢かれて、先程、亡くなった。」

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