貿易港の声

加藤ゆうき

第1話旅の始まり

 「やっぱり、一番の女は嫁だ」

 情熱と品格が漂う朱色の橋が、彼の最後の言葉を思い出させる。

 橋の上に雲一つなく晴天なので、ため息で雲を作ろうとした。

 当然のことながら、それは叶わなかった。

 私、佐藤のり代は既婚の男性と燃える恋をしていた。

 それがたった一言で、三年という月日に幕を閉じることになった。

 瞬く間に上司との社内不倫で噂になった私は、居場所を失い自己都合退職をした。

 退職後の一週間は福岡市のアパートに引きこもっていた。

 それでも私の心から彼が離れてくれなかった。

 物理的には一方的に離されたというのに。

 一人暮らしなので家事は自分でしなければならないけれど、料理をする気にならなかった。

 だからといって、徒歩五分のコンビニに弁当を買いに行くことも、食事を摂る気もなく、ただ体育座りをして日が暮れるのを待った。

 七日目の夜、私はようやくこの場所から離れてみたいと思った。

 引っ越したいわけではない。ただ、一時的にでも福岡市と距離を置いてみたくなったのだ。

 福岡市は九州最大の都市、アパートを出るとコンビニの入店案内音やら電車やら踏切の音やらがあちこちで休まず鳴り続ける。

 街に向かうと、何人もの日本語や英語が入り混じって、ガヤガヤという言葉にしか聞こえない。

 そもそも人の声はフェイストゥフェイスではない。

 忙しないビジネスマン、ウーマンの通話ばかり。

 それでも、私はかつてこの街に強い憧れを抱いていた。そして大学を卒業後、一人暮らしを始めた。

 二十七歳で二社目の会社に入社後、元交際相手と出会った。

 そして現在三十歳。私はこの街に憧れどころか敬遠したい気持ちでいる。

 どこか静かな土地がないかと、バッグにしまい込んだスマートフォンを取り出した。

 すると、バッグの中でクシャリという音がした。

 ゴミでも入れたままにしていたかな、と中身を弄った。

 すると、一枚のチラシがあった。

 私は思い出した。

 彼からも会社からも離れた日、日中にぶらぶらと博多駅周辺を歩いていた。

 そこではいかにも田舎者といった集団がチラシを配ってアピールしていた。

 私は人というだけでまともに顔を見ず、チラシだけを受け取った。

 そのときの一枚だった。

 「平戸(ひらど)? 聞いたこともなかね。ま、よかかもね」

 こうして、私はこの地に赴くことになった。

 その日の夜に、ネットで適当に調べたホテルに翌日から三泊の予約を入れ、翌朝、福岡市を発った。

 期待はしていなかった。その地に美味しい地魚があろうと、地酒があろうと。

 ただ、福岡市とは違う雰囲気の中一人になりたかった。それだけだった。

 それ以外には何も期待していなかった。

 けれどいざ来てみたら、不便な場所だと思った。

 まず、福岡市から出るバスは佐賀県伊万里(いまり)市まで。

 それからローカル線に乗ること一時間。途中、桜のアーチをくぐったけれど、私の心には響かなかった。

 観光客らしきおばちゃん集団が歓声を上げていることを理解することができなかった。

 たびら平戸口駅を出ると、左側に地味な石碑が佇んでいた。

 なんでも、この駅は日本最西端の駅だという。

 めずらしいのか、その石碑をバックに自撮りする小太りの男性の行動も理解しがたかった。

 最後のルート、駅から徒歩十分でバスターミナルに着く。

 駅員によると、このバスが本土の田平町と平戸大橋を繋ぐ唯一の交通手段である。

 この時点で、なるほど、遠いと思った。

 けれど私にはちょうど良かったのかもしれない。

 長時間椅子に座ったことで尻が痛くなったが、むしろ体が軽く感じた。

 それだけ、福岡市と距離を置くことができるということだ。

 それにしても、バスターミナル入り口から見える平戸大橋とやらは、私には不吉な色に感じた。

 朱色が血に見えたせいだ。

 できることならば、彼を殺して、遺体を自分の家にしまい込んでおきたい。

 小心者ながら考えていたからだろう。

 不思議なことに、体は軽くなっても、心には彼がくっついたままだった。

 スマートフォンの電波も悪く、メールの受信もままならない。外の世界と遮断できたはずなのに。

 バスの中で、私はため息をついた。

 屋外でも叶わないというのに、室内から雲を作り出すことなど、できるはずがない。

 それでも、私のため息はホテルに到着しても絶えることはなかった。

 ホテルも適当に選んだので、期待はしていなかったが、驚くことが多かった。

 まず、部屋でのインターネット環境が整っていない。

 無料インターネットはロビーのみで使用可能ということだった。

 またフロントマンに訊くと、平戸市内のホテルのほとんどがこのホテルと同じインターネット環境だという。

 誰かと連絡を取る必要は今のところはないけれど、何かの調べものをするときは困る。

 仕方がないのでインターネットの利用を諦め、夕食を取らずに部屋で眠った。

 翌朝、八時に予約していた朝食会場に向かった。

 会場の入り口で出迎えてくれたのは、五十代らしきおばちゃんだった。

 私はここでも驚いた。

 朝食は今や主流になっているバイキングスタイルではない。

 和定食、それも、ご飯と味噌汁、焼き魚をおばちゃんが順に席まで運ぶという、福岡市ではまず見かけない光景だった。

 バイキングの方が手間がかからないのではないか。

 私は言葉にせず、黙々と食べた。

 温かい料理は確かに美味しかった。けれど、私の心の中で彼がつまみ食いしているのを感じた。

 二日目、私は中心街まで歩いてみることにした。

 ホテルから徒歩十分とのことだったが、中心街の入り口に辿り着くまで三十分もかかった。

 あちこち寄り道したからだろう。

 道には同じ形の木々が、ドラマで見る金持ちの屋敷での使用人のように出迎え並んでいた。

 私のためにそこまでする必要がないのに。

 その割には人影が少なかった。

 平日の昼間だからかもしれないが、少な過ぎだ。

 学生は授業中だから仕方がないとして、せめてサラリーマンはいてもおかしくないだろう。

 私が育った長崎県佐世保(させぼ)市ですら、昼間から人が歩いていたというのに。

 ぼんやりとしていると、突然店が現れた。

 いや、この店は最初から存在していたのかもしれない。

 人気のなさで私が油断していただけだろう。

 その私が気付くほどの存在感があるこの店は、福岡でもなく修学旅行で行った京都でもない独特の雰囲気だ。

 築百年は経っているだろうこげ茶の木造で、暖簾はない。

 代わりに江戸時代のような地面に向かって張った布に店名が記されている。

 「さとや」だった。

 店内に入ると、現代もののコーヒーマシンとテレビがある。靴ベラの隣には一対の靴もない。来客がいない証だ。

 そこにいるのは、店主らしき男性一人だった。

 「いらっしゃい。平戸は初めてですか? 銘菓カスドースはいかが?」

 「カス……ド?」

 カステラではなくて? 私は聞き返した。

 「違う、違う。カスドース。平戸のお殿様の御用達だったとばい。そこのコーヒーと一緒に口に入れてみんね」

 「はあ……」

 顎鬚に似合わないこざっぱりした笑顔で勧められ、私は「かすどーす」とおかわり自由のコーヒーを購入した。

 「かすどーす」は二個入りを選んだ。土産に買う相手もいないから、一人で食べるには十分だった。

 合計五百八十八円。三泊中二泊目の出費としては安い方だろう。

 それにしても二百円でコーヒーのおかわり自由とは何とも余裕のある商売、福岡市では生きていけない価格だ。

店主の言葉に甘え、私はコーヒーを五杯飲んだ。

 どうせ旅先でもやることがなければ、夜の睡眠で体力を回復する必要もない。

 私は窓の奥にある日本庭園らしき緑を眺めた。

 緑は私に何も語りかけなかった。

 室内で畳の上に座っているのだから、当然のことだ。

 緑にとっては、私の絶望などビーズよりも小さなことなのだろうな。

 十秒ほど腹立たしく睨んだが、私は緑の無関心がどうでもよくなった。

 何も語りかけないことに心地良さを感じたからだ。

 店主も「かすどーず」を販売したきり、一切店頭に顔を出さない。

 旅先をこの町に選んで良かったかもしれない。

 私の故郷、長崎県佐世保(させぼ)市ではこうはいかない。

 外出の定番、四か町アーケードを歩けば、少なからず三人の知り合いと遭遇する。

 要らぬことをあれこれ聞かれるのが関の山だ。

 それに比べ、地方特有の人間関係の煩わしさに手を焼くこともない。

 私が平戸の人間でない限り。

 目の前のコーヒーのように、この町では何者にも染まらない。

 五杯目のコーヒーを飲み干したが、私はいまだに「かすどーす」に手を付けていなかった。

 正直に言うと甘い物を口にしたくない気分だった。それでも、店主には心地良い空間を提供してもらった。

 それにホテルの部屋に持って行っても、食べる機会などないだろう。

 礼と義理を理由に、私は小箱を開け、黄色い物体を二等分にした。

 店主の助言に逆らいコーヒーなしで食すと、想像以上に甘かった。

 それに触感も佐世保市で見たカステラと異なる。

 大きめのザラメが歯間でジャリジャリと音を立てる。それに、生地は炊飯器で作るケーキのようにしっとりとしている。

 今までにない感触だった。

 私は店主を呼んだ。クレームを言うつもりはない。

 ただ、なぜこのように癖のある品を、見知らぬ客に勧めたのかを知りたかった。

 率直に訊くと、店主は目尻に皺を寄せて答えた。

 「これね、昔はお殿さまだけのお菓子だったとばい。贅っ沢に卵とハチミツを使って、贅っ沢に砂糖を使ったからそれはもう甘か。だから、コーヒーと一緒に口に入れると苦味でちょうどよくなるとさ」

 この人には、営業オーラを感じなかった。

 ただ平戸藩をアピールしたいのだ。

 ビジネス街で働いていた私には分かった。

 店主には悪気など一切感じなかった。

 根負けした私は、今度は素直にアドバイスに従った。コーヒーはもちろんノンシュガーのブラックで。

 確かに最初の一口ほど甘さを感じなかった。

 甘みと苦みが調和して、私が飲んでいるのは微糖のコーヒーではないかと錯覚した。

 それでも衝撃を忘れることはできなかった。

 さとやを後にして、歩道の狭いうねり道を歩くことにした。

 「また来んね!」

 店主は大きな声で、大袈裟に手を振って私を見送った。


 「さとや」から十五分ほど歩くと、何枚もの派手なハンカチを暖簾に見立てた店を見付けた。

 この日は潮風があったので、ハンカチが空中で曲線を描き、隣接する無料の足湯を隠していた。

 目が合うと、中年の女性が白い歯を見せて笑った。

 女性の視線は一瞬で終わらなかった。

 「いらっしゃいませ。どうぞ中でお茶でも飲んでいってくださぁい」

 足湯周辺には私以外に人が一人もいなかった。

 私は女性の手招きを無視することができなかった。

 福岡市や佐世保市では売り子の声かけなど耳に入れなかったというのに。

 どうして私は流されやすいのだろうか。

 私のマイナス面を呪った。

 看板には「うるしや」と書かれていた。

 「あなた、どちらからお越しですか? あら、福岡市! それはそれは遠かったでしょう。ゆっくりしていってくださいね」

 女性の甲高い声に圧迫され、視界の左右が上下に向きが変わった。のうのうと非難している右耳に引き寄せられ、私は女性のいない右側に視線を流した。

 そこには店頭に飾られていた柄と同じデザイン、色違いのハンカチが五種以上展示されている。

 赤、青、黄、ピンク、黒縁の赤。

 その横には文字の書かれた地味なハンカチが二種類ほど並んでいる。

 「あれ、綺麗でしょう? ステンドハンカチといってね、うちの主人が考案したんですよ。ほら、長崎県の教会はステンドグラスが有名でしょう。その魅力を手軽に身に付けられるようにしたの。あなたみたいな美人さんにはスカーフにした方が似合うと思いますよ。鞄に付けたり首に巻いたり……ほら!」

 それにしてもよく喋る女性だ。私の左側にあるレジに座っている男性が「うるしや」の主人らしい。この二人がなぜ夫婦になったのかが気になる。もっとも、私が知ったところで何かが変わるわけではないが。

 それよりも困るのは、勝手に私にハンカチを当てる奥さんだ。

 「さとや」のように一人の空間が欲しい。

 それなのに奥さんは私を放っておいてくれない。

 「観光にしては、あなた少し元気がありませんねぇ」

 しまいにはこのように言う。

 自分に元気がないのは分かっている。だからこうしてわざわざ福岡市を離れた。

 噂好きの元女性同僚から解放された。

 それなのに、どうして奥さんは覇気のないこの私に構うのだろうか。

 恋も仕事も人生も失った一人の女に。

 差し出された茶を啜る気にならなかった。

 決してステンドハンカチが気になったからではない。

 これ以上構わないでという無言のメッセージのつもりだった。

 「お姉さん、名前教えてくださる? 平戸での滞在中、いつ来てもいいように覚えておくから。またお茶を飲みにいらっしゃいよ」

 奥さんは選別と称してステンドハンカチの一種を無償で差し出した。

 私は断ろうと思ったが、できなかった。

 奥さんが一秒で値札を外してしまったからだ。

 「もう一つのハンカチ、気になったでしょう? 『じゃがたら文』をヒントに作りましたの。詳しいことは『オランダ商館』で知ることができますよ」

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