4――サキュバスよりも腹黒い(後)
「きゃははははーっ! 見たー? 愉本の吠え面ーっ! いやースッキリしたー!」
翌日の昼休み、忠岡悲呂が満悦そうに高笑いした。
江東区白河、特命捜査対策室の応接室で、ソファの上にあぐらをかいている。
隣には徳憲、向かいには眼帯刑事が座り、机上の事件報告書を見下ろしていた。
サキュバスをまんまと出し抜いたぐーたら干物女は、むくんだスッピンを隠そうともせず、徳憲にガッツポーズを取る。
目の下にはクマがある。寝ていないし、風呂にも入っていない。ずっと働き詰めだった証だ。
「いけ好かない愉本より先んじるためにー、あたしもちょっと本気を出しちゃったわー」
「まさか法医科を差し置いて、心理係が持って来るとは予想だにしませんでしたわい」
眼帯刑事も、狐につままれた格好である。
報告書には、徳憲が捕まえた『真犯人』の顔写真も添付されていた。
――惧志堅恊平。
被害者の兄だ。
彼は憶寺に同情的で、喧嘩っ早い弟との仲裁もこなしていた。
「ふつー、兄弟なら身内をかばうのにー、兄は弟の方をたしなめていたのよねー。騒音に悩む憶寺へ便乗して、弟を責める大義名分にしていたっぽーい」
忠岡は見解を語った。
彼女らしい心理面からの捜査だ。どんな犯人にも動機があり、心の流れが存在する。その感情とメカニズムを解明できれば、おのずと犯人像が浮かぶ。
徳憲も口を挟んだ。
「兄もまた、弟の騒音が嫌いだったんです。昼夜問わず暇さえあればギターをかき鳴らされるせいで、兄は勉強に集中できなかったそうで」
「勉強?」
「資格試験の勉強です。仕事に必要な技能検定も取りたかったらしく、弟の騒音に我慢ならなかったとのことでした」
「ああ、試験勉強中だと言っていましたわな」
「それだけじゃないわよー」にひひと笑う忠岡。「惧志堅恊平と態平はー、愉本華恋と三角関係だったのよねー。サキュバスは兄弟の両方に手ぇー出してたからねー」
「三角関係のもつれだった、と」
「そーよ。兄は弟を殺してー、罪を憶寺になすり付けよーとしたのよー」
まるで見て来たかのように、忠岡は饒舌だった。
あらましを要約すると、こうだ。
「事件前日にー、弟の態平は憶寺と口論になって一発殴ったわよねー。そのとき憶寺は血を吐いてー、足場のマットに染み込んだー」
「愉悦ペアが抽出していた血痕は事件前日のもので、当日には無関係なんですよね」
「憶寺は殴られて逃げたー。それを見た兄はー、憶寺の復讐に見せかけて弟を殺すことを思い付いたー。事件当日、殺した弟の流血がマットに染みてー、憶寺の血痕と混じった」
「だがバールには指紋がありませんでしたわい」
「兄が自分で拭き取ったのよー。凶器には兄の指紋しか付いていないからー、そのまま放置したら憶寺のせーに出来ないでしょー?」
憶寺は潔白なので、バールには触っていない。
指紋を拭き取れば、犯人が証拠隠滅のために消したのだろうとミスリードできる。憶寺の指紋が残っていなくても辻褄は合う。
「バールの指紋を拭いたのはー、犯人の指紋を隠すためじゃなくてー、憶寺の指紋がないことをごまかすためだったのよー」
「ふむ……」
「拭き取った
全てその場にあるもので済ませたため、遺留品の入手経路を割り出して犯人を暴く、というセオリーが通じなかった。
憶寺懲ノ介という目立ちすぎる容疑者の存在に目を奪われ、兄というダークホースに気付けなかった。
「恊平が事件当日『憶寺が現場から逃げる姿を見た』とゆー証言も、ウソだったのよー。憶寺に濡れ衣を着せるための虚言だわー」
忠岡のポリグラフ検査は正しかったのだ。
決して愉本のためではない。ポリグラフは誤診ではない。にも関わらず愉本は憶寺犯人説に拘泥してしまった。思い込みと先入観が、彼女の腕を鈍らせた。
「実はー、憶寺をポリグラフ検査したあとー、恊平も呼んで検査したのよねー。こいつのポリグラフ検査は真っ黒よー。ウソの証言を裁決質問でつついたら一発だったわー」
「そうですね」相槌を打つ徳憲。「ポリグラフの結果を受けて、惧志堅恊平を任意同行で取り調べた所、昨晩ようやく自白しました。とても後悔していましたよ。弟を殺しても資格試験は落ちたらしいし、愉本さんも交際をやめてしまうしで、犯人が得たものは何もなかったという……」
「自白してくれて何よりだわー。危うく憶寺を冤罪逮捕するところだったもんー。愉本の暴走を阻止できて良かったー」
「……誰が暴走よ誰が~!」
ばたん、と部屋の扉が開いたかと思うと、噂の愉本が駆け込んだ。
後ろには悦地も追従している。わざわざ科捜研から訪問したようだ。本人たちにとっては手柄を横取りされた格好だから、憤慨するのも無理はない。
「あれれー? これはこれは負け犬のサキュバスじゃなーい?」
忠岡は嫌味ったらしく挨拶した。ソファに座ったまま、にんまりと見上げている。
愉本はハイヒールの靴音高く歩み寄って、苦々しく歯噛みした。
「白々し~心理係め! 一体ど~ゆ~了見かしら? 犯人は憶寺じゃなく、被害者の兄だったなんて~……」
「ふふーん、あたしに感謝してよねー? もー少しで憶寺を誤認逮捕する寸前だったのよー? あなたは以前もー、精神科医の
「き~っ! だからど~したのよ。アタシが同じ
「そーよ。それをあたしが止めてやったのよー。感謝してちょーだいねー?」
女傑どうしの睨み合いは熾烈だった。
見れば、傍らに立つ悦地が憔悴しきっており、事件の呆気ない幕切れに肩透かしを食らったことが推して測れる。
愉本はしばらく立ち尽くしたのち、忌々しげにナイスバディをくるりと反転させた。足早に退室を試みる。扉をくぐる直前、捨て台詞を残すのが精一杯だった。
「この借りは忘れないわ~……覚えてなさい!」
「あたしに勝とーなんざ百年早いわよーだ。べろべろばー」
「~~~~っ! うちの心理係って、腹黒い……!」
扉は開かれたまま、愉本は逃げるように姿を消した。
了
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