BiTTER

片宮 椋楽

PREQUEL

 まるで泥棒だ。

 部室の扉の鍵を開け、背を丸めたまま恐る恐る中を覗くひかるの姿は、住人がいないことを目視して強盗しようとしているコソ泥と寸分違わない。


 誰もいないことを確かめ、緊張ですぼめていた肩と背を伸ばしながら輝は一度閉める。扉に背を向け、廊下でビニール傘を振ると、はねた水滴がシミを作った。コンクリの地面に大小様々に点々と。続けて、短く整えた髪に付着したのも手で表面を軽く払う。

 今度は堂々と扉を開け、中に入る。そばに傘立てというにはあまりにお粗末なプラスチックの瓶ビールケースがある。歩みを止めずにさし込むと、ソファーへリュックサックを下ろしながら勢いよく座った。一番扉側だ。


 想像以上に体が沈む。その上、尻に何かが当たる。気になる。その隣に移動する。先程よりはましだ。だが、正体不明の何かはこちらにも侵食しており、違和感は拭えない。さらに隣。ここまでは侵食しておらず、何も気にならない。


 ふと、顔が動く。視線の先には部室のほぼ半分を占めている畳が、ぼろぼろテーブルを挟んで安っぽいレバー式のリクライニング座椅子が向かい合っていた。


 あの時と同じ位置——輝の意識は今から、12月のあの日に戻った。




 11畳ほどの部室は無機質な壁に囲まれ、至る所に生活用品が置かれている。突然止まる電子レンジ、全ての羽が少し欠けた扇風機、金持ちOBが気前よく寄贈していったところどころ穴の開いてる3人掛けのこげ茶ソファー、最大風量にしてもさほど温かさを感じないファンヒーター、地上波が映らないためDVDプレイヤーと切り離すことができない10インチのテレビ、などどれも部分的な不具合が見られた。


 そんな空間に、輝と愛生あきはいる。

 毎日部室に入り浸る輝は半分特等席化している席に、毎日ではないものの来れる時は来ようと努めてる愛生もその真向かいの席に、腰を下ろしている。


 今、つまり火曜3限、ここには2人以外の誰もいない。毎週、この時間はいつも2人だけ。なのに、入室時の「お疲れ様です」以外、会話は交わしていない。そのため、窓の外から時折陽の光とチュンチュン鳴く小鳥の声がよく聞こえるほど静かだ。


 2人ともしゃべるのが苦手だとか、何か気まずいことがあったとか、犬猿の仲だとか、喧嘩してるとか、ではない。全くない。部のことや日常で起きたどうしても話したい体験談や噂話など話題があれば、よく喋る。

 ただ、うわべだけで無理してひたすら話を続けようというのは、肉体的に疲労させる上、精神衛生上よろしくない——別に積極的にそう考えたことなどなかったのだが、お互いなんとなく、無意識のうちにどこかでは思っていた。


 要するに、口を真一文字に閉じている輝が目的もなくただケータイを触っていることも、お気に入りの作者が一昨日出した1年ぶりの新刊を愛生がひたすら黙読していることも何ら不思議ではない、ということだ。


「ふぅー……」


 集中の糸を一旦切った愛生は読んでいた本を閉じテーブルに置くと、長い黒髪がはらりと落ちる。違和感を取り除くように人差し指でかき上げ、耳へ運んだ。整った顔がよりくっきり見える。続けて、左手側に置いてあったピンク色のおしゃれな手提げバッグから黒い箱を取り出す。既に上側が大胆に開けられた箱から黒々とした何かを1つ、口の中へ。


「食べる?」


 輝は、ケータイから声をかけてきた愛生に視線を移す。


「……食べる、って?」


 「これ」愛生は箱を差し出す。黒い箱だ。側面には何かが書かれていた。


 輝は引き寄せられるように背もたれから体を離し、その何かが何なのか見ようと努める。体がテーブルにぶつかる。首を前に出すと、愛生が箱を近づけてくれた。そこには、金色で“チョコレート”と筆記体で書かれていた。


「んじゃありがたく」


 輝はチョコを1つ摘んで、口に投げ入れた。口の中で少しずつだが確実に溶け、広がっていく。顎が上下に動くたび、輝の表情がゆがんでいく。心当たりのある苦味だ。


「……これって何味?」


 「ビター」その瞬間、愛生は気づいた。「あっ、もしかして苦手?」


 輝はコクリと頷くと、さらに顔をパッケージに近づけた。よく見ると確かに、“チョコレート”の前の方に、同じく筆記体で“ビター”と書かれていた。黒の背景に深緑色でというチョイスに対し、輝はなにか騙されたような気分になる。


「お子ちゃまだね〜」


 愛生はもう1つ口に入れる。


 「低身長の何が悪い?」162cmの輝は眉をひそめ、強い口調でそう告げた。「そんなこと一言も言ってないよ〜」163cmの愛生は不敵に笑みを浮かべる。

 その笑みに、輝は苦虫を噛み潰したような表情へと変わる。それを見た愛生は余計に笑みを強めた。


 悔しさはあるものの、輝は別に愛生が憎いというような負の感情は抱いていなかった。2人は高校からの知り合い。しかも、下の名前で呼び合えるほど気心の知れた間柄である。これも一種のじゃれあいである。はたから見ると多少行き過ぎたことに見えるかもしれないのだが、互いに全く気にしておらず、日常会話の延長ぐらいにしか思っていない。


 「ま、大人になってから挑戦してみなさいよ」さらにもう1つ、愛生は見せびらかすように口に入れた。


 もう20歳だから十分大人だよ、という文言が頭を一瞬よぎったが、そういう意味ではないんだろうなとは思い、輝は口にはせず、代わりに口の中でチョコを動かす。


「いや今だからこそ挑戦する。で、ゼッテー克服する」


 口をもぐもぐと動かしながら輝は独り言に近い、だけど何かを決意し、その宣言をするかのような、吐き出すような言葉を愛生にぶつけた。


 「なんでそこまで?」単なるチョコだ。明らかに普段とは異なるおかしな輝に、愛生は質問した。


「嫌いなものがない人は、なんだってできる人とイコールじゃないかって俺はずっと思ってたんだ。だから、克服して『俺も何でもできる人間の1人なんだ』って思いたい。自信つけたいんだよ」


 幼い頃から抱いていた、唯一無二に近い自論を吐露する輝。


 「食べ物ぐらいでそんな大げさな」好き嫌いから派生する発想ではないことに、愛生は心の声を思わず口からこぼす。対して輝は「全くもって大げさなんかじゃない。いわゆるあれだよ、『自信は気から』ってやつ」と大人気なさを感じながらも反論する。


「それを言うなら『病は気から』。間違ってるよ」


「いや、流石にそれは知ってる。そこから自己流にアレンジしたの。とにかく、嫌いなものや苦手なものは克服する。いや、克服したい」


 「ふーん……」ふと、とあることを思い出す愛生。


「なら、人間関係はどうなの? 好き嫌いを克服できれば嫌いな人にも対応出来るって思ってるの?」


「まー……それとこれとは別問題。あと、あくまで嫌いじゃなくて苦手、だから」


 輝は口をもぐもぐと動かしている。


「“無敵”ってワード、理解してる?」


「もちろん、自己流にね」


 愛生はこれ以上、このことを言い争うつもりなど毛頭なかった。なので突っ込みどころ満載な返事には追及などはせず、早々に切り上げた。その代わりに「嫌いな人って誰なの?」と、先ほど頭をよぎった人間関係のことを突拍子もなく深堀する。不意打ちな問いに輝はぎこちない静止した。


「この前言ってたじゃない」


 「いつ?」身に覚えが全くない。


「2人で飲み行った時」


 そう補足されても輝にはさっぱりだった。飲みに行ったのははっきりと覚えているし、自分から「行かない?」と誘ったことももちろん覚えていた。だが、嫌いな人がどうたらこうたらと口にしたことは覚えていなかった。だが、前例はある。言ったのはおそらく本当。


「……いないよ」


 「うそ」愛生はなかなか引かない。


「なんでそう思うのさ」


「お酒飲むと本音が出やすいっていうでしょ?」


「それはあくまで出やすいだけであって、確実に出るわけじゃない」


 輝は平然を装って淡々と返すが、「講釈はいいから、早く教えてよ」と詰め寄られる。


「教えてって言われても、ないものはないんだよ」


「うそ。女は分かるんだから」


 「それこそ嘘だ」輝は否定する。


「なんでそう思うの?」


「だっていないから」


 譲らない輝に愛生は残念そうに視線を落とし、はぁーとため息をついた。


「ていうか、いつまで口に入れてるの?」


「……何度やっても、やっぱダメだわ」


 輝はテーブル下のティッシュを1枚引き抜き、口を覆い、後ろを向いた。


 「聞かなかった私も悪いけどさ」愛生は輝の背中に語りかけた。


「それくらい飲み込んじゃいなって」


 「ほれはふり」空いてる左手を振る輝。


 発した5音が、それはむり、だと容易に想像できた愛生は先程よりも大きく、長く息を吐く。そして、おもむろに置いていた本を手に取り、しおりのページを開いた。

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