静かな海の真ん中で

狭山ハル

第1話

「まだやるつもりか? 小僧」

 その人は、ニヤリと口端だけを上げて、強い意志を持つような鋭い視線をその人自身が組み敷いた男へと注ぎながら男へと問う。男は相手を振り払おうともがいていたが、しっかりと固定されていたのだろう、振り払う事が出来ず相手を睨みつけていた。

「あぁ、言い忘れてたな。軌道警察局Orbital Police Stationだ」

 パスケースを開きその身分証を見せられた男は観念したのだろう。暴れる事を辞めたのだ。そして呆然とその成り行きを見ていた僕へその人は突然「青年! そのネクタイ借りれないか?」と声を投げてくる。その声に一瞬身体が止まってしまったが、その人の言葉を頭でやっと飲み込んだ僕は着ていたスーツのネクタイを解き相手へと渡す。

「助かる」

 ネクタイを受け取りそう言ってこちらへ笑みを見せたのも一瞬、その人は組み敷いていた男の腕を縛り上げ、立たせる。そのまま逃げださない様にという事なのか、縛り上げた腕を掴んだ手はそのままだった。

「逃げたら転ばすからな」

 冗談なのか本気なのか、縛られた男よりも細身であるその人は鋭い視線を男へと向けながら携帯端末で何処かへと連絡を取る。二言三言端末へその人が言葉を吹き込んだ後、すぐに軌道警察OPSの制服を着た男たちが駆け付け腕を縛られた男を引き取り今度は手錠を掛けていく。


「あんた何やってんスか、非番でしょうに」

 手錠を掛けられた男を連行していった警察官をよそに残った警察官は僕のネクタイを通報したその人へ返しながら笑う。

「非番だよ。高校時代の友人と飲みに行く約束があったんだがそれまで暇で散歩してたらこのザマだ」

「こんな界隈で散歩してる所為でしょうが――ま、絡まれてた彼にとってはラッキーって感じスかね」

「サツのイメージアップに貢献してやったんだ、文句は無いだろ」

「あんたの存在が既にイメージダウンとは考えた事無いんスか」

「次の訓練覚えとけよ、泣かせる」

「上等スね、ぜってー泣かねぇ」

「勝ってやると言えねぇのかお前は」

「あんたに勝てるわけねぇんで」

 ひらひらと片手を振りながら警察官の方は男を連行していった警察官の元へと駆けて行き、非番であるらしいその人は貸したネクタイを片手に戻って来る。


「ありがとうな……あー、皺になってら。新しいの買って返すわ……時間はあるか?」

 向かい合って改めてその人を見れば僕よりも少し身長が低くスラリとした体格のその人は中性的な容姿をしていて性別がよくわからない人であった。恐らく年齢は上であろう。ブイネックのシャツにジーンズ、その上にタータンチェックのシャツを羽織った姿はどちらかというと男、だろうか。そんな彼の問いに「寧ろ僕が助けて頂いた方なので、そんな」と固辞しようとすれば、先ほどの男に対して凄んだ時と同じ鋭い視線で「そういうわけにゃいかねぇんだ。また部下にイメージダウンだなんだと揶揄からかわれる」と口元だけを上げ重ねる。恐らくこの人はただただ目つきが悪いだけで、結構いい人なんでは、と思い当たる。そうでなければそもそも路地裏でチンピラに絡まれている僕を助けないだろう。

「あー、時間が無いなら連絡先教えてくれ。後日買ったモンを送るから」

 そして無駄な所で律儀なのだろう。普通助けた相手から借りたネクタイが皺になったからと言って新品を買い与えるなんて事をしないだろう。このまま論戦を続けていても恐らく僕は彼に勝てない。脳内でそう答えを出した僕は「僕は大丈夫ですけど、何か約束があるんじゃ」と彼へ問う。

「約束まではまだ時間がある。ネクタイ位は買えるさ――しかし、ここはキミみたいな金持ってそうな青年が来るような所じゃないぞ? ここらは地球オカから喰い詰めて出てきたは良いが上手くいかなかったような奴らの掃き溜めだ」

 彼は首を傾げながら僕へと問う。「こちらに赴任したばかりで散策してたら迷ってしまったんです」正直にそう答えれば「成程な、気を付けろよ。毎回私が助けれる訳でもないからな」と悪戯っぽく笑う。この人、口ぶりは粗雑だけれど、一人称は私なのか。と妙な意外性を知った所で「さて、こんな所で立ち話してるのもな」と路地の出口へと彼は足を向ける。

「行こうか――ええ、と」

 そこで僕らは初めて互いに名乗り合っていない事に気付くのだ。


「ハートヴィッヒです。ハートヴィッヒ・シェルツ」

「シェルツな。私はシオミだ」


 月面都市・オーベルト。かつて人類がこの衛星で最初に到達した海に作られた街で、僕は彼と出会ったのだ。

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