生きていることに対する些細な違和感に関してのあれこれ

りう(こぶ)

素敵なおじさんの幻想(おばさんについて)

素敵なおじさん像っていうのがあるらしい。そういうおじさん像について、多分私はどこかの本で読んだのだと思う。

具体的には、独身で、いつまでも自由に生きているような人。

好奇心旺盛で、知識が豊富。文化的な生活(?)を営んでるような人。


私の周りには、そんな親戚いません。そもそもおじさんがいません。


私には、二人のおばさんがいます。

東京の都心でOLとして働く、母の妹。

近所の貸家で、飲み屋で知り合った男の人に養ってもらってる、父の妹。

なんとなく、私はどちらのおばさんも、好きにはなれません。

この文章は、前者のお話。


母の妹は、バリバリ働いて、まるで「社会の一員です!!」と全身で主張しているような人です。もちろん私の先入観や、母の洗脳もあっての上の話。

独身者によくあるのかはわからないけど、「あなたの話は聞きません/人の話は聞き入れません」という、強烈に人間としてのしなやかさをうしなったような姿勢が、好きになれません。


私の母が、「彼女(おばさん)は甥っ子、姪っ子を可愛がらない」と言ったことがあります。

”彼女が自己中心的である”という文脈で、そういったことを零します。

私もそう思います。彼女は、彼女の祖母が大変だったときも、ほとんど協力しなかった。全くといっていいほど。

母は、働きながら、土日だけなど深夜バスで実家に度々帰っては、世話をせねばなりませんでした。(思い返すと、私も協力はしませんでした。)


亡くなった母方の祖父の日記が、数十年分に渡って、祖父母の家に眠っています。

私が小学生のときに、祖父は亡くなりました。

精神的に辛くなったときに、その祖父の日記を盗み読んだことがありましたが、ほとんどの内容は仕事のことで、

「今日は何人分の事務処理をした。この時期にしては多い」

「今日は何人分だった。少なめだ」

などの記述しかありません。

そんな日記の中に一行だけ、下の娘(おばさん)について、

「何を考えているのか、さっぱりわからない」

という記述がありました。


そう、彼女とやりとりしていると、不思議と空箱を相手にしているような気分になるのです。何を考えているのか、さっぱりわからない。

一緒に何かしていても、心から何かを感じているように見えない。

一般に心の豊かな人が散歩を楽しむイメージがあるから、自分も散歩をして楽しむ「フリ」をしているような感じ。

スポーツ観戦をしている人たちは、心から何かを楽しんでいるように見えるから、自分も観戦して「心から楽しむ」。

何かを相談しても、検索して目につくような文句ばかりが返ってくる。


彼女は自己中心的で他人に厳しい心の空っぽなヒトリモノ。

そう結論付けることもできます。が、

私には引っかかることがあるのです。


母が零す「私ばかりがおばあちゃんにこき使われた」というのは、「下の娘は放って置かれた」とも取れるのでは?

母と叔母が同居した際に、大量に下剤を飲んでいた叔母。

母が結婚を決めたとき、一切口を聞いてくれなくなった叔母。

そんな叔母に、「どうしたの」の一言も無かったであろう母。


もし私にそんな姉がいたとき、私は姪も甥も可愛がれないだろうと思う。


親戚も、祖父母も、私のおばさんを扱うときは、腫れ物に触るようだったと母は言います。そうでしょう。彼女は人に厳しいんですから。


人に厳しい人というのは、自分にも厳しいものです。

そして人の目につくダメな部分というのは、得てして自分のものだったりします。

ここに書いた叔母さん像は、必ずしも彼女の本質ではありません。


この話に、結論やオチはないです。

ただ、私が彼女にできることって、あるだろうか。

それは、「余計なお世話」だろうか。

そんなことを思ってしまう私は、暇人です。


この話は、フィクションです。

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生きていることに対する些細な違和感に関してのあれこれ りう(こぶ) @kobu1442

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