耐欲

「シオン……なるべく私から離れるな? 」

 その声に、シオンは頭から被ったフードをもじもじと動かして、小さく頷いた。

「ご迷惑おかけして申し訳ありません……」その顔は、桜の様に赤みを含ませている。


「なに、心配はいらん。天の精霊『飛鳥あすか』を使えば上空からの道も見える……精霊力を少し土地から分けてもらう事になるが……ふっ、この辺りは自然に溢れていて精霊力も充実している……全く問題はないさ」


 だが、その言葉に首を激しく横に振るとシオンは切羽詰まった声を出す。

「……やはり、キミィ様だけでも宿に泊まって下さい……アタシは村から離れた所で休みますので……」

 その言葉を聞きながら、キミィは構わず歩を進めた。

「シオン……この辺りは自然が多くてね。町の宿で泊まるよりもよっぽど野営の方が身体を労われるというものさ」

 嘘だ――シオンはその言葉を素直には受け取らないが、その気持ちは心までで仕舞いこむ。単純に彼と傍に居れる事が嬉しかったからだ。


「野イチゴに、クコとクルミか……

 と、なるとここにはリスやウサギも居るだろうな……」


 布と紐で拠点を立てると、キミィは周囲の木の実や果実を見ながらそう言って夕餉の獲物に狙いを定めはじめる。

「ダメッ‼ 」

 しかし、直後にそれを遮る様にシオンが叫び、キミィは思わず身体を固めて彼女を見つめた。

「あ……ご、ごめんなさい……

 でも……生き物を獲るのは……」

 そこで、彼女は黙ってしまう。だってそれはとても一方的で――彼の尊厳を全く考慮していない生存否定にもなってしまう事だと気付いたからだ。

 しかし、彼女のその様子を見てキミィは優しく微笑んだ。


「わかった、動物は獲らないよ。夕餉は木の実と果実を調理しよう」

 キミィがたったそれだけの言葉で彼女に応えたのは――その意見が決して自分への否定ではないと判っていたから。


 ――生き物には……家族があるものな……



 パチパチと音を立てる焚火と、そこにぼんやりと映るキミィの寝顔を見比べながらシオンは草木も眠る暗闇で必死にそれを抑えていた。

「くぅ……」荒くなる吐息を噛みしめると思わず呻く小さい悲鳴が洩れ、動機を抑える様に胸を叩いた。キミィの寝顔を見つめるその目は憂いを帯びはじめている。

「~~~ッッ‼ 」

 歯を噛みしめると、意を決した様にシオンは月に向かって羽ばたき、身体を丸めて宙をたゆとう。


「……」天の精霊『ウィスパ』の効果で既に目を覚ましていたキミィは薄く瞼を開くと無言でその様子を横目で窺った。まるで満月に象られた刻印の様な小さな影が寂しそうにそこに在る。


 彼らが村などの人ごみの中を避けて旅を行っているのは、これが大きな理由であった。


 夢魔の本能と言っていいだろう。

 今までは幼体であった為、それに目覚めていなかったシオンだがこの旅で精神的にも肉体的にも急激に成長を遂げた彼女に、それが芽生えるのは必然の事だった。


 人族の男性の生気、すなわち精気の吸収欲求。

 種族の親、或いは先に生きし者が教育を行っていれば、彼女にとってそれは何の疑問もなく食せるものであったろう。それこそ人の子が親が食べているから、自然に生物の肉を食すように。


 成長を早めたこの旅が、皮肉にも彼女のそれに罪悪と不徳の感情を生み出したのだ。


 もし、シオンが求めてきたのなら、キミィは旅に支障が出ない程度なら自分のそれを分け与えてもいいと思っていた。それが、人族同士で言う性的な行為を意味するものであっても、彼女達にとっては生理現象としての理解もあった。

 彼女は魔族なのだ。人族の見解とものさしでそれを図るべきではない。


 だが、予想通りだがシオンはそれをしなかった。

 膨れ上がったそれがいつ破裂しても不思議でないのに、彼女は毎夜必死でそれを抑え続けている。


「早く解決せねば、シオンの身体がもたんな……」


 シオンが目を覚ましたのは、既に太陽が姿を頭上に見せていた頃であった。

 慌てる様に彼女は大地に目をおとすと必死で彼を探した。

 すると、少し離れた場所、昨夜拠点を建てた所で彼は何かを炒っていた。


「す、すみません‼ キミィさ――⁉ 」

 飛び込んで来たシオンにカウンターを合わせる形で、キミィの逞しく太い指がその小さな蕾の様な口に入り込む。思わずシオンは目を白黒させた。


「おはようシオン。ほら、昨夜もなにも食ってなかったろ? 蜜と乳脂バターでクルミを炒ってみた。どうだ? 」

 そう言いながら、キミィは微笑んだ。

 しかし、尋ねられた当のシオンはそれに応えるどころではない。

 乳脂と蜜の甘さよりも、クルミの小気味いい食感よりも。

 舌先に当たる彼の温もりが。

 ――ああ……

 どくんどくんと、その少しだけ膨らんだ双膨が脈打ち、シオンの顔がどんどんと赤みを増していく。


「シオン? 」

 うっとりとした表情で、己の指に舌を這わす彼女の意変に気付き、キミィは声を掛けた。その声に我に返ったシオンは、両眼を見開いて離れる。見る見る内に顔は更に赤みを増して。


「……美味かったかい? 」

 微笑みかけてくるキミィの顔を見れないシオンは右に左に瞳を躍らせて、内頬に隠したクルミを咀嚼し、一度深く頷いた。


「……よかった。じゃあ少し遅くなったが朝餉にしようか」

 そう言って、何事もなかったかのように背を向けてクルミを皿に盛るその姿をシオンはそっと見つめ、深い罪悪感と羞恥心に駆られた。


 ――アタシは……やっぱりサキュバス……なんだ……


 そうして俯く彼女に気付きながらも、敢えて明るく振る舞うキミィが皿を石段のテーブルに置き、今一度彼女を傍に呼ぼうと振り向いた瞬間だった。


「お~い、シオ……」

 それは、キミィ自身己が油断をしていたとも思っていない刹那の瞬間。事実、彼は最大限とは言えずも警戒を解いてはいない。

 だからこそ。


「ふむ、なかなか悪ぅない。料理の腕もそこそこたつようじゃな」

 突如、己の背後に「ポリポリ」とクルミを噛む音を放ったその気配に、キミィは戦慄を覚えた。


 その者に背を向けたまま、まずシオンの位置を確認するとそれと同時に彼女の直線状に摺り足で移動する。そして背後へ振り向きつつ声の位置へ左の足刀を狙った。

 照準は腹部。何故ならば声の主の身長などの情報が無い為、頭部と下肢に定めるには外すリスクが高すぎる。


「おいおい」


 激しい炸裂音が場に響くと樹木で休んでいた動物達が危機を感じて一斉に奥の森へと逃げ出していった。


「いきなり攻撃を仕掛けて来るなんて、随分じゃのお」


 背後に居たその人影は、頭からローブに身を包んでおり輪郭は窺えない。しかし、キミィの鋭い足刀をまるでドアノブに手を掛けるが如く簡単に受け止めたその腕だけがそこから覗いていた。


 ――女?

 その腺の細さは、正しく人族の女性程のものであった。

 しかし、ここで特筆すべき事はその正体の脅威ではなく。

 左足刀を防がれたと同時に、情報を得つつ既に次の攻撃動作をキミィが仕掛けていた事だ。


 受けられた左下肢と、相手の右手掌を起点に宙へ回転を加えつつ確認した相手の頭部目掛けて踵がしなりをあげて薙ぎ払う。

 流石に相手もその追撃には回避行動で背後に体重を掛けバランスを崩した。それでもローブが頭部から脱げない所を見ると、動きにはまだまだ余裕があると言っていい。

「ほぅ……」

 その女はまるで感心した様にそう言葉を漏らした。曲芸の様な動きにも関わらず相手が既にバランスをとり戻し、こちらに更なる追撃の踏み込みを試みていたその事実に。

「素晴らしい。剣術は勿論だが体術もここまで目まぐるしいとは――流石は神威一振流師範代……いや、勇者といったところか……」

 その言葉を聞きつつもキミィは地が罅割れる程の踏み込みを以て、右の中断突きを放った。その技こそ、神威一振流無刀の型応用の技『砕打さいだ』徒手空拳でありながら、拳を剣と遜色ない武器として成り立たせる為『文鳴』の強烈な突進力をそのまま拳に伝えさせる。一撃必殺の突き。


 ――手応えが……ない⁉

 だがキミィのその突きが貫いたのはその女が纏っていた漆黒のローブのみ。しかもそれはまるで意志を保つ様に、キミィの腕に絡みつき瞬く間に動きが封じられた。

「くっ⁉ 」

 急いで剥がそうとすればするほど、それは深く絡んでいく。


「まずは落ち着き給えよ、勇者」

 その言葉に振り向くと同時に、額の汗が地に一線を引いた。


 広がる光景に、キミィは絶望を覚える。

 先のローブの相手はやはり女の姿をしたものであった。

 だが、そんな事はどうでもいい。

「キミィ様……」

 シオンの首元に、その女の短剣が光っていた。

 ――間違いない……こいつ今、景文を……


「止めろ、全面的に服従する。その子を離してくれ」

 だが反撃を考えるよりも先に、キミィはその場に跪き両掌を挙げてそう言った。降伏を宣言したのだ。

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