act1 勇者 叛逆

淫魔

 キミィが呼吸を止めていたのは、魔気による肺の蝕みを恐れたからだけではない。

 そこに、倒れていた、恐らくはこの戸を叩いたのであろう者に動揺したからだ。


 ――子ども⁉

 それも、どうやら、ただの子どもではないらしい。衣類の様なそれは、肌と一体化している様に見える。何より、大きく肌が見えるその背には、蝙蝠の様な羽根が小さく震えていた。その出で立ちは、人。ではない。

 キミィの脳裏に、勇者時代の記憶が甦る。


 ――夢魔むまの子どもか?


 夢魔、別名を淫魔いんま

 男性型のものをインキュバス、女性型のものをサキュバスと呼び、主に人族の夢を操り、色欲を高めさせ生気を根こそぎ奪う悪魔系魔族の一種である。

 決して魔力が高いといった驚異的な部類の魔族ではないが、その性質故、生命力が高い。だが、先にも述べた様に人を滅ぼせる程の力は無い。弱小の部類に入る魔族だ。


 ――何故、このような所に……

 そう不審に思いキミィは、顔を隠す淡い藤色の髪を分け、その者の表情を窺った。

 そう言えば、俗説に淫魔は、その相手が最も好む顔に化けると聞いた事が在ったが……その表情は、苦痛に歪んでおり、お世辞にも美麗とは言い難い。

 瞳を閉じ、苦しそうな呼吸をしている。汗の量、顔色から見ても、ここの魔気にあてられたのは間違いなさそうだ。


 一瞬、彼が次の行動を迷ったのは。無論、この目の前の子どもの身元が関係する。魔王がこの世界に君臨していた頃、人族は魔族によって耐え難い屈辱を受け続けて来ていた。

 その為、キミィ達が魔王を倒した後、人族は生き残った魔族に復讐を企てたのだ。

 各地に潜んでいた魔族は、応戦するものも居れば、完全降伏し捕虜を望んだものも居た。が、人族は魔王による支配の歴史を赦さなかった。


 その、圧倒的な武力によって幾年に渡り、全魔族の駆逐を決行したのだ。

 中には、強敵とも言える魔族も居たが、人族の圧倒的なその数と、絶対的象徴の魔王を失った部隊の士気低下は想像よりもずっと重く、その殆どが、一方的な争いの中で屠られていった。

 この淫魔の娘も、何れは人の手によって葬られよう。その時はそれこそ、より無残に、より悲惨に。

 ならば、今ここ、この場所でこのまま死に絶えるのが、この者にとっての幸福ではないか?

 そう思っていたのだ。

 だが、次の瞬間。キミィのその考えは、露泡と帰す。


「お母さん……」


 その幼女から、漏れたその声は。

 まさしく、人の仔と、何ら変わりない。

 幼児が、必死で母親を呼ぶ、哀しきそれであった。


 その言葉は彼の脳裏に、あの日の記憶を閃光観フラッシュバックさせる。それこそ、器から溢れ出る泉の様に。

「……ち」小さく舌を打つと、彼は、その漆黒の地に印を切った。

数多かずあまたなりし、『天』の精霊よ。我が願いに応え、この魔族の子に、安らかなる祝福を与え給え」

 そう呟くと。彼の書いた印が、美しい光を帯び始める。

 その明かりは、暗闇のその森にあたかも朝をもたらしたが如き。


「う……うぅ……」

 そして光を受けた幼女の顔には、生気が宿った。

「ふん、死んでおけばよかったと、後悔しても。私は恨むなよ」

 そう言うと、そのまま彼女を抱え、小屋の中に戻る。


 動物の様な臭いのするベッドに幼女を横にすると、キミィは気怠そうに椅子へ腰掛けた。

 そうして、ふと思い出した様に、彼は眠気を覚えた。

 ――酒も入れずに眠れるなんて……いつ以来か……



「パパ」

 色の無い、その世界は。優しき姿のまま、キミィを迎えてくれる。

「ただいま。ミナ。いい子にしてたかい? 」

「いい子にしてたよ。だから、ミナをほめて~」

 頭をこちらに向けてくる、愛しき化身を、彼は優しく抱き締めた。

「なぁ、ミナ。そう言えば、ママはどこだい? 」


 彼の言葉に、腕の中の小さな温もりは、途端まるで、砂の様に崩れ去った。


 瞬間、彼に驚愕と、不安が疾風よりも早くその胸を打つ。

「ミナッ⁉ ミナ‼ どこに行ったんだい? エリス‼ ミナ‼ 」


 声が潰れる程叫んだ。この世界では知り得ない筈の記憶が。彼の脳裏に雑音を掻き立ててくる。


「ぱぱぁ……」

 背後から、その声は聴こえた。

 顔面を、脂汗でベトベトにした彼は、その声に祈りと願いを込めて振り返った。


「いたいよぉ……ぱ、ぱあ……」

 そこに在った、その娘の姿は……!




「うぉあああああぉああああああああ‼ 」


 叫ぶと同時に、彼は椅子から飛び上がった。その己の声の大きさにもそうだが、きっとその異常なまでの動悸は、それだけが理由で起きた訳では無いだろう。

「はぁはぁ」と、激しく切れる息の合間に「ガタン」と、何かが落ちる様な音が聴こえた。


 その方向を見ると、先程の淫魔の幼女が怯えた瞳でこちらを見ていた。

 余程、その叫びに恐怖したのか、身体を隠したその毛布越しにでも、小刻みに震えているのが伺えた。


 キミィは、数回深呼吸をとると、瓶の方向へ向かい、杓一杯の水を飲む。

 心音のリズムの落ち着きを感じると、背後。その幼女の方向へ向き直った。


「気分は、どうだ? 」

 その声に、彼女は「ビクン」と、肩を揺らし、蜜色の瞳が歪む程、眉を下げて震えていた。余程自分が怖いのかとキミィはその反応を受け取り、困った様に頭を掻いた。

「まぁ、いい。体調が戻ったなら、とっとと出ていってくれ。そして、こんな危ない場所にはもう来るんじゃない」


 今度は、その言葉に、幼女はその大きな瞳を更に開き、驚きと共に、遂に返事を放つ。


「あたしを、殺さないんですか? 」

 その言葉に、キミィはもう一度水を飲んだ。


「あぁ。悪いが、私はもう人族と魔族のしがらみの中で生きていく気はないんだ。だが、お前が私の生活を邪魔する。となれば、話は別だ。さぁ。死にたくないのなら、私の気分が変わらない内に、さっさと、出ていくんだな」

 それは、本気の言葉だった。だからこそ、幼女もまた息を呑み、その様子を見守った。しかし、幼女は何かを彼に伝えたいらしい。もじもじと、しかし強い意志を感じる視線で、キミィをはっきりと捉えていた。


 彼は、その瞳に心が震えるのを感じた。

 ――似ている……

 先の俗説を、彼は思い出していた。

 淫魔は、相手の人族の最も愛する姿に化ける。と。

 彼の心に、住み着いて消えない、二つの面影が。目の前の人外の幼女に重なっていく。

 ――ふざけるな。

 それを否定する様に、彼は首を振るった。丁度、同じタイミングだった。


「この森に、かつて我ら魔王様を討ち滅ぼした勇者様は、おいでませんか? 」

 愛しき面影の、その小さな口は。確かに、そう言ったのだ。

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