第一章 狐面
1
石段を登ると、腕にさげた巾着の鈴がゆれ、リンと小さな音をたてた。
遠い山端に陽は沈み、時刻は宵のころを迎えていた。紫に色濃く染まる空には、星がちらほらと輝きだしている。
人の群れの流れに従うように石段を登り、大きな石造りの鳥居をくぐると、いくつもの淡いオレンジの光が出迎えた。夜の闇を寄せ付けないような、温かな光。さっきまで遠くに響いていただけの祭囃子が、今はその只中にいるようで。耳に、身体に直接響き渡る。
心地よい喧騒。
参道を挟むように、境内へと屋台がどこまでも続く。提灯に灯る明かりがまぶしいくらいに照らす。琴引瑠璃は、圧倒されたようにその光景に感嘆の息をもらし、薄桜色の浴衣の袖をギュッと握りしめた。
東京都の片隅、住宅地の広がるこの街の高台。小高い丘を切り開いて作られた神社は、百段に及ぶ石段と石造りの巨大な鳥居が特徴で、年に一度、初夏の時期に市の協力を得た夏祭が開かれることで地元民に親しまれていた。
夜の帳が降りた街はきれいだった。街に高層ビル等の高い建物はなく、今日は天気が良いせいもあって、遠く先には新宿副都心の明かりがキラキラと美しく輝いているのが見えた。
瑠璃は道端に設置された簡易ベンチに腰を下ろし、先ほど屋台で買ったりんご飴をかじった。薄いべっこう飴のパリパリとした食感と、安りんごのもしゃっとした食感。香ばしい甘みと甘酸っぱさが口に広がる。祭以外では特に食べたいとも思わないが、このなんとも安っぽいおいしさが瑠璃は好きだった。
「次はなに見よっか?」
もしゃもしゃと水気のないりんごを口の中で味わっていると、傍らに座る少女が口を開いた。
「もう、大体見終わっちゃったよね」
もう一人の少女が言う。今日は、女友達三人でこの祭に来ていた。
「ん~、あとは……」
瑠璃が辺りをきょろきょろ見回していると、ふと二人組の少年達に目が留まった。二人組というより、内一人の少年に。
歳は瑠璃と同じくらいだろう。参道を挟み反対側に立つ少年二人は、森の木々を背にして話をしていた。一人はTシャツにジーンズというラフな格好。もう一人は学生服を着ていた。瑠璃の目に留まったのは学生服の方。今日は日曜で学校はないはず。しかし、そんなことよりも瑠璃の興味を惹いたのは、少年が肩に背負っていた黒い細長の袋だった。合皮製であろうその袋はたしか、刀を入れるものであったはず。この祭の場にあって不釣り合いなそれに、思わず瑠璃の目は奪われた。
だが目に留まったのは、物珍しいというそれだけの興味でしかなかった。友人からの「なに、ボーっとしてんの?」という言葉に、瑠璃はすぐに少年達から目を離し、少女たちとの会話に戻った。
「ううん、別になんでもな──」
その時だった。急に全身に震えるような悪寒が走った。凍りつくように背筋が縮みあがる。
思わず手にしていたりんご飴を地面に落す。瑠璃は肩を抱くようにしてその場にうずくまった。
「瑠璃、どうしたの? 大丈夫?」
突然震えだした瑠璃の尋常ではない様子に、少女が心配そうに声をかける。
「……大丈夫。ちょっと目眩がしただけだから」
肩に掛けられた手を握りながら、ゆっくりと顔を上げる。平静を保とうとするが、その額には冷や汗が滲んでいた。
「でも……」と口ごもる少女たちを脇目に瑠璃は周囲を見渡した。
怖気の走るような怨念が放たれた。何者かが誰かを憎む想い。それも、背筋が凍るほどの。
この怨念が放たれているのは……。
瑠璃は、参道の先に広がる森を見やった。
間違いない。暗闇の支配するうっそうとした森の奥、そこからうねっとりとした怨念の波が伝わってくる。祭に沸く喧騒の中、まるでそこだけが、暗闇の渦がとぐろを巻くように、異質な空気を醸し出していた。他の人は誰も気づいていない。皆一様に祭の雰囲気を楽しんでいる。
ならば、この怨念はいったい誰に向けられたものなのか。獣が獲物に食いかかるような緊張感が入り混じる殺気。祭囃子が、心なし遠ざかったような気がした。
ふと視界を横にずらすと、すぐ隣にはさっきの少年達の姿があった。
そして瑠璃は直感した。彼だと。怨念を向けられている相手は学生服の少年。彼もまた瑠璃と同じく森の奥を。いや、森の奥に渦巻く憎悪を見つめていた。
ややあって、彼がTシャツ姿の少年に急に頭を下げ始める。そして、「悪い!」とでも言い捨てるように右手を軽く上げると、制止されるのも聞かずに木々の合間を抜けて、森の中へ駆けて行ってしまった。一人残された、Tシャツ姿の少年は悪態をつきながら、頭を掻いている。
──嫌な予感がする。
瑠璃は胸元を強く握りしめた。
「ごめん、私行かなきゃいけなくなっちゃった」
言って勢いよく立ちあがる。
「ちょっと、急にどうしたの?」
瑠璃のいきなりの行動に少女が声を上げるが、瑠璃はその言葉には耳も貸さずに走りだす。
「ほんとにゴメン! 先に帰ってて!」
振り返りざまに手を振るが、走る足は止めない。瑠璃は人ごみに混じるようにして、暗闇の森の中へと消えていった。
「ちょっと……もう、一体何なの?」
後には、唖然とする少女二人の姿だけが残された。
◇ ◇ ◇
呼吸を懸命に整えようとする。しかし、気持ちに反して荒がる呼吸は一向に収まることを知らない。心臓の鼓動がまるで胸を突き破り、破裂してしまうのではないかと思うほどに血液の流れを緩めない。
狐面を付けた異形は今しがた少年の放った斬撃に切り刻まれ、闇へと消えていった。
辺りは静寂に包まれていた。いつの間にか祭囃子も止んでいた。
少年はしばらく狐面の消えた空を眺めた後、近くの木の根本に置いてあった刀の鞘を拾い上げ、静かに刀を収めた。
そして、少年が緊張を解くように小さく息をつくと、その瞬間、辺りに夜の息吹きが戻った。木々がざわめきだし、虫たちの鳴き声が森のあちこちから聞こえだした。
異質の空間からやっと解放された、そんな心持ちに瑠璃は安堵していた。幾分気分が落ち着いた気がするし、尻もちをついたお尻が地面の夜露に濡れて冷たくなってしまっていることにも気が付いた。
しかし、恐怖に抜けた腰はまだ言うことを聞かず、立ち上がることはできなかった。
少年は傍らに落ちた黒い袋を拾い上げ、ゆっくりと日本刀をしまっていく。そして袋を肩に背負い、瑠璃へと向かい直る。
風が木々の枝葉を揺らし、少年の髪がなびいた。
少年が歩き出す。相変わらず足はすくみ、瑠璃は動くことも叶わずに少年を見つめ続ける。
少年がこちらに来る。恐怖と緊張感が入り混じる。瑠璃の地面を掴む手に力が入った。
地面に座り込んだたままの瑠璃を、少年が見下ろす。
「……なあ、いつまで座ってんの?」
それが少年の発した最初の言葉だった。そう言う少年の顔には、先ほど狐面と剣をかわしていた時のような冷徹さはなく、むしろ幼ささえ感じられた。
「ゆっくり刀しまってれば、その間にどこか行っちゃうかと思ってたんだけど」
困ったような面持ち向けられる。
「えっ? あ、あの、ごめんなさい。腰が……足が震えて立てなくて」
「ああ、そっか。ごめん、気付かなくて」
躊躇しながらも差しだされた少年の手を掴み、瑠璃はやっと立ち上がった。
お尻が冷たい。確実に汚れている。今日おろしたばかりの浴衣なのに、と瑠璃は悲痛の念を抱くのと同時に、やっと思考が普通に働くようになってきたと人心地ついた。
「怪我、ない?」
「うん、平気みたい」
少年の言葉に瑠璃は全身を見ながら答える。そして、
「あの、さっきのって──」
「えっ、もしかしてアレ、ずっと見てた?」
きり出した瑠璃の一言に、少年の顔に一気に焦りの表情が満ちる。急変した少年の様子に瑠璃がきょとんとしてると、少年は慌てふためき、
「あれはほら、違うんだよ。なんていうかさ……ほら! 俺、剣道やってて、たまに誰もいない時間に刀で練習しててさ。だからそういうやつだから、決して怪しいこととか、危ないことなんて全然──」
取繕うように言葉を並べ、少年は手をあたふたさせる。
さっきまでとはまるで別人のような少年の様子に、瑠璃は驚き、思わずクスリと笑みをこぼした。
瑠璃に笑われたことに気付いた少年がハッとして弁解を止める。ばつが悪そうに肩を落すと、言葉にもならないため息をつきながら頭を掻いた。そして、思い出したように、
「そうだ。俺、友達向こうに待たせたままでさ」
少年が申し訳なさそうな顔をする。
「一人でも帰れる?」
大丈夫と瑠璃が答えると、少年は安堵したような表情で「そっか、じゃあ」と短く言ってその場を去ろうとする。と、少年は振り返り、
「あの、出来れば今見たこと、あんまり他人に言わないで欲しいな」
それだけ言うと、瑠璃の返事も待たずに少年は暗闇の森の中へと駆けて行ってしまった。
夜の森の中は薄気味悪く、一人では心細かった。しかし、さっきのような恐怖はもうなかった。
自分の走ってきた方向を考え、帰りの道に目処を付ける。月明かりも十分で、帰るのにはそれほど難はないだろう。ただ……お尻を手で払う。ジャリっと土の感触があった。瑠璃は悲しい気持ちを吐き出すように、深いため息をついた。
夏休みまであと二週間ほどとせまった、ある夏祭の夜のことだった。
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