第四十二話…「杭を求める者と名も知らぬ記憶」
暗い…暗い…暗い。
ブクブク…と、気泡が横を通り抜け、上へ上へ…と、逃げるように上がっていく。
それを目で追えば、キラキラと光るものが見えた。
光だ。
暗闇の中だと、小さな光すら、救いに感じられる。
今の今まで、よくわからない場所で、よくわからない状況で、自分にはどうする事も出来ない…「圧倒的な何か」…と対峙させられていたからか?
それが不安を助長し、恐怖を煽って、ほんのわずかな救いすらも、求めてしまうのか?
ボコボコボコ…と、自分の僅かに開いた口から気泡がとめどなく溢れ出る。
それを目にして、自分が水中にいるのだと気付いた。
---[01]---
だが、不思議とその事実には不安は無い。
こんなに不安なのに、こんなに怖いと思っているのに、生き物として当然芽生えるはずの、死への恐怖は、沸き上がって来なかった。
まるで、こんな事では自分は死なないとわかりきっているみたいだ。
口から、体内の空気が我先にと、体外へと出ていくのに、今まさに息をしていないというのに、死ぬ事はない…と、そう思えた。
今、自分が感じている恐怖は、不安は、真っ暗闇の道にポツンと1人立っている時に感じるそれらしかない。
不思議な感覚だ。
水面に反射する月光のように、淡い光を放つその光に向かって、手を伸ばす。
体は、その気持ちを汲むかのように、スイスイ…と、光に向かって動き出した。
---[02]---
その度に、強い風が体に当っているかのように、まるでこちらが動くのを拒むかの如く、押し返されるような感触が、肌を襲う。
光に近づけば近づくだけ、淡い光はその強さを増していく。
その光は、波打つようにいくつものシワを作り、波打ち方よっては、いくつにも分裂して見える。
最初こそ、その光しか見えていなかったが、近づくにつれて、周囲が暗闇から青黒い世界へと変わっていった。
水面近くの水中の色。
透明でいて、透明でない色。
体はそのまま水上へと頭を突き出す。
長い事水の中にいた気がするのに、口が、鼻が、水上に上がっても、息を胸いっぱいに吸う気が起きない。
---[03]---
息苦しさはない。
それよりも、そんな事よりも、人として生を維持するために必要な事を放棄してまで、1つの事に、体は突き動かされていた。
視線が勝手に、目の前の天高くそびえ立つ淡い土色の巨石へと注がれている。
封印の杭だ。
だから何だ…としか思わない、そんな事よりも、自分の状況の方が気になってしょうがないのだ。
軍施設の訓練場でドラゴンモドキと戦っていたら、よく分からない真っ黒な場所にいて、今度は水中…、その奇想天外な状況に勝る事柄など、そうそう存在しえない。
封印の杭は大事だが、自分の状況の確認の方が大事だ。
でも体はソレを許さない。
---[04]---
もう自分の意思とは関係なく動いてすらいる。
体は封印の杭を求めた。
いや、さらにその向こう…、封印の杭のその中身…、人のみでは計り知れない膨大な魔力に、目は釘づけにされ、ソレを求めて手が前に出る。
飢餓状態で、目の前に湯気の立つパンとスープを、乱雑に…そして大量に置かれたかのように、喉が鳴り、一目散に杭へと寄っていく。
なんでそんなに…と思う反面、体は求める…、求めて求めて、いつの間にか、頭の中まで、その欲求に満たされていった。
さも、ソレを手に入れれば、自分の望みが叶うかのように、渇望した。
それさえあれば…と。
息をせずにここまで動いていて今更だが、瞬きすらせず、まさに…一目散に動く視界の中で気づく…、水上に頭を出しているのが自分だけでない事に…気付く。
---[05]---
頭を動かせず、ソレらを確認する事はできないが、視界の端々に映るソレらは、1人や2人ではなかった。
10人は超えているだろう。
下手をしたら20…いや30は超えている。
気づけば、水面は自分と同じように、水上へ頭を覗かせる連中でいっぱいになっていた。
気持ち悪かった。
視界一杯に広がる人の後頭部、人の横顔、バチャバチャと飛び散る水しぶきに、飛び散らせている原因の…水を掻く腕。
全員が一目散に封印の杭へと迫っていく。
我先にと、封印の杭の周りに作られた足場に這いあがり、その一糸纏わぬ肌を、水の外へ、太陽の下へと晒した。
---[06]---
男も女も、関係ない。
長時間水の中にいたのか、その肌はふやけきり、血の気が抜け切って、青白く変色させている。
白い連中…の中に、自分はいるのか。
状況はわからないが、自分のいる場所はわかった。
自分の…杭に伸ばされる手は、他の連中と一緒で青白い。
何がどうして、白い連中の仲間入りをしているのか、理解できない。
理解できる奴がいるとも思えないが、状況をわかっている奴がいるのなら、教えてくれ。
---[07]---
視界の端で、血しぶきが上がるのを見ながら、元々あった足場は他の連中に占領されているからと、それでもなお求める手を止める事無く、他の白い連中を踏み台に誰も手を出していない場所へと、体を動かす。
グニャッ…と、水で湿った人肌が…、冷え切って体温もクソもない冷たい感触が足裏に伝わって、何とも言えない気持ち悪さを感じる。
『ああ…ぁぁ…』
でも、そんな事はどうでもよかった。
欲しい。
これが…これが…。
周りを、自分の状況を確認する余裕は無くなり、思考もまた体に…行動に沿ったモノへと変わっていく。
---[08]---
なんで、こんなにも杭を求めるのか。
そんな疑問すら、考えようとしても、一瞬で水泡に帰す。
伸ばし続けた手が、その指先が、封印の杭へと触れる。
その瞬間、ビリビリッと指先から全身へ、何かが駆け巡っていった。
痛かった。
熱かった。
冷たかった。
体が…、動かなくなった。
何かに吸い込まれるように、両手共に杭へ吸い付いて行く。
手には、人が感じられる不快感の全てが流れ込んでくるように、全身を駆け巡っていった。
---[09]---
腹の奥底から湧き上がってくる吐き気に、半開きで生気の欠片もなかった口を閉じる。
でも、その程度で塞ぐ事の出来ないソレらは、口から溢れ出た。
それはわずかに赤みがかった黒々とした液体だ。
血に見えなくはないが、それにしては黒すぎる…、ソレに量も多い。
ドバドバと溢れ出たソレは、容赦なく下の連中に降り注いでいった。
とめどなく溢れ続ける中、自分の頭に、肩に、背中に、同じような液体が、流れ落ちてきている事に気付く。
自分だけじゃなかった。
自分が踏み台にしている連中も、自分を踏み台にしている連中も、上も下も、左も右も、この周りにいる全員が、同じように封印の杭に手を付き、そして口から黒い何かを吐いている。
---[10]---
腹の中は一体どうなっているのか、終わる事無く、延々と吐き出し続ける中、手を通して杭から流れ込んでくるコレは…、魔力か?
何かが混じっている。
意識が薄れていく。
チカチカと暗転を繰り返し、何かが見えてくる。
ギャーギャーと誰かの…大勢の叫び声が耳に届く中、腹を裂かれ、溢れかえった中身を見続ける。
周りからは、とめどなく魔物に蹂躙される民草の声が、耳へ針を突き刺すかのように、痛みを覚える程に響いていた。
---[11]---
ああ…、己が愛した者達が、魔物に…魔人に蹂躙されていく。
こんな場所で足を付いている場合ではない。
行かなければ。
1人でも多く、助けなければ。
そんな意思とは真逆を行くように、体は全く動かない。
自身の腹部を眺めながら、それも当然か…と納得しかけては、耳に響いてくる叫び声に、己の使命を…役目を…、やるべき事を果たせ…と奮い立たせられる。
だができない。
国が亡びる。
大して大きくもない国が、自然の弱肉強食の摂理に従って、魔物の…、魔人の…、群れに飲み込まれる。
---[12]---
ああ…、痛みは無いのに体は動かない。
何とも苦々しい状況か。
動けぬ体、その血の匂いに誘われて、魔物が寄ってくる。
目の前で、今だ意識がある中、自身の臓物が魔物に食われる…、その光景…。
瞼は鉛のように重くなっていくというのに、意識ははっきりしていった…、自身の無力さに憤慨した…、目の前の魔物に、自身の臓物を汚らしく食べ散らかす魔物に手を伸ばす男の記憶が、自分の頭いっぱいに広がった。
濃霧に包まれた野原を全力で走るが、何かに追いつかれた。
---[13]---
手に持っていた片刃で反りのある剣で、迫りくる連中を斬り伏せるが、数が多い。
その中の1体が背中に乗る様にして、首筋に噛みつき、倒された…。
声を上げようとしたが、一瞬にして喉へ…口へ、血がいっぱいに溢れかえり、ゴボゴボ…と声にならない音だけが口から漏れ出るだけだ。
濃霧で視界が悪い中、自分以外にも走っている女がいる。
胸に何かを抱えて、こちらに気付いて足を止めた。
すぐにこっちへ駆け寄ろうとするが思いとどまる。
ためらいつつも、また背を向けて走り出そうとした矢先、犬の姿にも似た魔物に襲われて血しぶきを上げた。
血反吐を吐き散らしながら、叫び声を上げる…。
首に噛みついている奴などお構いなしに、その肉がビチビチッと引き千切られる音を聞きながら、手に持った剣を振り回す。
---[14]---
魔物を、全て倒し、体に死が近づいている事を感じながら、女へと歩み寄る。
死んでいた。
その身を血溜まりに沈めながら、体を服ごとかみちぎられて息絶えている。
その傍らには、腹を食い荒らされた赤子の姿もあった。
血で歪み、赤みを帯びる男の記憶が、自分の頭いっぱいに広がった。
ゴーゴーと雨風が薄い壁に打ち付けられ、天井からは、防ぎきれなかった雨水が滴り落ちる。
ボロボロで小汚いベッドに横たわりながら、せわしなく家の中を動き回る少年少女に目を向けた。
---[15]---
2人の服もボロボロで、継ぎ接ぎだらけで、何日も服を洗う事すらできていないのか、汚らしい服。
服の上からでもわかる細すぎる体。
自分達が見られている事に気付いて、駆け寄ってくる少年少女が、無性に愛らしく…愛おしい…。
でも同時にやるせない気持ちで胸を締め付けられ、力の入らない体が圧し潰されそうな感覚すら覚える。
その痩せ細った手を見てしまったからか、子供の痩せすぎとも言える…骨が浮き上がった頬や目元を見てしまったからか…、そんな顔で笑顔を作られてしまったからか…。
涙で視界が歪み、自身の体の脆さが憎くて…憎くてたまらない…そんな女の記憶が、自分の頭いっぱいに広がった。
笑った。
---[16]---
とにかく笑いがこぼれた。
大声で笑い、洞窟の中にただ1人、自分の笑い声だけがこだまする。
今日は大量だ。
魔物に襲われている行商人を襲った。
護衛はいたが、横から何本も矢を撃ちこんでやったら、ギャアギャア騒ぎやがって、その頭を棍棒で思いっきりぶん殴ってやったら、動かなくなった。
ついでに魔物も蹴散らして、その行商人の頭もこの棍棒でカチ割った…。
行商人はまだガキだった。
垢ぬけてねぇガキだ。
シワ一つ無い顔に、なよなよとした体、新米もいいとこだろう。
魔物に襲われてやがったが、あんなもん討伐依頼を出すまでもない雑魚だ…、魔物って言っても、その強さはその辺の犬とたいして変わらねぇ、ただの動物だ。
---[17]---
それに対して苦戦なんてして、こっちが近づいてくる事に気付きもしやがらねぇ。
楽な仕事だった。
そのくせに、馬車には大量に金やら、食い物やら、酒やらを積んでやがってよ。
しばらくは、飯に酒に…とそんなもんに金を出さなくても、腹いっぱいに飯が食える…、吐く程に酒を飲み浴びれる。
最高だ。
ほんと最高だ。
金貨を絨毯のように地面にばらまいて、体をその上へと投げ倒す。
寝心地なんざ、痛いだけで最悪の一言だが、自分が何の上で寝ているかを考えれば、最高の気分だ。
そうだ…、最高のはずなんだ。
---[18]---
なのに…、なのによぉ…。
地面一杯の金色は、徐々に赤黒い海へと沈んでいく。
ガシャガシャ…と反響しながら音が響き、こっちに誰かが近づいてくるのがわかる。
それはさしずめ死神の足音と言ったところか。
そうだ。
死神が来やがった。
くそ…、楽な仕事だったのに、うまい仕事だったのに、死神に祝福されていたとは…。
入口に続く洞窟の通路に視線を送る。
硬い金のベッドにたどり着けなかった連中が、涙を流して、鼻を垂らしながら、白目をむいてくたばっている…、1人や2人じゃない…、13人の部下達だ。
---[19]---
全員やられちまった。
ゴボッ…と咳き込めば、自分の胸元には血がビッシャリと赤いシミを作る。
楽な仕事だったのに…。
他人が奪われる事には微塵も興味はねぇ…、だが自分から奪っていく奴らは許さねぇ…、返り血で白金色の鎧を睨みつけ、その視線に憎しみを込める男の記憶が…、自分の頭いっぱいに広がった。
自分の記憶ではないモノが、延々と頭を埋め尽くしては消えていく。
魔物に殺された者の記憶、野盗に殺された者の記憶、濁流に流され溺れ死んだ者の記憶、自身の部下に後ろから刺された者の記憶、挙句の果てには人ではない別の…大半は動物の…苦しみながら事切れる記憶が、見えては消えて、何も見えなくなったと思えばまた見える…。
---[20]---
気づけば、全てを吐き出したのか、口から赤黒い液体が吐き出される事はなくなっていた。
相変わらず体を自由に動かす事はできない。
吐き出して…、そして浴びて…、不気味な程に青白かった肌は、むしろ赤黒い色の方が多くなっている。
絵の具をそのままぶちまけたかのような姿…。
直前に胸糞悪さだけを抱かせる記憶を見続けたせいか、その肌を濡らす赤黒いモノが、場所によって何かの顔に見える始末だ。
苦しんで…苦しんで…、そして最終的には死にゆく…。
人も獣も関係なく…、等しく死を恐れていた…、同時に、強く望んでもいた。
全ての外敵から大切なモノを守るための力を…、全ての敵を斬り伏せる力を…、いつまでも一緒に居続ける事を…、自分から大切なモノを奪おうとする奴を叩き潰す力を…。
---[21]---
沢山の望みを見た。
その形は多種多様だ。
自分の為に、他者の為に。
目の前に迫る死を拒む力を…、目の前で消えていく命の火を消さない力を…、どこかへ行こうとするモノを手繰り寄せる力を…。
それらが何を意味しているのか、理解できない。
なんでそんなモノを見させられたのか、理解できない。
だが、さっきまで貪欲に封印の杭を求めていたこの体は、もうそれを渇望していなかった。
杭についていた手は、今にも滑り落ちそうに、力なく引っかかっている。
もうこの体には動く気力すら残っていないようだ。
バサッ…ボサッ…と、まるで山になった灰に足を突っ込んだ時のように、足が…体が下へと沈んで行く。
---[22]---
自分が足場にしていた連中が、その形を失って、それこそ灰のようなモノに変わっていた。
人の形を模しただけのような…、脆い人形となっている。
その姿は、まさに燃え尽きた木材…、残りカスである灰のようだ。
下にいた連中だけじゃない。
横にいた奴も、上にいた奴も、その役目を終えたかのように、元々なかった生気をさらに絞り抜き、何もかもを抜き去って、文字通り残りカス…へと姿を変えていく。
そんな中で、自分の体だけは、今だにその形を強く保っていた。
人が2人か3人ぐらい重なっていた上に立っていたけど、足場を失ってそこから落ちても、痛みを感じない。
残りカスが緩衝材となって、衝撃を和らげた…とも言えるが、それにしても何にも感じなかった。
---[23]---
この体には、人として当たり前に持つ、痛みを感じる…という事さえ、無くなっているのかもしれない。
力なく座り込む体。
朧気に杭の方を見る視界に、影が差す。
その方へ視線が動く。
そこには、血をびっしりと浴びた黒い鎧の兵士が立っていた。
手に持った剣にも、鎧に負けず劣らずに血が滴って、赤い雫を切っ先から足場に盛られた灰へ落としている。
そして、シュッ…と、血で赤い光を反射させるその刃は、この体の首斬った。
ぼとり…と、鈍い音が耳に届きながら、視界がグルグルと回る。
その内、さらに下へと…、足場を越えて、水の中へと落ちた。
右目が光を失った。
左もどんどんと世界を黒く染めていく。
水の中なせいではっきりとモノが見えない中、消えゆく視界の中で、いくつも、人の影が映るのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます