6.アスタ・ラ・ビスタ、ベイベー
「こりゃ酷いな……」
一ヶ月ぶりに戻ったボロアパートの自室には、異臭が漂っていた。おそらく、冷蔵庫の外に出しておいた野菜等の食材が腐っているのだろう。存在をすっかり忘れてた。
所々にホコリも積もっていて、酷い有様だ。家ってやつは、人間が生活しなくなると途端に傷みだすというが……こういうことか。
換気扇を回しつつ窓を開けると、夕焼けに染まった東京の郊外の町並みが目に飛び込んできた。俺は本当に、元の世界に帰ってきたのだ。
ここで窓際でタバコの一つでも吹かせば様になるんだろうが、残念ながら俺は非喫煙者だ。
「お、留守電が入ってるな……」
電話機に目を移すと、「留守録有り」を知らせるランプが点滅していた。
バイト先からかな? と思い再生ボタンを押すと、案の定バイト先の上司からの「一日目から無断欠勤とはいい度胸だ。もう来なくていい」という内容を口汚い言葉で吹き込んだメッセージが再生された。久々に聴く元の世界の人間の言葉がこれとはな……。
最後に乱暴に受話器を置く音が聞こえたが、どうやらかなりお冠だったらしい。まあ、仕方ないわな。初日から無断でサボられたら、俺だって普通に怒る。
メッセージの再生が終わり、「やれやれ、これから仕事どうするかな」とぼんやり考えていると、次のメッセージが再生され始めた。
『英司? お母さんです。最近連絡くれませんが、元気にしていますか? 私も足が悪くなったので様子など見に行けませんが、たまには実家にも顔を出して下さい――』
――おふくろからだった。そう言えば異世界に飛ばされる前から、しばらく連絡をとってなかったな。以前はこちらが頼まなくても足繁く様子を見に来てくれたもんだが……メッセージにもあった通り、数年前に足を悪くして以来、めっきり会わなくなってるのが現状だ。
部屋の片付けが終わったら、一報入れてやるかな? 親父や兄貴と違って、いつも俺のことを心配してくれるありがたい母親なんだし。
しっかし、おふくろはいつも固定電話の方に電話してくるよな。携帯に入れてくれっていつも言ってるのに――。
「ん? 携帯?」
そこでふと思い出す。そう言えば、俺の携帯はどこにやったっけ? 異世界に行っている間、どうしてたっけ?
キョロキョロと部屋を見回すと、携帯は普通にちゃぶ台の上に置いてあった。ちょっと奮発して機種変した、比較的新しめのスマホだ。
電源ボタンを押してもウンともスンとも言わないので、充電が切れているらしい。異世界に飛ばされた日にも、きちんと持って出たと思っていたんだが……案外、うっかり忘れてそのまま置きっぱなしだったのかな?
とりあえず充電しておこう……。
***
「よし、こんなもんか?」
その後、数時間かけて部屋の片付けを終えると、外は既に真っ暗だった。腐った食材はゴミ袋にまとめたが、日付を確認したところ回収日まではまだ数日ある。しばらくは部屋の隅に放置するしかない。
ドアの郵便受けには、どうでもいいチラシ類と公共料金の領収証くらいしか入ってなかったので、特に問題なし。
銀行口座の残高が足りていたらしく、水道・電気・ガスも止まっていない。ちゃんと預金していてくれた過去の自分に感謝だな。
さて……こうなってくるとやることが無くなってしまった。無職になっちまったから、明日の朝やることも決まっていない。
さしあたっては職探しかね? まあ、今日はもう夜遅いので「明日から頑張る」だが……バイト情報サイトくらいチェックしておくか。
『Hey, Silly!』
スマホに向かって無駄にネイティブに近い発音で呼びかけると、検索アシスタントの「Silly」が立ち上がった。ネット検索からナビゲーション、翻訳までしてくれる便利なアプリだ。しかも文字を打ち込む必要すら無くて、音声入力だけで操作出来るんだから、便利な世の中になったもんだよな?
――ふむ、そう言えばこいつも「シリィ」だな。異世界に行っていた時は気にも留めなかったが、偶然の一致ってのはあるんだなぁ。
***
よっぴいてバイト情報を探したものの、めぼしいものは見つからず、俺はそのまま元の世界に戻ってから最初の朝を迎えていた。
一時期よりはマシだが、やはり年齢制限の厳しいバイトが多い。「50代も歓迎!」等と
あんまり頼りにはならないが、フリーの求人誌もチェックしてみるかな? 確か近くのスーパーに色々置いてあったはずだ。
よく考えたら昨日から何も食ってないし……久々に牛丼とかカレーとか食べたいし。
「さてさて、何を食べるかね……?」
久々に日本の飯が食えることにワクワクしながら部屋を出る。
異世界の飯もかなり美味かったが、やはり日本の飯の美味さには敵わない。
牛丼、カレー、ラーメン、とんかつ、親子丼……チェーン店の爆安飯でも、そこそこ以上の美味さが担保されてるってのは、実は凄いことなんだよな。世界中を放浪していた時なんか、本当に飯で苦労したからな――。
「っと、危ない危ない。考え事をしながら歩いてたら、また階段落ちをやらかしちまうかもな」
ちょうどアパートの階段に差し掛かったところで、思わずそんな独り言が漏れてしまった。歳を取ると独り言が増えるのは何でだろうな? 等と
またうっかり足を滑らして階段から落ちたら、また異世界に飛んでいっちまうかもしれないしな?
「よっと!」
幸いにして階段を踏み外すようなこともなく、最後の一段は意味もなく軽快に飛び降りてみる。人に見られていたらちょっと恥ずかしいな、等と思いつつ顔を上げると、見慣れた住宅街の風景が――
「あ、あれ……?」
広がっていなかった。
眼の前には石とレンガで造られた、ヨーロッパの古い町並みで見かけるような家々が建ち並び……俺が踏みしめているのはコンクリートでもアスファルトでもなく、石畳だった。
振り返ると既にそこにオンボロアパートの姿はなく、立派な石造りの建物とその中に延びる古びた石の階段があるのみだ。
――どこからどう見ても、この一ヶ月の間で見慣れたあの異世界の街の風景だ。一体全体どうなってるんだ!?
「――アハッ。オジサン、ちゃんとキてくれたんですね?」
訳が分からず呆然としている俺の耳に、そんな女の声が響いた。聞き覚えのある片言の、どこか甘ったるい雰囲気を持った女の声が……。
声のした方にゆっくりと振り向く。果たして、そこにいたのは――。
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