満月の下
進藤翼
満月の下
遠くのほうで空が白みを帯びてきた。ここ一週間雨が降っていたが、どうやら今日は晴れるらしい。
朝がおとずれようとしていた。
それでいい。それでいい。こういうときはやっぱ、晴れないと。少し冷たくなった風を受けながら、ベランダでタバコをふかす。紫煙が流されて消えていった。なんの余韻も残さずあっさりと消えていった。
一日が始まる。
街灯に照らされて、水たまりが闇に光っている。ショートケーキの上のイチゴのよう、ひときわその存在を主張しているけど、不気味さはない。
せめて少しでもあたためようと身体をさする。さすがに、そろそろ上着だけでは限界だ。しっかりとした防寒着を身に着けないと原付きに乗るのが厳しい。
原付きを駐輪所に止めて、左右のハンドルにひっかけておいた袋と足元に置いていた袋をよいしょと両腕にさげ、階段を鳴らしながらのぼっていく。響くその音はペンキが剥げてむき出しになった金属のように冷えていた。
夜になるとめっきりと気温が下がるようになった。タンスから長袖の服を引っ張りだしたり、押し入れから毛布を取り出したりした。もうそんな季節。雨が降るたびに夏が離れて、遠くにいってしまう。暑さがうっとうしいと思っていたくらいなのに、いざいなくなろうとすると寂しくなるなんて、本当、人間って身勝手だ。オレもその一人だからあまり言えないけど。
セミの声はいつの間に聞こえなくなったんだろうか。あれだけ隆盛を極めていたというのに、今じゃ見る影もない。代わりに今度は鈴虫が我が物顔で台頭し始めてあちこちで鳴いている。風流だなあと思わなくもないけど、実は鈴虫って見た目ちょっとグロイよね。
ここ一週間ずっと雨だったせいで、ろくに買い出しをしていなかった。それでもあり合わせの食材でなんとかまかなってきたけど、限界はある。
気付いたとき、冷蔵庫の中身はしょうもないものしか残っていなかった。調味料とか飲み物とか、そんな感じ。どうやったって料理はできない。
どうしたものかと悩んでいたところに、今日のこの天気だった。買い出しに行かないわけがない。それで、大学が終わったあと、食料品をこれでもかと買い込んできたという次第だ。けれど袋三つはちょっとやりすぎたかもしれない。
寒いと思っていたけれど、三階までのぼるとさすがに息があがって身体がほてった。腰につけたキーチェーンから部屋のカギを取り出してドアを開く。途端、あったかい空気が優しく出迎えてくれた。やっぱり家に帰ってくるとホッとする。
「夏、手伝ってよ」
靴を脱ぎながら夏太郎を呼ぶと、奥からへーいと声が聞こえてきた。ドタドタと足音がしたかと思うと、廊下とリビングをつなぐ扉が開いて、夏太郎が出てきた。相変わらずのボサボサ頭だ。
おかえりーと言ってこっちに近づいてくる途中で、袋に気付いたらしい。すぐさま呆れた様子になった。
「まーたお前そんな大量に買ってきて。ちゃんと長持ちするもの買ってきたんだろうな」
「どうせすぐなくなるからちょっと多いくらいがちょうどいいんだっての」
「冷蔵庫に詰め込むの大変なんだぞ」
「料理つくんのはオレなんだからイーブンだろ。ほら、これとこれ持ってほら」
「はいはい」
わざと重いやつを持たせたのに、楽々と運んでいくから面白くない。脱いだ靴をきちんと揃えて、残りの比較的軽い袋をさげてオレも後ろをついていく。
さて、食材もたっぷりあるし、今日はなにをつくろうか。なるべく派手なやつがいいかな。
両親が共働きだったオレは保育園に通っていて、帰るのはいつも最後だった。その日も、ほかの子たちが母親か父親といっしょに帰ってしまっていた。
オレは別に寂しくなかったけど、どうやら保育園の先生たちにはかわいそうに見えたらしい。どの先生も、やたらとオレに構ってくれた。
山下先生はオレによくアメをくれた。小さくて四角い、サイコロみたいなアメだ。そのときもオレはそのアメを口の中でころがしながら、画用紙にクレヨンでお絵かきをしていた。
ここに階段があってね、のぼるとね、ウチョーに行けるの。ウチョーにはなんでもあるんだよ。これすごいんだよ。これね、自分のね、ほしいものが木に生えるの。
そんなめちゃくちゃな絵とその設定を先生に話したのを覚えている。山下先生はそれをニコニコしながら聞いていてくれた。
ウチョーとは宇宙のことで、小さい頃のオレはずっと勘違いをしていた。気付いたのは小学生になってからだった。恥ずかしい。
絵の説明をしていたとき、園に電話がかかっていた。この時間になると、先生も二人しかいないことをオレは知っていた。いつまで経っても鳴り続く電話で、片方の先生がなにかの用事で席を外しているらしいことに気付くと、山下先生は慌ててちょっと待っててねとオレに言い残して職員室の方に走っていった。
オレはそれに構わず、一人で黙々と絵を描き続けていた。雲の中に住む魚とかオレンジジュースの湖とかを描いていた。橙色のクレヨンで、ぐるぐると描いていく。
すると突然あたりが暗くなった。上で何かが光を遮っている。
なんだろうと顔をあげると、知らない男がこっちを見ていた。
「よう、秋彦って、お前?」
少し腰を曲げて、人差し指をオレに向けてそう尋ねてきた。
「うん。そうだよ。お兄ちゃん、だれ?」
「俺は夏太郎。お前の……お守みたいなもんだ」
「おもり? ってなに?」
「ん、まああとあとわかるさ。とにかくこれから少し、よろしくな」
そう言って、夏太郎はニッと笑った。名前の通り夏のような笑顔だった。
それが、夏太郎との出会いだった。
てっとり早く多くの食材を消費することができて、なおかつそれほど手間のかからない料理。
低いテーブルの上にどっかりと置かれた大きな、鍋。ぐつぐつといい感じに煮えている。シーズンとしては少し早いけど、特に冷えた今夜にはお似合いだ。見た目も派手だし、なんとなく豪華に感じる。
「なんでもかんでもぶち込めばいいってもんでもないと思うんだけどなあ」
夏太郎が肉を自分のうつわに取りながらそんなことを言う。
「だって冷蔵庫に入りきらなかったんだからしょうがないだろ。いいんだよ鍋はなに入れてもたいていうまくできるんだから。というか夏、肉取りすぎ」
「秋彦よく見ろ。これは肉の形肉の色をしてるがな、その正体は実は白菜なんだよ。つまり俺は白菜をいっぱい取ってるんだ」
「ふざけてこと言ってないでちょっと火力弱めて」
「おう」
窓の向こう側には住宅街が広がっている。等間隔で並んだ街灯がアスファルトを白く照らしているだろう。その家の明かり一つ一つに、それぞれの生活があるに違いない。
午後七時。ちょうど夕食時だ。オレたちと同じように食事をしている家庭も多いだろう。母親のつくった料理に喜ぶ子供がいるだろう。単身赴任中でスーパーの弁当を買うサラリーマンがいるだろう。学校帰りの学生は、コンビニで中華まんでも買い食いするかもしれない。
食事は誰にとっても平等だ。
そしてできれば、そのおいしさを共感できる相手がいるといい。一人だと、ちょっと、さびしいかもしれない。
「鍋っていいよね」
そんなことを考えていたら、知らずつぶやいていた。一人だったら、鍋なんてやらないだろう。だから、今日鍋にしたのは正解だった。
そこまで考えて、オレはしまったと気付く。むりやりその考えを忘れるようにして、ペットボトルのお茶をコップに注いだ。トポトポと音をたてて、お茶はコップを満たしていく。
しかし、夏太郎は深く考えなかったらしい。オレの発言を言葉通りに受けとったようだった。
「時期にはちょっと早いかもしれないが、久々だとやっぱりいいな。うまいし、あったまる。しかも一度で二度おいしいからな」
オレは安心して言葉を継ぐ。
「ああ、うん。具材少なくなったらご飯投入するよ」
「やっぱ鍋はそこだよなー。たまらんねえ」
笑いながら、夏太郎は空っぽになったうつわに再びひょいひょいと肉を加えた。
「あ、だからお前野菜も食べろっての」
「わかってるよ。ほら白菜。正真正銘白菜な。これを、はいうつわに入れましたっと」
「もっと取れもっと」
ほらほらと、オレは箸で夏太郎のうつわに野菜をむりやり重ねていった。
別にこいつは野菜が嫌いだから肉ばかりを食べているわけではない。むしろすきなほうだ。今肉ばかり食べているのは、単に肉を食べたいから重点的に食べているだけだ。だからうつわから溢れんばかりの野菜を見ても、うははははと笑いながら食べてしまう。
面白くない。わざと嫌いな食べ物を使った料理を出そうと思っても、こいつには苦手なものがない。なんでもよく食べる。つくる側としてはそれはもちろん嬉しいんだけど、でも面白くない。
前に一度きらいな食べ物がないのか聞いたことがあったけど、夏太郎は漫画を読みながらあるわけねえだろーと即答した。やつにとってきらいなものがないのは当たり前のことらしかった。そりゃまあ、オレより何倍も生きているわけだし、好ききらいがないのも納得できない話じゃない。
オレも中学の頃の経験のおかげで、好ききらいがなくなった。大変だったけど、ああいうことをすれば誰でも好ききらいがなくなると思う。
ところが唯一苦手なものが、コーヒーだ。あの酸味とあの苦みだけは、どうしても許せない。とても人間の飲むものではないと思う。でも、そのコーヒーをいつから苦手になったのか、それは覚えていなかった。まあどうせ小さい頃に飲んでいやな思いでもしたのだろう。
小学校に入学するころには、どうやらこの夏太郎というやつはとても不思議な存在らしいぞ、ということに気付いた。
山下先生に説明しても親に説明しても友達に説明しても理解してもらえなかった。夢でも見ていたんだろうとか、見間違いだろうとか、友達からは嘘つきだとか、そんなふうに思われるだけでその話題は終わってしまった。
でもそうじゃない。だって夏太郎は今だってここにいるんだから。だけどそのことを言っても信用してもらえないから、もう誰にも言わないことにしていた。
「ねえ、夏太郎ってなんなの? なんでここにいるの? なんでオレにしか見えないの? ユーレイなの?」
ある日の小学校からの帰り道、ランドセルの重さにじゃっかんフラフラしながらそう尋ねた。小さい子特有の「なんで」攻撃だ。なんでなの。なんでなの。
夏太郎は缶コーヒー口にしながら答えた。
「なんなのかって言われてもなあ。俺は俺ってことくらいしか答えられない。ここにいる理由はお前の成長を見届けるためだ。ユーレイじゃないし、実はお前にしか見えないわけじゃないぞ。ほかの人にも認知させることも物に触れることもできる。だからほら、今こうしてコーヒーを飲めるわけだ。気分によって変えられるんだよ。触ろうと思えば触れるし、見せたいと思えば見せられる、と。まあそんな感じだな」
夏太郎の説明によると、自分は人間ではないのだそうだ。こことは別に神様のいる世界というのがあって、そこの住人だという。その世界では大人になるための儀式がある。それは自分の百歳の誕生日のときに、ちょうどハタチを迎える人間の子の、その成長を見守るというものだ。つまりその世界では、百歳から大人として扱われるらしい。儀式を行わないと、大人として認められない。そのため儀式をおこなう必要のあるその世界の住人は人間の住む世界にやってきて、そのときまで一人の人間と生活をともにしないといけないのだそうだ。それで何人かいた自分と同じ誕生日の人間、すなわちオレにたまたま白羽の矢が立ったのだという。
と言われたところで、小学生のオレには到底理解できる話ではなかった。
でもただなんとなく、夏太郎のことは、周りの人には見えないお兄ちゃんのようなものなんだと思うことにした。
「じゃー、夏太郎はオレと同じ誕生日ってこと? 九月の三十日?」
「そうだぞ。お前よりだいぶ先に生まれたけどな」
「ふうん。あ、ねえねえ、ハタチってさ、二十歳のことだよね。オレ知ってるよ。こないだおとーさんに教えてもらったの。ハタチになったらビール飲んでもいいんだってさ」
「そうそうよく知ってるな。じゃあ秋彦、お前がハタチになるのには、あと何年かかるかわかるか?」
ふふんと得意げな顔をしながら夏太郎は聞いてきた。
「え? んー……今オレは六歳だから……えっと」
問われたオレは必死に考えるけど、でもまだそのときは二桁の計算のしかたを習っていなかった。それでもなんとか指を折って、なな、はち、きゅう、じゅうと数えていった。今思うと指を折ったところで答えが出るわけではないのだけど、そこは小学生だ。
順調に進めていたけど、じゅうろくまで数えたところで両手の指を使い果たしてしまった。
オレはこれ以上どうしたらいいのか分からなくて固まった。両手をグーにした状態で、かちーんと動けずにいた。
すると横から、
「指を折ったなら、今度はひらいてみたらどうだ?」と夏太郎が言ってきた。
その助言のおかげで、オレは頭に電球が浮かんだ。
そっか! ひらけばいいのか! そうだ、じゃあこっちから……じゅうしち、じゅうはち、じゅうきゅう、にじゅう! 一本一本指をひらいていくと、ちゃんと数えることができた。
「数えられた!」
ほら! と片手はグー、もう片手は親指以外の四本を伸ばした状態にしたものを夏太郎に見せた。さっきの夏太郎のように得意な顔をして見せてやった。
夏太郎は、そうだなー数えられたなー、問題には答えられてねえけどなーと笑った。オレはにじゅうまで数えられたことに満足してしまって、その問題がどんなものだったか思い出せなかった。
「まあでも、ちゃんと数えることができたから偉いといえば偉いのか。よし、じゃあお前にはこれをプレゼントしよう」
ズボンのポケットから取り出したのは、缶コーヒーだった。ちょうど夏太郎が今飲んでいるものと同じものだった。
「さっき自販機で買ったときに間違えて二本買っちまったんだ。ほら、飲んでみ」
プルタブをカコンと引いて、オレに渡してきた。夏太郎がなんだかニヤニヤしているように見える。
手渡された缶コーヒーは魅力的だった。オレにとってのコーヒーとは大人の飲むものだったからだ。
オレは初めて飲むコーヒーにドキドキしていた。おとーさんがよく飲んでいるけど、オレにはまだ早いって飲ませてくれたことがなかった。そう、これは、大人の飲みもの! だからオレは少し緊張しながら、ゆっくりと缶に口をつけた。
その瞬間に吐き出した。なんだこれ苦い! ぺっぺっぺと、口内に残ったすさまじい苦みをなくそうと必死になった。
夏太郎が腹を抱えて笑っていた。オレは涙目になりながら、コーヒーはきらいだと思った。
「あー食った食ったー。もう入らないくらい食ったー。満足だー」
ぶはあと息をついて、夏太郎は仰向けに倒れた。締めの雑炊を三杯も食べればそうもなるだろう。
オレはというと、さっさと食器を洗い始める。こういうのは後回してしまうと面倒くさくなってしまうから、時間が経つ前に片付け方がいい。いつの間にかすっかり身についてしまった。
泡を水で流しながら壁にかけた時計を見ると、八時をちょっと過ぎたあたりだった。八時。そうか。ご飯を食べているときは意識してなかったけど、もうそんな時間になっていたのか。
「夏、八時過ぎてるけど、テレビつけなくていいの。なんとかってクイズのやつ始まってるよ」
バランスをくずしたカカシのように仰向けになっている夏太郎は、んーとうなった。
「まあー、いいだろ。見なくて。最近面白くなくなってきてたしなあ。それより秋彦、早く洗いもの終わらせてアイス食おうぜアイス」
「散々食べといてまだアイス食べるっていうのか」
「風呂入ったあとには牛乳飲むだろ。それといっしょだよ」
「それとこれとは違うと思う」
ざばーと流していた水を止めて、今度は食器を拭く。鍋だと使う食器も少なくても済むから楽でいい。ちゃっちゃと水気をとって、食器を棚に戻して、はい完了。
「ソーダ系とチョコ系、どっちがいい?」
今日買物していたときにアイスを切らしていたことを思い出して二種類買ってきていた。冷凍庫を開けてそう尋ねると、夏太郎はまたうなる。
「あーそういや二つあったんだっけ。迷うなあ。秋彦わかるか? 夏だと暑いからソーダ系をがつがついきたいけど、秋になるとチョコ系みたいなしっとりしたやつをいきたくなんの」
「なんとなくね。じゃあ今日は寒くなってきたからチョコ系にするってこと?」
「ところがそう簡単にいかない。なぜなら鍋を食べたあとで、今の俺の身体はなかなかに熱くなっている。見ろ汗だってかいている。気分的には夏なわけだ。すると迷っちゃうわけだ。困った」
「めんどくさいやつだな。決めたら自分で取れよな。オレはソーダ系のにするから」
「あ、じゃあ俺もソーダにする。はよはよ」
「お前な……」
なんだかすっかりこいつの家政婦になってしまっているようだ。けれど幼稚園の頃から面倒を見ていてもらったぶん、やはり文句は言えない。今となっては、こいつにどれだけ助けてもらっていたか理解できるようになっていた。
けど、やっぱり面白くないからアイスを渡すとき首筋に当ててやった。夏太郎は、うおっとびっくりして起き上がろうとして机にすねをぶつけて痛がっている。ざまみろ。
共働きだった両親は、一週間のうちなんどか帰ってくるのが深夜になることがあった。そういうときは食卓の上に千円札を一枚置いていく。これで出前を取るなりコンビニ弁当を買うなりしなさい、ということだ。
オレが小学校に通っている頃にそういったことがなかったのは、幼いオレを一人にすることに抵抗があったんだろう。
中学生のときは、両親よりも夏太郎と食事した回数のほうが多かったような気がする。
学校から帰ってきたとき、駐車場に車がなかったらその日は千円札の日だ。
空っぽの駐車場は見ていてさびしい。そこだけ隙間があるから寒々しく見える。
今日も出前かあと思いながら、部活をこなして少々くたびれたオレは家に入るなりリビングのソファに横になった。途端、夏太郎が話しかけてくる。
「お疲れ様と言いたいとこだが、その前に秋彦、クツ直せクツ」
この頃の夏太郎は、礼儀というかルールというかマナーというか、そういったことにうるさかった。母親のようにしつこく言ってくる。
「うるさいなあ。あとでやるからいいだろ今疲れてるんだよ」
疲労感から、つい苛立った口調になってしまった。それでも夏太郎は動じない。
「だったら横になる前にやればいいだろー。数秒を惜しむと逆に面倒なんだから、後回しにしないで今やれ今ほらほらほら」
オレの腕をつかむと、むりやり立たせて背中を押し玄関まで歩かせた。オレはしぶしぶ手に取って、くるりと半回転、廊下側に向いていたクツを玄関側に向けた。
「これでいいだろ。疲れてんだからたまには勘弁してくれよ。お前がやってくれたっていいじゃんか」
「俺がやったって意味ないんだよ。これはお前が履くものなんだからさ。あ、そうだ手も洗えよー」
本当にうるさいやつだ。
言い返そうと思ったけど、夏太郎と口で争っても勝てないことはずいぶん前にわかったことだったから、我慢して言われたとおり手を洗った。
小学生のときから何度か口げんかをしたことがあった。いや、けんかというよりは、オレが一方的に怒っているだけだったから実はけんかですらなかったのかもしれない。オレがどれだけわめこうとも夏太郎は語気を荒げる様子もなく、いつもの調子でのらりくらりとオレの言葉をかわしていた。そしてなんだかよくわからないうちに諭されているのだから、オレとしては悔しいけど、かなわないのに意地を張ってもしかたがない。そういうわけで今みたいに、最近ではオレが諦めて引っ込むような形になっている。いつかは見返してやりたいところだ。
リビングに戻ると、案の定机の上に千円札が一枚。夏太郎はそれをしげしげと眺めていた。
「手、洗ってきた。これでいいだろ」
夏太郎は千円札から目を離さず、よくできましたーと答えた。面白くない。完全に向こうのほうが上手だ。そりゃこいつのほうが長く生きているのだからしょうがないけど。
気を取り直して、オレは食卓の上に置かれているいくつかの小冊子を手に取る。最初は一つしかなかった出前の案内が書かれた冊子も、今ではけっこうな数になった。どの店でもほとんど常連のようになってしまっている。たまにサービスしてくれたりもするから嬉しい。
「今日はなににしようかなあ。 昨日はラーメンだったから、米がいいかな。どんぶりものとか。あーうなぎ……いや天ぷら……どっちがいいかなあ。夏はどうするの?」
「ん? あーなんでもいいやーっていうか、なあ秋彦」
そこで一度言葉を切ったかと思うと、夏太郎は千円札を両手でつまむようにして勢いよくオレの目の前に広げた。悪いことをたくらんでいる顔をしている。
「これさ、使わないで貯金していったらすぐにけっこうな額になるんじゃないか?」
「え?」
言っていることがわからず、思わず聞き返してしまう。
夏太郎はよく聞けよと言わんばかりの表情だ。
「だからさ、お金置いていくのがだいたい週三回から四回だろ。週三回だとしても一ヶ月貯めれば一万以上になるわけだよ。どうだこれすごいぞ。貯まったらほしいもの買えばいいし」
言われてハッとした。なるほど。貯金するわけか。確かに、一万あればだいぶ贅沢できそうではある。なかなか魅力的な内容だった。
オレは夏太郎と同じようにニヤリと笑う。
「それ、いいかもね。ほしいものけっこうあるし」
「だろ?」
その日からオレたちの貯金作戦が始まった。出前を取らないで生活するというものだ。夕食を食べなければお金は増える一方というおいしい作戦、でもそこは育ちざかりの中学生の腹だった。夕飯を抜くなんてとてもじゃないけどできない。自分たちで料理をつくるという考えに至るのに、そう時間はかからなかった。
問題は、オレも夏太郎は料理が全くできないということだった。夏太郎なんかオレより何倍も年上のクセして包丁も数えるほどしか持ったことがないという。しょうがないので、最初はご飯だけ炊いて、卵かけ、納豆、ふりかけなど簡単なもので済ませていた。はじめのうちはそれでも充分満足していたのだけど、さすがに数週間で飽きがきた。
バリエーションを増やさなければいけないというのは、なかなか困難なことだった。
「勝手に冷蔵庫の中身消費してもバレないかな」
「お前の親は仕事の都合上、週の半分は外食で済ませてるから、それほど冷蔵庫の中身を把握していないと思うぞ。なにかがなくなっていても気付かない気付かない。大丈夫だ」
ネットでレシピを調べて、二人で苦労しながら色んなものをつくった。カレーや肉じゃがはもちろん、慣れてくる頃にはコロッケや天ぷらなどそれなりに難しいものもつくれるようになっていた。始めた当初こそ夏太郎も手伝っていたけれど、最終的には皿を用意するというポジションに落ち着いていた。使えないやつだ。まったく。
自分たち(一応、夏太郎もふくむ)でつくった料理はおいしかった。安く済むし、栄養とかはよくわからないけど、少なくともコンビニ弁当とか出前よりはいいだろう。なにより楽しかった。失敗してしまった料理を我慢して食べることさえも楽しかった。
発見したこともあった。あの酸味が苦手だったのだけど、自分でつくった料理だと不思議なことに、意外とトマトはおいしいのだった。
料理をつくるということは、後片付けもする必要が生じる。食器やらなんやらがシンクに放置されていたらすぐさま料理をつくっていることがバレてしまう。バレてもお咎めはないんだろうけど、自炊できると気付かれたら千円札を渡されなくなるおそれがあった。スリルがなくなってしまうのは面白くない。
だから、証拠隠滅。食事を終えたらすぐさま洗い物をするクセがついた(たまに面倒くさくて後回しにしようとすると夏太郎がうるさかった)。
そんな生活を続けていたら、いつの間にか勉強机の引き出しに隠していた千円札の数が膨大なものになっていた。数えてみるとなんと五万円ほどもあった。
「五万も持ってる中学生なんてなかなかいないぞー。このお金持ちめ! うらやましいぞこのこのこの!」
「貯まるもんだなあ。なにに使おう。夏太郎ほしいものないの? これだけあればわりとなんでも買えるよ」
「そうだなあ……」
ほしいものがあったような気がしたのだけど、いざ目の前に大きい金額があると、とっさに浮かばない。
結局、オレは部活で使うシューズを買って、夏太郎は漫画を大人買いした。もうちょっと有意義な使い方したらいいのにと言ったら、これほどいい使い方はないと力説されたからもう黙っておくことにした。
そのあとも貯金作戦は中学、高校を卒業するまで続いた。ちょこちょこ使ったけどほとんどはそのまま貯金していたらとんでもない額まで貯まっていた。
アイスを食べたあと、夏太郎が散歩しようと言い出した。この寒い中、しかもアイスを食べたっていうのによく散歩する気になるなとも思ったけど、夕飯を食べたし軽く動くのもいいかもしれないと思い直して付き合うことにした。
もちろんパーカーを忘れず羽織っていく。もうずいぶん気温が下がってしまっているだろう。夏太郎にもカーディガンを投げ渡した。
少し寒いけど、気持ちの良い風が吹いていた。秋のにおい。道路のはしっこには枯れた葉があった。踏んでみるとパリッと音がする。紅葉には、まだちょっと早い。
車通りの少ない道を並んで歩いていく。街灯が影を濃くする。影を見ていたら、小さかったころはあんなに背が高く思えた夏太郎に、ほとんど変わらないほど追いついていたことに気付いた。まだオレのほうが低いけど。
あちこちから鈴虫の声が聞こえてくる。そういえば「むしの声」って童謡があった。あれに出てくるのってなんだったかな。クツワムシとスイッチョンと、コオロギくらい?
「今日、晴れてよかったなー。朝は気持ちよかったし、夜もほら、月がきれいだ」
夏太郎が空を指さしながら言った。笑っていた。相変わらず夏のような笑顔だった。
水たまりにも月が映っている。見事なほどにまるかった。
「テレビで見たけど、今日は中秋の名月なんだってさ」
「なんだそれ」
「月見をする日らしいよ。満月だし、なおさら雰囲気があっていいよねえ」
「へえ」
清少納言は秋は夕暮れがいいと書いていた。オレもその通りだと思うけど、どうだろう、秋の夜だってなかなかに負けてない。あの白い明かりは、人の心をかき乱す。凪いでいる心に波風を立てる。ざわざわ、ざわざわと。狼男が変身してしまうのも納得してしまうほどの狂気を秘めている。
ぽっかりと浮かんだ月は、人々を魅了して離さない。なにかにとりつかれたように釘付けになってしまう。そこに重なる虫の声と、葉を落そうとしている木々、どこからか漂うキンモクセイのにおいが、さらにその存在を引き立てる。
薄い雲が風に流されていた。
「お前がハタチになったときになー、俺は消えるんだよ」
そう言われたのは高校二年の秋だった。誕生日の前の日だったからよく覚えている。九月の二十九日だ。
空を真っ赤に染めあげた太陽が沈もうとしていた。電線にとまっているカラスが鳴いている。部活終わりの中学生の賑やかな声が聞こえる。
夏太郎はベランダに出てタバコをくわえていた。太陽が眩しいのか目をすがめて、でも口元は笑っていた。なんとも微妙な顔だ。泣いているような笑っているような、そんな感じ。
夏太郎の言葉を理解したとき、空間の割れるピキリという音が聞こえた気がした。
「そっか」
独り言のように出た言葉は、冬の日にできる薄い氷みたいだった。
隣に立っているオレはどんな表情をしているだろう。自分のことなのによくわからない。いや、自分のことだからよくわからないのかもしれない。自分のことは自分が一番よく知っているなんてうそだ。
「怒らないのか? 今まで黙っていたのに」
「怒ったってどうにもならないだろ」
「そうだな」
白いベランダも今はオレンジ色だ。太陽に燃やされている。このまま焼けてしまう。
オレたちもいっしょに燃やしてくれたらいい。そのまままっ黒くなるまで燃えて、炭になってしまえ。そうなってしまえと、思った。
「本当はね、たぶん、心のどっかでわかっていたんだよ。いつまでもいっしょなわけがないって。だって、今お前がここにいるのは儀式をしているからだ。儀式をしているから、いっしょにいられる。でも終わったら、その儀式が終わったらきっと、オレたちのつながりもなくなるんだろうなあって、思ってた」
覚悟はしていたつもりだった。そのときがいつか来ることは知っていた。でもハタチまでというのが長いのか短いのか、オレには判断できなかった。
「そう、儀式が終わったら、俺は帰らなくちゃいけない。あっちの世界に。元々あっちの世界の住人なんだから当然っちゃあ当然だ。それに、俺がここに留まりたいと思ってもダメなんだ。強制的に帰させられる」
「そっか」
燃えているはずなのに、足の裏に伝わる温度は冷たかった。裸足だからだ。そのせいに違いない。
流れてくる煙は、きらいなにおいではなかった。ほんの少し甘いにおいだ。夏太郎は前からずっとこの銘柄だった。名前は知らない。
「消えるって、どんなふうに消えんの?」
タバコを吸っている顔は、少しだけさびそうに見える。なにを考えているのかオレにはわからない。ただ、こっちを見ようとはしなかった。
「さてな。どうなるのか俺もわからないんだ。でも、こんな感じじゃないか」
夏太郎はタバコを指さした。正確には、その煙を。ゆらゆらとゆれて、ふっと見えなくなる。消えた。
「案外すぐ消えるんだなあ。こう、ドラマみたいに足元から少しずつ消えていって別れの言葉を言うみたいな、そんなイメージしてたよ」
「あーあれなー。ありがちだけど、俺の性格じゃないなあ。パッと消えたいねパッと。聞いた話だと、消えたらすぐさま元の世界に戻るらしくてさ、やっぱりあっさりしてるのな。あっさり塩味かってな」
「ラーメンなら味噌のほうがすきだ」
「俺もだ。気が合うな」
タバコの先端が燃えている。そこにも太陽があるようだ。会話が途切れると、オレたちは黙った。オレは遠くに飛んでいくカラスを眺めていて、夏太郎はタバコを吸っていた。
カラスは太陽に向かって飛んでいくように見えた。
制服のシャツにタバコのにおいがうつるの、いやだなあ。母さんごまかすの大変なんだよな。先にシャツだけ洗濯しちゃおうかな。
残り三年。永遠ではないと思っていたけど、いざ聞かされると心が重くなる。
色々聞きたいことはあった。けれど、どうにも聞くことをためらってしまう。ようやく言葉が出てきたのは、数分経過してからだった。
「……なんでこのタイミングで言い出したの?」
夏太郎は手すりに置いていた灰皿でタバコを押しつぶした。すると途端に、片方の太陽がなくなった。もう一つの太陽は、この短い間にさらに深く沈んでいく。燃えていたはずのベランダが、今度は鎮火されたかのように黒い色に飲み込まれ始めようとしていた。そのまま燃えてもろくなった柱が崩れて落ちてしまえたらいいのに。そしたら、オレと夏太郎は地面にたたきつけられるだろう。でも、いつまで待っても足元はしっかりしていた。
「別に。ただ、言っておいたほうがいいかと思ってな」
夏太郎はどんな気持ちなのだろう。顔見れば、それなりの付き合いだ、きっとわかる。でもなんだか、見てはいけないような気がした。そして夏太郎もこちらを見ようとはしなかった。
だって今、こいつはじゃあなと言ったようなものだった。いずれくるその日に突然消えてもオレが慌てないように、前もってそう言ったんだ。
それがわかっていたから、オレは何も言わなかった。
闇がすね辺りまで浸食しようとしている。もたもたしていたら、すぐに全身が闇に包まれてしまうだろう。なにも見えなくなってしまう。それはとても恐ろしいことに思えた。
だからオレはわざと明るい声で言った。
「夏、ご飯にしよう」
高校を卒業すると、進学のために家を出た。勉強したいことがあったからその大学を受けたけど、それ以外にも一人暮らしをするという目的があった。実質は二人暮らしだけど。家にいると夏太郎がいないように振る舞わないといけなかったから、ずいぶん苦労していた。それから解放されるのは、気が楽だった。
それからは、夏太郎と生活をともにしてきた。
仕送りもあったけれど貯金作戦で貯めたお金があったからそれほど困ることはなかった。それで今まで、すきなように暮らすことができた。
コンビニに寄り道した。月見の話をしたら、夏太郎が団子を食いたいと言い出したからだった。あれだけ食べてまだ食べるなんて信じられない。
「なに言ってんだ。食欲の秋だよ食欲の秋。食わないと季節に失礼だろ」
よくわからない理屈だけど、まあ、いいか。
店内に入るとあたたかかった。暖房をつけているのだろう。
いつの間にかレジの隣の中華まんのラインナップが充実していた。おでんのスペースが以前より広くなっている。
店内をうろついていると、並んでいるファッション誌の表紙の服装も秋らしいものになっていることに気付いた。少し前までは、夏はド派手にいこうみたいなアオリ文が書いてあったのに、今ではすっかり落ち着いてしまっている。秋はゆるくいくらしい。
夏太郎はお目当てのもの見つけたようだ。二本入りのみたらし団子だった。あったあったと楽しそうにはしゃいでいる。
それを持って会計するかと思いきや、ふと足を止めると飲み物が陳列されているコーナーへ向かっていった。思わずついていくと、
「秋彦、酒買おう」夏太郎がそんなことを言い出した。
「え」
オレは驚いた。夏太郎がそんなこと言うなんて信じられなかったからだ。夏太郎はタバコとかお酒とかそういうものを絶対許可しなかった。オレが中学生のとき、お父さんのをこっそり飲もうとしたのを見つかって注意されたことがあった。
そのときオレは、でも夏だってタバコもお酒もやってるじゃんと反論した。自分のことを棚にあげて卑怯だとも言った。注意する権利なんてないだろと。
そしたら夏太郎は、へんと笑ったのだった。それで勝ったつもりかとでもいうような笑いだった。
夏太郎は小さい子供にサンタクロースはいないと教えてしまう悪役のように、オレに衝撃の事実を発表したのだった。夏太郎の住む世界では、大人として扱われるのは百歳からだけど、十五歳になったらお酒もタバコもいいのだという。
オレはその話を聞いてがっくりして以来、お酒に手を出していない。
そんな夏太郎が、お酒を買おうと言い出した。
オレは夏太郎がなにを考えているのかわかった気がして、だからわざと気付かないフリをした。
「いいの? オレまだ未成年だけど?」
「いいんだ。飲もう」
そう言ってニッと笑った夏太郎の顔は、いつもどおりのように見える。でも、本当はどうなんだろう。それが本当の顔なのか判別ができなかった。
オレは少し戸惑いながらも、チューハイを一つ手に取った。ビールは苦いと聞いていたし、詳しくないけどチューハイならなんとなく飲めそうな気がしたからだ。
夏太郎は、ビールを二本。それと団子を持って、会計を済ませる。ありがとーございましたーと、やる気のないバイト店員の声を背中で聞きながら、再び夜に足を踏み入れた。
コンビニから歩いて三十分程度のところに、公園がある。だだっぴろくて、遊具はない。いくつかベンチがあるだけの簡素な公園だ。でも遊具がないおかげで解放感があって、昼間は近所の住人で賑わっている。犬の散歩させる老人や、駆け回る子供とその母親なんかがいて、憩いの場となっていた。
コンビニを出たオレたちは、なんとなく公園を目指していた。少し遠いけど、気になるほどでもない。住宅街を歩いていく。さっきよりも小さい街灯が、足元に光をおとす。
「お酒、なんで飲んでもいいの? 気まぐれ? 月の魔力ってやつにでも当てられた?」
本当は聞かなくてもわかっていた。けれど尋ねずにはいられなかった。できるだけなんでもないように言ったつもりだったけど、どうだっただろう。
「まあ、少しのフライングくらいいいだろ。誤差だ誤差」
うはははーと夏太郎は笑う。ホントによく笑うやつだ。一人で口笛なんか吹いている。「むしの声」だった。
ひとつ息をついた。その息はまだ白くならない。でも、いずれそのときは訪れる。どんなに抵抗しようとも、確実に季節はめぐってしまう。それは揺るがない事実だった。
今日は九月二十九日。あと数時間で、オレはハタチに、夏太郎は百歳になる。だから今日は、夏太郎と過ごす最後の夜だった。最後の夜。
画用紙に落書きをしていたときから、もうそんなに時間が経っていた。信じられない思いだった。
携帯はポケットにしまったままだ。その画面を見ることをためらっていた。液晶には、時刻が表示されている。それを見ることなんてできなかった。
鈴虫の声に、口笛の「むしの声」が重なる。それ以外に音はない。しっとりとした静けさだった。
夏はどれだけ離れてしまったんだろう。あの言葉に言い表すことのできない夏らしさは、いったいどこにいってしまったんだろう。身体にまとわりつくような熱をもった風が、こんなにも冷たくなったのはいつのことだったんだろう。そのことを思い出せない自分が、なによりも怖かった。
オレたちは黙って歩いた。
やがて、見えなくていいのに、公園が見えてきた。
公園には思ったとおり誰もいなかった。こんなに暗くては、わざわざ来ようとは思わないだろう。公園にはポツンポツンと小さな街灯が二つあるだけだった。
オレたちは一番の特等席、真ん中にあるベンチに腰かけた。見晴らしがいい。でも、この大きな公園に二人だけでは広すぎるようにも思えた。遠くの方で街のネオンが光っていたのが見えた。
二人で座っているその間に団子とお酒を置いて、簡単お月見セットの完成だ。本来のお月見とは直接月を見るのではなく池などの水面に映ったものを見るのだそうだけど、あいにくこの公園に池はなかった。
月明かりでぼんやりとした影ができていた。輪郭が曖昧で不安定な影だった。
「乾杯しようぜ」
久しぶりに口をひらいた夏太郎はオレに缶を手渡すと、自分のぶんを手に取りプルタブを引いた。プシュっという音がした。オレも同じ音をたてた。
夏太郎が缶を顔の高さまであげた。オレはうつむき気味で、それに倣う。
「乾杯」
缶を軽くぶつけて、人生初のお酒を飲んだ。でも味はわからなかった。コンビニで夏太郎がお酒を買ったあたりから、オレの中での底の見えない不安がどんどん成長しているのを感じていた。お酒どころじゃなかった。
オレは怖い。それを気付かれないように「普通」を取り繕おうとするけど、できなかった。
「人生初の酒の味はどうだー?」
夏太郎はニヤニヤしながら聞いてきた。オレはその表情になんとも言えない気持ちになる。お前は平気なのか。お前は、平気なのか。
オレはなにも言えなかった。なにを言えばいいのかわからなかった。
その様子を見たからなのか、夏太郎は急に真面目な顔つきになってオレの目の前に団子を突き付けてきた。食え、ということらしい。オレは黙ってそれを受け取った。夏太郎も自分のぶんを取り出して、無言で団子を食べ始めた。
オレも一つ食べてみることにした。別に食べたいわけじゃなかったけど、手に取った以上食べないわけにはいかない。
甘いタレが口内に広がる。もちもちとした触感が噛んでいて面白かった。こんなときなのに、団子はおいしかった。どんなときだって、食べ物の味は変わらないのだと知った。二人で、黙って団子を消化する。
食べ終わると、いよいよ沈黙がおりた。オレはチューハイを、夏太郎はビールを飲んだ。靴の先が地面に当たって、ざりりと音をたてた。
赤い光を点滅させながら、月の横を飛行機が通過しているのが見えた。雲が少ないからよく見える。小さい頃はあれをユーフォーだと思っていた。
公園の向こう側を一台の原付きが横切っていく。周囲が暗いせいか、やけにライトが明るく見えた。
鈴虫の声が聞こえない。鳴いていたとしても、今のオレには聞こえないだろう。
静寂が突き刺さる。身体をえぐるようにして、どんどん深く食い込んでいく。
透き通る月の光がオレの体内を暴きだした。そういうことにしてしまえと思った。月の魔力のせいにしてしまえばいい。でも言ってしまったら、終わってしまうような気がして、息が苦しい。我慢しなければと思っても酸素が足りなくなって、オレは窒息しそうになる。限界だった。自分の気持ちに整理がつかないまま、引き裂かれたような痛みを抱えて、オレは言葉を放った。
「夏、オレはお前を忘れてしまうような気がしているんだ」
言ってしまったと後悔した。言わなければ、言わなければいつも通りで終わったはずなのに。
何年もいっしょにいたのに、オレはやがて思い出せなくなるような気がしていた。失われていく記憶をおそれていた。
さっき寄ったコンビニだってそうだ。あそこはコンビニが入る前は弁当屋だった。その前にもお店があったはずだ。でもオレはそれを思い出せなくなっている。
変わっていく景色を、覚えておくことなんてできない。それは知っている。でも、夏太郎だ。夏太郎のことは忘れたくない。
「小学生の頃転校していったやつの名前がわからなくなるみたいに、いつかお前の名前も思い出せなくなる。だってお前は消えるんだろ。オレしかお前の存在を知らないのに。そしたらもう、お前の名前を教えてくれるやつはどこにもいないんだよ。」
チューハイの缶がひどく冷たく感じる。
言うんじゃなかった。こんな、ばかみたいな心配。最後の最後で、オレは失敗をした。これじゃあもういつも通りにはできない。いつも通りのままにしようと決めたはずだったのに。大学に行って買い物してご飯食べて寝て、また明日になるように、変わらないでいようとしたはずだったのに。どうやって終わらせればいいのかわからなくなってしまった。
夏太郎は黙っていた。その沈黙が怖かった。お前はいつもどおりなのか。暗くて表情が見えない。オレはそのことに安堵している半面、恐怖も感じていた。
「忘れないさ。大丈夫大丈夫」
夏太郎はなんでもないように、そう言った。鍋をつついていたときのように、簡単に言い切った。
オレにはわからなかった。こいつはいつもわからない。
オレがどれほど悩んでいたのか、お前にはわからないだろう。それが、そんな、あっさりと大丈夫だなんて。
「どうして言い切れるんだ」
思わず夏太郎のほうを向くと、やつはニッと笑っていた。いつもの夏太郎がそこにいた。変わらないボサボサ頭で、歯を見せて笑っていた。
夏太郎は物語を読むように、ゆっくりと話しだした。
「あのな、俺は夏太郎で、お前は秋彦だ。忘れるはずねえよ、何年いっしょにいたと思ってんだ」
夏太郎は空を指さした。自身も、空を見上げている。つられてオレも顔を上げた。
夜の空には月以外にたくさんの星が瞬いている。澄んだ空気のせいか、普段より明るく感じられた。星座には詳しくない。でも今の季節だと、みずがめ座やカシオペア座が見えるはずだ。
街灯の光と、星や月の光。同じ光なのに、この心をつかまれる感覚は空に浮かぶ天体からしか感じない。奇妙な魅力。月に負けじと、小さな星々はそれぞれ精一杯その身体を輝かせていた。
視界におさまりきらないほど広がる、空。二人では大きすぎると感じたこの公園も、上空からだと窮屈なものに見えるだろう。空は、巨大で、全てを包むような、カーテンだ。
「今の季節は秋だろ、んで次に冬が来て春が来る。そしたらまた夏が来るんだよ。俺は夏太郎で、お前は秋彦、夏の次は秋が来るんだ。忘れるわけないだろ」
だから大丈夫なんだよと、夏彦はビールを飲んだ。そして、うはははーと笑った。
オレはなにも言えなかった。めちゃくちゃだと思った。なんだそれ。冗談にもなってない。夏が来て秋が来るなんて、当たり前だ。知ってるよそんなこと。
でも、夏太郎は本気なんだということは伝わってきた。こいつは本当にそれで大丈夫だと思っている。だからビールなんか飲んで笑い飛ばせるんだ。自信満々に、大丈夫と言えるんだ。
「空だってな、季節ごとに見える星が変わるだろ。でも、時期がくればまたその姿を見せてくれる。たとえ忘れたってな、思い出せるんだ。夏の大三角や白鳥座を見れば、お前はいやでも俺が頭に浮かぶわけだ」
どうしてオレは安心してしまっているんだろう。なんでホッとしているんだろう。ばかみたいだ。こんな言葉で、救われてしまった。
チューハイを飲んだ。甘ったるい味とともに、引っかかったトゲを飲み込む。
空気がゆるむ。縛られて窮屈だった身体が、ふっと軽くなった。あれだけ重くのしかかっていた石がなくなっている。
たった一つの言葉で、こうも簡単に楽になるなんて思わなかった。オレという存在は、単純にできすぎている。
忘れるわけないか。そっか。そうだよなあ。
めぐる季節の中でオレはこれからずっと生きていくんだから、忘れるわけない。
自分の悩みなんて他人からしたら大したことのないものだというのは、案外本当かもしれない。不本意なことに、ずいぶんと気持ちが落ち着いた。
「なんだか晴れない表情してないからなにかあるんだろうなと思ってたけど、そんなことだったのか。身構えて損したなー」
急激に恥ずかしくなってきたオレは、それを隠そうとわざとらしく怒ることにした。
「うるさいな。いいだろ最後くらいちょっと感傷的になったって」
「怒るな怒るな。お兄さんはお前の正直な気持ちが聞けて嬉しいぞー」
「誰がお兄さんだ」
そこまで明るかったのに、夏太郎は急に黙り込んだ。どうしたのかと、オレは顔をのぞきこむ。
夏太郎は思い詰めた顔をしていた。触ったら粉々に砕けてしまうような顔だ。形を崩すまいと、必死でこらえている。
なんと声をかけたらいいのか、オレは必死に言葉を探すけれど浮かばなかった。
さっきまでの沈黙とはまた違う静けさがやってきた。ゆるんだ空気が、再びピンと張りつめた。一本の糸のようだった。オレは声をかけることを止めた。
顔を見て気づいたからだ。夏太郎は固く固く口を結んで、肩に力がはいっていた。こいつも、なにかを背中にどっかりと背負いこんでいる。
きっとこいつも、さっきまでのオレと同じようにいつも通りに過ごすつもりだったに違いない。でも、オレの悩みを聞いて、自分も吐き出す気になったのだろう。
けれども、オレにとっては意外だった。夏太郎が弱音を吐くなんて今までなかったことだったからだ。オレが幼稚園の頃からずっといて、それまで一度だって弱気になったところは見たことがない。そんなやつが、こんな表情をしている。いったいどれほどものを背負い込んでいるのか、オレには想像もつかなかった。
オレに夏太郎の悩みを解消できるほどの力量があるかはわからなかった。きっとこいつのことだ、ものすごく途方もない悩みなんだろう。とんでもないことを言い出すかもしれない。それでも、夏太郎がしてくれたように、じっと話を聞くことくらいはできる。それにもしかしたら、オレに解決できる問題かもしれない。
だからオレは夏太郎が自分から話し出すのを待った。
しばらくして、夏太郎は缶ビールを足元に置くと、ベンチから立ち上がった。うなりながら伸びをする。
「なあ秋彦、俺はな、大人になりたくねえんだ」
こちらに背を向けて、そう言った。それも意外だった。こいつはへらへらしているように見えてしっかりしているから、てっきり先の展望を見据えているものだとばかり思っていた。予想していた悩みとは、だいぶ違う。
「あっちの世界だとな、大人になったらすぐ働かなきゃいけないんだ。仕事は決まっているんだが、問題はこうやってのんきに月の下で団子食うことができなくなるってことだ。俺にとってそれは辛い。なあ秋彦、社会に対して責任を負うってのはいやなことだな。俺はさ、ダラダラしていたいんだ。今までみたいにお前となんとなくのんびり生活していきたい。でもそれができなくなるんだよ。俺はそれが怖い」
ぽかんとした。拍子抜けだった。なんだ、と思った。なんだ、こいつも同じじゃないかと思った。
今までオレは、夏太郎をどこか遠い人のように感じていた。ずっといたからこそ感じる、差のようなもの。つまり、オレは夏太郎にはかなわないのだろうなあ、というもの。もちろん生きた時間が長いからそのぶんやつが達観しているのは当然なのだけど、それでも、夏太郎はいつでも堂々としていた。
オレがなにかに迷ったりつまづくたびに助言をしてくれた。お酒やタバコをやってないか監視したりくつを直せって言ったり、親のようにうるさかった。
料理や家事ができるようになったのも夏太郎がきっかけだ。貯金をしようとオレにふっかけて、そういう技術を身に着けさせた。狙いは最初からそっちにあった。貯金はおまけだ。そのことに気付いたのはずいぶんあとだったけれど。
そういった家事を覚えさせたのは、この先自分がいなくなってもきちんとできるようにと夏太郎なりの気遣いだったのだろう。だからもしかしたら、あいつは本当は料理が得意なのかもしれない。サボりたくて、わざと手伝わなかったのかもしれない。
今だって、オレの悩みを簡単に吹き飛ばしてくれた。そんなことかーなんて言って、指先でちょいちょいと片付けてしまった。
それなのに、今の独白だ。大学生なら誰でも抱えているような悩みを、実はこいつも抱えていた。だからなんだか急に身近になったような気がして、オレはこらえきれず笑ってしまったのだった。
「なんだよ秋彦」
振り向いた夏太郎は、恥ずかしさを隠そうとして失敗した顔をしていた。
「お前だけ恥ずかしい思いをさせることに気を遣ってわざわざ吐露ってやったのに」
それはうそだ。気を遣う余裕なんてなかっただろう。
「ごめんごめん。夏、お前は実は人間なんだな」
「なんだそれ。オレは人間じゃないぞ。まあ人間みたいなもんだけど」
そう。夏太郎も、オレと変わらない普通の存在だった。最後の最後で、やっとわかった。
「そうだよね。大人になんかなりたくない。誰だってずっとこうしていたいんだ。夏、オレもそうだよ。朝早起きしたくないし、夜遅くまでずっと仕事なんて勘弁してくれって思ってた。でもさ、今気付いた。もうすぐオレはハタチ、お前は百歳になる。大人になる。大人になるってことは自立しなきゃいけないってことだ。だからきっと、ここでお別れなんだよ」
今まで兄のように両親のように感じていた夏太郎が、今はオレと同じ目線で立っている。
「自立しなきゃいけないんだよ。今まで二人だったけど、これからは一人で頑張んなきゃいけない。そのためのお別れだ」
そう言ってオレは笑った。笑いが込み上げてきてしかたなかった。夏太郎は虚を突かれたような顔をしていたけど、オレにつられて笑い始めた。夏のように笑った。
「そうだな、大人だもんな。自立しなきゃいけないよな」
自分の悩みなんて他人からしたら大したことのないものだというのは、案外本当かもしれない。だって現にこうして、オレは夏太郎の心配を一蹴することができた。
湿っぽい雰囲気は終わりだ。
オレはチューハイを飲みきると、すぐさま夏太郎が買った、開けてなかったビールの缶を手に取って開けた。プシュっという音がする。それすら面白い。
「夏、缶、持てよ」
夏太郎はオレの言った意味を理解すると、すぐさまベンチの足元に置いていた缶を手に取った。
そして再び乾杯する。今度は遠慮なんてしない。中身がこぼれるのも構わず、ガツンと缶をぶつけあった。
二人で一気に飲み干して笑った。たまらなく苦くてまずかった。これが大人の味ってやつなのだろうか。ぐしゃりとつぶして、缶を近くにあったゴミ箱に投げる。かーんという間抜けな音がたまらなくおかしかった。
「ちょっと早いけど、夏、誕生日おめでとう」
「お前もおめでとう秋彦」
オレは携帯を取り出した。もうためらう理由なんてない。だから画面を見て時間を確認することだってできる。
二十三時五十八分。あと二分だった。二分。なにをしよう。楽しいことがいい。オレは閃いた。
「夏、写真撮ろう。記念にさ」
「そういや、いっしょに写って写真って一枚もなかったっけ。よし、撮るか!」
「撮ろう!」
オレたちは携帯で二人で写った写真を撮った。最大級にふざけた顔で撮ったから、また笑いが止まらなくなった。それを夏太郎の携帯に送った。これでもう、大丈夫だ。
「秋彦、これな、誕生日プレゼント」
夏太郎はポケットから缶コーヒーを取り出した。ブラックコーヒーだった。なんだそれ。
「こんなのがプレゼントかよ。オレがコーヒー苦手なの、知ってるくせに」
「いいから飲んでみろって。意外といけるかもしれないぞ」
「オレなんも用意してないんだけど」
「写真撮ったろ。充分だ」
そう言って、笑った。夏太郎は夏のように笑った。
白い白い満月の下、広い公園で、オレたちは近所迷惑になるくらい大きな声で笑った。近所のみなさんごめんなさい。でも今日くらい許してください。だってオレたちもうすぐ誕生日なんです。
最後だから、さっぱりと終わろう。
「秋彦、楽しかった。ありがとうな」
「夏、今までお世話になりました。小さい頃から、本当にありがとう」
「急にかしこまるなよな、恥ずかしいだろ。こっちもありがとな」
夏太郎はニッと笑って右手を差し出してきた。オレもニッと笑って右手を差し出す。しっかりとその感触を身体に刻んだ。
強い風が吹いた。思わず目をつむるほどの風だった。
その瞬間、じゃあな、と聞こえたかと思うと、握っていた手の感触がなくなった。あっと思ったときには、風は止んでいた。
ゆっくりと目をひらくと、夏太郎が消えていた。余韻もなくあっさりと、本当にタバコの煙のように消えてしまっていた。
携帯を見ると、九月三十日になっていた。オレと夏太郎の誕生日だ。オレのハタチ、夏太郎の百歳の誕生日。
「あっさり塩味かってな……」
独りごちながらベンチに座ると、オレはもらった缶コーヒーを開けた。何年ぶりに飲むのか覚えていない。においをかぐと、あの独特の風味が鼻孔をくすぐった。
よしと覚悟を決めて、ぐいっと飲んでみた。
その瞬間、また笑いがこみあげてきた。
意外と、いけるもんなんだな。
満月の下 進藤翼 @shin-D-ou
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