コーヒーカップは、ふたつ

進藤翼

第1話

 きみと会うことができるのは、月の出ない夜だけ。一月に一度しかないその日を、僕はいつも待ちわびている。

 台所に立ってコーヒーの準備をする。少し酸味の強いのが、きみの好みだ。あたためておいたカップに注いで、ミルクを多めに用意しておく。苦いのがだめだというのに、子供っぽいからという理由できみは砂糖を使おうとしない。その代わりに、ミルクを多めに入れる。僕からすると、それもじゅうぶん子供っぽいと思うけれど。

 木製のテーブルにカップを二つ置く。片方にはミルクを忘れない。かちゃんとわずかに音を立て、湯気をのぼらせる。

 部屋の明かりをオレンジ味がかったものに変える。この色にするのも、きみが来るときだけだ。白い光だと、身体を実体化できないのだという。それは月の光に似ているからだと。月の光には特別な作用があって、この世のものではないものの存在を弱めるのだそうだ。だからきみが現れるのは、新月のとき。

 窓際に寄って、少しだけカーテンを開ける。静かな夜だった。駅のホームで一人立っているときのような。

 ふわりと風が吹いて、振り向くときみが立っていた。

「やあ」

「いい夜ね。とても静か。演奏会の始まる前みたいに」

「そんな高揚感が?」

「あなたに会えるんですもの。当然よ。それともあなたはちがうの?」

「僕は朝から一日中ドキドキしっぱなしだ」

 手で、座ってと促す。

「ソファ、買い替えたのね」

「座り心地がいいだろ」

 彼女の長い髪の毛はこの夜に負けないほど黒く、そして艶めいている。

「今は何月だっけ」

「もうすぐ春だ」

「あたたかくなるのね」

「そうだよ」

「何回目の春?」

「三十二回目だ」

「あら、そんなに経ったの」

「早いものさ」

「それは、あなたも老いるわね」

「きみは変わらないな」

 僕は白くなった自分の頭に手をやった。

 年月を重ねたぶん年をとる僕とちがい、彼女の見た目は当時と同じだ。

「きみの味覚もちっとも変わらない」

 カップにミルクを注ぐ彼女に、笑いながら言った。

「このほうが色だけでも甘く見えるようになるでしょ」

 彼女が答えた。

「お墓の花は元気にしてる?」

「ちょっとくたびれてきてるみたい」

「取り替えに行くよ」

「あの青いお花がいいな。いつのだったか思い出せないけど」

「きっと十月のときの花だな。わかった、それにしよう」

 僕たちは多くのことを話した。彼女の好きな俳優の新作映画、モネの展覧会に行ったこと、おいしいパンの焼き方。コーヒーの量が減っていき、空っぽになっても、話題は尽きなかった。

 夜明けが近づくと、決まって激しい眠気におそわれる。耐えようとしても、どうしても目をとじてしまう。そうして眠りから覚めると、きみは消えている。空のカップだけがテーブルに並んでいる。

 なぜ彼女がこうして現れるのか、僕にはわからない。運命のいたずらか神様のきまぐれか、なんにせよ僕にとって大切なことは彼女に会えることだ。

 今度の月の出ない日を、僕は心待ちにしている。

 次に彼女が来るときは、もっとあたたかくなっているといいけれど。

 そんなことを思いながら僕は一人ぶんのコーヒーを用意する。もちろん彼女のためのミルクだって、いつだって用意してある。

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コーヒーカップは、ふたつ 進藤翼 @shin-D-ou

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