第8話 霊符

 最弱と呼ばれる男・豊田庸平がオニ役の坂本佳乃に殴る蹴るの攻撃を受けていたころ、校舎裏には吉岡勇気と山田先生がいた。


「うまい具合に脱出できそうですよ、先生!」


 2人は赤鬼の死角をついて一旦は校舎へ入り、裏手の非常口から校舎裏に来ていた。

 山水中学校の北側は高さが2メートルある頑丈なブロック塀で囲まれている。その向こう側は山林の斜面となっており、そこを少し上がると細い山道を通って山里へ降りることができる。そこまで行けば助けを呼ぶことができるだろう。途中で携帯電話の電波が捉えられれば、そこから警察への連絡も可能だ。


 『仮病作戦』が失敗した今となっては、学校外へ強行突破をするしかないと判断した生徒達は、体力のあるこの2人を脱出させることに決めたのである。


「じゃあ、行きましょう先生!」

「よし、ボクの肩に乗りたまえ!」


 吉岡は山田先生の肩に足をかけて、塀を乗り越えようとする。

 しかし、吉岡は両手を塀についたまま動かない。


「どうした吉岡!? 早く飛び越えて行くんだ!」

「――ッ! 駄目だぁぁぁ――!」


 吉岡は山田先生の肩から転げ落ちた。


「と、どうした吉岡……大丈夫か?」


 山田先生は吉岡に声をかけるが、彼は腰を抜かしたように呆然と塀の上を見ていた。

 そして、呟く――


「なにも……無い……」

「え!? 何が無いって?」

「だから何も無いんですよ! 塀の外側には何も無いんだ!」

「確かに塀の向こう側には雑木林しかないだろうけれど……それ以外に何かあるというのか?」

「雑木林……? それって……本当にあります?」

「はあ!? 大丈夫か吉岡? 見てみろ、ちゃんとあるじゃないか!」


 山田先生は塀の外を指さして言った。

 吉岡は立ち上がり、足下に落ちていたこぶし大の石を手に持った。

 そして、無言でそれを塀の外へ放り投げた。


「…………」


 無音――


 本来ならば『カツーン』と木に当たる音とか、『ゴツン』と地面に落下する音が聞こえてくるはずなのだろうが……


「学校の敷地の外は……音も光も何も無い空間なんですよ!」

「そんなバカな!」


 山田先生は塀に両手をついて、鉄棒に上がるような感じで身を乗り出してみる。

 目の前には『ツーン』という耳鳴りがするだけの漆黒の闇――


 慌てて塀から飛び降り、後ろによろけて尻餅をつく。

 2人は顔を見合わせる。

 言葉を探すが、何も出てくることはなかった。

 塀の内側から見える山の木々は、幻とでもいうのだろうか。


 こうして、赤鬼の目を盗んで脱出するという計画は失敗に終わったのである。

 


 *****


 

 その頃音楽室では、豊田庸平と坂本佳乃の2人は、まるで仲良く『お医者さんごっこ』をやるような感じでイスに向かい合って座っていた。お医者さんは庸平で、患者さんは佳乃である。


「ほら、もっとブラウスを持ち上げて!」

「ううっ……これって何の罰ゲームなの?」


 佳乃の白い肌には直径15センチの真円とその周囲に描かれた文字のような模様が、まるで赤い色素が定着したようにくっきりと浮かび上がっている。


「これはただの火傷痕ではないな……まだ痛むのか?」

「ううん、火傷の痛みはほとんど引いているわ。今はあなたの視線が痛いだけ……」

 涙目で庸平を睨み付ける佳乃に対して、庸平はあくまで冷静だ。

「ふーん。火傷の痛みがそんなにすぐには引くわけがないから、これはただの火傷ではないな。それにしてもこの文字は一体……」

 そう呟きながら文字の一つを人差し指でくるっと回すように触れると……


「いやん!」


 佳乃は思いがけず変な声を上げてしまった。

「あっ、ごめん!」

 庸平は謝ったが、彼女は口を押さえとても悔しそうに眉根を寄せていた。

「そ、そんなに怒らなくてもいいだろ! 別にいやらしい考えがあって触ったわけじゃないんだから……」

「分かっているわ。もしスケベな気持ちが少しでもあったら今頃アンタ死んでいるわよ!」 

「いや、密室で女子と2人きりで、しかもその女子の柔らかな白い肌に直接触れて全くスケベな気持ちにならないと言ったら嘘になる。が、そんなことは今はどうでもいいことなん――――い、いや……冗談だよ、冗談!」


 庸平の頬に2度目のビンタが炸裂した。


 佳乃はオニ役として赤鬼の目前に連行され、一度は死を覚悟した。それが僅か30分前の出来事であるのが信じられないくらい、最弱と呼ばれる男・豊田庸平に振り回されていた。


 *****


「これは梵字と象形文字を合体させたような文字だな……問題は赤鬼はどういう意図でこのマークをつけたかだ……」


 庸平は再び佳乃のお腹につけられた火傷のような痕を観察している。

 彼は嫌がる佳乃に土下座して、絶対に手を触れない約束の下、観察を許されていた。


「このマークに呪いが込められているとか……かしら?」

「いや、マーク自体に呪いなどのマイナス感情が込められることは稀なケースだ。そういう類いの物のほとんどは、見る人が勝手にそう思い込んでマイナス方向に感情を傾けていくケースがほとんどだよ」


 佳乃の問いに庸平が答える。

 彼は陰陽道を研究する中で、呪術関係の知識も豊富に蓄えていたのである。

 すると、佳乃の表情が変わる。そして――


「……あなたずいぶん、そちら方面に詳しそうね。もしかしてあなたも?」


 佳乃はスカートにブラウスの裾を仕舞いながら、意味深げなことを言った。

 庸平はその言葉にすぐ反応した――


(ええっ? 『も』ということは、坂本も? うそだろおいっ、陰陽師の末裔とか子孫とかって、そこら中にいるものなのか? だとしたら俺なんて大した立場じゃないってこと? ええー!?)


 庸平はおろおろし始めた。

 そんな彼の様子を見て、佳乃はふっと息を吐く。

 そしてゆっくりと立ち上がり、


「私、これまで同志がいなくて寂しかったの。でも意外だったわ、こんなに近くに同志がいたなんて……ああ、もっと早く話していれば私の中学生活も少しは楽しめたかもしれないのに……あっ、でもでもー、これからよろしくね! 中二病の豊田庸平くん!」


 と一息で言い切り、庸平に手を差し伸べてきた。中二病を絶賛こじらせ中らしい佳乃はニコッと微笑んだ。


「お、おう……よろしく頼むぜ!」


 庸平は彼女と握手を交わし、とりあえず話を合わせることにした。


「坂本が中二病なら話が早くて助かる。じつは協力してほしいことがあるんだ」


 そもそも彼にはこの音楽室に来た本来の目的があった。

 佳乃に襲われたり、佳乃を襲ったりして、大分遠回りをしてしまったのだが……

 彼は音楽室の隅に置かれた事務机から油性ペンをとり、制服のポケットからメモ用紙のような紙を取り出す。


「うっ――!」


 そのメモ用紙を見た佳乃が一瞬うろたえたように見えたが、気にしない。

 彼は一瞬目を瞑り何かを思い出すような素振りを見せ、それから油性ペンで文字や記号を組み合わたような図形を一気に描き上げた。


「こ、これは……」


 佳乃が目を見開いて注視するそれは、彼女がよく訪れるとあるWebページで飽きるほど見てきた『霊符』そのものだった。

 彼女はそれを記憶だけを頼りにさらさらと書き上げた庸平を尊敬の眼差しで見ていた。しかし、そんな彼がまたとんでもないことを言い放つ―― 


「これをお前のお腹に貼って試したいことがあるんだ!」

「は、はい……ッ?」


 佳乃は拳を握りしめた。


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