女義賊マーダー・マダー〜猫科娘は動けない〜
山盛
第1話 プロローグ
活気の無い貧民街の一角に立つ、木材むき出しのしがないカフェが朝日に照らされていた。
看板にはMadder(マダー)の暗赤色な文字と、白い花びら5枚から成る花の絵が描かれている。
店内を観察してみても飾り気が無く、目に付く物と言えばピカピカの振り子時計と、
花瓶に花が活けられている程度。
看板に描かれているそれと良く似た小さい花が、幾つにも別れた枝の先端にそれぞれ咲いている。
「ごゆっくりどうぞ」
カウンター席に座る男の前に、コーヒーの入ったカップが静かに置かれた。
男は全ての茶髪を後頭部でひと纏めにし、それを更に1本に編んでいる。
服は肩から先を引きちぎったような袖の無い物を羽織っており、腕を露出している。
「今朝の新聞見たぜ?いやー、さすがだな」
男はコーヒーやウェイトレスに目もくれず、
テーブル席に座る別の人物に向かって話しかけていた。
「この辺でも1、2を争う強豪ギャングのタイガーファングを、
いったいどうやりゃ正面からぶっ飛ばせるんだよ。
その見た目で油断でもさせたってのか?」
男の言う油断を誘えそうな見た目とは、どんな見た目なのだろうか。
その人物は背の低い痩せた少女であり、
黒い長髪を額の中心で左右に分け、背中まで真っ直ぐ垂らしている。
口に咥えたタバコから煙を立ち上らせ、新聞に齧り付いて男には目もくれない。
温暖な気候に合わせているのか、
服装は半袖短パンで手足と腹を大きく露出し、痩せ型である事が強調されていた。
背丈の割に眼光が鋭いのだが、その目には生気が今ひとつ感じられなかった。
総じて、物理的に困難な物事を成し遂げられる人物とは到底思えない。
「…んな訳無えか。他に腕利きが居るに決まってるよな」
少女は何故か椅子では無くテーブルそのものの上に足を組んで座っており、
更には自身に話し掛けてくる男に対し、なんら反応を示そうとしない。
仮に少女がこの喫茶店の従業員やオーナーであっても客に失礼、
一般客なら店舗にとって迷惑と、どちらにしても度し難い態度である。
男が少女に対して前のめりになった。
「なあ、その腕利き、ちょっと俺んとこに貸してくれないか?」
少女は何も言わず、読んでいる新聞のページをめくった。
「自己紹介が遅れたな。俺はブルホーンのリーダーやってるベンダだ。
あんただってこのタトゥーは知ってるだろ?」
男はベンダと名乗り、右肩を少女に向けた。
その肩には、実物の牛よりも長大な一対のツノを持つ、雄牛の頭のタトゥーが刻まれている。
ベンダはすぐに身を引き、自分が座っていた椅子の背に体重を預けた。
「最近ラッツの連中が俺らのシマでコソ泥しててよ、うざってえのなんのって……。
最近あんたんとこ話題になってるだろ?良い薬になるから、
ちょっとぶっ飛ばして懲らしめてやってくれねえか?」
少女からの返事を待たず、ベンダは一方的に続けた。
「金の心配ならいらねえぞ。最近火薬で上手く行っててウハウハなんだ。
このショボい喫茶店だってド派手に改装させてやるぜ」
ベンダは懐から札束を取り出し、少女の座るテーブルにポンと置いた。
「なあどうだ?乗ってくれるよな?」
ベンダが自らの発言を結んだ後、少女はタバコを口から下ろし、
傍らの灰皿に押し付けて火を消した。
「何言ってるの?ここはただのカフェよ」
ふたつ返事で自分の思惑通りに事が進むとベンダは予想していたが、
少女の返事は全くの想定外であった。
「は?」
ベンダは花瓶を指差し、早口でまくし立てる。
「いや、あの花って現場に残してるのと同じ奴だよな?この店の看板だって、
血文字のマーダーマダーから取ったんだろ?
出来る奴らは皆、表の顔を持ってる。あんただってそうだろう」
「偶然よ」
「それとも何だ?このベンダ様の依頼が受けられねえってのか?ぶっ飛ばすぞ」
ベンダは立ち上がって少女に接近し、歯を剥き出しにして睨み付けた。
少女は新聞で顔を隠し、ベンダから遠ざかるように体を逸らす。
「怖いんだけど」
「お、おお…わりい」
ベンダは首を傾げ、札束をしまうと少女から離れた。
「俺の勘違いだったか…?」
ベンダは頭を掻きながら店の出口へと向かう。
「飲まないの?」
カウンターには、コーヒーが手付かずのまま残っている。
ベンダは札束から1枚の紙幣を取り出して背中越しに投げ捨て、
「要らねえよ」
と言い残し、ベルを鳴らしてマダーを後にした。
この時ベンダはドアの向こうで女性とぶつかったらしく、
「きゃっ」 と細い声が上がったのだが、店内のふたりはこれに気付かなかった。
「あれ、もう帰っちゃったの?」
カウンターの奥側から女性がひょっこりと顔を出す。
今までカウンターの下に隠れていたのだろうか。
彼女の顔は褐色で、ショートの金髪を赤いバンダナで覆っているが、
更にその下に何かを付けているらしく、頭頂部の左右が大きく突出している。
もし隠しているつもりなのであれば、全くもって隠せていない。
「お客さん、コーヒー飲んでくれなかったね…」
その発言と、直立した彼女がエプロンを身に付けている事から察するに、
この喫茶店のマスターかウェイトレスか、少なくとも店員である事は間違いなかった。
であるにも関わらず、テーブルに座る少女の足癖の悪さには一切触れようとしない。
「アカネちゃん、僕のコーヒー…美味しく無いのかな?」
アカネちゃんとは、痩せた少女の名前なのだろう。
そして自身を僕と呼んではいるものの、
動物の様に無垢な顔付きや、適度に筋肉の付いた健康な体付き、
健気な声色などは紛れも無く女性そのものである。
「そんな事無いわ」
「でも、一口も飲んで無いよ?」
「チップをくれたわ。きっと香りが良かったのよ」
ベンダが残して行った紙幣一枚には、このカフェのコーヒー1杯以上の価値が有る。
その差額を、アカネはチップと表現した。
「そっか」
「ローブ、そのコーヒーあたしが貰うわ」
店内にはアカネの他にもう1人しか居ないので、このもう1人の名がローブと言う事になる。
「ほんと!?」
ローブは途端に態度を変え、カウンターに手を突き軽々と飛び越した。
ローブのエプロンの下はノースリーブに短パンとアカネに近く、
両太もものベルト跡を除けば、ほぼ全身が日焼けで褐色になっている。
奇妙な事に、ローブの短パンの尻からは尻尾のような物が伸びていた。
しかし、ローブがアカネの足癖を咎めないように、アカネもローブの尻尾や頭には一切触れない。
恐らくふたりは旧知の仲で、今更指摘する事でも無いのだろう。
「お砂糖はみっつだよね?」
ローブは既に瓶の蓋を開け、中から角砂糖を取り出している。
「ええ、それでお願い」
「かしこまりましたー!」
ローブは角砂糖を1個2個3個と、静かにコーヒーカップに落とし、
小さなスプーンでかき混ぜる。
スプーンを動かす手と連動しているかの様に、ローブの尻尾が円を描いた。
ローブの尻尾は淡い黄色に黒い斑点模様で、
先端に近付くにつれて斑点が帯状に変わって行き、先端では完全な帯状になっている。
単なるアクセサリーの類では無いようだ。
もしかしたら、ローブ自身に尻尾が生えているのだろうか。
「お待たせしましたー!」
テーブルの上、アカネが座っている足元にコーヒが置かれた。
「ありがとう」
「えへへ」
アカネがコーヒーカップに触れた時、来客を告げるベルが鳴った。
ローブが扉の方を見ると、ローブより背の低い女性が立っている。
「はあ…粗暴な殿方のお陰で、折角のネイルが台無しですわぁ」
彼女が気にしている煌めく付け爪もそうだが、
頭の上で噴水のように纏められた黄緑の髪や、
アカネ達の軽装と大きく異なる白く清楚なドレスの姿は、
このカフェどころかこの貧民街そのものに対して場違いで浮いている、
そんな印象を醸していた。
「マシャだ」
ローブはその女性の名前を知っていた。
アカネにとっても、マシャは顔馴染みなようだ。
「アカネ様、ローブさん、御機嫌よう」
「おはようマシャ」
「あら?アカネ様…それは?」
マシャはアカネがコーヒーを飲む行為に興味を示している。
「客が残したから」
「な…なんと?」
マシャはアカネの返答に愕然とし、
何処からか取り出したハンカチを悔しそうに噛んで引っ張った。
「アカネ様とわたくしのファースト間接キッスが、
何処の誰とも知れない行きずりの人間に奪われるなんて…」
「全く飲んでなかったわよ」
アカネの一言でマシャは瞬時に表情を笑顔に変え、
噛んでいたハンカチもポイっと投げ捨ててしまった。
「それなら安心ですわ」
「アカネちゃん、僕マシャが何言ってるのか分からないよ」
「分からなくていい」
「そっか」
「アカネ様、これいつものですわ」
マシャはアカネに近寄り、鞄から丸められた新聞を取り出した。
「ありがとう」
「新聞なら僕が貰ってくるのにな…」
角砂糖の瓶をしまいながら、誰に言うでも無くローブが呟いた。
「ローブさん、この新聞は普通の物とはちょっとだけ違いますのよ」
マシャがローブの独り言を拾うと、ローブは振り向いてマシャを見た。
「そうなんだ。どう違うの?」
「それは…わたくしとアカネ様だけの秘密ですわ」
「秘密かぁ。気になるけど…」
ローブはカウンターに肘を付き、アカネが読んでいる新聞を覗き込む。
「どの道僕には新聞なんて読めないや」
「オトナ向けですし、そもそもローブさんにはつまらないかと」
「そうでも無いわよ」
ローブとマシャの会話に、アカネが割って入った。
「と、申されますと?」
「オープンカフェ開店だって」
「まあ、ローブさんにも遂にライバル店舗が?」
「僕それ知ってるかも」
「写真も載ってるわよ」
「見せてっ」
ローブは再びカウンターを飛び越し、当たり前の様にアカネに密着した。
アカネもそれを避けたりはせずに、ローブを受け入れている。
「これだけど」
アカネが指差した部分には、確かにオープンカフェ開店の記事が書かれていて、
その店舗を写した写真も掲載されている。
記事によると店舗名はバニーである
らしい。
「僕が仕事帰りに見たのと一緒だ。
バーだと思ってたけどカフェだったんだね」
「酒も出すらしいけど」
「朝昼はカフェ、夜はバーと言う事でしょうか?」
ローブはオープンカフェの写真をまじまじと見つめている。
「へえー、こんなお店もあるんだ。行ってみたいなぁー」
「良いわよ」
ローブが新聞から目を離し、アカネの顔を見た。
「へ?」
「今日の昼はここにしましょう」
「生涯インドア派宣言済みのアカネ様が自らお出掛けを…!?」
アカネの発言は、従来の彼女からは想像も付かない提案だったらしく、
マシャは衝撃でその身を震わせている。
「もしやアカネ様、不治の病で死期を悟られ、最期の思い出作りの為に…?」
マシャはアカネを気遣う様に両手をそっと添えた。
「アカネちゃん死んじゃうの!?」
不治の病と聞いたローブが半泣きになり、アカネにしがみ付く。
「無い」
キッパリと言い放つアカネにローブは安堵し、束縛を解いた。
「良かったー。もしアカネちゃんが死んだら僕も一緒に死ぬから、その時は言ってよね」
ローブはアカネの両肩を握り、とても真剣な顔付きで言った。
「死んだら言えないんだけど」
「死人に口無し、ですものね」
「ローブ、ジュリアとノゾミを呼んで来て」
「分かった!」
ローブはアカネから離れ、エプロンをカウンターに脱ぎ捨てる。
「ふたりはムスカリ孤児院に…あら」
カラン、カランとベルが鳴る。
アカネが新聞を下ろし、ジュリアとノゾミなる人物二名の居場所を伝えようとした時、
既にローブの姿は無かった。
「流石はローブさん、まるで風のようですわ」
「あの子は風より速いわよ」
「これは失礼。
あれだけの速さがあれば、お二人もすぐに見つかりますわね」
「そうだと良いけど」
アカネとマシャはしばしの間、揺れる扉を眺めていた。
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