告白と、さよならと⑥
「恩田さん」
彼女がはっと顔を上げる。両の瞳は、もう隠しようもないほど涙に濡れていた。
泣かないでくれ、と。心の中で訴えた。その涙の意味を、知りたくなどないんだ、と。
「――目を逸らすだけじゃ、結局今までのきみと何も変わらないんじゃない?」
それなのに男は、わざと辛辣に、打ちひしがれそうな心を抉ってくる。
「……あんたに、何が分かるんだよ?」
無愛想な俺だって、こんな地を這うような低い声、初めて出した。
「分かってるから言ってるんだよ。この中で、冷静なのも、状況をすべて把握してるのも、恐らく僕一人だ。だから忠告してる。そんな怖い顔して僕に怒る前に、やることがあるんじゃないの?」
「……は? 何だよ」
「あの日、なりふり構わず坂道を全力で駆け上がったきみは、彼女に会えたらどうしようとしていたんだい?」
はっとした。
あの日。
衝動的に彼女の家を探し回った、あの日。
……こいつは本当に、何でも見通しているらしい。
こんな男に気付かされたなんて物凄く不本意だった。でも、つまらない意地で全てに目を瞑って、見なかったことにして背を向け続けても、そんな最後にはきっと後悔しかないことを、哀しくも悟ってしまった。悟るしかないのだと、心の一部が観念してしまった。
「恩田さん」
知った途端に、もうすぐ呼べなくなってしまうなんて、どんな嫌がらせだよと唇を噛みしめる。でもこれだけは、絶対に伝えなければ。
向けられた彼女の真っ赤な目。
「――ありがとう」
伝えた瞬間、ぼろぼろっと、その両の目から、勢いよく涙が零れ落ちた。
俺の目頭も、堪えようもなく熱くなっていく。
「ありがとう」
もう一度、いや、何度だって。俺は彼女に会ったら、一番にお礼を言いたいと考えていたのだから。
きみがくれた言葉、きみと過ごした時間、すべてが俺を変えてくれた。抜け出すことのできなかった暗く冷たい世界から、俺を引っ張り上げてくれたんだ。こんなに細い腕なのに、居座っていた重くて大きな石を、必死でどかしてくれたんだ。
首を振る彼女はごめんなさいと小さく零して、また目を伏せてしまう。
自分がどれだけ凄いことを成し遂げたのか、分かってもらえないのがひどくもどかしかった。
二十年近く居座り続けた俺の鬱屈は、恐ろしいほどまでに凝り固まっていたに違いないのに。
「それと、俺は朝比奈さんとはなんでもない」
このタイミングで言うのもどうかと思ったけれども、このことは絶対に勘違いのままにはしたくなかったから。
「え?」
「なんでもないんだ。別れるとか別れないとかの前に、俺たちは付き合ってすらいない、そういうことなんだ」
「…………へ?」
気の抜けた質問に、俺も思わず、気の抜けた吐息を返してしまった。
挑戦的で強かで、そんな態度を見せられたら恋人だと勘違いしない方が鈍感すぎる、彼女の態度はいつだってそうだったけど、俺はそれを否定こそすれ、受け入れたことは一度だってない。
必死で仲直りさせようとピアスを探し続けてくれた彼女には申し訳なかったけど、抉れた俺らの関係を、これ以上気に病んでほしくなかった。というか最初から、気に病む必要なんて、一つもなかったのだから。
「ほ、本当ですか?」
「うん、本当。恩田さんを傷付けたくないからとか、俺が体裁を取り繕ってるとか、そういうのででまかせを言ってるとかじゃなくて、本当にこれが事実だよ」
彼女はほうっと大きく一つ、恐らくは安堵のため息をついたようだった。
「わ、わたしがあの日、迷惑をかけたせいで二人は仲違いをしまったのだと思っていて……ピアスが見付かれば、それを香月さんが必死で探して見つけたってことにすれば、もう一度、うまくいくんじゃないかと思って、わたし、それで」
「うん」
いつでも人のために一生懸命で。
残された時間、普通の人なら自分のために使うだろうに。
だけどそんな彼女だからこそ、俺は――
しゃがんで、彼女にそっと手を伸ばす。拒絶されないのを良いことに、今度こそ小さな体を抱きしめた。強く、強く、抱きしめた。
彼女の腕が、おずおずと俺の背に回される。
嗚咽と涙はこの胸ですべて受け止めた。
「――水を差すようで悪いけど、時間が差し迫ってるから、いちおう言っとくね。彼女の、と言うか、“ゴトウアヤノ”としての彼女だね。それに纏わる記憶は、申し訳ないけど消させてもらう」
どのくらいそうしていただろうか。男の残酷な宣言に、はっとして顔を上げた。
「正体を気付かれてしまった場合は、そうするのが決まりなんだ。だって、当たり前でしょ? 彼女はずっとベッドで眠っている。それが真実だ」
「ま、待ってくれ」
「もう待てないんだよ、今夜がリミットなんだ」
記憶を消されたら、俺は、彼女が残された時間を使ってまで変えてくれた俺の心は、また元に戻ってしまう。
見つめる彼女の向こうに、あの日の恩田さんが見えた気がした。
ニュートンを引き合いに出して、俺を大いに笑わせてくれた彼女。
もしかしたらあのときから、俺は自分でも気付かぬうちに、彼女のことが気になっていたのかもしれない。
でも今そう振り返ることができるのは、数えきれないくらいの笑顔を、彼女が俺の世界にもたらしてくれたからだ。いつだって一生懸命に俺の気持ちを慮ってくれる優しい心根に触れて、俺自身が変わっていくことができたからだ。そうして共に過ごした掛け替えのない時間があったからこそなんだ。
それにもし、記憶の消された世界に戻ってからもあの喫茶店での出来事をふと思い出すことができたとして、彼女に何かしらの感情を抱いたって、そこにはもう、恩田凛という人間は存在していない。俺は、そのことにすら気付けず、二度と来ることのない彼女を、待ち遠しく思ったりするのだろうか。
そんなの、絶対に嫌だった。
ありのままでいいと認めてもらって、俺がどんなに嬉しかったか。どんなにほっとしたか。
どんなにきみのことを、愛おしいと思っていたか。
言葉にする機会を先延ばしにしてきた、馬鹿な俺。ああすれば良かった、こうすれば良かった、俺は何度もそんな後悔をしてきたというのに、気付けた今ですら、また同じ過ちを繰り返してしまうのか?
今度こそ伝えたい。全部全部伝えて、全部きっちり分かってもらってから、もう一度ありがとうって言葉を聞いてほしい。
そして、愛しているんだと、胸を張って告白したい。
軽はずみなんかじゃないこの想いを伝えるには、まだまだ時間が必要なんだ。
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