夢の狭間

赤井 葵

悪魔の樹

 森に迷い込んだ。

 仕事に行くはずだったのに、いつもの道を歩けば済む話なんだが、見知らぬ場所を歩いていた。地面は枯葉が覆い、足を踏みしめるたびにシャクシャクと軽快な音を鳴らす。

 いつから迷い込んだのか、いつまで突き進むのか。

 迷ったとわかっているならば振り返り、元来た道を戻れば良い。そんなの小学生でもわかる。なのに私は枯葉の音楽を楽しみたいのか、仕事という毎日の気疲れに嫌気が差し、突如現れた森に縋り付きたいのか、ただ黙々と歩いていた。

 もう既に、振り返っても森が一面に広がっている。後戻りはできない。

 あの有名な童話のように来た道をクッキーや石やらで印をつけて来たわけじゃない。

 こうなると、仕事にも行けやしない。

 付けていた腕時計を見ると、昼真っ只中。上司は私の無断欠勤に怒り狂い、電話を鳴らしているだろう。だが何故だか、持っているはずの携帯は黙っている。もう上司に見限られたのだろうか。

 今更仕事に向かっても、この森を抜ける難関と、場所の把握はしないといけない。この森はどこなのかもわからないんだから。

 そこまで思っていても、仕事に行く気なんかさらさらなかった。

 だったら、突き進んで行ってやろう。という気持ちの方が湧いた。


 小屋が見えた。

 お菓子で敷き詰められたファンシーでどこか危うげな、そのお菓子は食べられるのかと聞きたくなるような小屋……ではなく、木造の、こじんまりとした小屋だった。

 森の出現は幻のようだったから、私が歩いて来た道は永遠に続くのかと思っていただけになんだか拍子抜けだ。

 小屋の前まで来ると、絶景が眼前に現れた。

 今まで見えなかったが、小屋の横には大きな窪みがあり、その周りには桃色の桜が辺り一面に咲いている。窪みのおかげで私は上から見下ろす形だった。全ての木々が、ピンクが目に飛び込んで来た。

 だが、ただピンクだけではない。所々、真っ赤な桜もある。

 そうだ。桜にしては……花弁が煌々と光っている。窪みの底まで赤と桃色の光が照らされ、逆に妖しい。

 時刻は刻々と過ぎていき、森の中であるここはすぐに暗くなる。窪みの桜はまた一層光らせ、妖しさを醸し出す。

 ただただそれに見惚れていると。

「おや、お客さんですか?」

 小屋の中から1人の男性が現れ、私を見つけると驚いたように声を発する。

「お、お客さんと言えるかどうか……。ただ、道に迷いまして……」

「ああ、それはいけない。ここの森は迷い込むんですよ」

 そう言って、小屋に招き入れるように手を動かし、男性は小屋に入る。

 彼はこの時代、この日本という国にしてもおかしな格好だった。

 袴のような、ただちょっと違う。着物のように袖が長く、腰に布を巻きつけている。

 私は大人しく従った。

「どこから来たんです?」

 話をしながら、小屋内を見渡す。

 何かの土産品なのだろうか。瓶に木の枝が入っており、先ほどの桜の花弁が瓶の中で浮いている。そのような瓶が所狭しと並んでいた。

 土産品にしては品数も少ない。そして第一に、ここに来る人なんているのだろうか。

 あの桜は確かに絶景スポットと言って良いほどだが、森の中だし、そのような宣伝っぽさもなかった。そもそも、迷い込んでさえしなければこういう場所も知らなかったわけだ。

 しかも、この小屋以外に、他の小屋を見つけていない。村だとか、何かの集落……というわけでもないようだ。

「この瓶に入っている桜……綺麗ですね」

「ああ、ええ。私自身、桜が好きでして……」

「育てているんですか?」

「そうです。……お1つ如何ですか? 女性には人気ですよ」

 そりゃあそうだろう。花が好きな女性は大体いる。その上、桜は歌にも小説にも載るほどメジャーな種類だ。

「これ、水が入ってないけど……大丈夫なんですか?」

 そもそも、枝だけでも大丈夫なものなのか。そこら辺、植物に詳しいわけではないからなんとも言えないが。

「ええ。大丈夫ですよ。水なしでも立派に咲いてくれます」

「……私の知ってる桜とは少々違うんですが……」

 そもそも花がここまで光るなんて、見たことも聞いたこともない。

「ええ。秘密の方法で育てていますので」

 なんだか怪しいので、その話はやめておいた。

 多分、ここから、この小屋から逃げないと危険だと頭から警報が流れている。

「えっと……長居もなんだし、もう出ますね?」

「え。もうこんな時間だよ。夜の森は危険だから、ここで泊まっているといい」

 そう言われ、腕時計を確認すると、確かにもう夜だ。すっかり暗くなっている。

 夜の森は危険。それは一般常識で知ってはいるが、それは足元が見えないからだとか、熊や凶暴生物が活動するからだとかだが、この見知らぬ人の見知らぬ小屋で寝泊まりするのも危険だし、そもそも場所も知らない森だ。ここから抜けることが先決じゃないか。

 意を決し、とりあえず森を抜けることを男性に伝える。

 男性は心配そうに……いや、残念そうに見送った。


 外に出ると、桜の光は月光を浴び、さらに妖しさを醸し出していた。何故かな、この桜を見ると目が離せない。数時間くらいはここにいても別段問題はないだろう。そうだ、記念にスマホで写真を撮ろう。

 軽快な電子音を聞き、画面をチェックする。我ながら写真を撮るのは下手だな。と苦笑する。

 ふと、窪みの底に目をやる。

 桜の木々で影ができ、桃色、赤、月光で暗さを強調していた。先ほど見た時よりも不気味だった。それよりももっと不気味だったのが、窪みの底にある無数の赤い塊だった。

 目を凝らして見ても、よくわからない。一見それはただの袋のように見えた。

 ただ、この妖しい雰囲気と相まって……そしてあの有名な小説「桜の樹の下には」を連想して……それは死体に見えた。

 そう思ったと同時に小屋の中から男性が現れた。

 喉がヒュッと鳴る。

「どうしたのです? 森を抜けるんじゃなかったのですか?」

 私を見て、不思議そうに言葉を紡いだ後、私の異様な表情に気づき、窪みの下を見やると。

「ああ、見てしまったのですね。仕方ありません。少々手荒ですが許してください」

 男は裾から鋭利な刃物を出し、私に向かって振り下ろす。


 逃げた。逃げ切った。

 あの小屋でおかしいと思わなければあのまま窪みに突き落とされるなり、あの小屋の中で眠らされ、殺されていたことだろう。

 ただ、この森は抜けきれない。ずっとずっと歩いている。

 おかしいかな。もう半日分くらい歩いているはずだ。夜は開けない。腕時計を見る。針は同じところを行ったり来たりしている。

 月を見る。ありえないほど、間近に。クレーターでも見えるんじゃないかというくらい間近に。手で触れそうだが、触れない。

 これは幻覚なのだろうか。幻覚であってほしい。夢であってほしい。

 ただ、憔悴しきったまま、スマホを見る。圏外だった。そりゃあそうだ。森の中だし、そもそもここは……少なくとも現実じゃない。

 写真フォルダーを見てみる。

 最後に撮っていたのは、私の肩に刃物が刺さっているところだった。

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