雪花妃伝~藍帝後宮始末記~

都月きく音



 あの日、鈴雪りんせつはまだ十一歳だった。



小花しょうかです」

 名前を尋ねられた少女は、なんだか恐そうな人だなぁ、と思いながら、目の前に威圧的に立つ男にそう名乗った。

 男は少女の首が痛くなるほど見上げなければならない高い位置から、品定めするような冷たい視線で小さく幼い顔を見下ろし、微かに眉根を寄せる。

「随分と貧しい名だな」

 男は低い声で零し、語尾に溜め息も混ぜ込んだ。

 そうだろうか、と少女は折れそうなほど細い首を傾げる。ありふれた名前ではあるが、小さく痩せっぽちな自分には似合いの名前だと思っていたし、字も難しくなくて覚えやすい。いい名前だと思っていた。


 男はしばらく口を閉じ、じっと見つめていたかと思うと、

「鈴雪、と名乗れ」

 と告げた。

 なんのことだろう、と幼い顔の中で一際大きな双眸をぱちくりとさせ、男を見つめ返すと、男は少し苛立ったような目を向けてくる。

「お前の名前だ。小花ではなく、これからは鈴雪と名乗るように。そう鈴雪だ」

「鈴雪……」

 綺麗な響きの名前だと思った。男は後ろにいた従者に手招きすると、料紙かみと筆を受け取り、再び眉根を寄せて「字は読めるな?」と尋ねてきた。そんなに難しいものでなければ読み書きは出来るので頷くと、さらさらと字を書きつけて渡してきた。これが新しい名前なのだろう。字面も綺麗だと思った。


「宮廷占者の託宣だ」

 男は別の従者から受け取った巻物を広げ、まわりに控えていた神女しんめ達にも見えるように掲げた。


「災禍を除く為、王は高貴な血筋の神女を娶る。その婚姻に依って国難は去り、治世は安泰するであろう」


 自分の新しい名前を眺めていた少女は、男の朗たる声音に顔を上げるが、その言葉の意味するところがよく理解出来なかった。代わりに反応を示したのは、まわりにいた鈴雪の育ての親ともいうべき神女達だった。

 静まれ、と男の後ろに控えていた従者が声を張り上げた。

「宮中廟に仕える神官達の授けた神託も、同様のものであった。故に、これは天意である」

 王宮にも神仏を祀る廟があり、仕える神官は祈祷を行い、ときに神仏からの託宣を授けることがある。


 呆けているうちに、男は少女の細い手首を掴んだ。痛い、と思う暇もなく男へと乱暴に引き寄せられる。

「宋家の娘――お前は俺の妻となる」

 そう告げたかと思うと、事態が呑み込めずに混乱している少女をその部屋から引き摺り出し、小走りでついて行かなければならないような速さで前庭を突き進んで門を出ると、待機していたらしい罪人を護送するような窓のない馬車に閉じ込め、鍵をかけられてしまった。

 遠くの方で「小花、小花」と鈴雪を呼ぶ神女達の声が聞こえていたが、なにか言い争うような声が混じり、それ以上近づいてくることはなかった。

 出して、出して、と懸命に叫ぶ声は無視され、箱馬車はすぐに速度を上げて走り出した。



 ここしゅん国は、占見うらないの根付いた氏族が興した国だった為、民の間にも古くから占者の託宣が重要視されていた。

 どんなに貧しい者でも、辺鄙な場所に住まう者でも、子供が生まれたら廟に詣でてお付きの占者に視せ、その将来についての託宣を授かる。元気に育つだろうとか、働き者に育つだろうとか、そういう内容のものがほとんどだが、占者から託宣を授かると親は安心し、その言葉を楽しみに子を育てていくのだった。

 貴族などの高い地位にいる者や、豪商などの富裕な者は専属で占者を囲い、商売や政治の機微に娘や息子の縁談や引っ越しなど、折々に占ってもらい、それに基づいて処世していく。


 そうした託宣の中で、不吉なものも時には下される。

 鈴雪が生まれたときに下された託宣がそれだった。


「この娘は、やがて王を害するだろう。しかし、必要でもある」

 彼女が生まれた日、名門の末娘に相応しく三人の占者が呼ばれた。その者達が、口を揃えてそう告げたという。


 鈴雪の生家は何代も宮廷に重臣として仕える家柄で、先王の公主が降嫁した家でもある。臣下の中では抜きん出て高い地位にある家だった。

 そんな家に生まれた娘が、王に害を為す運命にあると言われてしまい、両親が絶望の淵に立たされたのは想像に難くない。そのような不吉な娘が生まれたとあっては、叛意ありと責められても仕方がないものなのだ。

 謀反は死罪。その罪は九族に及び、一族は女子供に至るすべての首を落とされ、遠縁でも流刑になるのは決まっていることだった。

 当時まだ存命だった鈴雪の祖母である銀蓮ぎんれん公主は、すぐに王宮へと赴き、当時玉座に就いていた異母弟に嘆願した。孫娘の命だけは救ってくれないか、と。

 王はひどく悩んだ。重臣達の中には助命するべきだと主張する者もいたが、ほとんどが即刻処刑するべきだという意見ばかりだった。そして、そんな者の生まれた家も取り潰すべきだと上申された。


 害になるが必要でもある、という言葉があったことと、仲のよかった異母姉の孫娘という情も手伝って、王は生まれたばかりの赤子を山奥の御廟に幽閉することを命じた。生涯決して王都に近づくことなく、その土地で天寿を全うせよ、という寛大な処置だった。

 ようやく首が座るか座らないかという鈴雪は、涙に濡れる母の腕から、御廟に仕える神女へと渡された。


 俗世での身分を剥奪され、神仏へ仕える身となった鈴雪は、実の親から与えられた大切な名前すらも封じられ、小花というありふれた名前で十余年の時を過ごしていたのだった。そのことは幼い時分から周囲に聞かされていたので知っていたし、それ故に、自分は生まれ育った御廟とその周囲の村からは決して離れないものだと思っていた。

 不吉な託宣を授かったからといって、親代わりの神女達は嫌がらせをしたり虐げたりすることもなく、年少の少女に優しかったし、村の大人も同年代の子供達も意地悪ではなかった。生活していく中で不自由なことはなにもなかった。

 だから、御廟での生活に満足していたのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうか――



 馬車は丸五日走り続けた。

 生まれて初めて見る王都の様子に驚く暇もなく、王宮の奥深く、後宮の中へと閉じ込められた。帰らせてくれ、といくら泣き叫んでも、当然のように誰も助けてはくれず、幼い神女はただただ絶望した。


 それからひと月後、鈴雪は王の妻となった。



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