彼は彼女の問いかけに
「雨、か」
ポツリポツリと地面に出来るシミ。ふと頭上を仰ぎ見ると、どんよりとした灰色の雲が空を覆いつくしている。普段ならば急ぎ足で帰るところだが、今日はどうにもそんな気分にはなれない。
地面を踏みしめる音と、雨粒が葉にぶつかり跳ねる音。いつもは喧しく口を挟んでくる精霊も、何を思っているのかじっと押し黙っている。
『……主殿よ、もうあやつの捜索は良いのか?』
「……ああ、もう昼も近い。この雨じゃ探すこともままならないだろうし、それで此方が遭難したら本末転倒だ。取り敢えず村に戻るよ」
『ほお、主はそれでいいのか? 朝にはあれほど息巻いていたというに、一体どういう風の吹き回しか』
「別に……俺は勇者じゃないし、聖人でもない。無茶をしたところでそれが上手く行くとは限らない訳だし、仕方の無いことだ」
俺の静かな返答に、精霊は一つ不機嫌そうに鼻を鳴らして答える。
『なんだつまらぬ。あのような小者の下らぬ依頼に、滑稽にも奔走する主殿の姿は中々面白かったのだがな』
「下らぬって……確かにお前から見れば人間なんか大したことは無いかも知れないがな、遭難するって事は人一人の命に関わる事なんだぞ?」
『フン、何を勘違いしている。確かに下郎共の命など我にとってはどうでもいい事。しかしそれを粗末に扱おうなどとは露ほども思った事はないわ。我が言っているのはな、その下郎の価値の事よ』
宙に浮かんでいた精霊は、一気に顔をずずいと近付けてくる。ほのかに揺れる彼女の輪郭が、チリと俺の頬を焼きつけた。
そこに今までの楽しむような、享楽的な雰囲気は存在せず、ただ淡々とこちらを見通すような視線だけがこちらを貫いている。
『我も常に見ていたわけではないが、それでも奴がしでかして来た所業はある程度把握している。面白くもなければ、我が目を掛けるほど才気に溢れている訳でも無い。おまけに主殿も聞いただろう? 己が欲望の捌け口を弱者に押し付けるなど、目に余る行為の数々を。そんな者に、本当に救いの手を差し伸べるだけの価値があると?』
精霊の言い分は非常にシンプルだ。悪を犯した者がのうのうと暮らす、その事実を良しとするかどうか。勿論、感情で語るならば『ノー』の一択だろう。それは人間として当然の反応だ。
だが、『勇者』としてはそれで良いのか。確かにその者が犯した罪自体は裁かれなければならない。だが、それとその悪人当人の命には何ら関係はないのだ。その悪人が窮地に陥っているならば、それを助ける事は正しい事の筈。
人命の価値に多寡はつけられない。いかに悪人であろうとそれは一個の命。そう考えて俺はこれまで生きてきたのだが、それを目の前の精霊は無価値だとバッサリ切り捨てた。
「どんな奴でも平等に救われる権利はある。命の価値に差なんてない」
『何度も言わせるな、下郎共の命の価値など我からすれば平等に無い。ただな、主殿の働きに見合うだけの価値があるかと聞いているだけだ』
「働き……? そんなの決まってる、人を助けるのに理由なんて要らないだろうが」
俺の答えに対し、精霊は暫し沈黙する。そのままじっとこちらを見つめたかと思うと、やがてふいと顔を逸らした。
『……まあいい。主殿がそう言うのであれば我は止めぬよ。だが、ゆめ忘れるなーーあくまで今の貴様は凡人だ。全てを救おうなどと、勇者として大成しようなどと思い上がるなよ?』
どきり、と心臓が跳ね上がる感覚を覚えた。
そもそも俺が何故勇者パーティーなどに参加したのか。勿論国から直接の要請があった事も要因の一つだが、それはあくまで要請。俺が断った場合も次の候補は決まっていた筈だ。
だが、俺は勇者と共に旅に出た。人を助けたい、その一念だけを胸にして。
思えば、俺は自分の力を前にして思い上がっていたのかも知れない。今でこそ自身の限界は重々承知しているが、当時の俺は国内でも有数の実力者であった。そして、国王から直々に選ばれたということも手伝って酷く舞い上がっていたのだろう。
それが、俺に夢を見させた。俺の生家のように、貧困や魔獣の被害に苦しんでいる人々を救えるという甘い夢を。
だが、結局旅の途中で思い知ったのだ。所詮俺は少し力があるだけの人間で、そこに世界を救える能力などありはしないのだと。
それでも一度見た夢は、鉄鎖の如く自分の事を縛り付けてくる。いくら忘れようとしても、夢は忘れさせてくれないのだ。
「……わかってるさ、その位はな」
『……フン、やはりつまらん。今の主は主殿と呼ぶに値しない程腑抜けている。我との戦いで見せたあの迸る激情は何処へ行った? 相手を打ち倒すという一念のみに掛けた主は何処へ行ったというのだ?』
「なんだよ、身の丈に合わない夢を見るのは嫌いじゃなかったのか?」
『戯け、その夢に追いつこうとすると意思が今の主には足りぬと言っているのだ。力も無く、意思もなく。あるのは惰性とほんの少しの諦めのみ。そんな体たらくで夢が果たせるとでも? ああ、全くもって気に食わん』
惰性、確かにそうかもしれない。結局鎖で繋がれたままずるずると引っ張られ、それでも諦めきれずにいるのがこの現状だ。
精霊の言葉は全て核心を突いてくる。何一つとして言い返せなくなった俺は、俯き加減になりながら森を歩く。
雨は先程から強さを増し、ポツリポツリと落ちていた雫が今やザァザァという雪崩となって頭上の葉を打ち付ける。時折溜まった雨水の重さに耐えかね、しな垂れた葉から雨水が降り落ち、一切の対策を施していない俺の服や頭を濡らしていく。
と、そんな俺の耳に荒々しい足音が届く。集落にほど近い場所である為人がいること自体はそう珍しくもないが、それにしても随分と慌ただしい。ふと顔を上げて辺りを伺うと、木々の隙間から慌てた様子であちこちを探し回る一人の獣人の姿が見えた。あちらも自分の事が見えた様子で、一気に顔を明るくすると此方へ近づいて来る。
「バグスさん! ようやく見つけました! 随分と探し回りましたよ」
「え、知り合いだったか? というか何の用で?」
「覚えてませんか? 昨日助けて貰ったロジスです!」
「あー……」
そういえば彼の顔にはどこか見覚えがある。体のあちこちに包帯が巻かれ、顔面も一部覆われている為一瞬見るだけではよく分からなかったが、確かに昨日俺が治療した青年だ。
怪我をした状況で随分と無理をしたようで、一部は傷口が開いて血が滲んでいる。彼を座らせ、
「すいません、ありがとう御座います……」
「気にするな。それよりも、そんなに急いで何の用だったんだ?」
「そうだ! バグスさん、図々しいお願いかもしれませんが今すぐ集落に戻ってきてください!」
「な、なんだ一体……別に元より戻ろうとは考えていたけど、何があったって言うんだ」
あまりに激しい剣幕。若干戸惑い気味になりつつも事情を伺おうとロジスへと詰め寄るーーその瞬間の出来事だった。
ーーグオオオオオオオオオオオオ!!!!
森林に一際低い、地の底から響くような唸り声が響き渡る。
この鳴き声、この威圧。俺はそれを既に経験していた。だからこそ、まさかと驚愕する。一日やそこらで、村を襲うほど回復するなんて。
「……まさか」
「そうです、あの声の主……狂獣が、集落を襲ってきたんです!」
ガツリ、と頭を金槌で殴られたような衝撃が俺を襲った。
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