第10話

「聞いてください、先輩。昨日は音楽室にいた首だけの幽霊と渡り廊下にいた逆さまの幽霊を退治しました!」



 翌日、陽來は理科準備室に来るなり、勝手に報告を始めた。


「そうか。それはよかったな」

「先輩、全然感情がこもってるように聞こえません。心配しなくても、わたしの成果は同じ部活にいる先輩の成果ですよ?」

「誰もそんな心配してねえよ。てか、いつから部活になった?」


 俺は沸いたビーカーを取り、バッグに注いだ。湯気が顔を煽る。



「……なんでおまえはそんなに幽霊退治をしたがるんだ?」



 核心になりそうなことを訊いた。「え?」と陽來が瞬きをする気配がする。


「なんでって……それは……」

「わかってると思うが、幽霊は基本的に何もしない。そういう連中をわざわざ消す必要があるのか?」


 ビーカーを三脚の上に戻して陽來を見ると、キョトンとした目が俺を見つめていた。まるで、どうして消しゴムを落としたら床に落ちるのか訊かれているみたいだった。


「……だって、幽霊は、成仏した方がいいんじゃないですか?」

「なら、もし幽霊自身が成仏したくないと言ったら?」


 陽來の瞳が見開かれた。


「幽霊と一言で言ってもいろんな奴がいる。意識のない無害な奴らはいいとして、ちゃんと意識があって話せる奴もいるだろう? おまえも言ってたじゃないか。生徒だと思っていた女の子に川に引きずり込まれそうになったって。そういう人間に害をなす幽霊は退治すればいい。正当防衛だからな。だけど、おまえを見てくれていたもう一人の幽霊の先生はどうだ? そのとき、もしおまえが既に銃を持っていたとしたら、その先生を消したのか?」


 コーヒーのバッグを捨てて、カップを陽來の前へ押しやった。

 黙りこくって陽來は揺れる黒い液体を見下ろす。サッカー部の挨拶とホイッスルが響いた。どうやら紅白戦が始まるらしい。指示を出す声がこの部屋にまで聞こえてくる。



「……どんな理由があっても、幽霊は現世にいるべきじゃないと思います」

「それがおまえの答えか……」

「はい。あの世に安らかに帰してあげるのが、幽霊にとって一番よいことだって昔、お姉ちゃんも言ってました。そうすれば、いつか魂は生まれ変わってまた現世に生まれてこれるって」


 輪廻転生か。信じてるわけじゃないが、もっともらしい意見ではあった。


 何か反論できることはないかと考え、窓へ視線を巡らせた俺は凍りついた。

 マユリが窓の外から目から上だけを覗かせ、こっちを睨んでいた。半透明のその姿は空の青に同化して視えるが、透けて視えない陽來が見つけたらその存在に一発で気付いてしまうだろう。


 バカ、あっち行ってろ。


 目だけで訴えるが、伝わる気配はない。マユリは幽霊みたいな恨みがましい眼差しを俺たちへ注いでくる。いや、幽霊だけど!


「先輩?」


 陽來の不思議そうな声がして、俺は慌てて顔を正面に戻した。


「……ちょっと換気するか」


 適当な理由をつけて俺は立ち上がった。陽來の視線がマユリにいかないよう身体でブロックする。



「……先輩。わたし、幽霊退治ができるようになって心からよかったと思ってるんです」


 窓を開け、マユリをシッシッと追い払っていた俺の耳に陽來の声が飛び込んできた。


「わたし、霊感だけは昔から人一倍強くて、それで悲しい思いをすることばかりで、自分の能力を恨んできました。何の役にも立たない、いらない能力だと思ってきたけど、今、銃を手にしてわたしもやっとこの能力を活かすことができるようになったんです」


 外の壁にへばりついていたマユリが内側へ沈んだ。部屋に入ってくるつもりか? 俺は振り返って室内を見た。マユリの姿はない。代わりに微笑を浮かべる陽來と目が合う。


「それに先輩、わたし……」


 言いながら陽來は立ち上がり、俺へ近付き――


「きゃあっ!」


 盛大にコケた。つんのめる身体。手は助けを求めるように正面にいた俺へと伸ばされ、


 咄嗟に俺は身を引いていた。

 陽來の手が空を切り、その身体が床に沈む。ベチャと音がした。


 すまん。


 床に無様に倒れている陽來に心の中で詫びつつも、ほっと息をつく。


「ったたたー……先輩、避けなくてもいいじゃないですかー……」

「悪いな。潔癖症なんだ」


 身体を起こした陽來は足元に転がっているホウキを拾い上げ、首を傾げた。


「なんでこんなところにホウキがあるんでしょう……?」


 絶対マユリだ。

 俺は肩を竦めただけでやり過ごす。陽來はホウキを机に立てかけ、立ち上がった。いじらしく両手をもじもじさせながら俺と向かい合う。


「先輩と出会えたのも、幽霊退治をしてたおかげじゃないですか。あのとき、あの場所に先輩がいなかったら、あそこでわたしが銃を使わなかったら、わたしたち、こうやって知り合ってなかったかもしれないですよね」


 照れたように言う陽來の言葉は、しかし、俺の頭にはよく入ってこなかった。


 まだマユリは見当たらない。一体、どこへ行ったのだろうか。まさかあの悪戯好きが、シリアスなこの空気を読んだからって攻撃の手を緩めるとは思えない。


「……先輩はわたしのこと、気味悪がらないです。わたしを無視しないし、バカにしないで話をちゃんと聞いてくれるし、いつもコーヒー淹れてくれます。

 わたしにそういうことしてくれた人、初めてなんです。今まで学校では人間の友達ができなくて、幽霊ばっかと話してたんです。人間の友達を作ろうとしても、みんなに避けられてて、こうして普通に話してくれる人がいなくて……」


 そこで陽來は言葉を区切ると、思い詰めたように俺を見上げた。つぶらな大きい瞳が真っ直ぐに俺を射抜く。それでようやく俺は意識を陽來へ向けた。


 純粋すぎるまでの必死さで少女は言う。



「だから、わたし、今すごく幸せなんです! 先輩はわたしの初めての人間の友達なんです! 先輩、わたし、部活には入らないで毎日ここに通うんで、これからもよろしくお願いします!」




 深々とお辞儀をした陽來の後頭部を見つめ、俺は洩れそうになる嘆息をかろうじて堪えた。陽來の背中にはアッカンベーしたマユリが乗っている。


 さて、困ってしまった。


 俺は困惑を押し隠すようにコーヒーカップに手を伸ばした。ここで苦い液体を思いっきり飲み込んで、渇いたような気がする喉を潤したいところである。

 だが、それは叶わない。


 俺はカップを目の高さに持ち上げてみた。白いカップの持ち手は俺の手を透かして完全に見えてしまっている。




 ――そう。

 今更、俺が幽霊だなんて言えるはずがない。


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