ナイトメア -nightmare-

鳥ヰヤキ

ナイトメア -nightmare-

 暮れていく夕陽が熟れきった林檎のように赤く腫れながら、海の中へと落ちていく。まるで焼けた体を冷やしにいくみたいに。雲はその周囲で散り散りになりながら、金や薄青のグラデーションを描いて、夜を呼び寄せる為の軌道を作る。

 僕はそれを、街を見下ろせる小高い丘の上で、柵に両腕を乗せながら見ていた。鼻をつく潮の香りも、少しずつ冷たくなってきた。ぼんやりと、ただ時が無為に過ぎ去っていくのを眺めていた。

 帰ろう、という感情は到底浮かばなかった。だって帰る場所がなかった。

 この街に来て三日。僕は紹介された住処を無視して、フラフラと放浪している。縄張りを持てない野良犬みたいに、風に吹かれる綿毛みたいに。

 師匠の所にひっそり戻ってしまおうか、とも思ったけれど。師匠が僕をここに置いて行った理由を考えると、それも不安だった。仮に捨てていかれたならば、嫌がらせに戻る気力も湧くのだけれど(僕は性格が悪いので)。でもきっとそうじゃなくて、あの爺さんは「自分の先が長くないのを予感して」、ここに僕を置いて行ったのだ。

 爺さんの、皺だらけの掌が僕の背中を抱いていた。分厚く盛り上がった爪が、ささくれのような鱗が、カサカサと当たって少し痛かった。そうして、腕を持ち上げて、さあ、と言ったんだ。その腕は、僅かに震えていた。

 あの時の会話を僕はもうあまり覚えていないけれど、爺さんは行かないの、と訊いた時、首を横に振られたことだけはハッキリと覚えている。

 師匠は――年相応に弱々しく、ちんまりとしていて、いかにも鈍重だったが――誰よりも頑固だった。僕を拾い上げ、生かしてくれたのはあの人だ。失った両脚の代わりをくれたのも、生きていけるだけの技術をくれたのも……だからつまり、いつ捨てられたって僕は文句を言えないのだ。

 ……ああ。しょうが無いな、僕は……やっぱりこんなに悲しいのは、心のどこかで『捨てられた』って思っているからなんだな。きっと。


 三日前。海も空も目を疑うくらいに青くて、明るくて、何もかも目眩がするほどに輝いて見えた。あちこちを見渡しながら、呆気にとられて溜息を漏らす。寂れた漁村にでも繋がっているかのような、みすぼらしい関所の門を潜り、師匠の手から離れて少しばかり進んだ所。師匠の口から、この先は『魔界』だと聞かされていたから、覚悟を決めてここまで来たのに。魔界とは……僕のような悪魔や、その他様々な妖怪・妖精の類がひしめいて暮らすとされる、人間なんか入った瞬間に殺されてしまうような、文字通りの人外魔境。鬼畜の極みのような邪悪が幅を利かせ、空気は淀み水は腐り、光も射さない廃墟の中には骸骨がたくさん転がっている……そんな場所だと思っていたのに!

(……人間も、魔族も、一緒に暮らしている…?)

 無論、今まで魔界になんて来たことがなかったからこそ、こんなことを思ってしまうわけだ。悪魔は本なんて書かないので(僕もそうだが、魔族全般は人間と比べて想像力や表現力に劣る)、魔界のイメージと言えば人間が語り継いできたものばかりだったから、実像と掛け離れていても不思議ではないのだけれど……これはあまりにも、想像と違いすぎた。魔界と言うよりは、まるで楽園だ。空気には濃い魔力が溢れ、甘酸っぱい良い香りで満たされている。白い漆喰で覆われた、目にも鮮やかな家屋の数々には、溢れんばかりの花々が咲き乱れ、その緑の蔦がカーテンのように垂れ下がっている。人間達は皆明るい表情で仕事に励みながら、和気藹々と暮らしているように見えた。そしてその間を、緑や青の肌を持つ一目でそれと分かるような魔族達が何食わぬ顔で通り過ぎ、お互いに挨拶を交わしたり、僕らの方を好奇の目で見たりしていた。時折、小さな妖精達が風に乗ってやってきては、耳元で歌を残していく。

『南の魔界へようこそ、ようこそ少年! 歓迎するわ、ようこそ少年!』

『その脚はニワトリの脚かしら。それともカカシの脚かしら。クスクス!』

 悪戯好きで性悪な、あいつららしい歌だ。乱暴に振り払うと、銀色の鱗粉を残してどこかへ消えた。

「……相手にするな」

 先導していた男が、冷淡な声で言う。

「いつもこんなに賑やかなんですか? えぇ~と……ヴィガラス、さん」

 男は、何も答えなかった。彼は背の高い筋骨隆々な男で、彫像じみた生命感の無い灰褐色の肌に光を浴びると、逆光で殆ど真っ黒な影そのもののように見えた。顔や胸元の他は厚い毛皮で覆われており、その黒くふさふさとした剛毛が反射による硬質な光を放っていて、より異様な雰囲気を醸し出していた。彼は無口でもあり、さっきの一言が実は初めて聞いた台詞だった。喋れないのかと思っていたくらいだ。

 彼はズンズンと先へと進んでいく。ここでは重要な人物なのか、時折住民が頭を下げて挨拶したりしているが、彼は全てを無視して、まるで止まることを知らないイノシシのように丘を登っていく。見た目はゴリラそのものだが……。彼は結局城門前まで一切足を止めることはなかったので、あの巨体でなければ見失っていただろう。

「フェイツ、お前はまず魔王様に謁見をしなければならない」

「は、はぁ……」

 息を整える暇もない。言っている意味もわからない。ひとまず、必死に落ち着こうとする。

「えーと……魔王? 魔王って……」

「ここ『南の魔界』を統治していらっしゃる、水の魔王ハイドロ・カーディナル・フィグ様だ」

「はぁ……はい……?」

 見上げた先にあるヴィガラスの顔はどこまでも渋くて、冗談を言っているようには見えない。いや、最初からこの顔だから、どれが冗談でどれが本音かも分からないけれど。でも、冗談であって欲しいと心底思った。

「魔王って、その、アレですよね? 四元素の王、自然界の支配者、全ての始まりから既に存在する者……っていう神様っぽい人。というよりは神そのもの、みたいに云われている、あの」

「ああ。よく勉強しているな」

 感心、と言った顔で頷かれて、逆に僕は苦笑してしまった。

「いや、もしも魔王様なんてお方がここに本当にいるのだとしても、ですよ。僕は、お会いしませんからね。というよりも出来ないでしょう?」

 僕はもう、駄々をこねるように吐き捨てた。魔界の有様については、この洪水のような光と恵みとに溢れた姿によって想像を大きく裏切られた訳だが、いきなり魔王、というのはあまりにも刺激が強すぎないか?

 花が花として生を謳歌するように、魔族も魔族として生を得ている。万物には命が宿り、それらはこの地球上に満ち満ちている。四つの属性を持つ魔力(エーテル)の循環が、この世界を形作っていて、それらを司る者であり、またそれら自体の具現であるお方が、魔王その人だ。

 水の魔王ともなれば、地球上の全ての地上・地下水路や広大な海洋から、大小あらゆる湖池(水溜まり)、天から降る雨雪の一粒、そして生命体を生かす血の一滴までを漏れなく支配しているという話だ。

「大海が、波間を浮かび揺れる木の葉をいちいち顧みたりするでしょうか? 火の玉が、おびき寄せられた虫一匹に情けを掛けることがありますか? 僕はそんな大いなる人達にとって、そういう木の葉一枚、虫一匹に等しい存在だと思います。そんなお人に謁見するだなんて、冗談が過ぎるでしょう」

「ああ、それは……、…………」

 ヴィガラスは何か言おうとしてすぐに口を閉ざしたのだが、僕はその時そっぽを向いて熱弁していたので、そのことに全く気づくことができなかった。

「とにかく僕は魔王様とやらには、絶対に会いません。怖いので会いません」

「取って食いやしないのに?」

「甘言で欺そうったって、そうはいきませんよ。実際何をされるかなんて分からないんですからね!」

「ふ~~~ん、私も嫌われたもんだなぁヴィガラス」

 声が違う、と気づいたのはその時、ようやくだった。もっと早くに気づいていれば……こんな大失態を晒さなくて済んだかもしれないのに。

「ええ、そう…………ハ?」

 ヴィガラスはとっくに横に控え、両腕を背中側に組んでじっと黙っていた。え。と、間抜けに溢して顔を上げると、城門に軽く寄りかかるようにして、一人の男が立っていた。

 赤い皮膚に紫の髪を長く垂らし、山羊のような大角一対を頭から生やしている。その影には不思議と境界線がなく、よく見れば彼の体はゆらゆらと揺らめく黒い煙のようなもので覆われていて、それは高純度の魔力が周囲の空気と摩擦を起こすことで生じる、陽炎のようなものだと分かった。

「よ~~こそ」

 本来の眼窩と額との三カ所に彼の眼はあり、その三つの眼が一緒にニタ、と、笑みの形を作った。

 間延びした口調は威厳のカケラも無い、と思わせる程なのに。この人が魔王だなんて、いや、冗談でしょう、と本来ならば笑ってしまうだろうに。僕は彼の姿を認識した瞬間、まるで動けなくなってしまった。

 存在の証明は、名前に宿るのではない。見目に宿るのでもない。振る舞いに宿る。更に言えば逆説的に、存在そのものがその存在を証明する。……彼が魔王だと、誰に言われなくとも分かった。彼の姿を認識した瞬間、自然と頭を地に触れる程に下がり、体はその場に投げ出された。気圧されて腰は抜けていたし、産毛まで総毛立って、震えて歯が鳴りだしていた。けれど目を逸らすことは出来ない。この星に生きるならば抗いがたい畏敬の念が……それを決して許さない。

「……ま……おう、様。魔王ハイドロ様……」

 彼は、纏った煙を鉤爪のような形に変えて、それで髪を掻き上げて頷いた。ん、と、顎を軽く引くだけの仕草。なんてカジュアル……なんて軽薄……。くらくらしながら、この悪い冗談がすぐ終わってくれることを願わずにはいられなかった。魔王様は、うーん、と少し逡巡した後、突然パチンと指を鳴らした。

「ま、『楽にしろよ』」

「――ッ、ハァッ、ハァッ……!」

 楽にしろ、と命じられた瞬間、本当に楽になった。息が詰まるような緊張感が解け、張り詰めていた思考の糸が切れた。再び顔を上げると、相変わらずその人の笑顔がそこにあった。まじまじと見てしまう。……まじまじと、見る余裕さえある。

「……楽になりました」

「ああ、そうだろうな」

 全くの当然、と言う涼しい顔がそこにあった。

 僕は……何をされたのだろう? 先程まで自分を支配していた恐怖と畏敬の念は綺麗になくなった。もちろん、記憶としてそうしていたことは覚えている。その理由も。だから、経験そのものを失ったわけではない。ただその実感が……感情が、まるごと無くなってしまった。まるで砂に書いた文字が、波にまるごと呑まれて消えるように。訝しく見ていると、彼の方もジッと、至近距離で僕の顔を見つめた。彼の三ツ目全てに、僕の顔が映り込んでいる。少しだけ、後ずさる。その分だけ、顔が近づいてくる

「さてさて、やっと顔がちゃんと見える……うん、うん。なるほどな。よし! もういいぞ~、顔も名前もバッチリ覚えた。だよな、フェ……フェイ……フェイチュン」

「フェイツです、魔王様」

 ああ、そうそう! 彼は軽快に笑いながら、もう僕からは背を向けていた。何事かヴィガラスに指示を出しているようだったが、聞き取れない。ただ、なんとも言えない不穏な気持ちが胸の中に広がっていて、落ち着かなかった。魔王様が城に戻ろうとした時、彼の山羊蹄が床を慣らすのを合図とするかのように、その後を数人の侍女が従うのが見えた。彼女等は皆人間で、人種も様々であった。彼女等が手にした盆の上には、色とりどりの新鮮な果実や焼きたての菓子、茶器類が置かれていた。

 やがて城門が閉まり、僕はヴィガラスと一緒にその場に取り残される。魔王がそこにいたという痕跡は、もはや盆上から漂っていた甘い残り香だけになっていた。僕はそのまま、疲れに任せて座り込んだ。

 ヴィガラスは僕の手を引き、動けないままだと分かるとズルズルと無情に引きずっていく。僕は散歩を嫌がる子犬のように、為すがままにされていた。

「……恐ろしい方ですね、あの方は」

「お優しい方、ではなく?」

 ヴィガラスの言葉に、小さく頷く。彼はふと立ち止まり、丘の中腹に僕を座らせた。そしてじっと、僕を黙って見下ろしていた。

「お前が今日、何か違和感や恐怖を感じたとしても、それもいつか忘れるだろう」

「どうしてです?」

「水は万物に染みこみ、いかなる硬度を持とうと必ず穿つ。溶かせぬものは無く、流せぬものも無い。万物溶解にして万物流転の法則が、あの方の本性だ」

 ヴィガラスという男は終始真面目で、眉の無い顔からは表情らしきものも覗けない以上、全て真実として聞くしかなかったが、演説さえ平坦で、耳の右から左へと流れていくのも仕方が無いと思う。

「……え、と。つまり……?」

 頭が異常に疲れていて、視界が霞む。ヴィガラスは、小さく頷いた。

「つまり、水を受け入れることは、自然なことだ」

「……意味が、分かりません」

「お前を歓迎する、ということだ」

 彼は、今にも眠ってしまいそうなくらい朦朧とした僕の体を、小枝のように軽々と持ち上げて、街の一角にある狭い家屋へと放り込んだ。開放的、というよりも窓の木戸が壊れて開けっ放しで、風の通り道になっている部屋の端の、ベッドのつもりらしい木枠とその中に敷き詰められた藁の上に投げ出される。ヴィガラスはそれきり消えてしまったし、僕も僕で殆ど体が覚えているままに、両脚の義足だけを外し、それを小脇に抱えて目を閉じた。その日は、そのまま泥のように眠ってしまった。


 魔王様には、それきり会っていない(あんな恐ろしい相手と、そうそう会いたいとも思わない)。ただ、城の方を覗き見ると、鍾乳石の群れのように折り重なった白い尖塔と、それを彩る青い屋根とのコントラストとの間に、たまにあの赤い影が見えるような気がした。

 城も、街も、とても魔族に向けて作られたものではないということを、その頃には確信していた。サイズも建築様式も、どれも人間が暮らすためのものだ。人間と魔族が共存しているのだろうか。もちろん、それもあり得る……魔王が治める街なんて、誰も襲いたがらないだろうし。

 ここの人間達は、皆ニコニコと幸せそうに暮らしている。悪魔達にも、和やかで明るい挨拶を向ける。たとえ悪魔達に顧みられることはなくとも、あくせく働き、収穫や生産物を魔王達に日々献上し、自身等は静かな生活を楽しんでいる。

(共存の形、なのだろうか。いや、でもこれは、むしろ――)

 ……そんな風に、取り留めの無い考え事をしていた時。不意に、ご機嫌よう、という声が聞こえた。

 明らかに僕の方へと向けられた声色だったが、僕は知らんぷりをしていた。陽はすっかり沈んでしまって、緋色の残り滓が雲を桃色に染めるだけだった。

 風に乗り、波の音がここまで届く。その静かで正しいリズムに混ざる、足音。石畳を叩く、堅く軽快な、四つ足の音。

「貴方が、フェイツですね。ヴィガラスが貴方の話をしていました」

 柵に乗せていた掌の隣に、来客の掌が並ぶ。貴人、という印象を受けた。女性じみた、ほっそりとした長い指先を覆う白い手袋は、最高級のシルクだろうか。夕暮れの空気の中でもそれだけが光って見えるくらい艶やかで、腕を通す衣服にも見事なレースや刺繍が施されている。……軽くため息をこぼし、観念して、視線を声の方へとやる。

 そこには、輝くほどの美貌の男が立っていた。流れるような銀髪は、初雪のように煌めいて長く伸び、その毛先は香り立つような菫色に染まっている。瞳は、片方を真珠、もう片方を純銀で精製したかのような虹彩異色(オッドアイ)。純銀の眼の方には、モノクルがはまっている。衣服も装飾品も、徹頭徹尾高価な品で、例えばスカーフ一枚でも落としたならば、拾った人は家の一つでも買えるだろう。浮き世離れした美人だ。事実、浮き世の者ではないのだろう。

 完璧としか言い様のない彼の肢体の内、人間の形は上半身までだ。彼の下半身は、白い馬だった。

 柔和な紳士の外面に反し、下の馬身は猛っている。

 掘り返しでもするかのように、苛々と何度も、ひずめが石畳を叩いていた。

「あの人が誰かの話をするなんて、本当に珍しいことなのですよ」

 僕は、表情を崩して困惑を悟られぬことのないよう、努めた。喧嘩は、驚いたり、先に背中を向けた方が負けだ。特に売られた喧嘩であれば尚更だ。

「何のご用ですか、魅了(チャーム)の魔法を垂れ流しになんかして」

 そう告げると、彼はおや、と微笑した。魔法の種類が分かるのですか、まだ小さいのに偉いですね。全く笑う気もないくせに、そうわざとらしく言うのだから、堪らない。

「ですがね、私の魅了は生まれつきのものでして。ほら、この美貌でしょう? 誘惑する気なんて更々ないのに、困ったものですよね」

「…………帰っていいですか」

 僕は柵に手を掛け、腰を落とし、その気になればいつでも走れるようにしていた。相手が馬の脚力を持っていても、小回りを利かせば逃げ切れる自信はあったからだ。問題は、殺気立った馬というのは常時以上の力を発揮するものだし、それが魔族であれば一層読めないということだった。

「私、クレセントムーンと申します――私には意中の方がおりましてね」

 彼は、一歩、二歩と歩を進めてくる。人ならず、そして馬のものでもない、金属を貼り付けたかのような瞳が、黄昏れゆく空の薄闇を映しながら近づいてくる。ああ、嫌になってしまう。本当に、嫌になってしまうな。またこのパターンか。

 魔族というのは下手に理性や知性を持つから、自然界の動物達と違って、棲み分けをするのがとても下手だ。

 弱く小さければ隠れ暮らし、それなりの領域を確保できるだろう。強いものはそれらを狩りながら、自身のコミュニティを守れるだろう。人間であれば、互いの力量差なんて無いに等しいことにも気づかないまま、媚びや欺瞞を上手く使って一生幸せに暮らせるだろう。だけど、僕らにはそれが出来ない。

 自由に、気ままに、自身の魔力をぶつけ合って吠えながら、火花のように生きるしかない。……だから、すぐに争ってしまう。

「その方は名をヴィガラスと申しまして、似合わない宮仕えなどをしていらっしゃるのですが。ええ、貴方の話をそれはもう、楽しそうにですね……」

 肩を掴まれる――耳を疑う。目を剥く。唇が引き攣る。ああ、嘘だろう? 馬鹿なのか?

「……嫉妬?」

「ええ」

 ゆっくりと、ねっとりと、しっっ…――と。ですよ、と彼は告げた。

 鼻で笑ってしまう。……今にも殺されるかもしれないのに。でも抑えられなかった。清々しいくらいに笑ってしまった。肩を掴まれていなければ腹を抱えていただろう。両脚をバタつかせて大笑いしていただろう。下らない。下らない、なんて下らない!

 僕は――生きるだけで精一杯なのに――ああ、なんて運の無い!

「下らない痴話喧嘩に僕を巻き込むなッ!」

「不幸を御せない自分を呪え!」

 クレセントムーンの体を突き飛ばした瞬間、彼の掌から黒い針のようなものがびっしりと延びたのが見えた。その針は僕の頬を掠め、血の雫が宙を舞った。血は青紫に光って、やがて霞となって消える。僕はその前に、彼から背を向け、全力で大地を蹴っていた。

「私は『夢魔(ナイトメア)』でしてねぇ。貴方に追いつかなくても一向に構わないのですよ。私の針が貴方に夢を見せてくれるでしょう。貴方の記憶を、貴方の認知機能を、ドロドロに溶かしてしまうような素晴らしい悪夢をねぇ」

 風を切って走った。もう、クレセントムーンの姿さえ見えない筈だ。なのに、声は耳元で囁かれる程に近くから聞こえてくる。まるで妖精の甘い歌のように。反射的に振り払うが、手は空を掻くばかりだ。

 どんどん、夜が深くなっていく。それにしても夜になるのが、早すぎやしないか。足下さえ見えないくらいに暗い。初夏特有の濃く湿った芳香が、真っ黒な泥のようにまとわりついてくる。

「無駄ですよ。無駄。逃げたって無駄。声を涸らして泣いても、藻掻いて両手を振り回しても、誰にも届かないし何も掴めない」

 だって、夢は魂が見せるものだから……夢は魂と繋がる鏡だから……お前がお前である限り、夢はお前を追ってくる。

「……っるさい!」

 耳を塞ごうとした瞬間、何かに脚を取られて転んだ。頭が痛い。鼻が熱い。……ああ、どうして。顔を上げても、真っ暗だ。星の一つも見えない暗闇だ。立ち上がり、ふらつきながら走る。黒い泥が足下に絡み続けている。ふわふわとした綿を蹴っているようにバネが利かない。心臓ばかりが早鐘を打って焦っているのに、全く進んでいないようにさえ思える。

 せめて、光のある方へ。街の地図を必死に頭に思い描きながら、走る。足下がぐらぐらして、スピードが出せない。後ろから、嘲るような笑い声が聞こえた。

 やがて、街に出た。そこには人間達の営みがあり、まるで祭の日のように賑やかだった。路上で酒を飲む人々でごった返し、狭い通りにまで洋燈(ランプ)が吊るされ、その炎がチカチカと眩しく照りつけている。光の下に出たことで、まとわりついていた影は消えた。……しかし、全身に痒みが残っていた。苛々と毒づきながら、背中を丸めて歩いて行く。疲れのあまり、早くは歩けない。腕を掻き毟りながら、喧噪の間を通り抜ける。早く、早く、帰りたい。

「ああ、悪魔様! どうなさいました、酷い格好ですよ?」

「悪魔様も飲まれますか? ササ、遠慮なさらず!」

 人々が集まってくる。ああ、なんて鬱陶しい。大きな芋虫の群れみたいだ。ブクブクと太っていて、なんて臭い。頭が痛い。喋るな。話しかけるな! 僕の苛々はついに抑えきぬまでに膨れ上がった。

「どけ……お前等どけッ! 人形共、飼われるばかりの人形共のくせに!」

 周囲が、急にシンと静まりかえる。一度口から出てしまえばもう止まらない。僕は拳を振り上げながら叫ぶ。

「そうだ人形だ! この国ごと魔王に乗っ取られて、誰も彼も正常なものが何も見えなくなったんだろう! ああ、正しくここは魔界だろうな! 知らない間に魔王や悪魔に支配されて、労働力として……家畜として飼育されているにも関わらず、何も気づかずに呑気に暮らしている。どれだけ搾取されても、そうして、笑っている! 誰も可笑しいとは思わなかったのか! お前等は只の豚だッ!」

 人間達は、きょとんとしながら互いに顔を見合わせながら、ついに決壊したように笑い出した。ビリビリと、音の波が皮膚を揺らす。只でさえ痒い皮膚がもっと痒くなって、発狂しそうだ……。

「人形だって、俺たちが?」

「おかしなことを言うんだなぁ」

「じゃああんたは只の泥人形だな」

 は? 何を、言って……。

 ビチャ、という嫌な音がした。粘度を持つ何かが剥がれ落ちたような音。……足下を見ると、そこには水溜まりが出来ていた。青黒くて汚い、泥のような水溜まりに……どんどん、次の泥が落ちていく。

 ――ああ、これは僕の血肉だ。

 僕は、溶けているんだ。

 両掌で顔を覆う。そこにはもう顔らしきものはなくなり、目玉と、腐って粘る皮膚ばかりに覆われた、骨格だけが存在していた。その指の隙間からも次々と、僕の破片が流れ落ちていく。

 沢山の笑い声を背中に受けながら、這い蹲る。もう声も出ない。頭が痛い。真っ白な光に背中を焼かれながら、ナメクジのように惨めに這った。


 ……帰りたい。

 そう、何度思っただろう。

 ここに来てからだけじゃない。師匠の所にいた時から。その前に屋根裏暮らしをしていた時から。そしてきっと、全ての始まりの時から。

 僕はどこかに帰りたかった。

 そんな空っぽの気持ちを抱えながら生きていると、常に焦りが生じていた。刹那の感情に振り回され、衝動に身を任せてる日々。自堕落。無責任。浮かんでは消える泡のように。

 ……本当はどうしたかったんだっけ。ああ、そうか。僕にはまだ、辿り着きたい未来の像さえないんだ。じゃあ、どうして走っているのか、生き続けていたいのか、なんて。

(……死にたく……ない……)

 それだけ。僕を突き動かし、正気を与える理念は、ただそれだけ。

 師匠はあの時、なんて言っていたっけ。震える腕を関所の門に向けて、嗄れた声で……緑の眼を僕に向けて、あの朝の霧の中で……なんて……。


 気づけば僕は、森の中にいた。南国らしい植物が生い茂る、湿った匂いのする森の中。バナナや椰子の果樹が点々と立ち並び、足下では蟹が蠢いている。自分の体を見下ろせば、それは昔馴染みの痩せた体に戻っていた。鼻をさすると血でぬめり、あちこちに引っ掻いたような切り傷はあったが、それでも体が溶けたりはしていなかった。ホッとして、ゆっくりと呼吸をする。その時、右足に鈍い痛みが走った。

「いっ……た……っ」

 よろめいた拍子に、転んでしまった。何事かと自分の脚を見る。……自分には、事故で膝から先が無い。両脚ともだ。その不自由を感じずとも生活できていたのは、精巧な義足を持っていたからだ。魔法具制作に長けた師匠が自分の合うように作ってくれた、魔力で繋げて実際の肉体のように動かせる、優れた義足があったからだ。

 しかしその実態は、華奢な木製の工芸品に過ぎない。だから、一時的に魔力が不安定な状態で動かせば……この様に、無様に破損してしまうのだ。

「……うわ……」

 臑から斜めの線が入り、ぱっくりと割れていた。自分の体が壊れた悪夢(ゆめ)よりもずっと鋭い痛みが胸を刺し、反射的に破片を探そうと起き上がって、バランスを崩して転ぶ。……それに、破片なんて、どこにあるっていうんだ。どうやってここまで歩いてきたのかも覚えていないし、いつ壊れたのかも分からないのに。暫く、顔を地面に押しつけたまま、倒れていた。次第に、肩が震えてくる。笑おう。笑うしかない! ……そう心では思っていたのに、実際に溢れたのは嗚咽だった。

 大切なものが壊れてしまったことが悔しいのか?文字通り脚を無くして、これからどうやって生きていくのか不安なのか? いや、そういう具体的な意思すら伴わない、単なる嗚咽。それこそ子供のように泣きじゃくった。自然と地面を叩いていたから、悔しさもあったのかもしれない。

 ……無防備に、湧き上がるままに、泣くに任せていた。やがて泣き疲れて鼻を啜っていると、視界の先に大きな男の爪先が見えた。

「…………何をしているんだ…………」

 ヴィガラスは、両手にバナナを抱えてそう呟いた。彼らしからぬ、困惑の滲んだ声だった。

 聞けばこのバナナ農園の奧に、彼の家があるという。僕はバナナよりも乱雑に持ち運ばれた上で、適当極まる治療を受けている。

「貴方の恋人に襲われたんですよ」

「はぁ……いたっけな、そんなの……」

「ちゃんと首輪でもしといて下さいよ」

 板張りの床は磨かれているのか何かが塗られているのか、スベスベと光沢を放っていて、蝋燭の灯りを受けて柔らかく輝いていた。周囲には香のような匂いが立ちこめている。

 ヴィガラスの部屋は、まるで図書館だった。人間の金持ちでもそうそう持っていないであろう量の本が、まるで大切にもされずにフルーツと一緒に無造作に積まれているのを見て面食らう。しかし、不思議と落ち着く空間ではあった。

 ……本来ならば、この男のことこそ警戒すべきなのだろう。けれど、もう、いいや。という気持ちでいた。後が無いのであれば、せめて今の甘い安心感を享受しておこうと思った。背中を伸ばし、横になる。木床は僅かに熱をもっていて、温かかった。

 ――もしもの時は、逃げればいいのだ。這い蹲ってでも惨めでも、最後まで。

「これ、よく出来ているな」

 ヴィガラスは、外した僕の義足を手に持ち、しげしげと眺めていた。眼鏡を掛け、細部までじっくりと見ている。……プライベートでは眼鏡を掛けている、ということが、なんだか少し可笑しかった。

「盗らないでくださいよ」

「駄目か?」

「ダメですよぉ」

 そうか、とあっさり引き下がると、彼はそれを投げて寄越した。間接に合わせてたわみながら、弧を描くように、僕の掌の上へと落ちてくる。馴染んだ質感。自分のもう一つの肉体が、掌に納まる。

「じゃあ、自分で直すんだな」

 その言葉を聞いたとき、思わず「あ」と声が出た。

 自分で。そうだ……自分で。

 師匠の言葉が、稲妻のように蘇る。白く反射する濁った霧の中で、あの人は痩せ細って衰えた体で……しかし声ばかり若々しいまま、こう言ったんだ。強い光を放つ緑の眼で、僕を真っ直ぐに射貫きながら。

「自分の家を自分で見つけなさい」……と。

 当然だろう、と思っていた。僕は師匠と別れることが悲しいあまり、その言葉の意味を深く考えることもなく、すっかり忘れてしまっていた。でも、やっと少し、わかった気がした……。

「どうした?」

「……何でもないですよ。ねえヴィガラス、今夜はここで寝てもいいでしょう?」

 返事を待たずに、彼の胡座の間に滑り込む。彼は僕を脚で軽く蹴って、退ける。僕は転がりながら、ヒヒヒと笑う。

 直そう。僕が自分の手で。手本はここにあるのだから、きっと出来る。

 そうして義足を抱きながら、僕は一瞬の微睡みの後、すぐに眠ってしまった。今度は夢を見る暇すらなく、ただストンと、甘い安寧へと落ちていった。


(終)

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ナイトメア -nightmare- 鳥ヰヤキ @toriy_yaki

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