ヒースと魔法の飛行船
野分 十二
第1話 風の飛行船
「名前は正しく呼びなさい。
名前は誰もが持つ魔法なのだから。」
ヒースのママはいつも彼にそう言った。
この日も飛行船を飛行機と呼び、諭された。
けれど、その間違いも仕方が無かったのかもしれない。
ヒースはこの日、生まれて初めて飛行船を見たのだから。
ヒースの暮らすブランシェット村は小さな村で、少し街へ行くにも車で数時間はかかるような田舎だった。
お隣と肩を擦り合わせるような窮屈さで建ち並んだ家々は古く、坂ばかりの道を覆う石畳はすいぶん長く放ってあるので酷くガタガタしている。
そのガタガタ道を登りきったてっぺんには、昔この土地を治めた貴族の持ち物だという古く小さなお城、フラム城が建っている。
フラム城より向こうは切り立った崖になっていて、城の近くまで行くと、果てしなく広がる海を見渡す事が出来た。
ブランシェット村の人々はこの古い村を愛していた。
村の大人達は我が家の外壁を思い思いの色に美しく塗り、道には沢山の花を籠に入れて育て、当番を決めてフラム城のお手入れに精を出し、カラフルな村を美しく保つ事を誇りにしていた。
そんな村人達には、もう一つ誇りがあった。
それは村よりも大きく広がるぶどう畑で、ブランシェット村にあるぶどうの木を全部合わせると、村人全員を合わせた数より何倍も多い程だった。
村のほとんどの大人はこのぶどう畑で働いていて、その子供たちもまたぶどう畑で手伝いをし、ご褒美としてお小遣いを貰い、いつか自分のぶどうの木を買おうと話すのが常だった。
そんなぶどう畑で作ったぶどうは美味しいワインに加工されて、村の数少ない車数台に詰め込まれ、様々な街へ売られてゆく。
その代わりに、車は様々な食べ物や生活道具をたっぷり積んで帰ってくるのだった。
そうしてこの村は、村人達は、毎日を同じように過ごしていた。
「魔法の船だよ!」
ヒースが靴を履き、玄関から出ると同時に興奮した様子でそう言ったのは、ぶどう畑の手伝いをするために朝早くからヒースを迎えに来たギネス・バトンだった。
ギネスはヒースより3つ歳下で、星のない夜のような真っ黒な髪に、深いアンバーが美しい瞳をした男の子だ。
ギネスの隣りには、ヒースと同い歳の兄、クワミ・バトンが歩いている。
ギネスとそっくり双子のような姿をしているが、クワミの方が年齢の分だけ背が高く、いつも落ち着いた口調で話すので、見分けは簡単についた。
この2人の兄弟は、幼い頃からずっと一緒に過ごしてきたヒースの一番の友達だ。
「魔法じゃないよ、飛行船だ。空気より軽い気体が詰まっているから飛べるのさ。」
クワミがギネスを落ち着かせようと、静かに言う。
「そうじゃないよ、だって夜に来たんだぜ。どうやって夜は真っ暗になるこの村へ降りて来れたのさ?」
ヒースとクワミは顔を見合わせた。
ギネスの言うことは確かに不思議だった。
昨晩、突然小さな飛行船がこの村に着陸した。
それは村人達が暮らす家々をなぎ倒す事もなく、大切なぶどう畑を隕石のように押し潰すでもなく、また城のとがった屋根に突き刺さることなく、城から少し離れた草原に整然と着陸した。
夏の夜は明るいと言っても、ブランシェット村には外灯が殆ど無く、それぞれの家から漏れる明かりだけが夜に見られる光だった。
昨日の夜は、村の誰もがその飛行船の様子を見ていたに違いない。
この村にはいつもと違うことがめったに無いのだから。
「そもそも飛行機も来ないような村に、どうして降りてきたんだろう。」
クワミが不思議そうに言う。
「僕、飛行機は見た事があるけれど、飛行船は初めて見た。」
ヒースは昨日のママとの会話を思い出していた。
ママはあの不思議な乗り物が「飛行船」という名前だという事と、飛行船が乗り物だという事を教えてくれた。
つまり、ママは今までに飛行船を見た事が有るのだろう。
だとしたら、ママが突然訪れた飛行船に驚いていなかった事も納得ができるとヒースは思った。
「大人は見た事があるのかも、飛行船がこの村に来るのを。」
そうヒースが呟くと、クワミとギネスは同意した。
そういえば、大人は誰も飛行船の様子を見に行ったり、子供に警戒の言葉を掛けていない。
二人の家でも、子供には関係の無いものだとママに聞かされたが、特に注意もされなかったとクワミは言う。
「飛行船に乗っている人がこの村に来たことがあるのだとしたら……そうだな、昔ここにワインでも飲みに来たんじゃない?」
ギネスは誇らしげな表情でぶどう畑を指さした。
もう目の前に迫ったぶどう畑の向こう側に、フラム城と飛行船が小さく見える事に三人は気が付いた。
飛行船はフラム城から少し離れて停まっていて、目を凝らしてもその周辺に人の姿は無いように見えた。
三人揃って飛行船を眺めていると、ぶどう畑の中からクワミとギネスのパパ、バ トンさんの三人を呼ぶ声が響いた。
忙しいものだから、三人が来るのを待ち侘びていたに違いない。
「今日、ぶどう畑の世話が終わったら…近くまで見に行こうか?」
クワミがそう言うと、ギネスはやった!行くよ!絶対!と声を上げて、シカのように跳ねながらぶどう畑に駆け込んで行った。
「僕は…」
ヒースは口篭った。
家から見ている時はそう思わなかったけれど、この距離まで来て飛行船を見ると嫌な予感がして、関わってはいけないという気持ちになったのだ。
もし関わったら、いつもの暮らしが変わってしまうような、いつもあるものが無くなってしまうような、そんな予感だった。
「ヒース?」
クワミがヒースの顔を覗き込んで言った。
「嫌なら行かなくてもいいよ、確かにちょっと変だから、あの飛行船。」
ヒースはクワミに心を覗かれたような気がして、驚いた。
クワミはたまにこういう鋭さを見せる。
幼い頃は、うまく言いたい事が言えなかったヒースを、この鋭さを持って助けてくれる事もよく有った。
「そういえば俺の家ではね、12歳までが子供でいられる年齢だって言われてる。」
突然クワミがそう言った。
「大人になったら変なものに近付いたり、危ないものに興味持ったり、知らないものに手を出したらいけないんだってさ。」
クワミの言わんとする事は、ヒースにも何となくわかった。
つまり、まだ僕達は不安より好奇心に負けてもいいのだとクワミは言っていた。
「子供だから、行く?」
「そう、子供だから行く。」
ヒースは答えを聞くなり、クワミの目を見て思わず笑った。
その目に不安の影は見えず、好奇心でらんらんと輝いているのだった。
「僕も行くよ」
ヒースがそう応えると、クワミはそう来なくちゃ、とヒースの肩を軽く叩き、ぶどう畑の中へ軽やかに駆けて行った。
クワミがいると何でも出来る気がすると、ヒースは思った。
今は8月、ぶどうは収穫の時期を迎え、村人は誰も彼もが大忙しだった。
ぶどう畑での手伝いを終えると、もうすっかり日は登りきっていた。
お昼を過ぎて調子の出てきた太陽が、ぶどう畑で働く人の肌をじりじりと焼いてくるが、風もまた汗を乾かしてくれる程に吹いていた。
大人達はまだまだ働き続けるが、バトンさんは勉強や遊びに時間を使いなさいと言って、いつもこの時間には子供たちのお手伝いを終わらせてくれた。
バトンさんの奥さん、つまりクワミとギネスのママが用意したお昼ご飯をぶどう畑で働く大勢の大人達と一緒に食べると、待ちきれないと言うような素早さで、真っ先にギネスが立ち上がった。
その口の中はまだサンドイッチでいっぱいのようだった。
クワミとヒースはその顔を見て少し笑い、後に続いた。
きっとギネスはぶどうを収穫しながら、ずっと飛行船見物を楽しみにしていたに違いない。
飛行船の停まっている草原への道はきつい登り坂になっていて、辿り着くまでに少し時間がかかる。
その分帰りは楽そうだとヒースは思った。
「12歳までが子供って言うけれど…。」
飛行船へ向かう道すがら、クワミが言う。
「俺、まだ子供で居たいなぁ。寮にも入りたくないや。」
ブランシェット村には初等教育の学校しか無い。
子供達は13歳になると、遠く離れた隣町にあるシニアスクールの寮へ入るのがお決まりで、当然ヒースとクワミも同じように街へ行く予定になっていた。
不安からか、夏になってからクワミはしょっちゅうこの話題を口にする。
「僕もだ、街で暮らすなんて想像も出来ない。」
ヒースはクワミに同意した。
来月から街で暮らすなんて、この素晴らしい家々や石畳がそばに無い生活なんて、ぶどう畑に風が吹いた時の、あの葉擦れの音や土の香りがしないなんて、産まれてからずっとこの村で育ってきたヒースには想像もつかなかった。
それに、ヒースはママと離れる事も心配だった。
ヒースのママは、ヒースが産まれる前にパパを亡くしてから、ふと寂しそうな顔をするようになったと、バトン夫妻が話しているのを聞いたことがある。
優しくて物知りで、いつも朗らかに振舞っているママの心には、ヒースの知らない悲しみが住んでいるのかもしれなかった。
ギネスに毎日様子を見てもらおうか?心配のし過ぎだろうか?ここ最近、それがヒースの悩みだった。
「俺、遊ぶ相手が居なくなっちゃう。」
ギネスが能天気にそう言った。
そんな話をしながら歩いていると、ぶどう畑にいた時より風が強くなって、お互いの声が聞き取りづらくなって来た事に三人は気が付いた。
徐々に強くなる風が声をかき消して、髪の毛を酷く乱し、手で庇わないと目が乾いてしまう程になった時、飛行船はもう目の前に迫っていた。
その姿はヒースの想像していたより遥かに迫力満点で、三人は揃って言葉を失ってしまった。
ブランシェット村にこんな大きなものが他にあるだろうか。
あるとしたら、飛行船のすぐそばにどっしりと佇むフラム城くらいだった。
こんなに近くまで来たことが無いから知らなかったけれど、小さい城とは言え、飛行船に負ける程の大きさでは無いのだなとヒースは思った。
耳元では風が轟々と鳴っていて、声を張り上げるのも大変なので、三人は仕方なく身振りで相談した。
「飛行船の操縦席が見たい」
それが楽しそうに飛行船を指差すギネスの言いたい事のようだった。
優しい白色の風船が無理やり飛行機の真似をしているような形の飛行船をよく見ると、確かにゴンドラが付いている。
そのゴンドラまであと少しの距離に迫っていた。
ヒースとクワミはハッと目を見合わせた。
ギネスはまだ気が付いていないようだったけれど、明らかな異常だった。
この飛行船は、おかしい。
最初はその違和感の原因が解らなかったが、気付けばヒースとクワミが理屈を持って説明出来る事では無いとわかった。
「止まってる」
クワミがそうヒースに伝えようと口をぱくぱくさせている。
ヒースも「わかってる」と手で返した。
ギネスがちょっと遅れて何か声を上げたのが遠く聞こえた。
飛行船は、この強風の中で微動だにしていなかった。
それはカチカチに固められてしまったかのように、まるで一つの巨大な岩になってしまったかのように、台風のような激しい風の中で完全に静止していた。
ヒースは朝の嫌な予感を思い出した。
やっぱり近寄っちゃいけなかったのかもしれない。そう自分を引き止める声が、頭の中で聞こえた気がした。
その瞬間、ギネスが怒鳴るようにしてヒースの名前を呼ぶ声が遠く微かに聞こえた。
ふっと気が付けば、時間が急に飛んだような、それとも急に記憶を失ったような、そんな感覚に襲われた。
ヒースはいつの間にか、ゴンドラの出入口の目の前で、にこにこと微笑む老人と向かい合っていた。
さっきまで体にまとわりついていた風は、いつの間にか止んでいた。
ヒースは混乱しつつも、慌てて考えをまとめようとした。
きっと自分の足で歩いてここへ立ったのだろう。目の前の景色がそう言っている。
けれど、ヒースは一瞬のうちに誰かに体を操られたような、そんな気がしてならないのだった。
目の前の老人は随分と背が高く、夏だというのに灰色のツイードで作られたジャケットを着て、ツヤのある革靴を履きしゃんと立っている。
その姿は夏の暑さを全く感じていないかのような涼やかさだった。
整えられた髪や髭は清潔で、顔には汗一つかいていない。
アイスブルーの冷たい色をした瞳は、その色とはうらはらに優しげな暖かさを持ってヒースに向けられていた。
初めて見る知らない顔の筈だったけれど、少し懐かしいとヒースは思った。
見かねたクワミとギネスがヒースに駆け寄って来て、飛行船の傍だけで突然止む風に驚きの声を上げた。
「何これ、やっぱり魔法だ!」
ギネスがそう声を上げると、老人は大きな声を立てて笑った。
「そう、魔法だよ。」
老人は続けてそう言うと、ゴンドラの中に戻り、来なさい、と手招きした。
ギネスは何の疑いも無く老人に付いて行き、ゴンドラの中に上がり込んでしまった。
「ヒース…きみ、なんというか、大丈夫?」
クワミがヒースの左肩を掴んで、不安げに顔を覗き込んだ。
「僕…」
ヒースは言い淀んだ。
覚えていないだなんて言えば、クワミを驚かせてしまうに違いない…黙っていればクワミを心配させる事は無いだろう。
「風が急に止んでびっくりしたんだ。」
そう答えた。
「うん、俺も…でも、ヒースにもびっくりしたよ、止めてもどんどん進んで行っちゃうんだもの。」
そうだったのかとヒースは思った。
「ほら、ギネスが行っちゃったよ。」
クワミの心配を振り払う様にそう声をかけ、2人はギネスの後に続いた。
「意外と定員は少ないんだね」
船内に入ると、ギネスが老人と話していた。
「そうだろう、大きい割に不便なのだ。」
老人はくまなく船内を見て回るギネスをにこにこと眺めながら朗らかにそう答えた。
飛行船のゴンドラは思っていたよりも随分小さく、入ってみれば拍子抜けする程手狭だった。
しかし、船内は美しい艶のある木で作られており、所々に置かれた背の低いテーブルも同種類の木で作られているようだった。
深いワインレッドの暖かそうなソファが品が良く座席として列び、カーテンもまた同じ色に揃えられ、金色の房の着いたロープで止められている。
敷かれた絨毯はフカフカとしていて、居心地が良かった。
まるで小さなお城の一室のようだとヒースは思った。
老人は手頃なソファの一つに腰掛けると、自分と向かい合うソファに座るようヒースとクワミに勧めた。
そして優しい声色で、語り掛けるように言った。
「君たちに大事な話がある。」
ヒースとクワミはちらとお互いの顔を見ると、無言で老人の前にあるソファに腰掛けた。続いて様子を見ていたギネスも、クワミの隣に荒っぽく腰掛けた。
ソファは見た目通りにフカフカとしていて、いいソファだなとヒースはぼんやり思った。
「これは魔法の船ですか?」
とクワミが聞いた。
その質問はどうやら、ギネスのように本当に魔法と信じているというよりも、自分の知らない技術が世の中にはある事を知っていて、純粋にその技術を不思議に思っている、という意味に聞こえた。
「そうだ。けれどそうじゃない。」
老人は少しいたずらっぽく微笑んだ。
「クワミ、君は賢い。けれど、もう少し楽に物事を見ても良いのだ。」
教えていない名前を呼ばれた事に気が付いて、3人は思わず身を固くした。
「この船は魔法の船ではない。どこにでもある普通の飛行船だよ。私の趣味でね。魔法は私が使っている。」
どうやらその話が突拍子もない事だと思ったのは、ヒースとクワミだけらしかった。
「すごい!」
ギネスが楽しそうな声を上げた。
「君たち2人は魔法を知らないのかね。」
老人は笑うでもなく、怒るでもなく、少し寂しいような…そんな表情をしているように感じられた。
「魔法とはそもそも、自然界に存在するありとあらゆる精霊の力を借りて行われるものだ……見なさい。」
老人はそう言うと、ギネスに向かって小指を向け、くるくると円を描き始めた。
すると、ギネスの黒髪が強い風に吹かれたように……いや、風に吹かれて、一斉にザワザワと踊り出していた。
「うわっ、風が吹いてる…頭にだけ…。」
ギネスが自らの頭に手で触れ、また離しては触れ、やや不気味だという表情のままヒースとクワミを見た。
「精霊って?」
注意深くクワミが続ける。
「君たちを取り巻く全てのものに宿っている、不思議な存在の事だよ。」
老人はまたギネスの頭に小指を向け、風を止めた。
「私はね、それを君たちに教える為にやって来たのだ。とても重要な事だから。」
ヒースは、さっき感じていた嫌な予感の正体はこれだとはっきり感じた。
魔法。精霊。
この老人の言う事が本当だとしたら、いままで生きてきた世界の常識が一変してしまう。
「あなたは、誰で…どういう魔法使いなんですか?」
ヒースはたまらずそう聞いた。
老人の目がヒースを捉える。
「私はフラム城の城主だよ。知らなかったのかね。名前はダミアン……ダミアン・フラム。」
クワミとギネスがヒースを見た。
「ヒース・フラム、私は君の……お祖父さんだよ。」
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