ネズミとアンドロイド

@manolya

第1話

 曇り空がそのまま暮れていき、完全な夜が来ようとしていた。何も見えなくなりそうな薄暗い部屋の床に、小さな影が走る。高層タワーの上層部、窓は汚れ、ただでさえ、ろくな陽はさしこまない。夕焼けのない日暮れの空よりも寂しい、みすぼらしい空気が淀む部屋だった。人が住んでいた形跡はある。それも、長く住んだ誰かが不意に帰らなくなり、そのまま長い時間が経ったような部屋だった。

 窓際の植物は枯れている。汚れた窓から十分な光も浴びず、とっくに干からびていた。観葉植物だったのだろうか。大きな葉の一枚一枚が、カサカサに乾いて真っ黒に変色していた。真冬の浜辺に打ち上げられた海藻のようだった。キッチンに置かれた使用済みのコップには、おそらく半分ほど液体が入っていたのだろう。水垢を残し、干上がっていた。シンクには錆。そして埃。どこもかしこも、均一に積もっている。その灰色は、部屋の薄暗さをもっとどんよりさせていた。ここに住んでいたのは、一人ではなかったようだ。子どものおもちゃと淡い色の上着、女が好みそうなガラスの器と、男物のスリッパがあった。

 小さな影は、素早く動いて立ち止まる。無造作にあちこちに飛んでは、空中のにおいを嗅いで方向を変え、また飛び跳ねる。小さな影は一匹のネズミだった。食べ物を探しにここに来たのだった。ひとかけらのパンでもないかと、立ち止まって伸びあがって空中ににおいを探す。積もった埃に、ジグザグの跡がついた。


 あちこち探し回るネズミの後ろで、ネズミが踏んでいったものにスイッチが入った。一点に赤いランプがつき、極小のモーターが回り出す。超音波のような高い音がする。細かい点のかたまりのような、デジタル特有の音が。その音はエネルギーになって広がり、ネズミが踏んだもの全体に、隅々まで行き渡っていった。

 ネズミは食べ物を探すのに忙しかった。疲れて、空腹で必死だったので、いつもならすぐに気がつく小さな音にも気がつかず、今度はどっちに飛んでみようかと勘を働かせていた。

 後ろで、カカ…キ、と小さな音がして何かが動き、ネズミがその存在に気がついて飛び上がった。いつもなら逃げ足は速いし、隠れるのも得意だ。しかし、空腹と疲れで力が入らなかったのと、自分が油断したことにショックを受けて、ネズミはとっさに動くことができなかった。小さな音のあと、何も起こらないことが奇妙で、おそるおそる振り返る。薄暗さは増して、部屋には闇が訪れようとしていた。そこでネズミが壁際に見たものは、久しぶりにスイッチが入った、一体のアンドロイドだった。ほとんど暗くなった部屋の中で、それにも埃が積もっているのが分かった。

 壁際の椅子に腰掛けたアンドロイドは、両腕を胴体の両脇に垂らし、顔をネズミに向けていた。その顔は、人間の顔と同じくらいの大きさだったが、額、鼻、ほお、あごがあるだけで、表情はなかった。ネズミが飛び跳ねている時にアンドロイドの足に触れ、スイッチが入ったのだった。赤く光ったのは、肩のあたりにあるセンサーだった。それにも埃が積もっていたので、赤い光は暗闇にぼんやりと浮かんでいた。


––あー。…あー。


 アンドロイドが自分で音声をテストする。声が出ることが分かると、今度は軋んだ音を立てて、人間と同じに作られた関節を動かして、テストをした。最初はぎこちない音を立てたが、その音は次第に小さくなり、徐々に滑らかな動きを取り戻したようだった。最後に首を左右に曲げ、まっすぐな位置に戻した。


––AD-6700、タイプBD–39Ⅵ。動作正常。何かご用ですか?


 アンドロイドは滑らかに言葉を放った。薄暗い部屋で、その言葉はネズミだけが聞いていた。ネズミは戸惑って、何か返したものかと立ち上がり、キョロキョロする。アンドロイドの顔はネズミを見ているようで、声はネズミに向かって放たれているようだった。


––AD-6700、タイプBD–39Ⅵ。動作正常。何かご用ですか?


 アンドロイドがもう一度言った。ネズミは、今度は自分に問われているとわかり、ますます戸惑う。


––では、省エネのために電源を切ります。ご用の際は、声をかけてください。


 五秒の沈黙の後、アンドロイドはそう言って、少し顔をうつむかせようとした。再びスリープ状態に戻るのだ。それに気が付いて思わず、ネズミは声をあげた。


––待って! 食べ物があったら、くれよ。


 うつむきかけた顔をあげ、消えようとしていた肩のあたりの赤いランプは、もう一度明るく点灯した。


––お腹が空いているのですね。何か食べたいものはありますか?


座ったままでアンドロイドは言い、首を傾げた。


––何でもいいんだけど。リンゴがあったらいいな。喉が渇いた。


––リンゴですね。


アンドロイドは立ち上がり、あっけにとられるネズミの前を、滑らかに歩いて行った。アンドロイドから埃が落ちる。アンドロイドが歩くと、床の埃も舞い、小さな煙を立てながら歩いているように見えた。ネズミは、自分の頭に降りかかってきた埃を前足で払った。アンドロイドは、ほとんど暗闇の中で冷蔵庫の前に立ち、ドアを調べるようにしてから開けた。障害物にぶつかる様子もなく、関節は音を立てなかった。

 冷蔵庫は、開けても庫内が明るくならない。アンドロイドはそれを気にする様子はなかったが、開けた冷蔵庫の前で二、三回首を傾げ、


––故障。


とつぶやいた。そしてネズミを振り返って言った。


––リンゴはないようです。冷蔵庫は、壊れました。


心なしか、アンドロイドの声は申し訳なさそうに聞こえる。


––そうか。仕方ないよ。世界中こんな感じだから。電気をやめちゃったんだろうな。


アンドロイドは首を傾げる。


––ああ、いいよ、後で説明する。多分お前はしばらく、眠ってたんだろう。それよりさ、乾燥チーズや水や、予備の食料ってないかな。オレ、そういうの見たことあるんだ。ここじゃないけど。


アンドロイドは首を傾げたまま固まっていたが、冷蔵庫を閉め、戸棚の中を探しはじめた。


––水はないかもしれません。私が最後に、予備の食料や水を持っていくように、用意をしましたから。


 やはり水はなかったし、水道も出なかったが、小さな乾燥チーズの残りをアンドロイドは見つけ出した。賞味期限はだいぶ過ぎている、と言ったが、ネズミは構わず、喜んでアンドロイドにお礼を言った。

 チーズはひとかけらだったが、ネズミには大きかった。お腹がいっぱいになる。忙しない様子でチーズをむさぼるネズミに、アンドロイドは顔をじっと向けていた。


––あなたはネズミですか?


ネズミがおおかた食べ終わるのを待って、ダイニングテーブルの椅子に座ったアンドロイドが聞いた。


––そうだよ。


––ずっとここにいたのですか?


––いや。さっき着いたんだ。食べ物を探しに来たんだよ。ここは何階だろう、四十階くらいか? あちこち部屋を見ながら登ってきたんだけど、疲れてしまったよ。食べ物が見つかってよかった。


––そうですか。どこの部屋にも入れたのですか?


––そうだよ。この建物のどこにも、人間はもう誰もいないみたいだ。犬や猫の動物もね。遠くから何日も見てたけど、あんなにたくさんの窓があるのに、昼は一つの窓も開かないし、夜は明りが一つもつかなかった。電気が通ってないから、当たり前だけどな。それでも、人間が生活するなら、小さな明りでも灯るだろ。それもなかったよ。


––停電ですか?


アンドロイドの声は淡々としているのに、なぜか困惑を帯びてきているように、ネズミには聞こえる。


––いや。この世界は終わっただろう。ずっとずっと前に。


––どういうことですか?


アンドロイドの声が震えているように聞こえて来る。


––人間はもういないんじゃないかな。オレも詳しいことはよく分からない。この建物に来る前は、地面を歩いていたけど、出会わなかったな。植物はたくさんあったから、外には水があるのかもしれない。


喉の渇きを思い出して、ネズミは言った。


––お前は人間じゃないんだろ? どうしてここにいるんだ?


ネズミは聞いた。埃の中に腰を下ろして、アンドロイドを見上げた。


––私は、家の中で家族のヘルプをするアンドロイドです。家族の音声命令がなくても、プログラムされれば仕事をし、用のないときはエネルギーの消耗を防ぐために自動で電源が切れました。何か刺激があれば、再び作動するのです。たとえば、肩を叩かれるとか、声をかけられるとか。


––それで、オレが触ってスイッチが入ったのか。


––そうです。以前、スイッチが切れてからどれくらい時間が経ったのか分かりません。私の家族は、しばらく帰っていないようですね。


 アンドロイドは、もうすっかり暗くなった部屋の中の埃を見渡して言った。


––そうだな。


––掃除をしなくてはいけません。とても汚いです。


アンドロイドはそう言って、立ち上がろうとした。


––でもさ。もう、帰ってこないかもしれないぜ、そいつら。


ネズミはそう言ってアンドロイドを止めた。


––どうしてですか?


アンドロイドが首をかしげる。


––お前が家族を見た最後って、どんな?


 ネズミが聞いた。


––命令があって、非常用の一切が入った荷物を用意しました。私の家族はそれを持って、出かけて行きました。特に慌てている様子はありませんでした。鍵も閉めて行ったと思います。出かけてからの私のプログラムはありませんでした。だから、家族が出かけて行ってからしばらくして、私は電源がオフになりました。目が覚めたら、今だったのです。


––そうか。何があったのかは、オレにも詳しくは分からないけど、もしお前が文字を読めるなら、新聞か何か、当時のものがその辺にあるんじゃないのか?


––私は文字を読めます。しかし、新聞はありませんでした。私はネットワークにつながっていて、頭の中に送られてくるニュースを口頭で、家族に提供する役目もしていましたから。例えば、天気予報や事件、電車の遅延、株の動きなどです。


––ふうん。よく分からないけど。その辺の記憶はないのか?


––ニュースは家族に情報として提供するだけです。私の記憶としては残りませんでした。メモリーが勿体無いですから。


––ふうん。よく分からないけど。お前はよく分からないまま、ここで長い間眠ってたってことなんだな。


––そのようです。今は、ネットワークも感知しませんから、情報が何も入ってきませんん。電波などが飛んでいないということでしょう。


アンドロイドは困ったように言って、二人はしばらく黙った。部屋はもう真っ暗になったが、アンドロイドもネズミも、暗い中でも目はきいたので問題はなかった。遠くまでは見えなかったが、埃が積もった部屋では、明るくても同じことだった。


––オレはさ。


今度はネズミが話し出した。


––もともとこんな暮らしをしてるんだけど。あちこちにお邪魔してね。あるときから、人間はお前の家族みたいにどこかへ行ったよ。みんな、同じ方向へ。今思えばそうだけど、多分、持ってた荷物は非常用の何かだったのかもしれないな。家ごとの引越しみたいな、大きな荷物は持ってなかったよ。ジプシーにしては身軽だし身綺麗だし、変だなとは思ったよ。オレさ、ジプシーって知ってるんだぜ。こういうところには住んでないんだけど、歩いていると分かるんだ、ジプシーって。仲良くしてくれるやつもいる。今は見かけないけどな。

 とにかく、人間がどこかへ行き始めてから、けっこう、どこかの隙間から家の中に簡単に入れてさ。無人だから食べ物はちょうだいし放題だったけど、どこの家も同じふうでさ。何かおかしいと思ったんだ。畑なんかも通ったけど、数年したら、手入れもされなくなって。勝手に実がなったり、蔓や枝が伸び放題になっても、誰も来ないんだ。大きな動物もいない。牛や豚や、オレらを狙う狐や犬とかも。鳥も飛んでないんだ。風は吹いてるのに。なんだか静かでさ。怖くなって、あちこち仲間を探したんだ。でも、誰もいなかった。それで、都会に来たらもしかしてって思って、ここまで来たんだ。電気も、もうないんだな。電子ロックとかは全部きかなくなってたみたいで、どこにでも入れたよ。それはオレには都合がよかったけど、ここに来るのにエレベーターが動かなくてさ。知恵はあるから、前なら、ボタンはどうにかして押して動かしていたのに、どうしようもないから、階段で来たんだ。それでヘトヘトに疲れた。


––何が起こったんでしょう。


ネズミの話を静かに聞いていたアンドロイドが、ポツリと言った。


––さあね。でも、しばらくは元に戻らないみたいだな。


静かな部屋の中で、ネズミもポツリと言った。


––それとさ、ここに来たら、高いところから街を見渡せると思ったんだ。高いところから、窓からね。もう暗くなって、今日は何も見えなくなったけど。


希望を思い出して、続けてネズミは言った。


––だから、明日、明るくなるまで、ここにいていいか。街を見たいんだよ。本当は水があったらいいけど、何日か水を飲まないことは、オレは慣れてるからさ。明るくなってからでもいいんだ。部屋を汚さないよ。部屋の隅で寝るから。


ネズミがそう言うと、しばらく考えたアンドロイドが答えた。


––わかりました。では、お願いがあるのですが。


ネズミはアンドロイドを見つめる。


––私を明日、必ず、起こしてください。


機械の声が、確かに震えて、ネズミに訴えかけていた。ネズミは少しだけその声に切なくなって、


––分かったよ。


とだけ答えた。

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