第58話「消失する契約」

宿屋で睡眠を取ろうとした瞬間、ふと物音に気づかされる。

物置で生活した事がある所為か、足音には少し敏感なのだ。

だからどんなに寝心地が良くても、僕はそれに気づいてしまう。

無意識に身についてしまった特技とも言っていいだろう。

「……(一人、いや二人かな)」

足音の数も無意識に数えて、僕はまだ身体から癖が抜けない。

どうしても気になってしまうので、僕は眠りにつくのを諦めて様子を伺う事にした。

入り口へと足音を立てずに、自然と撃退体勢へと入る。

「姫様、こちらの部屋でしょうか?」

「どうだろう。ディーネさんがどこで寝てるなんて知らないからなぁ」

入り口の向こう側から聞こえて来る声は、女性のようだが良く聞こえない。

キィと扉が開き、僕の部屋に明かりが差し込む。

ベッドには当然、僕の姿はない。

「あれ?誰もいないのでしょうか?」

「――ふんっ!」

僕は女性だと思い、軽めに固め技を掛ける事にした。

だが相手も手馴れていた為、僕と絡み合う形に倒れてしまった。

「……いたたっ……」

僕は体勢を整えようとした瞬間、手の平に生暖かい柔らかい物を掴む。

「……あっ……んきゃ……ひゃぁ……」

「あれ?ルーシィさん?(って事は、これって)」

僕は自然と再び手を動かす。

柔らかい。そして大きい。

「皐月ぃ~?いつまでしてるのかしら~?」

「ア、アリア……えっとこれは……あはは~」

「あはは~、じゃないわよ!」

「あだっ!」

生まれて初めて、女性の胸に触れてしまった。

殴られたが、僕も男だ。だからあえて言おう。

――悔いは無いと!!


…………数分後。

「それで?こんな夜中に何してるのさ」

「た、たまたま用事があったのよ。変態に話すような内容はないわよ」

「……もう、お嫁に逝けません……」

腕を組んで怒るアリアと胸を抱えて身を丸くしているルーシィさん。

そして、頬に赤い紅葉が作られている僕。

傍から見たら、何があったかは一目瞭然だろうなぁ。

「えっとルーシィさん、すみませんでした。こんな夜中に誰が来るとか分からないんで、警戒しちゃって」

「い、いえ……」

「そうよ。むしろアタシたちと分かれば警戒しなかったんじゃない?」

「いや、アリア。夜中に忍びよってノックもしない人を警戒するな、って言う方が無理だと思わないの?」

「あ~、えっと……」

あ、誤魔化してるね。完璧に目を逸らしてるしね。

「――そ、そうだ皐月!ディーネさんは何処に泊まってるの?」

……話題までも逸らし始めた。

「まぁいいや。ディーネは一つ隣の部屋だけど?」

「そ、そう。ありがとう。行くわよルーシィ」

「あ、はい姫様」

部屋を出る際、ルーシィさんはこちらを向いて一礼した。

僕は溜息を吐いて、ベッドに思い切り寝転がる。

結局、何の用かは話してくれなかった。

こんな夜中に彼女はいったい、ディーネに何の用があるのだろうか。

そう思いながら、僕は欠伸をして眠りにつくのだった――。


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何かが倒れるような物音が、隣の部屋から響いてくる。

この宿屋の壁は薄いから、何をしているか分かってしまう。

「(私に用?)」

ふと聞こえた声は、良く知る彼女と彼の声だ。

少し聞こえた会話によれば、この王都の姫君が私に用があると言っていた。

しかもこんな夜中に何の用だろうか。

『あの、ディーネさん、いらっしゃいますか?』

そう思っていると、部屋の扉が叩かれる。

姫君ではなく、お付の護衛の声だな。

「いるぞ。入っても構わんよ」

『有難う御座います。それでは失礼します』

そう言って、扉が開いて中へと足を踏み入れる。

その瞬間、彼女たちの周囲に水で作られた槍が出現する。

「もし私が刺客なら、君たちはここで死んでいるな。いくら知り合いとはいえ、周囲への警戒はした方が良いぞ?」

「ディ、ディーネさんも人が悪いですね」

「警戒しないのはアタシたちの信頼の表れです。無警戒での失態は、先程ルーシィが請け負いました」

「ちょ、ちょっと姫様!?何を言ってるんですか?あれは皐月様が」

なるほど。あの表情は何かあったな。

ルーシィの表情に若干の赤みがある所を見れば、何かしらの照れるような事態があったのだろう。

――我が主……なかなかやるなぁ。

『……はっくしゅ!!』

隣からくしゃみが聞こえ、私は少し口元が緩んでしまう。

「さて君たち、私に用があるのだろう?何用だ?」

私はベッドから降りて、床に座る。

彼女たちも、私たちと同じように床に座った。

「それがですね。この写真を見ていただいていいですか?」

「前に見せてもらった写真と変わらないようだが?」

「良く見て下さい。これは皐月ではないでしょうか?」

人影が落ちて行くような姿で、その写真には写っている。

だがそれは前にも見せてもらった物と同じな気がするが……。

「皐月に見えなくもないが、このヒラヒラは何だ?ほれ、この影から出てる黒いのは何だ?」

私が示したのはその彼かもしれない影から、伸びている影だ。

布のように見えるし、手のようにも見える。

どちらかは知らないが、私は妙に気になってしまったのだ。

何処かで見た事があるような気がするが、さて何処で見たのだろうか。

「「――!!」」

「な、なんだ?」

そう思っていた時、身体が大きく揺さぶられる。

それは私だけではなく、この揺れはこの地面が揺れている物だと理解する。

窓を開け、外の様子を見て理由が分かった。

「……姫様……?」

「シュヴァリエ城が……また燃えている?――お父様っ!」

「姫様、お待ち下さい!」

オルクス・ゲーターの一件が過ぎてから、再びシュヴァリエ城は炎に囲まれている。

私は早歩きで、隣の部屋へと向かう。

「――我が主、行くぞ」

「…………」

「主?」

燃え上がる炎を眺める彼の姿に、私は少し違和感を感じてしまった。

振り返る彼の瞳は、真っ黒に染まっているのだ。

色もなく、ただ透明のように空洞で空っぽな瞳をしていたのだ。

「お前は、誰だ?」

『時間だな。ボクは何者でもないよ、

彼はそう言った途端、私は呆気に取られていた所為で動けなかった。

いや、正しくは反応出来なかった。

「……っ……」

一瞬で距離を詰められ、私は目の前には彼の顔があった。

何も感じる暇もなく、その素振りもなかった。

抱き締められた際、自分がされている事。

それは相思相愛の者がする行為だ。

唇が重なって、何かが流れ込んでいる。

『キミの主人は借りてくよ。大精霊』

……意識が遠退いていく。

微かに見える景色の彼の手の甲から、徐々に消えていく契約紋。

私はその瞬間、力が抜けていく身体で手を伸ばす。

「(行かないでくれ……我が主……君の体は)」

離れていく背中に届かず、去っていく彼の姿は消えて行った。

「おい、ディーネ大変だ!……ディーネ!?おい、どうした?ディーネ!?」


駆け寄ってきたアルフレドの声は、ディーネには届いていない。

ただ一つ、彼女は理解している事がある。

契約者側からの口付けは、契約の破棄。

この時点からディーネ・ホルネステインは、水の大精霊へと立場に戻ったのだった――。


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「ねぇ、聞いてくれるかい?僕の願いを」

『いいよ。言ってごらん?』


――この街から、平和にしてくれ。


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