瞼・他

春になると奥座敷の床の間に置かれた花瓶からつ、と一筋流れる水を、祖母は毎年拭って祖父の口へ含ませ、残りを自ら吸う。お蔭で、いつまでも若いでしょうと微笑む彼女の肌は、確かに年不相応に血色よく張りがある。祖父はさらに瑞々しく、しかし祖母の産まれる以前から、瞼があいたことはないという。





更地になった銭湯は、まだ湯の淡く柔らかに、ふと香る気がするもので、窓を開けては煙突の伸びていた空を見上げてしまう。窓に薄暮の影を落とす、あの煙突の煙はすでに、青く溶け、空へ掻き消え、二度と現れることはない。昔無邪気に交わしたままで、果たされなかった約束を、償う術がもうないように。





炎天下の道に、ぽつんと円い影が見える。日除けに入れば躰が軽い、どころか実際少し浮き始める。これはもしやと見上げれば頭上の円盤が怪光を発している。しかしなんだか小さい。私は入口で詰まってしまう。失敗と見たか逃げ出そうとする円盤を、反射的にぱしんと叩いた。だいたい蝿と同じ要領だった。





あのひとが、海がみたいと言ったから、ぼくらふたりで出かけたけれど、カーブした道のむこうから、水平線がのぞいてすぐに、ああ、来るんじゃなかったと後悔したのだ。波はいつでも、連れていくものだけえらんでかえっていって、ぼくはきっとおいてかれてしまうのだと、そのときわかってしまったから。





鍵はないが、出ていく者もない。円筒形の暗闇で、男たちは失ったものを語り合う。やがて喉の潰れた男が、ふらつきながら立ち上がる。仲間の一人が、嗄れ声で決まって言う。注意深く下を向いて歩け、うっかりすると、影を置き去ってしまう。仲間たちの嗤う錆びた不協和音が、扉へ向かう男に降りかかる。

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