loser

hiyu

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 冬になれば、夏の暑さを忘れてしまう。

 あんなに暑くて、息もできないくらいに苦しくて、日差しに目がくらんだ。身体に感じる風はぬるく、肌を濡らす汗はちっとも乾かない。

 あの夏の日は一度だけなのに。

 俺はもう、あの暑さを思い出せない。


 夏が終わり、髪を伸ばし始めた。初めは慣れなかったその感触に馴染んできた頃、風は冷たさを感じるようになっていた。

 雨の日の傘は世界を滲ませる。透明なビニール傘越しに見えるその景色は、まるであの日の光景を思い出させた。

 あの日、俺は人目もはばからず泣いて、目に映る世界を完全にぼやけさせた。

 チームメイトが声をかける。肩を抱く。そして泣く。

 俺たちの夏がすべて終わってしまったのは、きっと、俺の責任だった。

 一球のミス。

 10年以上も憧れていたものを手放さなくてはならないのは、死ぬほど辛いことなのだと、あの日知った。

 雨の日、水溜りのできたグラウンドを眺めながら、練習できないことを喜びつつも、心のどこかで不安と焦りを感じていたのは、いつだっただろう。あんなに辛い練習も、やらなくていいとなった瞬間、途端に寂しくなった。

 けして整っているとは言えない環境。設備の行き届いていない硬いグラウンドに、弾む白球を追いかけた。滑り込み、倒れ、身体中汗と土にまみれて走り回った。溢れる汗を拭うこともせず、ただ、ひたすらに。

 水はけの悪いグラウンドにできた水溜りに、雨粒が落ちて波紋を作っていた。数え切れないほど次々にそれは生まれ、消える。

 たった一球。

 俺が放った、相手にとっては絶好球。

 あのマウンドで、ボールが指から離れていった瞬間に、俺は絶望すら感じた。間違いなく打たれる、と思った。

 フルスイングしたバットが高めに浮いた球を見逃さず、完璧に捉えた。俺の頭上を越えていくそのボールの行方は追わずともどこへ向かっているのかが分かった。

 客席から歓声が上がり、バッターの右手がガッツポーズを作るのを、俺は呆然と見ていた。

 マウンドの暑さを一生忘れるはずがない、と思っていた。

 何試合も俺はそこに立ち続け、滝のように汗をかき、いつしかそれがすっと引いていく感覚を知っていた。身体が軽くなる。そして、最後の力を振り絞り、投げる。そうやって一試合ずつ本気で向き合ってきた。

 たった一球だった。

 ミスらしいミスを、俺はそれまで一切しなかった。最後の大会に賭けた俺の本気を、すべてのボールにぶつけてきた。

 なのに。

 ぼつぼつとビニール傘を打つ雨音。次々に筋を作って流れ落ち、足元にこぼれる。

 グラウンドの水溜りがどんどん大きくなっていく。

 傾けた傘越しに見える光景は、あの日と同じ、滲んだ世界。

 どれだけ泣いてももう戻らない、あの夏の日。

 立ち上がることすらできないと思っていた。けれど、俺を支える腕が、肩が、その熱を俺の身体に伝えた。同じように汗にまみれ、体温を上げ、まっすぐに目標に向かってきた、チームメイトが、俺を支えていた。

 あの一球がなかったら、こんな風に涙を流すことはなかった。

 止まらない涙をまとう俺が見た世界。ぼやけた視界。目を開くことも辛かった。チームメイトの顔が滲んでしまって見えない。

 たった一球。

 マウンドの上で立ち尽くす俺を、誰が一番初めに支えてくれたのだろう。そんなことすら思い出せない。何も考えられず、ただ流されるように整列し、頭を下げて、ベンチへ戻った。

 俺に声をかけるチームメイトの声がいくつも重なり、頭の中で反響していた。

 暑い。

 そう思ったのは、多分、息苦しさに大きく息を吸い込んだときだった。

 泣きながら、身体に貼りつくアンダーシャツをつかむ。その感触に押さえ込まれ、窒息しそうな感覚に陥る。呼吸が上手くできなくて、喘いだ。

 暑い。暑い、暑い、暑い。

 グラウンドの中心で、俺はいつもホームベースに向かう。

 照りつける太陽も、揺らめく陽炎も、全部覚えている。

 なのに、あんなに感じた暑さを、俺は覚えていない。

 ビニール傘の内側が白く曇っていた。そして、俺はそこでようやく自分の息が乱れていたことに気付いた。

 あの夏の終わりから、時々こうやってコントロールができなくなる。

 上手に息が吸い込めない。そして吐き出せない。

 だから短く、何度も呼吸を繰り返す。

 ようやく正常に戻った息を、はぁ、と大きく吐き出したあと、曇った傘越しにグラウンドを見た。

 滲む景色がさらに曇りがかっていた。

 雨粒が俺の靴を濡らし、つま先が冷えていく。傘の柄を持つ手も、身体も、冷たくなっていた。いつの間にか身体が小さく震え、指先が真っ赤に染まって感覚をなくし始めていた。

 あの暑さを思い出せ。

 こんな冷たさを吹き飛ばすような、あの暑さを。

 俺の世界が滲んだ。傘越しでなくても。

 土のにおい。汗のしょっぱさ。日差しの痛さ。ひっきりなしに鳴く蝉の声。

 どうして思い出せないのだろう。

 あんなに暑かったはずなのに。

 俺の目から涙がぽたぽたとこぼれ落ち、地面に落ちた。それは雨に混じって分からなくなってしまう。

 滲む。

 ゆがんだ世界を、俺は見ている。

 多分、あの日から、ずっと。

 感覚をなくした指じゃ、その涙を拭うことすら困難だった。

 どうしてあの暑さを忘れてしまったのだろう。

 あの夏の暑さは、まるで俺の一部のように馴染んでいたはずなのに。

 雨音は続く。

 グラウンドは水溜りを深くする。

 雨の染みこんだ靴は重たくて、もう持ち上げることすらできない。

 たった一球が俺を変えた。

 自分がこんなに弱い人間だと、初めて知った。

 土に汚れたユニフォームを脱ぎながら、また明日も頑張ろうぜ、と笑い合っていたあの日は、もう遠い過去のように感じた。

 寒い。

 身体が冷え切って、雨に濡れた場所が痛い。

 もうすぐ冬が来る。

 あの暑さを思い出すことが、ますます難しくなるような気がした。

 あの日、マウンドで立ち尽くす俺に呼びかけたのは──

 同じように立ち尽くしたまま動けない。足が固まってしまったかのように。

 反響しない金属バットの打球音。

 完璧だった。

 スタンドに放り込まれたことをわざわざ確認するまでもなく。

 あの一球を、俺は一生ひきずって生きていく。

 寒い。

 震える身体を温めることもできない。だって、もう、一歩も動けない。このグラウンドを見つめる俺の視界はまだ滲んだままで、雨はまだ止まない。

 傘を持つ手にすら力が入らない。俺はそれを、手放してしまおうか、と考えていた。

 放したらきっと楽になる。この雨に打たれて、とことん自分を追い詰めてしまえばいいのだ。

 しびれる指先をゆっくりと開いて、俺は空を仰ぐ。

 この世界が滲むのは、涙のせいか、それとも雨のせいか──どちらでもよかった。

「もう──」

 背後から聞こえた声は、あの日と同じ、優しく響く。

「もういいんだ。頑張らなくて」

 ふわりと俺の背中に熱を感じた。

 後ろから抱き締めるその腕が、視界に入った。

「もういいんだ」

 同じ言葉を繰り返し、俺の冷えた指先をつかむ。その手は暖かく、感覚をなくした俺の指がゆっくりとほぐれていくような気がした。

 あの時も、この声を聞いた。

「もう、泣くな」

 マウンド上で、立ち尽くす俺を救ってくれたこの声を、俺は覚えていた。忘れていたわけではなかった。

「泣くな」

 ぎゅっと強く抱き締められて、俺はうなずく。何度も。

 背中から伝わる体温は、俺の心臓にまでその熱を伝える。

 まるで止まっていた心臓が動き出したかのように。俺の身体中を熱を持った血液が巡り出す。そして体温を取り戻していく。

 あの夏の暑さを思い出すことはできない。

 けれど、今感じている熱を、俺は知っている。そして、ちゃんと覚えている。

 土で汚れたユニフォーム。汗くさい部室。身体中、疲れて指一本も動かせないくらいの疲労感。シャワー代わりに浴びた水飲み場の水。時折感じた風の涼しさ。

 ちゃんと、思いだせる。

 思い出せないのは暑さだけだ。

「どうして……」

 俺は自分の胸元でクロスされた腕に、すがりつく。

「どうして俺は、あの暑さを思い出せないんだろう」

 あの日と同じように、俺の肩に額がそっと置かれた。耳元に、俺と同じように伸びた髪の毛が触れた。

「いいんだ。忘れても」

 そんな風に言われた。

「これから寒くなっていく。お前は冬が苦手だから、きっと寒さに耐えられなくて文句を言う。けどな──きっと、その寒さは、次の夏が来たら、忘れる。がたがた震えて、冷たくて、どうしようもないくらいの寒さを、絶対に忘れる」

 こいつの言うとおりだと思った。

 俺はきっと、今感じていた指先の冷たさも、身体中を冷やした雨の冷たさも、夏の暑さの中では思い出すことができないだろう。

 そうやって、季節は変わっていくのだ。

 暑さを思い出せなかったのは、俺だけじゃなかった。

「だから、いいんだ」

 そうか、いいのか。

 そんな簡単なことを、俺は考えられなかった。

 あの暑さを忘れることは罪だとすら感じていた。

 あの一球を投げた俺の罪だと。

「お前は悪くない」

 耳元に聞こえた言葉が、俺の心を楽にした。

 たった一球。

 俺の、チームメイトの夢を奪った、俺のミス。

 雨は降り続き、グラウンドはひどい有様だった。きっと明日の練習はできそうにない。そう考えてから、もうここでボールを追いかけることはないのだ、と思い出した。

 俺たちの夏は終わり、冬がやってくる。

 この雨はもうすぐ雪を呼ぶ。

 あんなに冷え切っていた身体が、いつの間にかぬくもりを取り戻していた。

 雨は降る。けれど俺たちは、雨に濡れた水溜りだらけのグラウンドを見つめたまま、しばらくそこから動くことができなかった。


 了



 高校野球にはドラマがあります。

 毎年、泣きながら見てしまいます。年を取ったからなのか、彼らの本気が痛いくらいに伝わるからなのか。

 失投やエラーは、見ていてとても辛いです。野球の世界に「たられば」は厳禁ですが、思わずその言葉を口にしてしまいそうになるようなシーンが、数え切れないくらいあります。

 本気、というのは時々苦しさを生みます。

 私は多分、その苦しさや痛さが好きなんだろうな、と思います。

 辛いのが好きなのではなく、その痛みさえも受け入れなきゃ行けない世界が。

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