black angel

hiyu

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 目の前に死神がいますよって言われて、ああそうですかと信用できるほど、俺は柔軟ではない。

 いや、柔軟とは違うのか?

 ていうか、死神ってなんだよ。

 にこにこと笑って俺にそう言ったのは、隣の部屋の住人だった。

 朝一番、寝不足の俺に、やたらにこやかに声をかけてきた隣人は、ゴミ袋片手に自分と俺の中間点を指差した。

 いやまず、言うべきことがあるだろう、この場合。

 だから俺は、とりあえず、ぺこりと頭を下げて、言った。

「おはようございます」

 隣人は、宙を指差したまま、きょとんとして、それから、

「おはようございます」

 と、深々と頭を下げた。


 あなたは今日死にますよって言われて、それをすぐに信じられるだろうか。

 答えは否。

 昨日の深酒で、割れるように痛む頭を抱えて早起きしたのに、結局大学はサボってしまった。頭痛も原因だが、朝イチでわけの分からないことを言い出した隣人が、俺を引き止めたからだ。

 隣人はちょっと待っててください、と言ってゴミ捨て場にゴミ袋を放り投げ、それから俺を、今出てきたばかりの部屋に押し戻した。もちろん、ぐいぐいと俺の背中を押しながら、隣人も一緒に部屋に入ってきた。

「とりあえず、死神には中に入らないようににらみ効かせましたから」

 そんなことを言いながら、玄関の鍵を閉めた。そして、俺にずいと近付いて、俺が今日死ぬことを告げたのだ。

「あー、それで?」

 はっきり言えば、俺は信じていなかった。どうやら隣人はいかれたやつだったのだな、と思ったくらいだ。

「助けてあげましょうか?」

 目の前で微笑む隣人は、やけに簡単に言った。

「僕はあなたを助けられますよ」

「いや、死神云々ってとこもまだ信じたわけじゃないし」

「飲み込み悪いですねぇ。玄関の前にあんなにこれ見よがしに立って、あなたを見ているのに」

「だから、俺には見えなくて──」

「見えないものは信じない。そういうことですか?」

「普通、そうだろ」

 隣人は少し考えてから、

「さすがに僕でも見えないものを見せる力はありませんし……困りましたね」

 首をひねってつぶやいた隣人を、俺はようやくまともに見た。あまりにも現実離れした話のせいでうっかりしていたが、ここは俺の部屋である。見ず知らずの人間を簡単に上げるべきではなかったかもしれない、と今さらのように思った。

 今まで、隣に誰が住んでいるかなど意識したことはなかった。考えてみれば、こうして顔を見合わせたのも、話をしたのも初めてである。

 誰かが住んでいるんだろうな、くらいには思っていたが、今までその存在を感じたことはなかった。あまりにも静かだったからだ。

 よく見れば、隣人は俺とさして年の変わらない若い男だった。しかも、無駄に整った、とてもきれいな顔をしている。中性的ともいえる、顎の細い白い肌の隣人を見ていたら、急に落ち着かない気分になった。

「あなたが信じないっていうなら仕方ないんですが──」

 隣人はそう言って、俺を見た。アーモンド型の目はとても大きく、黒い瞳は澄んでいた。下手な女性よりもきれいなその顔に見つめられ、俺はどきんとする。

「実際にあなたは今日、死んでしまうみたいなので」

「そうですか」

「でも、僕、あなたに死んでほしくないんですよね」

「はあ」

「だから、僕が守りますね」

 そう言って微笑む。邪気のない、とても美しい笑顔だった。まぶしくて、思わず俺は目をそらしたくなる。

「守るって──俺を、あなたが?」

「ええ。こう見えて、僕、結構強いんです」

「そうですか」

 似たような返事ばかりしてしまうのは許してほしい。俺の頭はまだ完全にすべてを把握してもいないし、信じてもいないのだ。

「でも、死神ですよね、相手」

「そうですね。まあ、わりと長い付き合いなので」

「はあ……」

 死神と長い付き合いって、どういう付き合いなんだ?

 もう、そう訊ねる気力もなかった。

「第一、僕、死神嫌いなんですよ。なんか、黒くってぞろぞろしてて、見てるとこっちまで辛気臭くなって」

「そうですか」

「だから、あれが出たとき、僕、基本的に邪魔することにしてるんです。本当にうざったいんですよ、あいつら」

「あいつら」

「ええ、結構いるんです。でも、みんな一律辛気臭い」

「まあ、死神が陽気ってのも、おかしいですからね」

「そりゃそうですね」

 隣人はけらけらと笑った。

「あと、僕、あなたのこと結構気に入ってるんですよね」

 そう言ってから、隣人は俺に向かってにこりと笑った。

「はあ」

 何と答えればいいか分からなくて、そんな返事をしてしまう。

「顔も好みなんですけど、いつもぼーっと歩いてるとこととか、飲みすぎて帰ってきたときに必ず水戸黄門のテーマを鼻歌で歌ってるとことか、お風呂場で100まで数えるとこととか、たまにコンビニ弁当選ぶのに10分もかけて悩んでたりするところとか」

 あ、やばい。

 俺は身の危険を感じた。

 こいつ、もしかしてストーカー?

 ていうか、俺、いつもそんなことしてんのか?

「あなたは」

 隣人は俺に近付いて、笑う。

「安心してください」

 こうして、俺は今日一日、この顔だけはやけにきれいだが、ちょっと不審な隣人と過ごすことになったのだ。


 だからって、これはないだろう。

 アパートを出た俺は、なぜか隣人に手をつながれて歩いている。大の男がおててつないでお散歩とか、あり得ない。

 俺たちの後ろを、死神もついてきているのだという。だから、なるべく僕から離れないでください、と隣人は言った。俺は振り返って周りを、それこそ穴の開くくらいに見てみたのだが、隣人の言うぞろぞろと辛気臭い姿は見つけられなかった。

 もしかして俺、からかわれてる?

 そう思ったときだった。隣人が強く手を引いた。俺の身体がかしいで、危なく転びそうになったのを、隣人が支える。

 次の瞬間、俺が歩いていた場所に、がしゃんと何かが落ちてきた。見ると、陶器製の植木鉢が粉々になっていた。

「危なかったですね」

 隣人はこともなげに言って、俺を抱き締めたまま笑う。

「えーと、これ、死ぬとこだった?」

「ええ。頭に当たって、即死ですね」

 あまり嬉しくない死に方だ、と思った。けれど、死ぬはずだった瞬間を回避した。俺の後ろをついてきているらしい死神は、地団駄でも踏んでいるのだろうか。

 そう考えてから、俺ははっとする。まだ、隣人に抱き締められたままだった。慌てて身体を離す。

「どうも、ありがとうございます」

「いえいえ」

 隣人は再び俺の手を握って歩き出す。どこへ行く、とは言わなかった。だから俺も仕方なくついていく。

 路地の曲がり角では猛スピードで曲がってきたバイクと接触しそうになり、横断歩道では赤信号を無視した車に突っ込まれそうになり、工事現場の横を通れば重機にひかれそうになり、ショーウィンドウのガラスが突然割れて降ってきたり、およそあり得ないことばかりが俺に降りかかってきて、ようやく俺は隣人のいかれた言動を信じないわけにはいかなくなっていた。

「困りましたね」

 どこまでも、うろうろと歩き続ける隣人は、額に手を当てて溜め息をついた。

「なかなか見つからない」

「何が?」

 俺は訊ねる。

「いえ、こちらのことです」

 隣人は俺に首を振ってみせる。

「あのー、ところで、どうして出歩いてるんですか? さっきから危険な目にばかり合ってますけど」

「あのまま部屋にいても一緒ですよ。アパートが火事になったり、飛行機が墜落してきたりするかもしれないですから。せっかく助かっても、住むところがなくなるのは嫌でしょう?」

 それは嫌だ。確かに、部屋に閉じこもっている方が、死のバリエーションは少ないかもしれない。

「そうじゃなきゃ、あなたの昔の女が包丁持って飛び込んでくる可能性もありますしね」

「いや、俺、そんな泥沼な別れ方とかしたことないので」

「そういうこともありえる、というだけですよ」

 隣人は冗談なのか本気なのか分からない笑みを見せる。

「もう少し、人気のあるところへ行きましょうか」

 隣人はそう言って、俺の手を引く。

 人気のあるところだと、助かる確率が高くなるとでも言うのだろうか。よく分からないが、俺は素直についていく。

「俺のこと、いつから知ってたんですか?」

 道々、俺は訊ねてみた。

「あなたが越してきたときからです。ちょっといいな、と思ったので」

「ちょっといいな、ですか」

 実感がわかないが、どうやら俺はこの隣人に2年近くストーカーされていたということになる。

 飲んで帰ってくると水戸黄門? そんなことは初めて知った。ということは、昨日も──

「水戸黄門でした?」

「はい?」

「昨日の夜……いや、朝方か。鼻歌、聞こえました?」

 俺の問いに、隣人はにっこり笑ってうなずいた。

「はい。水戸黄門でしたね。ふーんふふふんふふふーんふふふー、って」

「そうですか……」

 まったく記憶にない。

「お風呂で100数えるのもかわいいですよー。子供みたいに、いーち、にーい、さーん、って」

「いや、それは自覚してます。風呂入ってると気持ちよくて、つい浮かれるんで」

「ああ、あれ、浮かれてるんですか」

 何の羞恥プレイなんだ、これ。

 俺は赤くなって隣人の後ろをてくてくとついていく。隣人は駅前に向かって歩いていた。その間も、俺はなぜか電信柱の陰にいた犬に噛まれそうになり(もしかしたら狂犬病で死ぬかもしれない、と考えたが、日本に狂犬病は存在しないはずだ)、下水溝にはまりそうになり(足の怪我程度で済むんじゃないか?)、おばちゃんの運転する暴走自転車につま先をひかれ(これは隣人が引っ張ってくれたので靴だけ脱げた。ひかれていたら骨折は免れないだろう)、ロータリーではタクシーとバスの追突事故に巻き込まれそうになった。

 もちろん、すべて隣人が紙一重で助けてくれて、俺は無事である。

「焦れてますねぇ」

 隣人がほくそ笑む。どうやら、後ろをついてくる死神の機嫌が悪いらしい。俺には見えないが、隣人にはその姿が楽しくて仕方ないようだ。

 駅で隣人は切符を買った。俺は持っていたICカードでホームに入った。確認すると、もうすぐ急行がやってくるらしい。朝のラッシュには満たないが、ホームは人がごった返している。

「ああ、ここなら──」

 隣人がそんなことをつぶやいた。

 俺はたいして気にも留めず、隣人と並んでホームで電車を待つ。

「どこへ行くんですか?」

 電車の音がした。もうすぐホームにやってくる。

「どこへも」

 隣人は笑った。

「え?」

 俺が聞き返したのと、身体が揺れたのは同時だった。人で一杯のホームで、誰かが叫んだ。まるで将棋倒しのように、俺の周りの人たちが倒れた。俺も、体制を崩した。俺たちはホームの一番前にいた。だから、俺の身体はもうすぐ電車がやってくるはずの線路内に、落ちそうになった。隣人がつかんでいた手に力を入れた。

 そして──

「さあ、代わりを、連れてけ」

 隣人の、やけに冷静ではっきりとした声が、聞こえた。

 俺の腕は強く引かれ、身体はホームに引き戻された。まるでスローモーションのように、俺は、俺の周りの人間が何人か、ホームから落ちていくのを見た。

 電車が大きな音を立ててブレーキをかけた。けれど間に合うはずがなかった。

 悲鳴と、ブレーキ、そして、聞いたこともない、何かが潰れ、壊れる音がした。

 ────・

 俺は、ホームで、隣人に抱きとめられていた。

 ホームは大惨事だった。続く悲鳴に混じって泣き声、怒号。我先にとここを出て行こうとする人たちが、さらに別の事故を生んでいた。

「ああ、行きました」

 隣人が、言った。

 俺はゆるゆると顔を上げ、そのきれいな顔を見つめた。

「死神が、行ってしまいました」

「死神──」

 俺は、さっきの隣人の言葉を思い出す。

 ──さあ、代わりを、連れてけ。

 それは、一体誰に言った言葉だったのだか。

 そして、代わり、とは。

 俺は一瞬でそれを理解した。

 隣人は、俺の代わりに、このホームから落ちた人間を死神に差し出したのだ。

「まさか──」

「どうしたんですか?」

 隣人はとてもきれいに笑う。

「死ぬはずのなかった人まで、俺の代わりに──?」

 なんだ、と隣人は言った。

「なんだ、そんなことですか」

 俺はぞっとして、どん、と隣人の身体を押した。

 隣人は一瞬、傷ついたような顔をしてから、溜め息をついた。

 周りはまるで火がついたような騒ぎになっていて、地獄のような光景が広がっていた。けれど、俺たち二人の周りだけは、なぜか落ち着き払っている。まるで、俺たちのことなど、誰も気にいていないかのように。

 隣人は俺の視線をたどり、再び溜め息をつく。

「すごい騒ぎですねぇ」

「他人事みたいに──」

「他人事ですよ」

 隣人の声は、やけに落ち着いている。俺は背筋にぞくっと寒気を感じた。

 どうして、この隣人は死神なんて見えるんだ?

 どうして、この隣人は、俺に降りかかる危険を予知できるんだ?

 この隣人は、本当に隣に住んでいたのか?

 どうして俺は、2年近くも、この隣人を見たことがなかったんだ?

 この隣人は──人間なのか?

 俺の疑問に、多分気付いたのだろう。隣人は笑っている。

「僕が人間かどうかなんて、どうでもいいじゃないですか。──あなたは、助かったんですから」

「助かったって、俺以外の誰かが死んだ」

「そりゃ、死神だってお仕事ですから。誰かは死ななきゃ、納得しないでしょう」

「そんな──」

「僕は、あなたが助かればよかったんですから」

「そんなの──」

「だから、代わりを差し出すのは当たり前じゃないですか」

 にっこりと、その笑顔には、今までの無邪気さは感じられなくなっていた。

 俺は多分、蒼白していただろう。

「だって、そうしないと、あなたが連れて行かれちゃうじゃないですか」

 まるで悪魔のように。

 けれど、見た目はまるで天使のように、信じられないほどきれいだ。

「せっかく僕が気に入ったんだから」

 死神の姿は見えない。俺に見えるのは、この隣人だけだ。

 どこからが本当で、どこからが嘘なのか。

 そんなことを考えていた俺は、どんどん身体が冷えていくような気がした。

「みすみすあいつらに持ってかれちゃうのは、悔しいですからね」

 するりと、俺の頬を撫でて、隣人は笑う。

「またもしあいつらが現れても、僕が守ってあげますからね」

 目を瞠るばかりにきれいな顔。その笑顔。

 けれど、俺の身体はがたがたと震え、その手を振り払いたくても力が入らなかった。

「だから、ずっと一緒にいてください」

 指先がゆっくりと俺の頬をなぞり、隣人の舌が自らの唇を舐めた。

 もう逃げられない。そう思った。

 背中には真っ黒な翼。

 俺にはそれが、見えた。

 ああ、死神。

 頼むから俺を救ってくれ。

 姿の見えないそれに、俺は願う。

 いっそのこと、今すぐに俺の命を奪ってくれ。

 この光景はきっと一生俺の脳裏から離れない。

 そして、俺は一生、この罪を背負って生きていく。

 俺は、自分が助かるために、こんなに沢山の命を身代わりにしたのだ。

 震える俺を、そっと抱き締め、黒い天使は俺の耳元で囁いた。

「ずっと、ですよ」

 それは天使の囁き?

 それとも──悪魔の囁き?

 もう俺に、判断力はなかった。


 了

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