月が、見ていた
叶冬姫
月が、見ていた
月は不実だと、かの偉大な劇作家ウィリアム・シェイクスピアは描いた。夜毎姿を変えていく様が不実だと。その姿に愛を誓ってはいけないと。
月が不実だと云うのなら、その姿を見る瞳はどこまで誠実だというのだろう。
月を不実と見て取る人の心がどこまで純粋だというのだろう。
* * *
ミツイセイイチとホリユウヤはゆっくりと飲みながら酔いを楽しんでいた。特にユウヤは飲む前から疲れていたので、いつもより酔いの周りが早いと感じていた。そして、それが有難いとも。
街の夜景が全面の窓に見える部屋。洗足池にある瀟洒なマンションは遮るものがなく風景を楽しめるように作られている。その最上階のすべてを一人で使って生活するような人種がいるなど、ユウヤはセイイチに出会うまで空想の産物だと思っていた。そして、その空想の産物は自分とは絶対に相容れないような奴だろうとも。
前面の窓の向かうように置かれたソファーに座っているセイイチはゆっくりとグラスに口をつけ、酒を味わっている。瞳は窓の向こうの月を見ている。オーディオセットからはジャニス・イアンが流れている。今日は満月に一日足りないが、それでも月は東京の夜空を装飾している。ユウヤはちょうどテーブルを挟んで九〇度に当たる場所の一人掛け用のソファーに座っていたが、窓が全面なので何の苦も無くセイイチと同じように月を眺めることができた。
セイイチは月が好きで、東京でも月が見えるこのマンションを選んで住めるほど裕福な家庭に生まれた青年だ。だが、好きな月の物を飾ったコレクションテーブルの上に無造作にスーパーで買った総菜を並べる経済観念も備えてるし、あり合わせで簡単なつまみも作ることもできるという庶民的なところもある。
ユウヤの背中側にはホームバーがあってそこでさっと足りない野菜系のつまみ--例えばバーニャカウダなど--を作ってしまうのだ。
壁際には本棚。天文関係、特に月に関する本が多い。そのラインナップは専門書だけでなく、文庫本、子供の頃から大事にしていたのだろうか絵本や図鑑まである。オーディオセットもそこにあって、耳障りにならない心地よさで音楽を部屋に満たす。あとは、三台の天体望遠鏡と、シド・ミードのポスターが貼られた空間。ここはセイイチが月を眺め考えるためにだけに、好きなものだけを集めた部屋だ。だが、不思議と排除されるような感じはなく、むしろ居心地はよい。
まるでセイイチそのもののような部屋だとユウヤは思う。
今夜もユウヤが相談事があると告げたら、「じゃ一日早いけど月見酒でもしようか」とさらりと返し、そしてユウヤがまだその相談事について、何も言い出せずにいるのを自然体で待っている。
ユウヤはセイイチと初めて会った時のことを覚えていない。セイイチも「多分何処かのサークルの飲み会だった気がするよ」と答える。
ユウヤとセイイチは学部は違うが同じ大学に所属していて、いつの間にか気が合い、交友するようになった。その関係はユウヤが就職、セイイチが修士課程に進んだ今でも続いている。サークルでの大騒ぎして飲むような飲み会の乗りではなく、バーで静かに語らないながら飲むような関係だ。個人的な問題の時はさらりと部屋に案内してくれる。セイイチとただゆっくりと酒を飲むというのは最初こそ新鮮だったが、慣れていくにしたがってこの世には言葉を尽くさなくてもよい関係があるという事をユウヤは知っていった。
社会人一年目は忙しく、五月に一度来たきりだったのだが、部屋もセイイチも変わらずにそこにあった。
ふぅとユウヤは息を吐く。部屋は暖かいので息が白くなる事はないのだが、ユウヤは自分の中にある『濁り』のようなものが出て行って、それが白く見えるように感じた。だがその濁りはセイイチの部屋では綺麗に霧散していく。消えることはないが、溶け込んで月の光に晒されていく。
「あのな」
「なんだい」
濁りを吐き出しても、受け止めて、溶け込ませていくセイイチにユウヤは続ける。
「エリナに連絡がつかないんだ」
「イトウさんに?」
イトウエリナはユウヤの恋人だ。
「着信拒否とか、ブロックとかそういうのかい」
「まぁそれもあるんだけど…」
「でもイトウさん以前から時々していたよね」
セイイチの言う通りエリナは機嫌が悪くなるとすぐ連絡手段を断つという事を繰り返していた。それも何かを経由してユウヤから連絡が可能な手段を残しておきながらだ。その残された手段をたどっていけば、エリナの機嫌は必ずなおる。何度繰り返した事だろうか。
「ああ。だからいつもと同じだと思ってたんだけどな」
ユウヤが就職活動に明け暮れはじめた頃も、エリナは『寂しい』と言って同じことを繰り返していた。そしてユウヤには段々そういうあざとい可愛さを甘受できる時間も余裕もなくなっていった。それに気づかず繰り返すのは、エリナが単純に年下であるというせいではなく、配慮が出来ない娘なのだと気づいてしまった。相手の事を考えずに自分だけを可愛がるエリナがいつか変わってくれる日がくるのだろうと楽天的に考えていた事に、社会人になって気が付いた。大学時代はどこかお気楽だったのだろう。
「今回は全くなんだ」
「どれくらい」
「半月は過ぎてるかな…最初は気付かなったかもしれない」
恋人の変化に最初は気付けなかったなど普通なら恥ずかしい事なのだろうが、セイイチになら言える。
「それはよくないね」
普通ならこの言葉をユウヤは責められると感じるだろう。セイイチ以外の誰かであれば。
だが、セイイチは気に入りの擦りガラスに月と狼のモチーフが入ったグラスをいじりながらただ告げてきたのだ。その状況はよくないねと。
「南青山のアパートには行ってみたのかい」
「留守か居留守か分からない。人の気配は無かった。鍵も合わなかった」
気配が無かったと言いながら居留守を疑う自分に嫌気がさしながらも、ユウヤは意外とあっさり言えたことに軽い驚きを覚えた。
ユウヤが住んでいる赤坂からエリナのアパートまで行ってみたのは昨日のことで、やっと仕事が一段落ついた金曜の夜だ。さすがに鍵まで替えられているという状況に驚いて、一晩悩んだ末セイイチに連絡してしまったのだ。もっとするべき事が他にあるはずだろう…と自分でも思いつつ、ユウヤも月と狼のモチーフが入ったグラスをいじる。
ユウヤのは草原を走る狼の姿で色は若葉色、セイイチのは森で休む狼の姿で色は桔梗色だ。
「それはよくないね」
眉根を寄せてセイイチは告げながら、グラスを口元にもっていく。グラスを干したセイイチが、すこし体勢を代えて、ユウヤの瞳をまっすぐ見てくる。
「ボクはイトウさんとは繋がってはいないのだけれど…」
コレクションテーブルの上の端末に軽く触れながらセイイチは続ける。
「誰か知ってる人がいるかもしれないから尋ねてみようか」
セイイチの知り合いにエリナの今の状況を知っている人がいるのだろうか。だが、このご時世テーブルの上の端末一つで信じられない繋がりが出来る。まるで網目のように。
ふと、月に関する物をコレクションしたテーブルにこれで少女趣味にならないのがセイイチだよなとユウヤは思った。こんな風に、部屋も言葉も行動も整っていてまるで一人で生きているかの様に見えるのに、セイイチもきちんと人と繋がっているのだ。
「ユウヤ」
黙り込んでしまった自分に声をかけてきたセイイチに、ユウヤは慌てて反応を返す。
「何て言うのかな、振られたとか、『別れよう』とか言われたわけではないからさ。本当にどうしたらいいのか判らないんだ」
追いかければいいのか、このま放っておくべきなのか。
「エリナの意志だしさ」
この言い方は我ながら狡いなとユウヤは思う。思ったので、ユウヤはセイイチに自分の思いを吐露し始めた。
正直、昨日アパートに行くまでいつもの我儘だと思っていた。忙しいのが判っているのに、そうした事をするエリナに腹が立つというより呆れた。一応エリナに電話をかけて、共通の友人にも尋ねたりもしたが、それはそれをしておけば言い訳が立つというおざなりなものだった。
「結局面倒くさくなってるんだよ。ひどいよな」
自分の考えをまとめると、ユウヤはグラスを仰ごうとして空なことに気づいた。そんなユウヤのグラスにセイイチは酒を注ぐ。そして告げる。
「どうしてひどいのだい。こんな事面倒くさくて当たり前じゃないか」
あっさりとセイイチに言われユウヤは少しムッとする。
「だって恋人だぞ」
「恋人だろうが、友人だろうが、家族だろうが面倒くさいものは面倒くさいだろう。いきなり音信不通だなんて」
あくまでも状況を明確にしてくるセイイチ。
「でもユウヤは、連絡を取ろうともしているし、家にも行っているじゃないか。こうしてボクに相談にも来ている。ユウヤは優しいんだよ」
面倒くさいと思うことは当然だが、行動しているではないかとセイイチはどこまでも穏やかに告げる。誰だって思うものだと。考えるだけで止まる人間と、面倒くさくても行動する人間では雲泥の差があると続けた。
「ボクはユウヤのそういうところが大好きだよ」
「お前な」
不思議そうに見つめてくるセイイチにユウヤの方が照れて、そして、いいのかと思う。自分はこれでもいいのかと。
「エリナの事尋ねてみてくれ」
「わかった」
結局やはり気になるのだ。こうやってセイイチと穏やかに話していればせめて元気かどうか分かればいいと思う。話し合いをして納得したいとも思う。だがきっと一人になれば腹も立つし、ふざけるなとも思うだろうし。やっぱり面倒くさいし。どれも自分の感情なのだ。
何だかユウヤは笑いたいのか、泣きたいのかわからず月を見た。
「綺麗だなー」
満月には一日足りない歪な月。
それでもとても綺麗だ。
本当はセイイチ狙いで自分に近づいてきたことを知っている。そんなエリナではあったが、可愛いと思っていた頃があったのだ。そして今でも多分、嫌いではないのだ。だが、好き嫌いに関わらず面倒くさくなることがあるのだと。
「あ、ミノ先生からだ。イトウさん先月から大学にも来ていないらしいよ。講義も四連続欠席だって」
「マジかよ」
光る端末をいじりながらセイイチは続ける。
「先生もそれ以上の事は知らないみたいだ」
ユウヤの知る限り、エリナの単位はいつもぎりぎりだった。ゆえに計画的に取った講義を休むなど、まず普通ではありえない。そういえば就職活動もしているようだったが、きちんと聞いてあげられなかったような気がする。何かが起きているのだろうか。
「あ、タカトリさんが何か知ってるみたいだって噂があるみたいだよ」
「は?なんでタカトリがエリナのこと知ってるんだよ」
「そうだね」
タカトリユキとイトウエリナはいわゆる犬猿の仲だ。ユキはエリナの『高校生の時から読者モデルやってたの』を武器にしたお姫様気取りを馬鹿にしていたし、そんなユキを『ちょっと人より可愛いくらいで、医学部で頭がいいからといって何様のつもり?』だとエリナも嫌っている。それは女性同士の人間関係に疎い男性の間でも有名な話で、そんなタカトリユキがエリナのことを知っているというのは怪訝なことでしかない。
「ボク、タカトリさんの電話番号なら知っているけれど」
セイイチの言葉にユウヤはしばらく考えて、タカトリユキに連絡を取ってくれと頼んだ。
タカトリユキが電話に出なかったので、留守番対応に『イトウエリナさんのことで尋ねたい事があるので』と、セイイチが告げてくれた。
折り返しの電話があるかユウヤは不安だったがこれ以外に何のつてもないのも事実だ。
「もう時間も時間だし、明日になるかもしれないね」
「そうだな」
実際女性に電話をかけてよいような時間帯も過ぎているし、タカトリユキも確か大学院留学に向けてすべてが佳境に入っているだろう。
何かが分かったわけでもないのに、明日まで待つしかないというのに、ユウヤはいきなり急に気が抜けてしまった。何一つエリナへ繋がったわけではないのに。
「やるべきことはやったと思うし、今夜はこれでいいのじゃないかな」
セイイチの言葉にユウヤはソファーに沈み込むように座って考え込む。
「どうしたの」
「いや、何かとても大事なことを忘れている気がして」
ユウヤの言葉に今度はセイイチが首を傾げる。
「何もないと思うけれど」
「だよな」
口ではそう答えながらもユウヤの表情は納得がいっていないと物語っている。
「ボクは片づけをするね」
「あ、悪い。手伝う」
すでにつまみはなくなっていて、空いた皿があるだけだ。その小皿を手早く集めながらセイイチは腰を浮かせかけたユウヤを制する。
「いいよこれくらい。ユウヤは疲れているだろう」
「サンキュ」
「それに納得できないって顔してるよ」
何か大事なことを忘れている。そう思いながらユウヤはソファーに身を沈める。背後からはセイイチが食器を洗う水音と、ガラスが触れ合う音が聞こえてきた。考えれば考えるほどその大事なことはするすると月明かりに溶けていくようで、引っ掛かりを掴もうとすればするほどユウヤは夜に誘われていく。
部屋に差し込む月灯り。何か忘れている大事なこと。月を飾ったコレクションテーブル。本棚の影。歌劇「ルサルカ」のアリア「月に寄せる歌」。セイイチそのものような部屋。
「お前ってなんで月が好きなんだ」
ふと初めて浮かんだ疑問。
ユウヤの言葉は水の音と歌声に遮られて、セイイチには届かなかった様だ。
疲れと、酔いと、掴めない思考。水音と歌声。心地よいソファー。セイイチの気配が溶け込んだ部屋でユウヤはいつの間にか思考の糸を手放した。
* * *
どうして月が好きかだって?そうだね、夢を見たせいだと思うよ。あれは小学生の時だったよ。何故、そんな夢を見たのかは判らない。でも、その日に学校であった出来事は覚えているよ。未だにそれがきっかけだったのかは判らないけれどね。僕はいつものように学校に行ったんだ。僕はいつもと変わらなかったんだよ。でもね、その日の教室はいつもと違ったんだ。ある男の子がね、もう一人の男の子をからかっていたんだ。ああ、誤解しないでほしい。それも本当ならいつものことでね。その二人は本当に羨ましいくらい仲が良かったし、ふざけあって、からかいあって、それでも大丈夫なくらいにね。だから二人のそれは、いつも教室の雰囲気を和やかにするものだったんだ。
でもその日は違った。ぎりぎりの綱渡りの綱に、誰かが悪戯でナイフを当てたような感覚。後は少し力をいれるだけっていう…はっきり言おう。いじめが始まる瞬間だった。教室の雰囲気はね…これもはっきり言おう。期待に膨らんでいたよ。僕はとても嫌な気持ちになってね。つい、眉をひそめてしまったんだ。そうするとね、その二人も、教室の雰囲気も何事もなかったようにいつもの和やかな雰囲気に戻ったんだよ。僕はとてもほっとしたよ。当たり前だろう?なのに、その夜、夢を見たんだ。信じられないくらい大きな月がね宙に浮かんでいるんだ。光っているから夜だとやっと判るくらいの大きな月がね、宙いっぱいに浮かんでいるんだ。どうして落ちてこないんだってだろうって僕は思ったよ。
ああ、この月に僕は圧し潰されるって思って、それで、これは夢だって気づいてね。それから、さらにあの月は僕を絶対に圧し潰すんだって思ったよ。圧し潰されることも夢だってことも分かっているのに、僕はね呑気に、ああ、静かの海があんなに綺麗に見えるって思っていたよ。きっと、覚えたばかりの言葉だったからじゃないかな。静かの海。綺麗な名前じゃないか。心に残るよね。それでね、僕は僕を絶対に圧し潰す大きな月をね、ゆっくり眺めていたんだ。月がどんどん光を失って、周りが赤くなって…月だけですべての視界ををふさぐほど大きくて動かないのに朝焼けはちゃんと来たんだ。さすが、夢だよね。そして夢の中で夜が明けると同時に僕は目を覚ましてね。
とても腹が立ったんだ。僕があんなに何かに腹を立てたのは、僕が覚えてる限りではあれが初めてだったね。だって、嫌なものをみて、嫌な気持ちになって、嫌だなって、やめて欲しいなって思うのは当然のことじゃないか。
それなのにあの月は僕を咎めたんだ。自然の流れを、起こりうる当然の出来事を僕が無理矢理止めたんだってね。大きな月が落ちないような不自然なことをお前はしたんだってね。冗談じゃない。嫌なものを見て嫌だなって思うのは自然な反応じゃないか。どうして僕が咎められなきゃいけないんだ。そう思うとね、本当に腹が立ったんだよ。だから、僕は月が大嫌いになったんだ。
あれ?ユウヤもう寝ちゃったの?そう、僕はね月が嫌いなんだ。
セイイチは静かに窓辺に、ユウヤのそばに近寄っていく。夢にも負けないほどの浩々とした月明りだけで成り立つ部屋を。そう、この部屋の明かりは月明りだけで成り立っている。
まぁ、僕の深層心理が見せた夢なんだろうって今なら判るけどね。小学生の時は理不尽だとか、そう云う事すらも分からなくてね。月は太陽の光を反射して光っている事は授業で習っていたからね。自分だって、ただの自然現象のくせにどうして僕を咎めるのかって、ただひたすら腹を立てて…それぐらい怖かったんだ。だから、学校で習うこと以外のことも全部月のことを調べて暴いてそんなことやめさせよう思ったんだよ。我ながら傲慢な子供だよね。でもね。それぐらい。怖かったんだよ。そして、残念なことに、今でもその夢を見るんだ。そう、僕が嫌だな、やめてほしいな、嫌いだなって思うとね…僕って顔に出やすいのかな?何故か、僕の周りの人はね。僕の嫌がることはしてはいけない、させてはいけないって反応してくれるんだよ。その度に月の夢を見るんだ。でもそれらは勝手な彼らの反応だろう?どうして僕一人だけが咎を負わなくちゃいけないんだろう。本当に、理不尽だよね。
「でもね、ユウヤ、僕は出会ったんだ」
月明りよりも白いセイイチの指が、眠っているユウヤの頬に触れる。
それはガラス工芸作家が手作りで作った対のグラスを扱うよりも、慎重なもっと大事な壊れ物を扱う仕草だ。
「僕に絶対に嫌な感情を起こさせない稀有な存在に」
そっとユウヤの頤にセイイチは手をかける。
「ユウヤ知ってる?月はね地球に同じ方向しか見せないんだ。誰も月の裏側を見ることはできないんだ」
謳うように呟きながら、セイイチはユウヤに口づける。決して壊さぬように。
月を目の端でとらえながらユウヤを味わう。それはセイイチのほうが震えて壊れそうなほどの不安定な口づけ。
「ユウヤ。僕は月がとても好きだよ。大嫌いになれるほどにね。ユウヤ、僕はイトウエリナさんは嫌いじゃなかったんだよ。でも、ユウヤの恋人として振舞うイトウエリナさんは嫌いだ」
泣きそうな震える声。誰も聞いたことのない、セイイチの月にだけ見せる裏側。
* * *
「ユウヤ、ユウヤ!」
そっと、腕をとりセイイチはユウヤの体をゆする。
「…」
「ユウヤ、起きてよ。こんなところで眠ってしまったら、疲れてしまうよ」
「…おれ、寝てた?」
「寝てたよ。駄目だよ。ソファーで寝たりしたら。ちゃんとゲストルームに行ってくれないかな」
「このソファーおれのベッドよりはるかに寝心地いいからなぁ…」
そう言いながらも、ユウヤは腕を上げ背筋を伸ばす。
「ボクも飲みすぎたみたいで、もう少ししてからシャワーを浴びたいから、ユウヤが平気なら先に行ってくれないかな。着替え類はいつも通りにしておくからね」
「わかった…って相変わらず洗濯機使いきれないのか」
なんでもそつなくこなすセイイチだが、なぜか洗濯機が扱えない。衣類はすべてコンシェルジュに託して、クリーニング店を使っている。
「別に困っていないからいいだろう」
拗ねたように告げるセイイチ。これはユウヤが珍しくセイイチをからかうことができる話の種だ。
「じゃ、先に風呂借りるわ。洗濯もついでに明日してやるよ」
完全防音のマンションだし、ちゃんとランドリールームもある。
「着替えは適当においておくよ。この前持ってきたいたのじゃ寒いだろう」
五月の時に置いていったのは半そでに短パンだった。確かに季節的には寒いかもしれないが、セイイチの部屋は温度も湿度も常にちょうどいい。だが、ここは素直に借りようとユウヤは笑う。
「何笑ってるんだい」
「いや、お前って、人に服貸したり、借りたりするの嫌がりそうなタイプに見えるのに、案外平気でするよなって」
「そんなこといちいち友達に気にしないだろう。さすがに下着は嫌だけれど」
真顔で応えるセイイチにユウヤは笑い転げる。
「それはおれも嫌だ。ついでに言うと下着をクリーニングに出すのも嫌だ」
なぜ下着をクリーニングに出すのが嫌なのかは以前からどうしてもセイイチに理解できない感情らしく、そんなセイイチにユウヤはの笑いは止まらない。
「ユウヤ」
「悪いおれもまだ酔いが残ってるみたいだ」
笑いながら、ユウヤは勝手知ったるセイイチの部屋を自由に使い始める。
「まったく、君は…」
ドアの向こうに消えたユウヤに告げる言葉を失って、セイイチは月を見る。
月も自分を見てるようだとセイイチは思う。 否、月だけがセイイチのすべてを見ている。
* * *
本当は私は諭すべきだったんでしょうね…とタカトリユキは前置きしてイトウエリナについて知っている事を教えてくれた。
彼女、芸能事務所にスカウトされたって私にわざわざ言いに来たの。会ったのはその時が最後よ。私でも知ってるくらい有名な事務所の名刺だったわ。女優になるんだって楽しそうにはしゃいでるように…見えたわ。彼女も判っていたんでしょうね、そんな事あるわけない、これはおかしい事だって。だから私にだけにわざわざ言いに来たんだと思うの。おかしいって判っているけれど、私には自慢せずにいられなかったんでしょうね。『よかったわね、活躍楽しみにしてるわ』って言ったわ。だって、それが聞きたかった言葉でしょうし…ううん。私怖かったの。巻き込まれるの嫌だなって。だからそう答えたの。『事務所から少し痩せるようにって言われて薬ももらってるのよ。よく効くのよ。すごく痩せるの。ユキにもあげるわよ』…なんてそんなこと言われたら怖いでしょう?確かに痩せていたわ。少し痩せすぎじゃないって心配したら、『羨ましいんでしょう』って笑っていて…ごめんなさい。私、私にだけに言いにくる彼女がとても怖かったの。それ以前から講義には出ていなかったみたいだから…いつからかは知らないわ。そこまで仲良くはなかったもの。私は最後に大学でイトウエリナに会った人物…それだけよ。他の子には何も話してないわ。言いふらすことでもないし。
でもやっぱり、何かするべきだったのよね…と告げるタカトリユキにユウヤは声をかける。
「そんなの怖くて当たり前だよ。タカトリさんは悪くないよ」
電話の向こうでタカトリユキは『もし何か分かった事があればまた知らせる』とユウヤに電話番号を教えてくれた。
「タカトリさん、危ないから自分から何かしたりしちゃだめだよ?」
念を押すユウヤに『ありがとうございます気を付けます』とタカトリユキは電話を切った。
「なんだよ…事務所?薬?」
タカトリユキが嘘をつく理由はない。きっと本当にエリナはわざわざ知らせに行ったのだろう。自分でも判っているおかしな話を告げに。
「さすがにこれは困ったね」
セイイチも思案気に髪をかき上げる。
翌日の昼間、連絡のあったタカトリユキの話は荒唐無稽に思えたが、ユウヤはどこか冷静に真実だと思った。
エリナは楽な方に流されたんだ…と。エリナの年でそんな夢物語あるはずがないのに乗ってしまったのだと。
「どうするのユウヤ」
「いや、さすがにこれは家族じゃないと…あ…」
突然ユウヤは言葉を詰まらせて、それから続ける。
「家族だよ」
「え」
「昨日何か大事なこと忘れてる気がするって言ってただろう…普通家族に真っ先に知らせるべきなんだよ。音信不通とか」
「ああ、そういえばそうだね」
セイイチも今気がついたと納得する。
「でも、オレ、エリナの実家とか電話番号とか知らない…俺も別に教えてなかったし」
いつでも簡単にすぐ繋がる世界は、でもやはりどこか繋がりきれていないのだ。
「どうするの」
「とりあえず、何とか家族に連絡はつけてみる」
「そうだねなんとか大学側から伝えてもらうのがいいかもね。講義に出ていないことだし。警察は…家族の問題だろうね」
「そうだな」
事が判り、やることが決まった。エリナのことはエリナの家族に任せる。
「家族に連絡が付いたらこのまま別れる」
タカトリユキと同じだ。関わりたくない。それがおかしいと判っていながら楽に流され、墜ちていくものに手を差し伸べるのは自分じゃないとユウヤは思う。
「おれ冷たいのかな」
「ボクでもそうするよ。でも他ににユウヤがしたいと思う事があるなら、ちゃんと手伝うよ」
セイイチの言葉にユウヤは首を振る。家族に連絡を取ること、それ以上は何もできない。したくないと。
「好きだったんだけどな」
「それと、許せないのは別問題だろう」
「許せない?」
初めて気づいたかのように呟くユウヤ。
「そうかおれは許せないのか」
「そうなんじゃないかな。もしイトウさんが本気で女優…前はアイドルになるんだって言っていたよね。それを本気で思って努力していたのにこんな事になってしまったのだとしたら、きっとユウヤの…タカトリさんだって反応は違ったはずだ。ボクだって多分助けようとするよ」
そしてボクはユウヤの手伝いしかしないとセイイチは言い切る。
「努力なんてエリナにありえないよ」
それでも変わって欲しかった。流されてなんて欲しくなかった。今怖い思いをしているのだろうか。当たり前だが心配と不安は募る。
それでもユウヤはそんな恋人と別れる決心をした。家族の事すら知らない、そして自分も知らせていなかった恋人と。
* * *
とりあえず手段を講じて、イトウエリナと音信不通であることが家族に通じることになった。そこまでして、ユウヤは明日は仕事だからと帰って行った。
一人きりになって思い出す。
褒めたことがある。『女優になるの。そのために上京したのよ』と微笑むイトウエリナに『素敵な夢だね』と褒めたことがある。誰からも肯定されない荒唐無稽な夢を褒めてもらえた喜びに、彼女は頬を紅潮させた。
その時一度だけ、僕はイトウエリナを可愛いと思った。
「あのときの僕の表情が、君を後押ししたのかな」
本当に素敵な夢だと思ったんだ。
でも、僕はあの時どんな表情でイトウエリナを褒めていたのだろう。居酒屋で騒いでいたどこかのサークルの人間たちは、その時の僕の表情をどう取ったのだろうか。
月に誓えるほど、不実な物言いはしていないと、心から褒めたと言い切れるのに。
「もしかすると、僕はイトウエリナさんに酷いことをしたのかもしれない。ごめんねユウヤ」
ああ、こうして、僕は今夜もあの月の夢を見る。
月が、見ていた 叶冬姫 @fuyuki_kanou
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