少女、ひとり
灯りを落としてから、どれだけが経ったか分からない。もう死ぬのだと覚悟を決めて、それから。暗い部屋には相変わらず、モニタの中の真っ白な景色が映っていた。
私の手を離れ誰かに渡されたそこには、もう、何もない。
守りたかったものの、大切に思っていたものの亡骸を無意味に眺めさせられているというのに、私のこころは意外にも穏やかだ。
そこは、私の玩具箱などではないのだと分かったから。ようやく実感を伴ったその感覚。
きん、と耳に響く静寂。
彼ひとりを映し続けていたモニタに、モスグリーンのコートを着た男性が、映り込む。
少女、ひとり
季節感などまるでない部屋で、今日も室温は二十二度。湿度は五十三パーセント。今から死のうという人間にも、システムは平等にそのお恵みを与えてくださる。
私が思うに、私はきっとシステムに反抗していたつもりで、その実システムにとっては非常に有用な人的資源だったのだろう。あれほど憎んだシステムに、私は利用されるだけ利用されて終わったのだ。
ことの始まりは、そう、以前のログを見た人間には一目瞭然なのだろうけれど、きっと私が始まりを自覚する、それよりも前にあったのだ。
私の思う始まりは、白い服の彼らに、この部屋に連れてこられた日。けれどほんとうは、私がジョンドゥに会った時。
あのぼろ家で生まれ、治安評価が下から二番目の区画で生活をしていた私にとっては、朝起きて目が開く、それが毎日、奇跡の連続だったのだ。区画標準の精神性を持っていた私のそれが揺らいだのは、富裕層、国の真ん中に住んでいるのだという彼との出会い。この国の壁は、外から中への行き来は制限されているけれど、中から外へは自由なんだ。と、ジョンドゥは言った。
「でも、おじさんは実は、こっそり遊びに来ているからね。おじさんの名前は見えないだろう。」
ジョンドゥはそうも言い、ウインクをして、だから不便だろうし、ジョンドゥと呼んでくれ、と、彼曰く発育が悪く歳の割に小さかった私の頭を撫でた。
あぁ、懐かしい。
私の常識を変えたのも、私にシステムの目をごまかす方法を教えてくれたのも、すべてがこのジョンドゥだった。結局私が不穏分子として捕縛され、ここよりも冷たい部屋へと投げ込まれ、そしてこの部屋で、「生前」よりもたくさんの情報を得られるようになってもなお、分からなかった。
かろうじて分かったのは、ジョンドゥという言葉の意味だった。
「名前のない男」、を指すらしいその言葉は、皮肉でもなんでもなく彼にぴったりだと、私は思う。
これが、走馬燈というものなのだろうか。
もう二度と思い出す必要がないと思っていたことなのだけれど。
私は自分の腕を見ながら思う。ここ数日それは以前よりもずっと生白く、得体のしれない薄気味悪さを感じる。ほんとうに、もう死ぬのだ。
けれど私の生命維持率は変わらない。
腕に繋がれたチューブから五日ほど前に注ぎ込まれた液体は確か「尊厳死」とやらに使われる優しい毒物だったように思ったのだけれど、あの液体が入ってきて、私の視界に「業務連絡。ゼロニハチ番は本日をもって退職とする。」なんて文言が――つまり、私の役目は終わったから速やかに死になさい、という意味なのだろうと私は思ったのだけれど――ポップアップしてから、もう五日も私は生きている。
「死なないの、わたし。」
この部屋には誰もいない。そんなことは分かっているけれど、それでも声に出さずにはいられない気持だった。声がまだきちんと出るか、を確認したかったという気持ちもあった。声はきちんと出たけれど、それはますます、私の生きている、生かされている意味にクエスチョンマークを増やすだけ。
「見守るのさ、君は。」
だから、どこからともなく――実際は脳内、かつて繋いだ直接回線を経由しての声だろうけれど――声が聞こえた時、私は完全に油断していた。
油断していたから、どう、という、桜を眺めていたあの日のような危機が訪れるわけではない。死を目の前に覚悟を決めてからというもの、守りたかったものすらこうも真っ白に塗りつぶされてしまってからというもの、死ぬよりは何だっていい。
軽いパニックに陥っている。
混線した思考回路を整理しようと努めている間に、その声はもう一度、見守るんだ、と言った。
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