18・天空の音楽
ハギトと名乗ったその浴衣姿の少年は色も青白く痩せていたが、長い髪も相俟ってどこか中性的な雰囲気があった。
少年は八坂親子に対して怪しむような怯えるような眼差しを向けていて、それがイノリが握っているバールに対して向けられている事はすぐに気が付いた。決して綺麗とはいえない二人の身なりもあって、盗人か何かに見えたとしても無理は無かった(まあ実際のところ、そう大差は無いのだが)
やや身構えた様子で凝視してくるハギトに対し、八坂はこう申し出た。
「ここは旅館だったんじゃないのかな? 泊めてもらおうと思って来たのですが」
こんな状況で営業しているとは思ってもいないのだが他に言い繕いようも無く。案の定ハギトはあいかわらず訝しむような表情を浮かべたままだった。
「えと……ここはもう旅館じゃないから……ごめん」
なんとかそれだけ言うとハギトはいそいそと戸を引いて二人を締め出そうとしたが、完全に閉じられる前にイノリが手を掴んで押し留め、なかば強引に再び開けさせた。ぎょっとした様子のハギトに対して、イノリは顔をじっと見つめながら尋ねた。
「ハギトはここに一人で住んでるの?」
「いや、俺だけじゃない。他にも何人か……」
「ここはハギトの家じゃないでしょ? ハギトも勝手に入り込んで住んでるだけなのに、私達は入れてくれないの? それってずるいと思う」
手の甲を掴んだまま見据えてなかば睨むような様子でそう詰めるイノリに対し、ハギトの方は目も合わせられずに困惑しているようだった。どうやら「ダメ」と言おうとしているようだったが口ごもっていてはっきり聞き取れはしなかった。
苛々した様子でハギトの手を掴んでいる娘の様子を見かね、八坂が言葉を挟もうとしたちょうどその時、イノリが振り返って叫んだ。
「誰――?」
バールを握ったままイノリが八坂の背後に広がっていた暗闇に問いかける。ハギトもすでに気付いているらしい。遅れて八坂も懐中電灯を持って振り向いたが、ちょうどその時カチリという音がして、電灯の灯りが二人の周囲にいくつも照らし出される。灯りのまばゆさに思わず目が眩んだが、どうやら懐中電灯を持った男が三人ほど遠巻きに囲むようにして彼らの周囲に立っていたのである。ライトを消して気づかれぬようにそこまで忍び寄って来ていたらしかった。
イノリは眉をひそめて男達を睨み付けていたが、やがて再び「誰?」と問いかける。するとそのうちの一人――明るい色のジャンパーをまとって眼鏡をかけた男が進み出る。男の手には構えていないものの猟銃が握られていて、八坂は内心ドキリとした。
「おお、驚いた。俺達はハギトの友達だよ。誰か来てるのかなと思ってね」
猟銃を握った男は飄々とした様子でそう言いながらイノリと八坂の横を抜け、旅館の入口に居るハギトの傍に立った。うつむいたままのハギトの髪を軽く撫で付けた後、軽く会釈をして
「俺は中村といいます。この辺りのコミュニティーを取り仕切っている者です。ええと、そちらは八坂サンでしたっけ?」
中村と名乗ったその若い男は愛想は良いが張り付いたような笑みを浮かべながら八坂とイノリの顔を交互に見ていた。
「はい。八坂総一とこちらは娘のイノリです。あの、コミュニティーというと……この辺りには人が住んでいるんでしょうか?」
八坂が気にかかったコミュニティーという言葉について尋ねると中村は答える。
「ええ。人数は十四五人いるかいないかくらいで、たぶん八坂サン達もそうかなと思うんですが、最近の白夜や寒冷化にヤバさを覚えて温泉目当てで箱根までやってきたクチ。あ、自噴の温泉宿は他にもいくつかあるのでそこに分散して住んでますね」
そこまで言ったところで、話を切り替えるようにして中村はこう切り出してきた。
「ところで、八坂サン達も暖を取ろうと箱根まで来たんですよね?」
「……ええ、そのつもりで東京から来たんですよ」
八坂の答えを聞いた中村は一瞬だけ薄笑いを浮かべたが、すぐにこう続ける。
「いやそれは構わないというかむしろ歓迎なんですが、今現在世界がこんな窮乏著しい様なわけで、できたら、コミュニティーに貢献していただきたいわけで……」
歯切れの悪い言い方だったが、先ほどから自分の背負っていたリュックを値踏みするような目で見ている事には気が付いていた。要は食糧などの分け前を要求しているのか。自分達も大して持っているわけでも無かったが、銃で脅されたりここで居住を拒まれて追い出されるような事態はさすがに避けたかった。
「成程、もっともな話です」
愛想よく微笑しながらそれだけ答えると八坂はリュックを下ろし、中に詰め込まれていた保存食の缶を幾つか取り出して、中村に手渡していく。
やりとりをじっと見ていたイノリは不満げだったが「お風呂のため」と苦笑しながら宥めると、とりあえずは納得した様子だった。
中村や連れの男達の方はというと乾パンや乾燥野菜の缶を見るとひどく驚いた様子で「東京にはまだこんな物が残ってるんですか!」と感嘆していた。
「非常用の備蓄が案外残ってましたからね――皆さんは地元の方なのですか?」
「いんや、俺は大阪から来たんですよ。他の連中も殆どは関西方面から来た人間で、今のコミュニティーには地元の人はほとんど居ないですね」
「わざわざ大阪から! 大阪の様子はどうだったんです? もう随分テレビもネットも使えなくなっていたもので……」
そう尋ねた八坂に対し、中村は顎髭を弄りながらあまり愉快では無さそうにこう答えた。
「んー、大勢病気になって死んだし、
その答えに、八坂はふと先ほど箱根湯本駅で見た死体の事を思い出した。
「そういえば私もさっき駅で死体を見ましたよ……自殺でしょうけど」
「知ってますよ。最近姿を見ないと思ったらねェ」
「知っている人だったんですか。降ろしてやらなくていいんですか?」
八坂が怪訝に思ってそう言うと、中村は
「んー、どうでもいいですよ。死んだもんはしょうがない」
そう言って本当に興味も無いという風にその話を切り上げると
「それじゃあ歓迎するよ、八坂さんにイノリちゃん。また朝――いや、明るい時にでも他の連中に引き合わせますから。ハギト、お二人を休ませてやってくれよ」
それだけ告げ、後は任せたとばかりにハギトの肩をぽんと軽く叩くと中村達は各々がわけられた食糧や懐中電灯を手にし、闇の中に引き返していった。
その姿は間もなく見えなくなり、雪がぱらつき続ける中に八坂とイノリ、そしてハギトだけが残された。
去って行く中村達の後ろ姿を見送った後、ハギトは消え入るように小さな声で「どうぞ」と口にし、旅館の中に二人を招き入れる。
「いいのー?」イノリがそう尋ねてもあいかわらず目も合わせずに「中村さんが決めたならね」と短く答えるだけだった。
招き入れられた旅館のフロントは当然ながら電気照明の類いは一切灯っていなかったが、ハギトが提灯――温泉街の土産物か何かだったのだろう――に火を分けてそれぞれに渡してくれたおかげで多少は見通す事ができるようになった。広範囲を照らすので屋内ならば懐中電灯よりも使い勝手がよさげであった。
旅館の内部は薄暗い以外は特に荒らされたりした形跡も無く、少々埃っぽい以外は何もかも平時のままだった。そうして何より、暖房器具も稼働していない筈なのに意外なほど暖かかったのである。
「暖かいでしょ? 内風呂の温泉の排気口を塞いで湯気や熱気が建物内に流れ込むようにしてみたんです。おかげでちょっと硫黄臭いんですが、寒いのは嫌だから……」
ここにきて初めて、ハギトが少しばかり感情を見せた感じがした。なんとなく自慢げで嬉しそうに見えたのだ。無尽蔵に湧き続ける温泉の熱気を屋内に引き込むというのは能率は悪いだろうが急場しのぎの防寒としては悪くないように思え、八坂は普通に感嘆しながら尋ねた。
「面白い事を考え付くものだね。ええと、これはハギト君が考えついたのかな?」
「いいえ、俺の兄貴が。――死んでしまいましたけどね」
ハギトはそうさらりと言うと、なんだか困ったような表情を浮かべて八坂の方を見た。八坂は思わず口を噤んでしまったが、聞いていたイノリの方が横目でハギトを見ながら口を挟んだ。
「もしかして、ハギトのお兄さんってあの駅に居た人?」
駅に居た人――? 一人しかいない。いつものあっけらかんとした調子でとんでもない事を言い出した娘に、思わず八坂の表情がこわばる。取り繕う事ができるかなどとつまらない事を考えている間に、ハギトの方が何の感慨も無さそうに素っ気なく口を開いた。
「よく分かったね。あれ、俺の兄貴」
「だって似てたし」
「ああよく言われたわソレ」
「でしょう、そっくりだもん」
当てたのがよほどうれしかったのかイノリは妙にニヤニヤしている。一方でハギトの方は本当に大して関心が無いと言わんばかりの態度だった。
八坂には自分よりはるかに若くて幼い二人のどちらともが、ひどく異常な振る舞いを見せているように思えてならなかった。異常な世の中にすっかり慣れ切ってしまったような。いいや、もっと端的に言えばまるで人間性がぽっかりどこかに抜け落ちてしまったかのような……。
いいや、もしかしたら自分の方が感傷的で老いぼれているのか? 変わり果てた世界に順応出来なくなりつつあるのは、自分の方なのか? それとも。
◆
何か妙な、思考の袋小路とでもいえる場所に放り込まれた気分だったがそれも長くは続かなかった。――何かが聞こえたのである。
それが聞こえた途端、八坂は思わず立ち止まった。空耳などではない。イノリも同じように立ち止まり耳をそばだてはじめた。
「――音楽?」
思わず呟いた。間違いない。何処かから聞こえてくるのは古い英語音楽だった。
都会的なジャズ。輝くようなトランペットの音色。
しっとりとした張りのある歌声――。
「あ……これは天空の音楽ですよ」
「天空の、音楽?」
八坂が気を引かれたものの正体を察したように、ハギトが教える。
「よく知らないんですけど、あの人がそう呼んでるんです。これは天空から時々届いて鳴り響く音楽なんだって……言葉が俺にはひとつも分からないけど、なんだかイイ音楽ですよね。すごく好きです」
「その――あの人ってのは?」
「これが流れている間は、いつもラジオの前に」
ハギトが指し示したのは、平時には宿泊客用のバーとして使われていたであろう一角だった。開けっ放しのガラス扉の向こうからは蝋燭か何かの仄かな光が漏れ出していた。
八坂は音色に魅かれるようにしてそのバーへと向かっていく。イノリもハギトも後に続いていった。
輝くようなジャズは、まるで彼らの魂をゆさぶるようにして鳴り響き続けていた。
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