17・邂逅
八坂とイノリが駅前に辿り着いた頃には既に白夜も終わりを告げ、辺り一帯が闇に包まれていた。
箱根湯本駅は閉鎖されていたし、駅前のホテルや旅館にはひどく荒らされた形跡がある。ゴミなどの痕跡は殆ど残っていない事からしてそれが起きたのもかなり前の話らしかった。予想はしていた事だったが、ある種の非日常空間である観光地がすっかり荒れ果てている様子にはなんとなく侘しさがあった。
「ねぇ、これからどこに住むの?」
そう言いながらイノリはリュックの中から窓割り用のバールを取り出して示して見せる。いつもちょっと色々借りる時に使っているやつ。そうだ。東京に残っていた頃も今も、結局自分達だってその一員ではないか。自分がさも他人ごとのように傷心していた事に気づき八坂は苦笑した。
――だけど確かにとりあえず、これから寝泊まりする場所を探さねば。眠るにしてもある程度防寒できる建物でなければ体調を崩しかねなかった。
「とりあえず……この辺りの建物は駄目だよ。温泉もポンプで汲み上げてるから今はお湯が出てないと思う」
「えー、じゃあやっぱりお風呂入れないの?」
「まァまァ落ち着きなさいって」
露骨に不満そうにするイノリに、八坂は観光案内板をライトで照らしながら答える。あの豪邸暮らしが終わったのを最後に風呂なんて入る機会が無かった。垢すりくらいはやっていたが不十分だし髪もろくに洗えていない。なんというかここ何年で一気に文明生活から遠のいたような感じがした。
「箱根には昔お母さんと来た事があってね、商店街の先にある旅館に泊まったんだ。その時近くに自噴の温泉が備わってる旅館があると知って、どうせならそこに泊まれば良かったねって話をして……ああ、たしかここだ」
十年以上前のぼんやりした記憶だけを頼りに案内板を見ていたが、覚えのある旅館の名前が記載されていた。他にアテは無いしとりあえずそこを目指すしか無かった。
二人は懐中電灯を手にしてゆっくりと駅前を歩いていく。立ち並ぶ店先のガラスの多くが割られ、シャッターなどはこじ開けられている。中を覗き込んでみれば土産物の木刀やら温泉饅頭の蒸し器やらが無造作に転がっていた。東京から脱出する人達が過去に何度も漁っていったのであろう事は容易に想像がついた。
「ねえねえ、お父さんはお母さんと此処に来た事があるんだよね。いつなの?」
イノリの問いかけに対し、八坂は思い出すように口元に手をあてながら答えた。
「イノリが生まれるより前だよ。その頃はまだ暖かかったし人もたくさんいる観光地だった。……また来ようって言ったけど、結局来なかったな」
「代わりに私と来たんだからいいんじゃない」
「代わりって言い方はなんか変じゃないか?」
「あれ? そうかなあ」
それから一呼吸置いた後、イノリはこう尋ねた。
「ねえ、お母さんってさ、どんな人だったの?」
八坂はその問いに少しだけドキリとした。記憶にある限り、イノリが母親について尋ねてきたのは今この瞬間が初めてだった。一瞬の逡巡の後、八坂は歩きながら答えた。
「んー、綺麗な人だったよ。それに賢くて優しかった」
ひどくつきなみな事しか言えていない事に自分ながら苦笑する。しかしもう随分昔の事のように感じてしまい、思い出も薄れてしまって来ているのが正直なところだった。そういえば写真など一枚も持っていない。デジカメやタブレットは使う事もできなくなってとうに手放していた。大消失以前の記憶は遠のいていた。
イノリは母親が死んだ時にはまだ二歳だった。顔を覚えてすらいないだろう。そうして自分も理沙の事を忘れかけてしまっていた。その事を改めて認識すると八坂はなんだか急に居心地が悪くなるような感覚をおぼえていた。
「私には、似てた?」
「うん、似てるとも――」
「そっか、ありがとう」
急にそう尋ねたイノリの横顔を八坂は思わず見る。しかし真闇の中では見やったところでその顔は見えない。実際イノリは成長と共に、大きな潤んだような眼や腰辺りまで伸びた髪の質感までが理沙に似てきていた。同い年の頃ならばそっくりだったのではないかと思えるほどだった。
お母さんの事、イノリはなにか覚えてるのかい?
八坂は続けてそう尋ねようとしたが、丁度その時イノリが不意に足を止め「あ……」と、何かに気づいたような声をあげた。
イノリが手にした懐中電灯は駅舎の二階部分に通じる歩道橋を照らしていた。そうしてそこに、何か大きな物がぶら下がっている事に八坂もすぐに気が付いた。
それがどうやら人間の身体――首吊り死体である事には二人ともすぐに気が付いた。服装からして男性で、まだ崩れていない事からしてせいぜい一日か二日前に死んだものか。
「死んでるね」
イノリは懐中電灯でゆらゆらとなぞるように照らしながら興味深そうに死体を観察している。その姿が死体を光で興味本位で弄んでるようにも思えてしまい、八坂は「やめなさい」と制した。
「この町に住んでた人なのかな? それとも、来た人? どうして死んだんだろう」
「……さあね」
イノリは制されて照らしながら観察する事だけは止めたが、死体にやたら興味があるらしい事は様子からも見て取れた。八坂にはそれが不謹慎というか、もっと有り体にいえば何も物怖じしていないのが少々気味悪く思えてしまっていた。
「あんまり見ちゃダメだよ。行くよ」
「はぁい」
しびれを切らして促すとイノリはすぐに再び歩き始めた。連れ立って歩きながら八坂は一度だけ振り返ったが、あの死体も歩道橋ももう闇に紛れて見えなかった。
空からはまた細かい雪が降り始めていた。冷たい大気の中で乾いた雪がぱらつく中、二人は朱塗りされた橋を渡って行く。あれから押し黙ったように歩き続けていたが、橋の半ばあたりでイノリがぽつりと口を開いた。
「私、お母さんの事覚えてるよ。なんとなくだけど――それでさ、憶えてる一番最後はね」
一呼吸おいて、さらに続ける。
「夜空に向かって翔んでいくところ。その時のお母さんね、泣いてるのか笑ってるのか分からないような、不思議な顔をしてた」
八坂はイノリに対してはどんなとりとめのない話でも極力きちんと応えようと努めていた。娘には他に話し相手もいないのだから。しかしこの時ばかりはまるで背筋に冷水を垂らされたような厭な感じが走り、何か答える事はできなかった。
イノリは、母が
気持ちがひどく掻き乱される中、イノリはさらにこう続けた。八坂はあいかわらず押し黙っているだけだったが、その一言は妙に印象に残ってしまった。
「最近、お父さんも時々同じ顔してるよ」
◆
それからまた暫くして、二人は橋を渡った向こうにある真っ暗な旅館街に入り込んでいた。ここらには駅前のホテル群ほどではない中小規模の宿泊施設が路肩に居並んでいる。自噴の温泉を備えた旅館もこの一角に
「あった!」
懐中電灯で照らした看板には、たしかに探していた名前が刻まれていた。
「この辺りなんか変な臭いがするね」
「硫黄の臭いだよ。お湯が出てる証拠みたいなもの……風通しをよくしたくは無いから、できたら玄関は壊さない方がいいな」
「じゃあ、窓探して割っちゃおうか」
「そうしようか。破片に気をつけて」
「わかってるよー」
その時、旅館の中から木が軋むような耳につく音が響いた。それはどう聞いても古い廊下を歩いている音で、気が付いた二人は不法侵入の支度の手を止めた。
驚いて様子を見ていると、すりガラス越しにぼんやりとした灯りが玄関の方に近づいてきているのが分かった。
「――誰か、来るよ」
「――うん」
灯りを持って近づいて来るそれはどう見ても人影で、やがてその人影は玄関を開ける。そこから顔を覗かせたのは、提灯を手にした少年だった。
少年は驚いた様子でそこに立つ二人の顔を交互に眺め、ひどく動揺した様子だった。肌の青白いその少年は久しぶりに他人を見たとばかりに困惑していたが、それは二人の方も同様だった。
「あ、あ……あの、君たちは一体……誰?」
少年がおっかなびっくりとした様子で漸くそう尋ねると、意外な事に八坂よりも先にイノリが一歩進み出て、主導権を握るような調子で答える。
「私は八坂イノリ、こっちは私のお父さん。キミは?」
「あ……俺は、ええと、ハギトって言います……」
促されるまま気弱げにそう名乗ったハギトに対し、イノリはにこりと微笑んで見せて「よろしくね」と告げる。一方のハギトの方はというと気が弱くてイノリには目も合わせられない様子で、急に押し掛けた形なのはこちらなのに、なんだかからかっているようにも思えるやりとりだった。
その様子を沈黙のまま眺めていた八坂の方はというと、おそらく同い年くらいの少年に何の躊躇も無く近づいていくイノリの姿を、やや複雑な気持ちを抱きながら見つめていた。
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