15・月の光がもたらした夢



〝天界の女皇イナンナはエレシュキガルの治める冥界へと下り、七つの門をくぐるたびに衣を脱いだ。裸になったイナンナはエレシュキガルの呪いの眼差しを受けると死んでしまった。その死体は冥界の宮殿の壁に磔にされた。

 ……三日三晩の後、女神インシュブルが命の水と食べ物を与えると、イナンナは生き返った。〟

   ――シュメール神話の一節


〝ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、

陰府よみくだりて三日目に死者のうちよりよみがえり、

 天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し、かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う主を信じ奉る。……アーメン。〟

   ――『使徒信条』




 ――フランス共和国・ノルマンディー。モンサンミッシェルにて。

 海面上昇は世界的観光地にして聖地でもあるこの修道院を、洋上の孤島へと変貌させていた。この建造物は元々潮汐によって水没と浮上を繰り返していたがゆえに水に対しては比較的堅牢で、未だに崩壊を免れていたのである。

 幾人かの人々はこの聖地で、未だ生き続けていた。


 朝靄の立つ中で白髪の老人が修道院の中を散歩していると、陽の光が差すラ・メルヴェイユ の一角に人影が立っている事に気づいた。

「やあ。少しは眠れたかね?」

 老人が優しい口調で声をかけると、彫像を見上げるようにして立っていた――鮮やかな黄色のヒジャブを巻いた若い女は振り返って答えた。

「分からない。最近は起きていたのか眠っていたのかも、曖昧」

「そうか。私もだよ。目が醒めると朝だったり夜だったりだからなあ。もうさっぱりついていけないのさ」

 ――そう答えた老人は目を細め、陽の光が差し込む枯れた庭に目をやった。

 庭に出て明るい空を見上げると、肉眼でほんの短時間見上げただけでも微かに事が認識できた。まるで早回しの映像だった。そして何より気味が悪かったのが、太陽が異様に紅くゆらめいて見える事だった。

 その気が狂いそうな奇妙な光景を見ながら、老人は口を開く。


「フランスが誇る偉大なSF小説家、ジュール・ヴェルヌは『上もなく下もなく』という滑稽な作品を書いている。『月世界へ行く』で月に到達した〝大砲クラブ〟のメンバー達が、超性能の爆薬で地球をゆさぶり、地軸をずらして北極を温暖化させてしまおうと杜撰な計画を立てる話だ。

 その中でヴェルヌは描いている。地軸をずらすという突拍子の無いアイデアは地球上の氷を残らず溶かして世界を水没させるし、世界中に嵐を始めとした大災難を引き起こす――そして地球の自転にさえ影響を与えるだろうと。人類が月に到達する未来を二百年も前に予測して見せた彼はまた予言を的中させたわけだ」

「地軸を、ずらす――? できる筈がない」

 ヒジャブを巻いた女が一緒に庭に出てそう答えると、老人は薄く笑って頷いた。

「ああ、現実にはメリ・メロナイトなんて存在しないし、仮に一万発あったところで地球はびくともしないだろう。だけど、大消失以降に引き起こされた変化は全てを示唆している。

 尤も時間のスケールがおかしすぎるがね。仮に地球がほんの少し傾いたとしてもだ、本来は早くても数万年はかかって起こる変化の筈だ。

 ――まあ、7000けいトンもあった衛星が幻のように消え去る事が実証された世の中で、今さら何を言っても無駄かも知れ……」

 老人は皮肉っぽくそう言い切る前に、咳込んだ。女はその背中を心配げにさすりながら「戻りましょう。今の空は見ているとなんだかおかしくなりそう」と言い、手を引いて修道院の中に老人を連れ戻す。


 数百年前の修道士達が使っていた食堂の長テーブルの端に老人を座らせてやると、女は水の入ったペットボトルを渡してやった。

 水を飲んでようやく一息ついた老人は、うなだれるようにしてこう尋ねた。


「――キミの宗教の預言者ムハンマドは、クライシュ族の者達から『預言者である証拠を見せてみよ』と迫られた時、夜空の満月を二つに割ってみせたそうだな。しかしクライシュ族はその奇跡を見てもまだ信じず『これは仕掛けの有る手品だ』と言うだけだったと」

 すると女は答えた。

「ええ、伝承の中にはそういう話が確かに。月は二つに割れて地上に舞い降り、預言者の服の袖を抜けて再び空に帰って行ったと……。イスラム教には不思議と月にまつわる話が多いです。

 アッラーは時として月にも――曇って見えない日が在っても存在する事を誰も疑わないものとして――喩えられますし、ヒジュラ暦は月の満ち欠けのみを基準にして作られた暦。クルアーンには〝灯明として、また年数と日時の計算のために神は月を創られた〟と明記されているから」

「――なるほど。なるほど。イスラム世界がかつては世界最高精度の天文学の知識を誇っていたのもその情熱ゆえか」

「天文学については貴方の宗教も同じように熱心だったではありませんか。イスラムとギリシアの知識が流入したルネサンス以降は殊に」

「貴方のって、そういう言い方はよしてくれ、私は今でも無神論者には違いないんでな」

 老人は軽く肩を竦めて見せ、そして続ける。

「しかし、まあ、ヒジュラ暦もそうだし人類が用いた最初の暦は全て、月の運行を元に創られた太陰暦だったと言われている。太陽の運行を基準として精度を高められたグレゴリオ暦にはまだ五百年の歴史もない。――月は実に長い間であったんだ。古代の天文学者の仕事は、月を観察して時を知る事だった。

 確かに我々は夜の灯明もさえも失った。それは、月に関する一つの真理だったのかも知れないな」

 老人のそばで話を聞いている女は感慨ぶかげに呟いた。

「時と暦の、支配者……」

 差し込んでいる光が、影をゆっくりと動かしている。ほんの少し座って見ているだけでも、居並ぶ天使の彫像の影がゆらめくようにして動いているのが分かった。


「そういえば、キミはさっきたぶん天使アンジュの彫像を見ていたろう? ほとんどはモンサンミッシェルの守護天使であるミカエルの彫像だが、あれは百合の花を握ったガブリエルだ。聖母マリアの前に現れてイエス・キリストの受胎を告知したろされる天使の像だよ。

 ガブリエルは昔からであるとされ、例の有名な黙示録アポカリプスをヨハネに伝えたのもまた、ガブリエルだ」

「……アラビア語ではガブリエルをジブリールと呼びます。ジブリールはメッカの郊外で預言者ムハンマドの前に現れて、啓示を伝えたと」

 女が口にしたイスラム教に於ける天使の名に、老人は我が意を得たりとばかりに続けた。

「そう。そこなんだよ。そしてガブリエルは太陽と月を含めた七惑星のうち、月に坐す天使だとされて来たんだよ。面白いとは思わないかね?

 つまり、事になるわけだ。

 ――さらに面白い事がある。

 聖書よりもはるかに古く、またそのルーツになったと考えられているシュメール神話やバビロニア神話には、天上の主宰神が死んでしまい、地下から上って来なくなり、三日後に復活するという話がある。女神イナンナやイシュタルの物語だな。

 これは神話学者にいわせれば、月の満ち欠けという現象の神話化したものなのだそうだ。だんだんと欠けていった月が遂に全く見えなくなる新月の二日間を経て、三日目に再び見えるようになるというが神話化したのだという。

 それはまさしく、天の支配者である月が永遠に繰り返す死と復活なのだと、大昔の人間は考えたのだろう」


 女は否定も肯定もしないまま、ただじぃっと話し込む老人の横顔を見ていた。

 老人はまた二、三回また咳込んで水を飲んだが、話を辞める気は無いようだった。その目がやたらとぎらぎら輝いているのが、女には印象的だった。

 老人のぎらついた目はじっと女の顔を――いや、その目は女の後ろを見ていた。女が振り返ってみると、そこにあるのは壁に彫られた彫像であった。

 異教徒である彼女でもすぐに分かる、キリスト受難の図。キリストが十字架を背負ってゴルゴダの丘へと向かう場面が見事に彫り上げられていた。


「キリストがゴルゴダで磔刑にあったのは過ぎ越しの祭の翌日だとされている。過ぎ越しの祭りは春分後の最初の満月前夜に行われる祝祭で、最後の晩餐はそれを祝う食事。――キリストはその翌日に十字架にかけられて死んだ。だからキリストの死体は、満月の光が降り注ぐ夜に墓に収められた事になる!

 おそらくはキリストが十字架にかけられた後に陰府に下り、三日後に復活したという神話さえも〝月の神話〟の遠い遠い派生の一つであったに違いないんだ」


 預言者ムハンマド、ジブリール――キリスト、マリア――イシュタル、イナンナ。何もかもが〝月〟へと結びついていく。あるいは老人が思考の中で結びつけている。それが正常なのか狂っているのかも、女には分からなかった。


「私は無神論者だ。誰がどう信じていようと、神なんてものは全て人間の頭の中から湧いてきた夢のようなものに過ぎないと思っている。しかし世界中の人間がいつも月に啓示を受けたと夢見るのは――不思議であるなと思うよ。

 知っているかね? 経典によればブッダは満月の出ている夜に生まれ、満月の出ている夜に樹の下で悟りを開き、満月の出ている夜に入滅したのだそうだ。

 日本では月見ツキミという不思議な行事が古代からあって、日本人は十五夜ジューゴヤ――満月の夜――を尊んでいたらしい。彼らが死者の世界と現世がつながると信じた御盆オボンもやはり旧暦の満月が目安とされていた。

 やっぱり東洋の空にも、月の光がもたらした夢は降り注いでいたらしい。

 ……ああ! ネットが使えるうちにもっとあの日本人に東洋の事を聞いておけば良かったな! マンガの話ばかりでなくて。トーキョーのヤサカといったか、今も彼と娘は生きてるんだろうかなぁ」


 天使の差す影が《もう》西陽によってかなり長くなり、自分の顔にかかりだした事に気づいた女はそっと身をかわし、それから少々皮肉っぽく微笑んでこう尋ねる。

「――やっぱり貴方もアフリカに行く船に乗ればよかったのに。そんなに衰えない好奇心があるのだから」

「ああ、あのイタリア人達ときたらなぁ。南ア天文台が世界で唯一まだ機能を喪失していないと聞いたら本当に行ってしまうんだもの。パウロとイザベラだったか、多分世界で最後、あるいは最初になる天文学者だよ彼らは。後の世界で名を遺すかも知れん。――だけど、私はそんな旅に同行するのはごめんだよ」

「どうして?」

「そりゃあ、私が生粋のフランス人だからだよ。パリはもう海の底に沈んでしまったが、一生を終えるのにふさわしい地が偉大なフランスの懐以外ありえるものか。

 キミこそ一体どうして彼らと一緒に行かなかったね? 私みたいなおいぼれはどうでもいいが、水も食い物もろくに残ってないこんな島に残るよりはまだ、生きる希望が……」

「じゃあ、同じ」

 ヒジャブの女は強い口調でそう答え、老人の言葉を遮った。そして続ける。

「私も、死んだパパやママや妹達もみんなフランス人だから。だからフランスにいるの。ねえ、お向かいさん。貴方となにが違うと思う?」

 女の言葉に老人は一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑んで「ああ、同じフランス人だ」と何度も何度も繰り返していた。



 ――フランス共和国・ノルマンディー。モンサンミッシェルにて。

 肌の色も宗教も違う二人のフランス人はこの聖地で、未だ生き続けていた。

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