10・豪邸暮らし(part.1)


〝夏のさなかに時ならぬ冬、でも冬の楽しみの夜の讃美歌も聖歌も聞こえない。

 だから洪水をつかさどる月のおもては怒りのためにまっさおになり、大気を湿らせリウマチやまいを流行らせる。

 この天候異変のあげく、季節も狂ってしまった。

 白髪あたまの老いた霜は、咲きそめた真紅の薔薇に膝まくら。〟

   ――シェイクスピア『夏の夜の夢』(松岡和子訳)


〝月が欠けると植物は成長しない。家々も家畜の群れも何も生み出さない。月が欠けると森も木々も成長しない。月が欠けると宮殿は寂れ、老人は生きられない。〟

   ――シュメールの冥界下り神話の一節





 夕陽の差す中で一台の四輪駆動車がゆっくりと通り抜けていく。

 エンジンがかかるのに少々かかってしまったが、無事に走らせることができたので男は安堵した。

 夜間に道路を覆った氷は日光に照らされて溶け出し、路面を極めて滑りやすくしていた。しかしそれでもなお自動車に乗れる事は大いなる特権だった。

 掻き集めた大荷物も容易に運べるし、何より吹き止まない風に曝される事も無い。後部座席の隙間には緑色の缶詰が詰め込まれた重たそうな段ボール箱やポリタンクがいくつも積まれていた。

 助手席に座っている、明るい黄色のコートを羽織った髪の長い少女は、器用に後部側に身を乗り出して何かを手に取った。


「お父さん、これ、いま食べていい?」


 助手席に座ったイノリが差し出して見せたのは、シンプルなデザインの茶色の箱。ハンドルを握ったまま横目でそれを見た八坂は一瞬なんだろうと思ったが、英字を見るにそれはアメリカ軍がレーションとして配給する軍用チョコレートだった。

「よく見つけたなぁ。大事に食べないとダメだよ」

「まだいっぱいあったよ」

「本当かい? そりゃすごいや、日米同盟サマサマだなぁ――」

「ニチベイドウメイ?」

「……いや、なんでもないよ。今はもう関係のない事」

「ふーん――」

 はぐらかした八坂の話を聞き返すでもなく、イノリはチョコレートの箱を開け始めた。興味がもう完全にそちら側に移ったらしい。

 軍用チョコレートはカロリー維持と保存耐久性が第一であまり美味しくないと聞いた事があるが、それでももう今となってはかけがえのないご馳走であった。

 案の定イノリは一かけら齧ってみた途端、それはもう恍惚とした顔をしていた。

そうして「また来ようね!」とせがむのだった。


 ちょうどその時、親子を乗せた車はゲートを通り抜けた。本来ならば厳重な警備が敷かれている筈の場所だが、もう長い間無人で開けっ放しになっていた。

ゲートには『U.S. AIR FORCE Yokota Air base ―横田基地―』の文字。

 八坂は沈み始めた夕陽を見やりながら、ハンドルを切った。道路には動く車は一台も無く、人気ひとけも無い。信号機も、もはやその機能を停止させていた。


 宇宙から月が消えた。

 月が消えてから8ヶ月後。軌道上に存在した人工衛星の98%が墜落した。

 同じ日。海が死んだ。

 4年目には異常気象が世界の半分を寒冷化させ、沿岸部の都市は水没した。

 風が吹き止まなくなった理由は分からなかった。

 後は飢饉。疫病。略奪。

 終末戦争なんて派手な事は結局起きなかった筈だが、世界は消え入るように暗くなっていった。

 そうして自分とイノリは打ち捨てられた都市の中で、どうにか今日も生きていた。

 

 ――月の大消失から10年目。

 ――東京都内にて。



                  ◆



 急激な寒冷化は農作物をほとんど死滅させた。米さえもほとんど育たずに終わるようになったし、山の木々すら枯れ果てていた。

 14世紀から17世紀にかけて起こったという小氷期の到来はヨーロッパで氷河を広がらせ、不作が多くの飢饉を引き起こし、中世封建社会を終わらせる手痛い一撃になった。日本では徳川幕府崩壊のきっかけになったともいう。

 しかしこの寒冷化はかつてのそれとは規模も進行速度も大違いだった。

 マンガマニアでゲームマニアで映画マニアのは極地の氷が溶けだした事による海洋循環の崩壊が急激な温度変化を引き起こして遥か上空の冷気を下降させて云々……という説を大真面目にぶっていたが、どうも映画の受け売りのような気がする。そもそも大局的に事態を把握できている人間が地上のどこかにいるかすら怪しいものだった。

 自分に理解できているのは――とにかくそれまでの日常が崩れ去った事だけだ。

 大消失から五年後。数え切れないほどの特例措置の積み重ねでなんとか持ちこたえていた国内経済が、遂に破綻した。海面上昇により国土が水没し始めた事が最後のとどめになった。


 第一次世界大戦後のドイツで紙屑同然になった紙幣が山積みになっている写真を教科書で見た事があったが、似たような光景が東京中で繰り広げられた。企業も相次いで倒産したし、略奪も起こった。

 その頃から東京を出ていく人たちが増え始めた。経済機能を失った都市よりは田舎の方がまだ食べていけると考えたのだろう。彼らの選択が正解だったのかは、東京に残った自分には分からない。経済破綻でスポンサーを失った報道各社はその機能を完全に喪失していた。

 自分達にはもう、自分のいる場所以外の事はろくに把握できなかった。


 都内では災害援助用の備蓄食料の配給が始まっていたが、脱出者を差っ引いても推定七、八百万人は居る都民に行きわたる筈もなく、ほとんど機能しなかった。

 行政機関に押し寄せる配給難民の群れに機動隊が発砲しただとか、暴徒から千代田区のあの場所を守るために自衛隊が出動しただとか、そもそも警察も自衛隊も既に崩壊しているだとか、確認しようもない流言を数々聞いた。

 暴力沙汰もたくさん見たし、ビルから何人もが連れ立って飛び降りる光景さえ目撃してしまった。絶望と、憤りと、狂乱ばかりが世の中に膨れ上がった。


  自分とイノリがこの崩壊期に死ななかったのは、ツキとがあった。はっきり言ってそれだけだ。

 杓子定規な基準の中で自分は幸運な事に公務員の枠に入れられ、優先的に物資の配給を受けられた。そして役所の管理がおざなり極まりない状態になっていたおかげで三人分の配給権があった。

 役所は全く気付いておらず――少なくとも自分は一度も「間違えてますよ」と申告しなかった――不公正な事は分かっていたが、配給が途絶える日までそうやってなんとか食べていく事ができた。


 栄養失調と、吹き止まない風と、年間を通して夜間気温が氷点下を下回るようになった気候が人々に病気を蔓延させた。もう言うまでもないが医療体制も既に極めて劣悪になっていて、この最先進国の首都で、飢えと病気という極めて原初的な原因でかなりの人間が死んでいった。

 東京の昼の空には連日真っ黒な煙が昇り続けて、それはあの真っ黒な夜空と同じくらい厭な気持にさせられ続けた。――死体をまとめて焼く煙だという話だった。

 生きている人たちも此処よりマシな場所がある可能性を夢見てどんどん首都を脱出していき、その大行列を自分はマンションから不安げに見送るばかりだった。

 六年目。七年目。八年目。九年目。インフラの停止した東京は完全に機能を喪失していった。寒さは年々厳しくなり、日照時間さえ少なくなってきている。

 人間らしい生活はもう、とうに失せていた。

 冷たい伽藍堂のようになった東京で自分たちが生き延びるためには、盗人か墓荒らしになるしかなかったのだ。



                ◆



 八坂は高級住宅街の一角で車を停める。煉瓦仕立ての三階建て。一階が車を三台も留められる駐車場になっている高級注文住宅。有り体に言えば豪邸。


 ――八坂とイノリは一年以上前からこの家に住み着いていた。ずっと住んでいたマンションはもうとても住んでいる事ができなかった。電気が止まってエレベーターも使えず、汲み上げポンプも動かないので水道すら使えなくなったのだ。

 もちろんこの家は八坂の物では無い。どこかの金持ちが建てた自慢の家だったのだろうが、既にもぬけの殻だった。

 窓を叩き割って侵入した時にはけたたましい警報が鳴ったが、その頃にはもう慣れっこで気にする事も無くなっていた。警察さえろくに機能していないのに警備会社のガードマンが飛んでくるはずも無い。

 食べ物か役立つ物でも無いかと入り込んだこの家には、驚いた事に地下に非常時のための自家発電機やボイラーまで設置してあった。マニュアルもあったし、灯油さえ用意すれば電気やお湯さえ賄えそうだった。(さいわい水道はまだ機能していた)

 こんな物までわざわざ用意して備えていたのに、いざやってきた非常時にどこかに行ってしまうものか? 八坂には不思議だったが単に家のアクセサリーのつもりでしか無かったのかも知れないし、金があるからもっと良い場所を見つけて逃げ出せたのかも知れない。あるいは崩壊期の中で災難に遭って――まぁなんでも良い事だった。

 八坂の頭にあったのは、ここで頑張ればイノリに少しはまともな暮らしをさせられるかもしれないという喜びだった。暖房もある。風呂にだって入れる……。


 八坂はイノリの境遇を心苦しく思い続けていた。イノリは小学校にすら通えていなかった。(小中学校は経済破綻の年以降ずっと閉鎖されているし、高校大学もほぼ全て同じ状況だった)

 簡単な読み書きくらいは自分にも教えられたが、母親も同年代の友達もおらず、大消失以降の暗く異常さを増していく世界しか知らない娘が不憫でならなかった。

 この崩れかけた世界の中でも、なんとかイノリだけは守ってやりたい。その想いだけが、壮年に近づいた八坂を力強く突き動かしていた――。



「お父さん、どうしたの? 早く帰ろうよー」 

 イノリは乾燥食品の箱を一つ抱えて、思わず耽ってしまっていた八坂を急かすようにして先に歩き始める。

「おっと、ごめんよ。早くしないと暗くなってしまうものねぇ」

 八坂も車の中に積み込んでいた段ボール箱を担ぎ、玄関へと向かっていった。

「今日はスパムの缶詰、食べようね!」

「ああ、そうしようか――」



 東京に人間が今もどれだけ残っているか分からない。ごく稀には人影を見かけるし、最近壊されたと思わしき物を見つける事もある。

 しかしその絶対数は相当少なくなってしまったように思えるし、ある意味ではそのおかげか……例えば商店の倉庫とか、ビルの防災バッグとか、官公庁施設とかに、探せば意外なほどの食糧や物資が残っていた。

 未来を切り開くなんて事は今更できないかも知れないが、娘にはせめて少しでもつらい目に遭わせたくなかった。生き延びてさえいれば、もしかしたら少しは状況も良くなるかも知れない。強いていうならば、それが今の自分たちにある希望だった。


 ――そういえば、今夜あたりインターネットが使えるかも知れない。

 人工衛星の数が激減した今では状況次第で遮断する事も多いのだが、話によると英雄的な二人の宇宙飛行士が身を呈して残存した低・中軌道人工衛星の再調整に努めてくれたおかげで、未だに完全な断絶には至っていないのだとか。

 数年間に渡って宇宙空間に滞在しつづけて多量の放射線を浴びた飛行士達はもはや生きてはいないだろうが、彼らのおかげで我々は出会えたのだと、あのマンガマニアのフランス人は情感たっぷりに言っていた。skype通話を試みてみようか。

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