11・豪邸暮らし(part.2)

 

 洒落たシステムキッチンの上に鍋を乗せたカセットコンロが無造作に置かれている。見栄えの良い光景では無かったが、限りある燃料で回している電気をクッキングヒーターのために回すのはさすがに勿体無かった。

 鍋の中では缶詰が四つほど煮られていて、米飯の缶詰が二つとおかずのランチョンミートの缶詰が二つ。乾燥野菜の缶詰は水で戻して調味料を加えればスープになる。

 保存食といっても思った以上のバリエーションがあって美味しいものだったが、インフラ崩壊以来四年近く食べているわけだからさすがに飽きも来ていた。

 ふと乾燥野菜の缶詰の底を見ると、刻印されている賞味期限がすでに一年以上過ぎていた。

「えー? 大丈夫かこれ」

 思わず口に出してぼやいてしまったが、賞味期限はあくまで味の保障期間で、缶詰の場合は保存状態が良ければ十年以上は問題なく食べられるはずだ。まあ、良いか。


 食に関する欲望はここ何年かでかなり薄れてしまったように思うが、それでもやはり舌と胃は懐かしい味を覚えているようで、味の濃い煮付けやコンビーフを食べている時などにふと、新鮮な魚や肉汁したたるステーキを食べたくなる衝動がむらむらと湧いてくる時はあった。

 しかしそれはもうとても望めない話だった。海洋環境の激変で崩壊前ですら魚はもう口にする機会がほとんど無かったし、肉も崩壊を境に市場から完全に姿を消した。家畜化した動物はもはや人間が世話をしなければ生存や繁殖を維持できないという。ウシやブタやニワトリはもう絶滅しているかも知れない。

 ではたとえば――そんな事を自分がやれるとはとても思えないが――山に入って動物を狩れば新鮮な肉が食べられるのではないか?

 それも無理だろう。街中から見るだけでも山の木々が残らず枯れ果てているのが分かるのだ。おそらくシカもイノシシも、ウサギもあそこには居ないだろう。

 それどころかノラネコもカラスも、それどころか虫一匹すら最近は見かけた記憶が無い。――もしかしたら人間以外の生物はもう残らず絶滅してしまったのではないか?


 ピピピピ、と腕時計のアラームが鳴る。その音で我に返って八坂はコンロの火を止めた。

 この輸入物の腕時計は学生時代から使っている物で、核戦争が起きても使える耐久性がどうとか謳っている物だった。多機能型だったが今となっては缶詰を煮込む時間を測るくらいの役にしか立っていない。

 おそらくまだ正確に時を刻んでいるであろうその文字盤を見れば、午後四時をようやく回った辺り。しかし窓の外を見ればもう夜中で、風で雪が打ちつけられている事ばかりがかろうじて分かるだけだった。

 もう、時間すら存在しないのだ。いや、時間というものは相変わらず存在しているのだろうが、人間が時計に刻み込んだ生活尺度としてのソレは用を成さなくなっている。時間も、暦も、いや……。

 頭を軽く振り、泥沼に入りかけてくる思考を振り払った。はっきり言ってキリが無かった。そんな事よりは手を動かせ、手を。


 温めた米飯とランチョンミートと野菜スープ。なんとも粗末な(しかしイノリは一番好きだと語る)夕食を支度し終えた八坂は、リビングのガラス扉ごしにイノリに声をかけた。しかしイノリは食卓に来なかった。

「おーい? ごはんだよ」

 ドアを開けてリビングを覗き込むと、イノリはふかふかのソファーに寝そべったまま大きな本を読んでいた。夢中になって読んでいたので、後ろに立って声をかけられた時にようやく気がついたようだった。

「あ、ごはんー? いま行くねぇ」

 イノリは揚々と返事をすると、本を開いたままほったらかしでキッチンの方へと駆けていく。そうして八坂はなんの気なしにイノリが残したままにした本のページを見た。

 それは――モノクロの月の写真が大きく掲載されたページだった。地上から見た、円盤のような満月の写真。

 本を持ち上げて表紙を見てみると、それは『天文年鑑』のかなり古い号だった。

 イノリは漢字はごく簡単なものしか読めないから、たぶん写真だけを見ていたのだろう。

 部屋の隅に積み上げられている本に目をやる。勉強と娯楽のために何度か近くの図書館に連れて行って、好きな本を選んで持ち帰らせてやった事がある。ずいぶんな量になっていたが、みんなイノリが選んだ本だ。結構な数の本があったが、意識して見てみると「月」が題材のものが多い事に気づく。


『ぼく、おつきさまがほしいんだ』――地面から出てきて初めて月を見たモグラが、綺麗な月を手に取ろうとあの手この手でがんばる姿を描いた可愛らしい絵本。

『ぼくのともだち おつきさま』――文字のない絵本。水に落ちた「おつきさま」とピュアな子供が友達になる物語が描かれる。

『パパ、お月さまとって!』――月を欲しがる女の子のお願いを聞いたパパが、月を取りに行く話。折り畳みのページを開くと長いハシゴが現れる楽しい絵本。


 他にも『かぐや姫』や、宇宙を取り上げた子供向けの図鑑。内容を理解しきれているとは思えないがジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』や梶井基次郎の『Kの昇天』までそこにあった。月を思い描いた文学作品の数々。

 ――見た事も無い月が、そんなに好きなものだろうか?

 八坂は疑問に思ったが、同時に別の考えも浮かんだ。別にイノリだけが殊更月を愛しているわけではないのかも知れない。つまり月を描いた本自体が多いのだ。

 自分もかつて月と文学の論文を書く際、神話から古典文学、SF小説にライトノベル、探してみれば古今東西幾らでも例を引く事ができ、こんなにも月を描いたモノがあるものかと感じた事を思い出していた。

 やはり人間そのものが月を愛していたのかも知れない。

 ではその愛情と憧憬が織り込まれた文学の数々は、本物の月を見た事のないイノリにはどう映っているのだろうか? イノリがもう少し大きくなって思慮を巡らせられるようになった頃にでも、尋ねてみたいものだ。

 そんな事をぼんやりと考えながら八坂もまた、食卓へと向かっていった。


               ◆


 いつも通りの夕食を済ませ、風呂も済ませた後、八坂はノートパソコンでインターネットの接続を試みたが、何度試してもタイムアウトして繋がらなかった。

 衛星周期的に次の接続可能期間はそろそろだと聞いていたが、これまでも天候に阻まれて繋がらないという事態は何度もあった。元々かなり貧弱な衛星通信を利用しているわけで珍しい話では無かった。

 ――あきらめて、寝るか。長い夜が明けたらまた横田基地まで車で行くつもりだから少しは寝ておいた方がいい。

 ノートパソコンを閉じ、風呂上りにリビングでまた本を読んでいたイノリに早く寝なさいとだけ伝えると、八坂は寝室へと入ってしまった。言うだけ言うが別にむりやり寝かせるような事はしない。「早起き」なんてもう何も意味が無いのでいつもの事だった。


               ◆



 それからもうしばらく後。イノリは読んでいた天文年鑑をパタリと閉じると、何かに気がついた様子で窓辺に近づいていく。大きなガラス窓は暖房で生じた温度差ですっかり曇ってしまっていたので、手でそれを拭いて外を覗いた。

 不思議そうにしばらく外を見た後、イノリはおもむろに窓を開けた。思ったほど寒くないし雪も止んでいた。

 そして何より――数年間ずっと絶えず吹き続けていた風が止んでいた。


 一体どうした事だろうとイノリが不思議に思った途端、辺りは真っ暗になった。

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