月狂いのアポカリプス ―cry for the moon―

ハコ

1・大消失後


 暗い空からぱさついた雪が降り始めた。

 歩道では一度溶けた雪があちこちで凍り付いていて酷く歩きにくい。


「……こりゃあ何処もやっていないかもな」


 レインウェアの上にさらに防寒コートを着込みリュックサックを背負った男は、白い息を吐きながらそうぼやいた。男は片手にはアウトドア用のLED懐中電灯を持ち、もう片方の手は――しっかりと子供の手を握って引いていた。


「お店、やっていないの?」


 手を引かれている子供――ぶかぶかのダッフルコートを着せられ、マフラーをまいた七歳くらいの少女はそう尋ねた。

「六本木まで出てくればどこかやってるんじゃないかなあと思ったが……ダメだね。どこもみんな閉店だ」

 男が懐中電灯で街道沿いの店を照らして見せる。小洒落たレストランもドラッグストアもコンビニも見渡す限りみんな閉まっている。ガラス越しに覗き込んでみても、いっさい人気ひとけが無かった。

 人気が無いのは店だけではない。いくら電灯で照らしてみたところで大通りには通行人がたったの一人も見当たらない。街路樹は残らず立ち枯れている。

 道路に目をやれば信号機だけが――かつてと同じように――ゆったりとしたリズムで点滅し続けていた。街灯も残らず消えて闇に沈んだ街の中で、信号灯は唯一の灯りだと言ってよかった。しかしその指示に従うはずの自動車はただの一台も見当たらなかった。

 道路の端々に自動車がひしめくように止められていたが、その殆どは車体がひしゃげていた。おそらくは道路の真ん中でガソリンが尽きて乗り捨てられたものを乱暴に重機で退かせただけなのだろう。車両にかなり錆が浮いてきているのでそれもかなり前の事か。

 誰の役にも立っていないあの信号機もそうだ。かろうじて整備している人間はいるのだろうし、電気もまだ供給されている。都市機能は――本当に皮一枚だけでまだ微かに生きているらしかった。だが、それだけだ。


 男と少女は真っ暗な六本木の繁華街をさらに歩いていく。雪はさらに乾いて細かくなって降り続け、横風と共に吹雪になり始めていた。

 自分の首筋に当てていた使い捨てカイロが冷たくなってきている事に気づいた男はリュックサックから新しい物を取り出し、少女にも渡す。

 男が自分のレインウェアの襟元にカイロを捻じ込んでいると、少女が「あっ!」と悲鳴をあげた。

 驚いて目をやると、先ほどまで少女が首に巻いていたはずのマフラーが消えていた。少女はカイロを握ったまま、きょとんとした目で男の顔を見ていた。どうやらカイロを変えようと緩めた拍子に風にもぎ取られてしまったらしい。

「ああ、ごめんよ。俺が替えてあげれば良かった……」

 風下に懐中電灯を向けては見たものの、小さなマフラーは暗闇と風に紛れてもう何処に飛んでいったのかも分からなくなっていた。再び少女に目を向けるとひどく悲しそうな顔をしていた。

「すぐに新しいのを買ってあげるから」と言って少女を宥め、とりあえずは首筋にカイロを当てながら歩きなさいと教えて再び手を引いて歩き始める。しかし吹雪の中片手を首に当てながら歩くのは、体重の軽い子供にはバランスがとりづらくなかなかつらい事のようであった。

 突き上げるような風にあおられて何度も転びそうになり――やがて本当に転んだ。

 男は慌てて少女を起こし上げる。ミゾレ状になった雪のせいでダッフルコートは濡れてしまい、随分憐れっぽい姿になっていた。吹雪の中でこれでは……。

 居たたまれなくなった男は電灯を振りかざすようにして辺りを見渡す。その時ちょうど目についたのは、カジュアル衣料品店の見慣れた看板であった。

 例に漏れずこの店も閉店状態であったが、ショウウインドウの中には冬物の衣服がマネキンに着せて並べられたままになっていた。その中には、女児用のコートやイヤーマフやマフラーもあった。

「……」

 男はほんの数秒葛藤したような表情をしていたが、やがて意を決したように路上放置されている車の中を漁りに行き――そしてすぐに戻ってきた。その手には車載の窓割り用ハンマーが握られていて、そうして無言のままショウウインドウに向けて振り下ろした。

 ガラスは一撃でひびだらけになり、数回叩くと出入りできるほどに破壊する事ができた。

 少女の手を取って店の敷地内に足を踏み入れると防犯ベルが鳴り、「誰も来やしないさ」と含むように呟く。バッテリーが尽きていたのかやがてベルの音は消え入るように消えてしまった。店内の照明は生きていたようでスイッチを入れるとつける事ができた。ほっとするような明るさが、暗さに慣れきった目には却って染みるように感じる。

 濡れてしまったダッフルコートを脱がせてやり、鮮やかな赤色のキッズコートを着せてやる。さらに黄色いマフラーを渡してやると、少女が相変わらずまだ物憂げな表情を浮かべている事に気づいた。「どうしたの?」と尋ねると――

「泥棒するの?」

 その真剣な表情に、男は却って思わず苦笑いを浮かべてしまった。男は財布からクレジットカードを取り出してレジの上に置く。

「ちゃんと払うからね」

 そう言うと少女は満足げに頷いて、それから受け取ったマフラーを襟元に巻き付けた。


                 ◆


 もう使う事も無いクレジットカードと引き換えに様々な衣料品を拝借し、男と少女はガラス窓越しに外を眺めていた。吹雪が少しは弱まるのを待っていたのである。

 明々と照明が点いたこの建物以外には、相変わらず一切の光が無い、本当の闇が広がっていた。男の方はこの暗さには本当にいつまで経っても慣れなかった。わけのわからない、泣きわめき出したくなるような不安な気持ちにさせられる。

 男はまだ、を知っているからだった。

 そんなに暗くなかった頃の夜を知らない少女は、寒さはともかく暗闇には大して頓着していないようだった。新品の黄色いマフラーを嬉しそうに手で弄びながら少女は言った。


「私ね。この色が好きなんだ。――お月様の色」


「……月を見た事はないだろう?」

「本とか、写真とかでなら――いっぱい見たよ。黄色くてまん丸なお月様。ウサギの歌も知ってるよ」

 その後少女はぽつりと「ウサギも本でしか見た事がないけど」と付け足した。

「お父さんは本物のウサギもお月様も見た事があるんでしょう?」

「嗚呼――見ていたよ。月があった頃の夜はそんなに暗くなかったし、寝る頃には顔を出して起きる頃には引っ込んで……いや? ちゃんと朝があって夜があって……ん? ……とにかく、それがフツウだったんだよ」

「ふうん……」


 想像できているのかできていないのか。曖昧な返事をすると少女はガラスにひっつくようにして真っ暗な空を見上げた。そして楽し気に「早くお月様が見えるといいね!」と告げた。

 妙にウキウキした様子で真っ暗な空を見上げる娘を横目に、男は腕時計に目をやった。

 電子時計の表示は8月16日の午前8時を廻ったところだった。

 もはや時計だけがかつての感覚を思い出すための頼りだったが、時計や暦に合わせて行動する事にもはや何の意味があるのか。男にも解らなくなってきていた。

 頭が痛くなるような感覚を覚えた男はそこで考えるのをやめ、ゆっくりとガラスのそばに近づき、「見えたらいいな」と小さな声で呟いた。

 八月の吹雪は当分吹き荒れそうな気配であった。





 ――あの日。七年前のスーパームーンの夜。――月が消えた。

 幾千年幾万年、いやそれ以上かけて積み上げられてきた何かが文字通りひっくり返った夜だった。

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