幼女マスター

ハムカツ

白の癒し


 そのバーのマスターは幼女である。


 身長はカウンターからひょっこり頭が飛びだすくらい。そんな彼女がグラスを手にして、ツインテールを揺らしながら向こう側を走りまわる姿はただそれだけで客である紳士淑女を和ませる。


 そしてそんな幼女マスターに癒される為、疲れ切った大人達はやってくるのであった。



「マスター、ミルクを」


「どうした坊主、酷い顔じゃないか」



 『ますたー』と書かれたゼッケンが張りつけられた体操服を着込んだ幼女マスターが、浮かない顔をした男に冷えた牛乳の入ったグラスを差し出した。


 背伸びをしていないところを見ると台座を使っているのかもしれない。よれよれのスーツを着込んだ男は、優しくそっと幼女マスターからグラスを受け取ると一気に飲み干して―― むせた。



「おいおい、無理をするな。100%の牛乳はキツいぜ?」


「それでも、飲まなきゃやってられない日があるんですよ」



 おかわり、と差し出されたグラスにあきれ顔の幼女マスターは再び牛乳を注ぐ。男はもう一度、先程よりはゆっくりと白い液体を喉に注ぎ込む。今度はどうにかむせることなく飲み干すことが出来た。



「随分とダンディな顔じゃないか…… なにかあったのかい?」



 そう指摘しながら、口元を指さす幼女マスターの動作で、男は口の周りに白いヒゲが出来ているのに気づいた。普段なら荒々しくスーツの裾を使うのだが幼女マスターの前である。


 ポケットからハンカチを取り出して、出来るだけ丁寧に口の周りを拭う。



「ちょっとね、上司から嫌味を言われちゃって……」



 ぽつり、ぽつりと今日の職場であったトラブルを、出来る限り感情的にならないよう、幼女マスターに愚痴を零していく。男がここに通うようになってから既に10年以上になるが、彼女の姿は昔のままだ。


 しかしだからといって幼女マスター相手に感情的な姿を見せてしまうのは、紳士淑女のやる事ではない。そもそもそうなってしまった人間はこのバーに辿り着く事が出来なくなる。



「そうか、辛いな。嫌いではないんだろう?」


「ええ…… 素直に嫌えれば楽なんでしょうけれど」



 本当にタイプが合わないのならば、一かけらも好意を抱いていないのなら。切り捨てればそれで終わる。だが人間は他者をそこまで一方的に嫌うことは出来ない。


 同じ時を過ごした共感。今ある空気を壊したくないという気持ち。ただ会話が通じたというだけで生まれる小さな相互理解。だが積み重なったそれらが一度憎しみと結びつくと赤々と炎のように燃え上がる。



「吐き出せるだけ、ここで吐き出すといい。ただ牛乳は戻すなよ?」


「ええ、そうします。マスター、おつまみにクッキーを頂けますか?」


「ああ、昼に焼いたチョコチップクッキーがある。甘いぞ?」



 そして幼女マスターはカウンターの奥へと向かう。何気なくその姿を目で追うと、男はそれまで隠れていた彼女の下半身がブルマーであった事に気が付いた。


 ブルマー。19世紀中頃に女性解放運動の一環としてヨーロッパで生まれ、そして20世紀末に日本で性的シンボルとして排斥された聖衣である。


 細かく語るのならば、その種類は多種多様であるが、今マスターが来ているそれはショーツ型ブルマー。それもちょうちんタイプではなく柔らかな体のラインにフィットしているものである。



(あぁ、懐かしい――)



 ヨレヨレの男はいつの間にか、母校のグラウンドに立っていた。周囲には体育の授業で駆け回るクラスメイトと、そして何故か混じっている幼女マスター


 かつては何とも思わなかったその日常が、何故か涙が流れだすほど尊いものだと思える。あの頃は純粋で、ただボールだけを追い求めていた。それが間違っていたとは思わない。


 だが、他にも追うべきものがあったのではないか?


 幼女マスターの背中がまるでそう語ってるようで、男は大切なものを拾い集める様にじっと見つめ続ける。


 そして男は二つの白によって癒され、再び社会の荒波へと戻っていく。再び困難で心折れる事もあるだろう。だがしかしその白の輝きは思い出す度に彼の心を強くする。


 そして、それでも耐えきれなくなった時。もう一度このバーに訪れたならば―― 彼女はまた違った装いで、癒してくれるのだろう。



 ここは名も無き幼女マスターのバー。疲れた紳士淑女の為に用意された都会のオアシス。あなたも本当に疲れた時は夜の街を歩いてみるといい。もしかするとこの場所に、辿り着けるかもしれない。

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