チャプター4 You Not Me

「だからさ、ハルは自分のことが一番、好きなんだよね。わたしのことを一番、愛していると言うけど、結局のところ、こんなにも愛してやっている自分自身が、一番好きなんでしょ? 和嶋治様にとってはね……わたしは、あなたの自己満足の道具に過ぎないのよ……ねえ、ハル、あなた、本当に他人というものを本気で愛した事があるの?」


 競馬場のトラックのど真ん中で、制服姿のハジメが、普段口にしないことを言っている。ハジメの五十メートル後方から、面が割れた鎧の女が、鬼のような形相で、エメラルドの大剣をわたしに向けながら、全速力で斬りかかってくる。


 プロポーショングリッドが、全力で駆け巡り、体感速度が非常に遅く感じる。鎧の女から発せられる、無数の赤いグリッド線が、真っ直ぐ、わたしへと突き刺さっていた。


 意識が朦朧としていて、わたしは地面に倒れ込む。息苦しい……呼吸が出来ない。あの鎧の女……あの、もう一人の、未来のわたしに、何か毒のようなものでも盛られたようだ。


 わたしの網膜に、無数で無秩序のアニメーションと、判読不明の何語かの単語情報と、乱雑なノイズが次々と羅列されていく。


「ベリリウム」


 そんな単語が目に入った。なんで、咳が止まらないの。


「ハルだから知っていると思うけど、ベリリウムというのは、エメラルドなどを産出する鉱物である、緑柱石を構成する主な元素名のこと。ハル……あなたは、未来のあなたに、致死量のベリリウムを大量に注入されたのよ」


 幻覚のハジメが、インクルージョンのように、ペラペラと喋り続ける。相変わらず、咳が止まらない。


「はー……大丈夫? エメラルドって、見た目通り、なんか緑色だし、ゲーム的に言うと、毒属性っぽいけどさ、実際、人体にとっては、毒そのものなんだよねー。ベリリウム肺症というものがあって、ベリリウムと関わる事が多い、兵器、航空宇宙産業の関係者が発症していた致死性の病よ。多量のベリリウムの曝露によって、肺に肉芽種と呼ばれる炎症反応が生じ、それが更に進行すると、拘束性肺疾患……つまり、著しい肺機能の低下を引き起こすの。肺機能の低下というのは、文字通り、咳や呼吸困難のことで、ハルが、現にそんな状態だよね。常人だったら、この量のベリリウムを曝露したら、すぐ死んじゃうけどさ、ハルの場合、ミネラルウェアだし、多少の免疫、回復機能は備えているはずだよ。今、ハルが見ているわたし自身の幻影も、ミネラルウェアが体内のベリリウムを強制的に排出している影響なのかもしれないね……」


 ハジメの幻覚が、わたしに触れてくる。触れているような気がした。体を起こそうとするが、金縛りになったかのように、動かせない。腕だけはなんとか動かせるようで、わたしに向かってくる未来のわたしに向かって、銃を構え、プロポーショングリッドの射撃管制ソフトを起動、ヘッドショットを狙って、引き金を引く。


 網膜に、分かりやすいX印が、デカデカと強調されて表示された。


「ダメだよーハル。無駄に、撃ち過ぎたんだよー。ハルのミネラルウェア……名前は、ソリタリーシェルだっけ? 弾丸は、ハルの中にある無機物を弾丸に相転移させてるからね、身を砕くってやつ? 当然、弾切れも起きるわけ」


 ハジメがわたしの頭をポンポンと撫でる。


「……まあ、もうそんなことはどうでもいいか……で、お願いなんだけどさ、ハル。今すぐ死んでくれないかな? ねえ……なんで、さっきから黙っているの?」


「……さっきあなた、言っていたでしょ、わたしの幻覚なんかに話すことなんてない……第一、ハジメが、わたしに死ねなんて言わない……クソ……なんで……なんで、体が動かないのよ!」と、言いたかったけど、咳も止まらないし、息が……呼吸が出来ないから、何も喋れない。……なんでわたしは生きているのだろう。これも、ミネラルウェアの仕業なのだろうか。


「へー、まだ生きたいんだーハルは? 以前も聞いたと思うけどさ、ハルは……未来のハルは、二十二回……いい? 二十二回も、ハルはハル自身を殺してきたのよ。そんなことに……そんな異常な事に耐えられる? 一度も自分を殺したこともないハルが、アレを殺せると、本気で思っているの?」


 スローモーションで、わたしへと斬りに向かってくる未来のわたし自身を指さすハジメ。


「もう、楽になっちゃったほうがいいじゃない?」


 ハジメは、仰向けに倒れている、わたしの胸の上へと、金縛りに現れる亡霊のようにまたがる。そして、わたしの首を締め付けた。息が出来ないせいか、本当に首を締め付けられているような気がした。


「苦しい? そんなわけないか、ミネラルウェアは、痛覚やそういったものを排除するからね……痛みを感じないということは、感情がないのと同じ。痛みというのは、生きている証だからね。あ、でもハルは、はじめから感情なんてないか」


 意識が段々と、遠のいていく。プロポーショングリッドのノイズが、更に酷くなっていき、世界が徐々に遅延していく。カクカクとした動きで、鎧の私自身が斬りかかってくる。


「ハルお願い……お願いだよ。今すぐ、死んで。死んでほしいの。もう、諦めて。お願い。勝てるわけがないから。楽になっちゃいなよ。ねえ、ハル、ハル、ハル、ハル……」




「ハル? 起きないと冷めちゃうよ」


 生徒会室に柑橘系の甘い香りが充満している。目を覚ますと、ジャージ姿のヨシミがわたしのイヤホンを外していて、入れたての紅茶を目の前に置いてくれた。イヤホンから爆音で、物々しいギターが漏れてくるので、わたしはすぐに、スマホのプレイヤーを停止させる。ヨシミの優しそうな顔が、少し引きつっていた。


「……何分寝てた?」


「十五分ぐらい? 紅茶を入れるには充分な時間よね」


「あ……ゴメン……部活でしょ?わたしなんて放っておいて、行っちゃえばよかったのに」


「いいのよ。ハルの寝顔が可愛かったからね。凄い音で、なに聴いていたの?」


「ヨシミは知らないと思うけど……マストドン。アメリカのバンド」


「え? ?」


「あー、松戸のUMAじゃないわよ……」


 わたしは、紅茶を一口飲む。ヨシミがわたし用に、過度に甘く入れてくれたおかげか、少し気持ちがホッとする。


「ハル、疲れているよね。会議中でもウトウトしていたし……昨日、徹夜でもしたの?」


「昨日は……」


 昨日……ダルマ神社での戦いから、一日過ぎて、わたしは酷く憔悴していた。別に、戦いによるものではなくて、ハジメにあんな事を言われて、そのダメージがデカかったのだ。


「……あなたって、本当にハルなの?」


 この言葉は、わたしには重かった。


 ハジメの言うとおり、本当にわたしは何者なのだろう。一度死に、肉体を失って、無機物の肉体を得たわたしは、元の和嶋治という存在なのだろうか……という疑念が、プカプカと浮かんでいた。


 これから、あの鎧の女を倒さねばならないというのに、なにをわたしはグズグズと、こんなネガティブな気持ちになっているのだろう。


「昨日は、徹夜でゲームをしてたの」


「へー、前に言っていたFPS? 銃をぶっ放すやつでしょ」


 うん、銃をぶっ放していたのは間違いない。


「……そういえばさ、ハル、部活に入ったんだよね」


 ヨシミが、わたしが飲んだティーカップを洗いながら、おもむろに聞いてくる。


「そうよ、写真部に入ったの」


「へー、突然だよね……ハルはいつも突然……あの時も」


「あの時って?」


「ねえ、ハル……放課後、ちょっと付き合ってくれない?」


 ヨシミが、普段使わないような事を言ったせいで、わたしはヨシミの顔を凝視した。


「今、なんて言った?」


「聞こえなかった? 放課後付き合ってと、言っているの」


「いいけど、部活は?」


「今日はどうせ雨だし、室練だと思うからね。たまにサボっても、顧問から怒られはしないよ」


 わたしも、今日はハジメのいる部室には行きたくはなかった。ヨシミから、誘われることも初めてで、何となく、ヨシミの後をついていった。


 ヨシミが連れてきたのは、思いの外、びっくり仰天な場所であった。


「ゲーセン?」


「わたしがここに連れてくるのは、意外かな」


 そこは、学校の最寄り駅からバスで、十五分ほどの場所にあるボーリングやローラースケート、ビリヤード、そして、アーケードゲームなどが、一通り揃っている複合型アミューズメント施設だった。以前、ハジメと行った大慶園にも似ているけど、ここにはあそこのような、「カオス」さは無く、都内の開発された駅前のように、画一的で整然とされた、何も面白くもない遊技場だった。あと、リア充臭すぎるので、わたしにはこういう場所は苦手だ。


「でも何だかんだ、ハルは好きだよね。こういう場所……一年の鈴木さんだっけ? 前、一緒にいるところ、見ちゃったけど……随分と仲がいいのね」


 ヨシミにしては、妙に刺がある言い方だった。


「へえ……よく、わたしだと分かったわね。メイクもコスプレもバッチリしていた筈なんだけど」


「分かるわよ……それに、ハルのゴスロリってやつ? その姿は、一度見たことがあるし」


「……え?」


「とりあえず、千枚ぐらいでいいかな?」


 運動部のヨシミのことだから、ボーリングとか、バスケットボールとかの球技系のところに行くのかと思いきや、ヨシミが連れてきたのはメダルゲームが出来るフロアだった。


 ヨシミはメダルバンクから、大量のメダルを引き出す。ストックされているメダルの数は、優に二万枚を超えていた。わたし達は、奥からメダルを投下して、メダルを手前に落とすオーソドックスなスタイルのメダルゲームを、二人同時にやり始める。


「ふふ……まさか、名門校の生徒会長と副会長が、ゲーセンで一緒にメダルゲームをやっているなんて、誰も想像していないでしょうね」


「わたしもヨシミが、メダルゲームにハマっているなんて、想像すらしたことがないわよ……」


「ハルはメダルゲームは好き?」


「どちらかというと、嫌いな方よ。同じ事の繰り返しだから。飽きっぽいわたしにはどうもね……多分、ギャンブルとか、パチスロとかも、一生やらない口だと思う」


「そう……わたしは好きなんだけどな、黙々とメダル投下しながら、考え事が出来るし、妙に落ち着くんだけどな……しかも、ここのゲーセンだと、周りはお年寄りばかりで、同校の生徒にも出会う確率は低いし、この場所も新しく出来たばかりだから、ヤニ臭くもないんだけどね」


 ヨシミはメダルを次々と、投下する。消費したメダルと、手前に落としたメダルが同じくらいの量になっていて、シーソーゲームといった具合で、中々メダルが消費されない。


「さっき、言っていたことはどういうこと? ヨシミにわたしの……あの格好を見せたことがあった?」 


 ヨシミは、メダルを投下するのを止める。


「まさかハル、本当に何も覚えていないの?」


「うん……そもそも、一年の頃からだったよね……わたしとヨシミが会ったのって」


「じゃあ、二年前のクリスマスは?」


「クリスマス?」


「ハル……わたしを救ってくれたでしょ」


 二年前のクリスマス? わたしが救った?


「……あ」なんとなく、わたしは思い出した。でも、その時のヨシミは、今の姿とは打って変わっていて、茶髪で、濃すぎるギャルメイク、大小バラエティに富んだピアスを耳に付け、安っぽい化学繊維を使ってそうな、ペラペラのスカジャンという、絵に描いたようなヤンキーの登竜門をくぐったばかりの、グレた若者そのものだった……だけど、無害そうな、優しい顔をしたヨシミには、見事なまでに、その格好は、似合っていなかった。




 その日はクリスマス・イヴで、わたしはというと、逃げていた。何からって、クソッタレなクリスマスパーティからだ。毎年、宝飾品の卸をやっている母親に連れられて、会いたくもない、宝飾関係の社長、そこの従業員、関係者、家族らと挨拶を交わす。


 はじめは、母親からスイーツが食べ放題と誘われたけれど、クッキーモンスターのように、大勢の前で、ムシャムシャ貪り食うという訳にも行かず、スイーツへの食欲を抑えながら、愛想笑いを浮かべて、大人達と非生産的な会話をする。


 うん、無理だ、冗談じゃない。


 そう考えたのは、かなり遅い時期だった。十五歳……中学三年生になったときには、友人とイブを過ごすと母に嘘をついて、わたしは、クリスマスに浮かれた奴らがたむろする夜の街へと、ゴスロリの格好で駆け出していた。


 なるべく、カップルやリア充的なものを見たくなかったわたしは、街のゲーセンへと足を向けていた。JR本八幡駅から徒歩五分ぐらいにある、暗い裏路地のヤニ臭いゲーセンだ。しかも、カップル達が、猿のようにキャッキャッウフフやるクレーンゲームも、申し訳ないぐらいにしか置いていないので、ぼっちのわたしにとって、非常に居心地が良く、アーケード版の「鉄拳」を、心ゆくまで永遠とプレイすることができた。


 最近の格闘ゲームは、オンライン対戦がデフォルトで備わっているので、勝ち続けていれば、ワンコインで長時間プレイし続けられる。液晶画面の中で、リリが屈強なオッサンやサイボーグ、野獣共をボコボコに吹っ飛ばしていくのを見ていると、わたしのクリスマス鬱の気分も、どこかへと吹っ飛んでいた。


 いつまでもゲームというものは、わたしにとって、常に癒しというものを提供し続けてくれる、最高の娯楽であった。


「てめえっ! ふざけんなよ!」


 そんな、癒しの最中、わたしの真後ろで男の怒声が聞こえてくる。


 大方、対戦ゲームで、ボコボコに負けて、相手に因縁をフッかける、器もチンコも小さい男なのかと思っていたら、そうでもなさそうで、わたしと同じくらいの歳のヤンキーっぽいカップルが、痴話喧嘩をしていた。


「てめえっ! ふざけんなよ!」


 またその台詞。他に語彙がないのだろうか。さっきから、一方的に男の方が、女へ向かって怒鳴りつけている。大方、男が怒る理由なんて、金と女の事だけだろうし、イヴの日に、こんな場末のゲーセンへ、デートに連れて来るようなクソ男だ。彼女の方から、別れ話でも切り出して、クソ男が理不尽に逆ギレしたんだろう。


 うん、聖夜に喧嘩をするカップルを見るほど、乙なものはない。「ざまーみろ」と、初めは思っていた。


「てめえっ! ふざけんなよ!」


 五回目の「ふざけんなよ!」の後、バシッと、クソ男が彼女を平手で頭を叩いていた。しかも、一回だけじゃなく、何度も何度も、頭や肩を叩き続ける。どうして、彼女の方は抵抗しないのだろうか、それとも、ガンジー的精神の如く、抵抗しない事で、逆に抵抗しているつもりなのだろうか。いや……涙を浮かべながら、ずっと耐えてる彼女の顔を見ると、そういう訳でもないらしい。


 これ以上、見てられなかったし、ゲームにも集中できない。誰かが、このクソ男を止めてくれと、心底願っていたが、店内にいたのは、わたしとこのカップルだけだった。店員もクソ男の逆ギレにビビったのか、事務所の方に引っ込んだままだ。


「ふざけんなよ!」


 十回目の「ふざけんなよ!」の後、わたしのプレイするリリが、パンダに倒され、十連勝が泡と消える。


 気付いた時には、叩いているクソ男の腕をわたしは掴んでいた。腕を掴んだときに、やっと気付いたが、このクソ男、身長が180ぐらいある。スポーツでもやっているのか、筋肉が下品なくらいに隆々していた。この威圧的な筋肉で、店員が出てこないのも納得したが、その筋肉を誇示するかのように、この真冬にTシャツ一枚である。そのナルシストっぷりが、わたしにはもの凄く気持ち悪くて、そして、気に入らなかった。


「なんだおまえ……っていうかなんだその格好?」


 初対面で、このゴスロリ姿を見たとき、よく言われる事だが、それはこっちの台詞でもある。お前だけには言われたくなかった。


「あなた……なんでさっきから、黙ったままなの?」


「はっ? 言っている意味がわかんねーし」


「お前には聞いてねえんだよっ!黙ってろ!チンカス野郎!」


 わたしはクソ男に声を張り上げる。段々、腹が立ってきた。


「だって、おかしいと思わないの? 今夜はイヴだよ? 聖夜だよ? もうすぐ、性の六時間だよ? 世のカップル達が、幸福を享受しながら、街を闊歩するというのに……なのに! この、チンカス野郎は、こんなヤニ臭い場末のゲーセンに、わざわざあなたをデートに誘いやがった!こんな行為、許せないと思わない?」


 さっきまで、癒されると言っていた場所にしては、散々言っているわたしだけど、ここのゲーセンはデートに来るには最悪の場所である事には間違いない。


 彼女は、わたしの目をジッと見る。紫色のアイシャドウから覗く、小さな瞳が、彼女の優しそうな性格を感じ取れた。


「そんなこと、あんたには関係ないでしょ」


「ううん、関係あるとか、ないとかじゃないの……どうせ、こんな場所に連れてきたから、愛想尽きたんでしょ。あなたが別れようって言ったら、このチンカス野郎に逆ギレされたっていう流れだよね。わたしは、それが何となく気に入らないだけなの」


「マジ、意味わかんねーし! 関係ないって言ってるだろうが!」 


 クソ男は思いっきり、わたしを突き飛ばす。こいつ……彼女だけじゃなくて、わたしにも手を出しやがった。


「こいつは、俺たちの問題だからさ。部外者は黙っててくれないかな」


 と、突然、クソ男は女の頬を平手で殴る。


「おい……やめろ」


「はっ? やめるわけねーだろ? てめえらが、謝るまで俺は続けるからな……」


「ほれ見ろ。このチンカス野郎は、自分で自分の何がいけないのか分からないでいるのよ。こんな奴と、付き合っている意味ってなんなの?」


「マジでイミフなんですけどー」


 クソ男は、彼女の頬を叩き続ける。両頬が徐々に、赤くなってきた。


「今、ここであなたが、抵抗しないと、これから一生、あなたはこんなクソ男のような奴に振り回される人生になると思う。惨めすぎると思わない?ねえ、言って……一言だけもいいから……わたしにっ!」


「うるせえなあっ! さっきから、お前何様のつもりなんだよ!」


 クソ男が、わたしの前に仁王立ちする。


「あなたにとって、生きる意味ってなんなの?」


 わたしは、女の瞳をジッと見続ける。まだ、彼女の中に強い意志があるなら、必ず答えるはずだと信じていた。


「……たっ……た」


 女が嗚咽した声を出す。年相応の女の子らしく、両手を組んで、胸の内に溜めていたものを一気に吐き出した。


「助けて!」


 ゲーセン内に、彼女の叫びが、束の間こだました。


「うん、そう! その言葉を待っていたよ。おい……チンカス野郎、人間が持つ、一番頑丈な凶器はなんだと思う?」


 わたしは、左手にはめている安物のトルコ石の指輪を右手の中指にはめる。


「あ? おまえ、マジでぶっ殺……」


 クソ男が、わたしを殴ろうと、モーションを起こす。


「ヴァカッ! 頭だよ!」


 わたしは、クソ男に思いっきり、頭突きをする。背がデカいので、サッカーのヘディングのように、ジャンプして、上唇と鼻の間にあるくぼみ、人中と呼ばれる急所の辺りに思いっきり頭突きをした。前歯に近い箇所だ、相当の激痛に違いない。案の状、クソ男はわたしの思わぬ奇襲に防御できず、両手で鼻と口を抑える。


 わたしは間髪を容れず、ノーガードとなったクソ男の股間に後ろ蹴りをお見舞いする。わたしの履くブーツのソールは、軍用でも採用されているビブラム社製ソールであり、厚底でとんでもなく頑丈だ。それをクソ男の股間へ思いっきり、足裏を股間にめり込ませた。


「ひゅう」と、聞いたことのない悲鳴が、クソ男の口から漏れた。膝を折って、その場に倒れ込むが、わたしの怒りはまだ収まってはいなかった。男だけが持つ急所は、股間だけじゃない、もう一つあった。右手の中指にはめたトルコ石の指輪をクソ男の喉仏へと、わたしの全体重をかけて、パンチングマシンをやるように、一撃必殺でぶち込む。


 ドスンと、百八十センチの巨体が、リノリウムっぽい床に倒れ込む。どんなに肉体を鍛えようとも、三カ所の急所を連続して打ち込んだのだ、並の痛みじゃないだろう。さっきまで「鉄拳」をやり込んでいたせいか、「KO」のナレーションが聞こえた気がした。


 ああ……これをやりたいが為に、わたしは早朝、マンションに併設されているジムへ通い、体を鍛えていた甲斐があったなと、感嘆した。


「……え?」


 さっきまで、一方的に叩かれていた彼女は、床に倒れたクソ男を見て、呆然と立ち尽くしている。


「……あっ、もう! クソッ!」


 警察を呼ばれると、色々と面倒なので、わたしは足早にゲーセンを後にしようとする。


「ちょっと、待って!」


 呆然としていた彼女が、わたしを呼び止めたが、それどころではない。わたしは、最寄りの駅まで、全速力で逃げ出していたのだ。最悪で最高の一撃をお見舞いしたクリスマス・イヴの日だった。




「あの子がヨシミ……嘘でしょ?」


 押し出されたメダルが、ルーレットゾーンに入り、目の前の液晶画面から、当たりそうで当たらない、揃いそうで揃わない、ド派手な演出が目眩く、展開されていく。


「あはは……それが、嘘じゃないのよ。意外かと思うけど」


「うん、ほんと意外」


「……まあ、わたしにも荒れてた時期があったんだけど、勉強の成績は良かったのよ。サトジョの推薦に受かってね、過去にケジメを付けようと、彼氏に別れようと言ったの」


「それで、あのクソ男がヨシミにあんな事をした訳?」


「クソ男ね……彼、本当はいい人だったのよ。陸上を始めたのも、彼に憧れていたから。本当は一緒に同じ高校で、陸上を続けたかったけど、彼、落ちちゃってね……それで、あんな風に……」


「でも、ヨシミは何も悪くなかったでしょ」


「悪くないとは思っているわ。でも、申し訳ないとは思ってたの。だからわたし、なにも出来なかった……ハル言ったよね? あなたにとって、生きる意味ってなにって……それでわたし目が覚めたの」


 ヨシミが小麦色の手で、コインを投下するわたしの手をギュッと握る。ルーレットの数字が揃い、派手な効果音と一緒にコインがジャラジャラと筐体から排出される。


「どうして今、その話をするの?」


「改めてお礼が言いたかったから。今、こうしてわたしがいるのもハルのお陰だし、そして、今のわたしの憧れが、ハルだって事だと知って欲しかったの」


「買いかぶりすぎよ」


「ううん、買いかぶってなんかいないわ……正直に言ってるの。ハルはわたしにって、唯一無二の憧れ……だからさ、どうして写真部なんかに入ったの?いままで、写真なんて興味もなかったのに」


 わたしは、コインを投下するのを止めた。これは面倒な事になりそうだなと、嫌な予感がした。


「何が言いたいの? どこの部に入ろうが、わたしの勝手でしょ」


「鈴木一さん……どうして、彼女なの?」


「……そんなことより、わたしが殴ったクソ男とは、もう別れたの?」


 わたしは、話を逸らそうとするが、ヨシミは話を続ける。わたしの手を強く握ったまま。


「ハル……あんな楽しそうな笑顔……一年半も一緒だったのに、一度も……一度も、わたしには見せてくれなかったのに……」


「ヨシミ、いったいどうしたの? まるで、いつものヨシミじゃないみたい」


「これが、いつものわたしなの! 薄々、気付いていたでしょ? あの子に色々、先を越されちゃったから、こうして焦っているのが分からない?」


「焦っている? なにに?」


「ハル……恋人として、鈴木さんと付き合ってるの?」


 わたしは一瞬、凍りつく。わたしとハジメが付き合ってるのが、ヨシミにバレたかもしれないからだ。


「違う……ハジメとは単なる友達よ」


 ごめんハジメ。わたし、嘘を付いた。


「へえー単なる友達なんだ。じゃあハル、わたしと付き合ってよ」


「……言っている意味が分からないし、第一、わたしは同姓に興味はない」


 また、嘘をつくわたし。


「ふうん……じゃあ、付き合ってくれなかったら、鈴木さんとの仲を学校で言いふらそうか?」


「ヨシミ……わたしを脅迫しているの?」


「そうよ……こうでもしないと、和嶋治という女の子は、付き合ってくれないからね。ちなみにサトジョは、異性との交際は一切禁止、同姓となんてもってもほかよ。古くて、厳格で、頭がハルのように学校だからね。地味な後輩と完璧な生徒会長との蜜月な禁断の恋。うん、こんな大スキャンダル、サトジョで永遠に語り継がれるかも」


 わたしはカッとなって、ヨシミを平手打ちをする。ヨシミは、ハッとした顔をするがどういう事だろう、ヨシミはどういう訳か、恍惚とした表情を浮かべて、喜んでいたのだ。


 そのヨシミの顔を見て、わたしはもう一つ思い出した。ヨシミが、あのクソ男に叩かれていた時、ヨシミの顔は涙を浮かべながら、笑っていたということに。


「そう、これ! これが、ハルなのよ! これが、あなたなの!」


「いい加減にして……」


「大事な事を教えてあげようか」


 ヨシミがわたしの耳元で囁きかける。


「わたしは、ハルの本性を知っている。あなたは、自分自身が一番好きな、痛いサブカル女でしょ」


「……クソッタレ」


「でも、図星だよね? でも、安心して、わたしがそんなあなたを全て、受け止めてあげる」


「わたしは、今のヨシミを受け止められそうにない」


「うん、今はね。でも、ハルもいずれ、わたしを受け止めるようになる……必ずそうするわ」


「なにを根拠に……」


 突然、コインゲームからとんでもない轟音が響きわたる。メダルを落とす台の照明がストロボを発光させたかのような眩しい点滅を起こし、液晶画面から花火がスパークし、両脇の装置から、彩り豊かな噴水が吹き出し、大量のメダルを噴水のごとく吹き出していた。


「ジャックポットよ……根拠ですって? ハルは何か持っている気がするからよ。実力、魅力、運とかそういうものをね。ただの人にはない何かを……わたしは、ハルのそんなところに惹かれたの」


「よく考えておいてね」と言って、ヨシミはその場を後にする。ジャックポットで、メダルはまだまだ吹き出していて、液晶がエラー画面を表示させている。




 気付いたら、わたしは自宅にいた。ヨシミの告白と脅迫に呆然としていたら、その事の考えを止めるように、がむしゃらに勉強をしていた。スマホが着信するまで、わたしは、時計の針が夜の十一時を指しているのにも、気付かなかっただろう。


「冷静になってねー」


 なにが、どう冷静になれというのだろう。電話の声は、ゴマスであり、開口一番「冷静になれ」と言う。はじめ、ヨシミに脅された事に対してだと思って、ドキッとしたが、そうではないらしい。


「今、向こう側の同僚から、連絡があってねー、昨日のダルマ神社で、あなたを殺さずにいたのは、我々があなたをフラクチャードレスにさせたいが為に、ある交換条件を向こう側の同僚に申請したからなのー。だから、和嶋さんは昨日、生き残れたのよー」


「話がよく分からないんだけどさ……つまり、昨日の鎧の女は、わたしに対して、手抜きの舐めプレイをしてたということ? 何の為に? その、交換条件って?」


 電話の向こうで、長い溜め息が聞こえる。少しの間を空けて、ゴマスが小さな声で言う。


「……鈴木さんが誘拐されたのよ」


 わたしは、スマホを握り締める。ミシミシと、ガラスにヒビが入る音がした。これ以上、力を入れるとスマホが粉々に砕けそう。


「でも、安心してー! 厳密には、誘拐というより、合意の上での、任意同行を鈴木さんにお願いしたはずだからー!向こう側のヤツも鈴木さんには危害とか悪いようにはしないと思うよー!だってNNが……」


 そんな事はどうでもいい。わたしは、ハジメを守れなかった事に対して、あり得ないほどの、自責の念を感じていた。ぶっちゃけ、今にも泣きそう。


 アフリカのとある部族では、怒りを相手にではなく、まず自分にぶつけ、村の中央に建てられた塔から、飛び降りる風習を持つところがあるそう。それを思い出しながら、わたしはベランダに出て、柵をヒョイと飛び越え、そのまま階下へと飛び降りた。地上百五十メートル。ジェットコースターのファーストドロップに似た、心臓がしぼむ感覚。いくら、わたしが無機物の肉体であろうと、この高さから落ちれば、只では済まないだろう。いや、インクルージョンは、そんな事を許さないはずだ。


「はあ……いくらなんでも、無茶で無謀過ぎない?」


 案の定、落下中に時間が停滞し、ベランダの柵の上で、戦艦のプラモデルを組み立てている中島が、ヌッと現れる。よく思うけど、この時間を停滞させるって、どういう仕組みなんだろう。


「はあ……時間の結晶化は、分かりやすく例えるなら、液体になろうとするガラスみたいなもの。ガラスって、見かけは結晶化しているけど、実はゆっくりと液体へ転移しようと、不安定な非晶質が停滞しているだけ。時間もガラス同様、不安定なものだから。わたしたちは、その停滞した非晶質の海をうまく泳いでいるのに過ぎない。だから、わたしは停滞した時間の中、プラモを作る暇が出来るわけ。ちなみに、これは戦艦じゃなくて、軽巡洋艦。艦名は北上。フジミ模型の傑作の一つ」


「そんな事は、聞いていない」


「はあ……聞いてきたから、答えただけなのに」


「どうして、あなたがいて、ハジメを守らなかった?」


「はあ……わたしだって、そうしたかったよ。でも、上からの命令だし、今の鈴木さんの保護権は、全て、向こう側のインクルージョンへと譲渡されている。要は、わたしはお呼びじゃないって訳です」


 中島が、ミネラルキーをわたしにへと放り投げる。


「ソフトシェルを解除、ハードシェルへの相転移を開始。ミネラルウェア及び、フラクチャードレス、ソリタリーシェルを起動」


 わたしは、ミネラルウェアへと即座に相転移し、瞬時に銃を自分に撃ち放つ。フラクチャードレスが展開され、クラゲのように、貝紫色のドレスが、逆円錐形状に広がり始める。


「でも、わたしにもそれが気に入らない。鈴木さんの座標をマークしておいたから、プロポーショングリッドの通りに進んで」


「意外ね……」


「はあ……なにがですか?」


「中島って、そんなに感情的なヤツだったけ?」


「はあ……わたし、NNモデルは、和嶋さんの一〇五をベースにして生まれた副産物に過ぎない。もしかしたら、ある程度、和嶋さんに似ている部分はあるかも」


「へえ……要は、妹みたいなもんかな」


「はあ……ゾッとします」


「それは、こっちの台詞よ……どっちにしても、ありがとね。わざわざ来てくれて」


 少し照れくさそうに、顔をうつむかせたNNが「はあ……どういたしまして」と言って、再びプラモを作り始める。中島が、ランナーに繋がっているパーツをニッパーでパチンと切り離した瞬間、時間の停滞は終わり、わたしは眼下の街へと、再び落下を始めたのであった。


 プロモーショングリッドによると、ハジメの座標は、幕張の高層ホテル、最上階の部屋にマーキングされていた。


 ハジメが、あの鎧の女に、ホテルで二人っきり、なのだ。


 もう一度言う、ハジメがあのクソッタレな鎧の女に誘拐され、ホテルで、あんなことやこんなことをされているかもしれない。


 わたしは血眼になっていた。グリッドラインが、カーナビのように、最短ルートを検索していたが、ハジメの事を心配し過ぎていて、ルートを無視し、わたしの住んでいるタワーマンションの壁を蹴り、そのまま幕張まで屋根伝いに飛んで行きたかったが、電線にひっかかりそうになって、中々飛びづらい。


「なんで、仮面なのか、なんとなく今、分かったわ……日本って飛びづらいのね」


 わたしはしぶしぶ、ルートの通りの道を進もうとする。


 これって……電車に乗って行ったほうが効率よくない?


 ルートは、総武線の架線の上を指していた。なるほど、これなら電線に引っかかる心配もないし、人や車にもぶつかる事も少なく、最短で移動できるはずだった。わたしは電車を避け、抜きながら、全速力で幕張へと向かっていた。網膜に速度は表示されないが、成田空港へと向かう特急を、一瞬で追い越すぐらいの速度ということだから、余程の速さなんだろう。


 途中、電車を追い越したり、駅にいる人達が、滑稽なわたしの姿を目撃して、どうするんだろうか、ツイッターにでもアップするのかな、と思ったが、通り過ぎたところを振り向いて確認したら、わたしの周りの世界が無数に分裂していた。


 言っている意味が分からないと思うけど、わたしが通り過ぎた後、恐らくわたしを目撃した人達、電車や駅の建物そのもの、わたしが干渉した空間そのものが、合わせ鏡のように、無数に分裂していた。


 透明な方解石を通して物を見ると、二重に見える複屈折という現象にも似ている。もっと、分かりやすく言うと、乱視の人が眼鏡を外した感じ。


 わたしを観測した人間と、観測していない人間。わたしが走り去った空間は、曖昧な波紋を広げ、わたしはその波紋を起こす、船みたいなものだった。


「上書きだ」わたしは、はじめてインクルージョンによる、上書きの課程を目撃していた。 


 読み込みが遅れたラグったゲームのように、カクカクと分裂した人達が、徐々に元の一人の姿へと還元されていく。そして、わたしの事なんていざ知らず、何事もなかったように、普段の日常を送っていた。


 わたしが相手しているのは、こういった事を平然と行う次元にいる奴だと考えると、わたしはますます、ハジメの事が心配になり、足を速める。


 西船橋駅で総武線から京葉武蔵野線の架線に、文字通り飛び乗り、目的地のホテルに着いたのは、十分も掛からなかった。そして、着くや否や、ご丁寧にも出迎えがいた。


 緑柱石で構成されたナナフシ人間……イミテーションクラスター達が立ち尽くしている。概ね、あの鎧の女の差し金だろう。ロビーに数十のナナフシ人間達が、エメラルドのような大剣を煌々と輝かせながら、今にもわたしを斬りかかろうと、待ち構えていた。


「また、宝石の掴み放題ってわけね? はあ……このクソッタレ! お前等みたいな、雑魚クズ石、ハナから眼中なんてないんだよっ!」


 何十……いや、何百体ものナナフシ人間を破壊しただろうか。ゲームの「無双シリーズ」みたいに、プロポーショングリッドに討ち取ったキルカウントでも表示されればいいのにと思ったが、数えるのを諦めたくなるぐらい、ハジメを早く取り戻したいが為に、ナナフシ人間を壊し続けていた。気付いた頃には、最上階にあるハジメが誘拐された部屋の前にいて、最後のナナフシ人間を部屋の扉ごと、吹っ飛ばしていた。


「おほーっ待っていたよー。意外と、早いもんだねー」


 百平米以上はあると思う、広いスイートルームで、鎧の女の姿は、鎧の姿ではなく、素顔を晒し、なんと素っ裸だった。女が座るキングサイズベッドの後ろで、ハジメがいた。どういうことだろう、よく見るとハジメも裸だった。ハジメは、ウルウルした瞳で、わたしを呆然と眺めている。わたしはこの状況がうまく飲み込めなかった。この鎧の女は、ハジメを誘拐して、どうした?裸にしてどうした?どうして、鎧の女も裸なんだ?どうして?どうした?どうすれば?


「あーそういうことね」


「ハル! 待って! その人はっ……」


 ドレスのアンカーを大理石の床に固定。射撃管制ソフトが、裸の女の頭部を瞬時にマークする。わたしは、両手で持つ銃で、裸の女にありったけの、嫉妬と憎しみの真珠の弾丸を撃ち込んだ。機銃掃射のように、白濁としたマズルフラッシュが噴出し、わたしの身体が、反動で吹っ飛ばされそうになる。弾丸の着弾で、破片とかがハジメに当たらないように、わたしは慎重かつ、正確、そして無慈悲に、裸の女を蜂の巣にしようと努めた。


 でも、手応えがない。女の左腕が転移し、ルネ・ラリックがデザインした、蜂のブローチのような盾で、わたしの弾丸を全て防いでいたのだ。鎧の女は相変わらず、ムカつく笑みを浮かべていた。


 女の身長はわたしと同じくらいで、乳頭が隠せそうなほどのロングヘア、ファストファッションのチラシに出てくる、安っぽいモデルみたいな体型と顔立ちをしていた。


 首元に見慣れたほくろがあることに気付いた。わたしと同じ、オリオン座のベルトような……つまり? どういうことだろう? やっぱり、この状況が飲み込めない。わたしが今、蜂の巣にしようと、蜂の盾を持つこの女、ハジメを裸にして、汚した憎きこの女は……。


「この人はあなたなの……ハル……和嶋治なのよ! 十年後のね!」


 ハジメがわたしに怒鳴る。ハジメが言っている意味が分からない。


「おこんばんは。そして初めまして、過去の愚かなわたしのドッペルゲンガーちゃん。とりあえず、ハジメが言っている通り、そのおっかない鉄砲は解除したほうが賢明だと思うわよ」


 未来のわたしと思われる奴が、呑気に下着を着ようとしていた。ブラジャーのバックホックを付けようと、両手がノーガードになっている。チャンスと思って、再び銃を撃とうとする。


 ゴトンと、わたしの足下になにかが転がる音がした。それは、わたしがさっきまで撃っていた銃であり、それがいつの間にか、腕ごと切断されていた。誰に? わたしの右横に誰かがいた。NN……中島? 違う、さっきまでプラモを組み立てていたNNじゃない。別のNN……多分、あっち側のNNだろう。男なのか女なのかよく分からない、子供のような容姿は一緒だけど、何となく雰囲気が違っている気がする。紺色のブレザージャケットを着ているNNは、指先から黒い矢のようなものをわたしの喉元に向けていた。NNの瞳に、ダイヤモンドのラウンドブリリアントカットの万華鏡模様が浮かんでいる。よく見てみると、中島の出すカット模様と比べて、少し不純物が多く、形も不均等な気がした。


「フラクチャーを解除してくれない? とりあえず、我々の話を聞くぐらいの時間はあるはずでしょ」


 未来のわたしが身に付けているネックレスから声がした。そのネックレスは、一見すると、ルチルクォーツのように見えるけど、クォーツ内のルチルが、微生物のようにウネウネ動いている。


「あなた……インクルージョンなの?」


「和嶋さんが、どうしても人型は嫌だと言ってね、このようにペンダントトップとなっているわけ。常に一緒にいられるから、特に不満はないけどさ」


「いい考えだと思う。わたしのほうもそうすれば良かった」


「えー? それって、酷くないー?」


 聞き覚えのある声がした。奥の部屋のほうで、ゴマスがヒョッコリ顔を出していた。


「ゴマス……どうして、あなたがココにいるの?」


「ううん。はじめからココにいたわけじゃないよー。今、急いで駆けつけたばかりなのー。和嶋さんが、粗相をしないか心配してねー」


「粗相ですって? ハジメを売ったくせに?」


「あのー……なんか、わたしがハジメを汚したようになっているんだけど……」


 未来のわたしが、申し訳なさそうに、手をゆっくり上げている。


「違うのっ? ハジメを裸にしてっ!」


「違うわよ!確かに裸にしたのは事実だけど……決して、ハジメを汚そうだなんて……」


「ハジメ」


「なに? ハル……っていうか、なんだろうこの状況」


「未来のわたしにナニをされた?」


 ハジメは目を伏せる。そして、少し小声で囁く。


「……クン二されそうに」


 その一言でわたしは何というか……キレた。矢を向けてるNNの足を払い、射出した矢を避け、残った片方に持つ銃で、再び未来のわたしを撃つ。


「はあ……だから、解除しろって言ってんの」


 今度は中島が、わたしの懐にいきなり現れ、お腹のあたりを強くノックした。


 バチンと、全身がゴムで弾かれたような衝撃が走り、瞬時にわたしは、ミネラルウェア、フラクチャードレスからヒトへの姿にへと、強制的に戻された。わたしの破けた服の間から、鍵が飛び出し、中島がそれをキャッチする。


「中島……今度は助けてくれないの」


 解除された衝撃で、仰向けに倒れるわたしを、中島は見下ろしていた。


「はあ……これでも、和嶋さんを助けているつもりですよ。状況が変わったんです」


「そうー状況がねー、とりあえずさ、こっちの部屋の方で、ゆっくり話合わない? 似たもの同士でねー」


 ゴマスが、「似たもの同士」のところで、チョンチョンと、指をエアクォーツした。


 奥の部屋では、巨大なテーブルの上に、高級ホテルのスイーツバイキングでしか見ることしかできない、選り取り見どりなケーキというケーキが、山のように積まれていた。


 わたしの向かいに、未来のわたしが座り、わたしの隣にハジメ、未来のわたしの隣に、ゴマスが座る。


「別に毒なんか入っていないよ。最後の晩餐かもしれないからね、いまのうちに沢山、食べた方がいいわよ」と言って、未来のわたしは、ヒョイヒョイとケーキをいくつか皿に載せて、パクパク食べ始める。


「……わたしの小学生の頃の秘密を知っているの? 誰にも喋ったことがないはずよ。あなたが未来のわたしだというなら、答えられるはず……」


「え……なに突然、その乙女チックな質問」


 ハジメは、皿に載せたレモンのケーキをフォークでツンツンしている。


「あーそれね……小四の頃、わたしは小学校の入学祝いに、父親から買って貰った、冥王を意味するプルートという名前のテディベアを可愛がっていた。ある三月の日、プルートのお腹が転んだ拍子に破けてしまって、落ち込んでいた時、当時の友人が、得意の裁縫でプルートを修繕してくれたの。でも、その友人はその月のうちに、親の転勤で、福岡のほうに引っ越してしまうという。わたしは……あなたは、可愛がっていたプルートをその子にあげたのよ。わたしの事を忘れないで欲しいと言ってね……その時の感情は、友情とも言い難い何かだった……その子の名前は、大槻ミチ。そして、ミチは……」


「もういい……分かったわ」


 わたしは軽く目眩がした。ミチの名前を知っていた事だけじゃない、プルートという名前は、わたしだけの秘密の友人……イマジナリーフレンドというヤツで、親にも、ミチにも言った覚えはないし、子供の頃の空想の友達の名前なんて、誰が知っているだろうか。


 中島と向こう側のNNが、ティーカップに紅茶を入れる。そのNNの顔を見て、わたしはやっと気付いた。


「中島……あなた……ミチなの?」


 髪の色が違うけど、中島の顔はミチの顔の面影があった。いや、面影どころか、NN達の顔や体格が、小学生四年生の頃のミチそのものだった。中島はNNという存在が、わたしの一〇五の副産物と言っていたけど、つまりそういう事なのか。


「わたしのサポート役が、小学校の頃の親友って、なんてロマンチックで、悪趣味なんでしょう」


 未来のわたしは、紅茶に大量の砂糖を投入している。


「これを君に説明するのは十回目よ。残りの和嶋さんは、説明する前に襲ってくる場合が多かったからね」


 ペンダントになっているインクルージョンがテレパシーのように、わたしの頭に直接、喋りかけた。


「十回目ですって? じゃあ、他のわたしとも会ったということ?」


「あなたで二十三人目よ。そして、あなたを……最後の一〇五を手に入れれば……わたしは、このクソッタレなインクルージョン達から解放され、元の世界に戻れるの。正直、あの森であなたをとっとと砕けばよかったと思っているよ。結局、インクルージョン達のわがままに付き合ってやったけどね」


「二十三人目? 確か、わたしは五人って……」


「パラレルなわたしたちには、収集するべき一〇五に個人差があるのよ。わたしの集める数は二十三。あなたは五という事。二十二人の自分自身を狩り続けていた経験者から言わせてもらうけど、この数が少なければ少ないほど比例して、わたし自身が、強力なミネラルウェアとフラクチャーを手に入れることができるのよ」


「ずいぶんとお喋りなのね、これから倒すべき相手に、そんなにペラペラ喋っていいの?」


「構わないわよ。どうせ、わたしが勝つしね」


「その勝ち気な性格……正に、ハルだね」


 紅茶に入っているレモンを食べながら、ハジメは小さく言った。


「ゴマス……なぜ、わたしなの? なんで、わたしはわたし同士で戦わなければならない? なぜ、わたしは……」


 ゴマスも、カットケーキをフォークで器用に分割して、パクパク食べている。


「以前にも言ったと思うけどー、あなたたち、和嶋治という存在は、因果律が天文学的に高い存在なのよー。EIのクラリティを悪くするぐらいにねー」


「それは何度も聞いたよ。で、そのEIってなんなの? あなたたちインクルージョンが、必死に守っているEIってなんのこと?」


 ハジメがそう言って、わたしの手をギュッと握る。ゴマスはポケットから、一つの宝石のようなものを、わたしに放り投げる。一〇五同様、百カラットに近い大きさを持つ、正八面体オクタへドロンのなにかの鉱物だ。無色透明で、内部に幾何学模様の黒い内包物が点々とある。水晶の中をよく覗いてみたら、液体でも入っているかのように透明な物体が、黒い内包物と一緒に蠢いている。


「それがEIよー。我々はエミュレーション・イミテーションと呼んでいる。それが、和嶋さんと、鈴木さんがいる、この世界の正体」


「……はっ?」わたしと、ハジメが同時に突っ込む。


「それは、あくまでダミーなんだけど、高密度の石英ガラスと、時間結晶によって合成された量子ストレージハードウェアよ。容量は無尽蔵のヨタを越え、四十六億年分の太陽系規模の仮想化情報を保有しているの」


 ペンダントのインクルージョンも説明するも「……は?」と、再びわたしとハジメは同時に言う。


「あ、よく分かっていないなー」


「これでも、かなり分かり易く説明したつもりなんだけどなー」


 ステレオ音声で、二人(?)のインクルージョンたちが、ひそひそと話している。


「要はこの世界が……偽物ってこと。わたし達は、インクルージョン達から見たら、ただのデータであり、ビットであり、文章の文字列みたいなものよ。そのEIというのは、いわば、太陽系規模の情報を持つ十万年後のハードディスクみたいなもの。少なくても、この地球という星の年齢、四十六億年分の情報を、その石ころは蓄積していて、仮想化しているみたい。まるで、規模のデカいシムシティみたいに」


「あ、色々と間違っているけど、分かりやすい説明ありがとうー、未来の和嶋さん」


「いえいえー」


「映画好きのあなたたちなら知っていると思うけど、メン・イン・ブラックって、映画見たことあるー? 最後の方で銀河系を閉じこめたビー玉で遊ぶ巨大な宇宙人が……」


「ちょ、ちょっと待ってっ!」


 ハジメがインクルージョンの話を遮る。


「それ以上、説明されると余計、わたし達、混乱しちゃうから……わたしの質問にイエスかノーだけで答えて」


「いいわよー」


 ハジメはしばらく考えた後、慎重に言葉を選ぶかのように、ゆっくりと、インクルージョンたちに言った。


「この世界は……わたしたちがいるこの世は幻……偽物だというの?」


「偽物だなんて心外だな、もっとEIは高次的な……」


「イエスかノーだけで答えろ」と、わたしが釘を刺す。


「はー……イエス」


「よく、映画とかオカルトとかに出てくる、この世は仮想現実かもしれないという事を、十万年後の未来人である、あなたちインクルージョンがやっている」


「イエスよー」


「その仮装現実が、このEIという石ころの中で行われている」


「イエス」


「夢を見ているだけなの? 本体のわたしたちは、スパゲッティみたいなのにくるまれていて、あなたたちインクルージョンの電力源になっているとか? 映画のマトリックスみたいに」


「ノー」


「話が変わるけど、ハルと未来のハル同士が闘う、この奇怪な状況は、因果律が関係していて、EIにも関係している」


「イエス」


「あなたたちがこだわるEIのクラリティって、ハルの因果律が関係している」


「イエス」


「どうして……ハルなの? こんな数十億も人間がいるのに、どうしてこんな小さな国の、小さな街の、小さな女の子が、そんな途方もない事に巻き込まれなきゃいけないの? イエス、ノーなしで」


「それは、我々が望むのはEIの安定化だから。人間ってね、あなたたちが思ってる以上に、個々の影響力が強い生き物なのよ。無駄な人間なんて誰もいないの。十万年分の人類の因果律を情報化し、ニューラルネットワーク状に再構築、仮想化、物質化し、鉱物化したのがそのEIよ。例えるなら、情報の宝石みたいなもの」


「十万年後の我々はねー、肉体というものを遠い昔に捨てていてー、森羅万象、ありとあらゆるモノの価値というのが、情報によって左右されているのー。我々インクルージョンは、EIをグレーディングし、鑑別する鑑定士みたいなものでー、いくら全てが同じソースから生まれたEIとはいえー、多少のバグは生じ、バグが生じたEIは、クラリティが悪くなり、情報としての価値が著しく低くなるのー」


「その、バグがわたしたち、和嶋治だということ」


「そう。和嶋さんの因果律は、EIの価値を下げるくらい、強すぎるのよ」


「だから、手前の都合だけで、こんなふざけた同士討ちをさせようって訳なのよ!ほんとにふざけてるよねー」


 未来のわたしはそう言って、ゴールデンバットに火をつける。ゴマスも、未来のわたしから火を借りて、ラッキーストライクを吸い始めた。


「これから、闘う前に、こんなことを言うのは酷だと思っている。けど、この世界の仕組みを知ってから、闘って欲しかったのよ。何も知らないで死んだほうが、もっと残酷だからね……」


と、インクルージョンのペンダントが、申し訳なさそうに言う。


「言いたいことはそれだけ?」


 ハジメはそう言って、レモンケーキを食べ終え、レモンシロップを大量に入れた紅茶を飲み干す。


「イエス」


 インクルージョンは、相槌を打つ。


「……だってさ、ハル」


「思ったより、つまらないもんよね」


 ゴマスはキョトンとしていた。


「えっと……つまらないってー?」


「そのままの意味よ。未来のわたしが現れたから、タイムマシンとかを使って、タイムパラドックスだの、平行世界だの、多元宇宙だの……強いて言うなら、ブラックホールを使った宇宙人とか四次元人の実験とか、そういうものを期待していたのに……」


「その答えが、ハルが仮装現実のバグだなんてね……なんか、ありきたりでつまらないわよねー」


「ふふっ、それは言えてるかも……しかも、こんなコスプレみたいな格好で、わたし同士で殺し合うんだからね……ほんとに、ウケるよね」


 未来のわたしも、そう言ってゲラゲラと笑っていた。


「なんか興味深いよねー、和嶋治さんと、鈴木一さんって」


「でしょー面白いでしょー、ちょっとやそっとじゃ、全然動じないの彼女たちー」


 呆れた顔をしたゴマスに、中島が耳打ちをする。


「ほーい、そんじゃ準備が出来たらしいから、移動するよー」


 そう言って、ゴマスは引率の先生のように、トイレと思しき扉を開け、中へ入っていった。


「もうちょっと、食べたかったのになー……ったく」


 未来のわたしと、向こう側のNNも、トイレの中へと消えていく。


「へっ? 新手の連れション?」


 ハジメが、間抜けなことを言う。


「はあ……そんなわけないでしょ。とっとと入って」


 中島がハジメの背中を押して、トイレに連れ込もうとする。トイレの中を覗くと、そこは便器ではなく、だだっ広い見慣れない空間が広がっていた。天井も高く、横幅も広い通路のようなところを、わたしとハルは黙々と進んでいった。妙に動物臭い気がしたが、その臭いの正体はすぐ分かった。


「ここって……競馬場?」


「そうー、船橋競馬場よー。ナイター設備もあるから照明もバッチリー、これだけ広ければ、思う存分戦えるでしょー?」


 さっきまで、高層ホテルの最上階にいて、トイレの中を通ったら、船橋競馬場に通じているというツッコミは、とりあえず置いておこう。


「大丈夫なの? これだけデカいとこだと、あなた達の結晶現実が持つの?」


「問題ないよー。競馬場だけじゃなく、半径一キロ圏内を全て封鎖したからねー。虫一匹見逃さないからー」


「相変わらず、規模がデカいんだか、小さいんだか……どこでもドア的なものがあるなら、わざわざ地元じゃなくてもいいのに」


「ハジメ、怖い?」


「怖いというか、もう麻痺してるよ。色んな意味でね……ハル、さっさときてね」


 そう言って、ハジメはわたしにキスをした。ハジメがさっき食べていたレモンケーキの味がした。


「どうして、死んでなの?」


「TPO的に、こういう場合だと、死亡フラグになっちゃうからね。そういう意味での願掛けよ」


「バカね……TPOもなにも、キスした時点で、十分死亡フラグじゃない」


 わたしは、ハジメにもう一度、キスをした。


「そうねーTPO、ほんとに弁えてよねー」


 ゴマスとNN達、未来のわたしが、冷ややかな目でこちら見ていた。


「……んじゃ、とっとと終わらせようか。ハジメに無様な死に様を見せたくないでしょ」


「はっ? ……あんたに、ハジメの何が分かるっていうの?」


「分かるわよ。これでも、十年くらい、ハジメと一緒だったんだから」


 未来のわたしは、エメラルドで出来たミネラルキーを脇腹に差し込み、思いっきり回した。わたしも、中島から鍵を受け取り、ミネラルウェアへと相転移する。


「ソフトシェルを解除、ハードシェルへの相転移を開始。ミネラルウェア及び、フラクチャーアーマー、エメラルドソードを起動」


 向こう側のNNがそう言うと、未来のわたしは、右手から生成したエメラルドの大剣を手品のように生やす。そして、剣をグルングルンと振り回し、砲丸投げのように、遠心力を活かしながら、真上へと放り投げた。


「ねえ……ぶっちゃけ、この世界が偽物だと知ったとき、どう思った?」


「……別にどうも思わないし、どうでもいいわよ。だって、この世界が偽物だとしても、ハジメが好きだというこの感情は、偽物じゃないと信じているから」


「……そう、それがわたし。和嶋治という奴だよね……ったく」


 放り投げたエメラルドの剣が、未来のわたしの頭上に落下する。磁石が反発したように、剣は頭上にピタリと静止した。


「だからね……だから……」


 静止した剣が未来のわたしを突き刺し、真っ二つに切断した。チラッと見える、切断された断面からは、真っ赤な臓器ではなく、ゴツゴツしたエメラルド色が強い、緑柱石の断面が見え、心臓と思しき場所に、禍々しい色を放つ一〇五が埋め込まれていた。刺さった剣から、巨大な緑柱石の柱が、サボテンの針のように飛び出し、未来のわたしを覆い尽くす。ガチガチと、氷が割れたような音がし、柱のパーツが細かいパーツに分かれながら、ルービックキューブのように無秩序に回転する。あっという間に、エメラルドの鎧の姿となった、未来のわたし。わたしの姿がドレスならば、さながら、彼女はフラクチャーアーマーといったところか。カッコいい。ぶっちゃけ、わたしもそっちの方が良かったなーと、すごく羨ましかった。


「倒しがいがあるんだよね! わたしって!」


 突然、プロポーショングリッドが警告する。巨大な矢印が、わたしに向かって飛んできた。その矢印の意味は何となく分かった。矢印にやや遅れて、巨大な刃先がわたしに向かってきた。いきなりだったので、膝を折り曲げ、スレスレのところを避け、右手で瞬時に生成した銃で自分の胸を撃ち抜き、中途半端な状態で、フラクチャードレスになりながら、左手に生成された銃を使って、未来のわたしを撃ち抜こうとする。撃とうとしたが、同時にエメラルドの大剣の刃が、わたしの首に触れていた。まるで、ジョン・ウーの映画のような鍔迫り合い。メキシカン・スタンドオフだっけ、この状況。


「挨拶もなしに、いきなり不意打ちって、すごい失礼じゃない?」


「そうかな? 先手必勝って言うでしょ? それにしても、あなたのフラクチャーが羨ましいよ。わたしもドレスがよかったなー」


「は? ……この格好だよ? 自分の歳を考えたら? おばさん」


「……いずれ、あなたもおばさんになるのよ。あっという間にね。ちなみにわたしはまだ、二十……」


 わたしは、右足で未来のわたしを蹴り飛ばし、その反動で、後方へ飛びながら、両手の銃でありったっけの弾丸を撃ち込む。未来のわたしは蜂の盾で銃弾をガードをしたが、それで、足止めには十分だった。


 わたしは回れ右をして、全力で駆けだした。わたしのフラクチャードレスというやつは、さっきハジメを救いに行ったときに、想像以上に素早い事は知っていて、鎧のフラクチャーよりはスピードはこちらの方が上だと思っていた。


 銃対剣。剣の刃が届かない範囲であれば、銃のこちらが有利であるのは、当たり前の話で、距離を離しながら、チクチクとダメージを与えれば、こちらに勝機はあるはず……はずだったのだ。


「おい、今度は鬼ごっこかい?」


 驚いた。振り返ると、未来のわたしは、わたしに追いついて来たのだ。よく見ると、エメラルドの大剣の腹に、ムカデか三葉虫のような、無数の脚が生えていて、ワキワキと動かしながら、恐ろしい速度を出している。それをジェットスキーに牽引されるウェイクボードのようにして、猛スピードでこちらに向かってきた。鎧の身なりといい、馬に引かれた古代ローマの戦車みたいだ。


「うわっなにそれ! キモッ!」


「失礼ね! そこは、カッコイイでしょうがっ!」


 網膜に無数の矢印が向かってきた。まるで波乗りをするかのように、未来のわたしは、エメラルドの大剣を無造作にスイングしながら、流れのままに斬りつけてくる。それをうまく避けながら、わたしは銃で応戦する。斬る。撃つ。守る。避ける。撃つ。斬る。弾く。避ける。守る……まるでダンスの応酬みたいだなーと、高速ステップをふみながら、呑気に思う余裕もあった。


 ミネラルウェアだと、痛覚だけではなく、スタミナの感覚も無くすらしい。フワフワした非現実的な感覚の中、この終わることのないダンスの応酬を繰り返し、わたし達は競馬場の外周をグルグルと周り続けている。


 ふと、プロポーショングリッドの端のほうに、何かを捉えた。レーストラックの内側にあるソーラーパネルの陰に、誰かがいたような気がしたのだ。誰だろうこんな時に。さっきゴマスが虫一匹見逃さないと豪語していた割には、ツメが甘いじゃないかと思っていたが、何周目かで再度確認したら、今度はハッキリと明瞭な姿でそれは現れた。サトジョの制服を着て、背が高く、手先がキレイで、三つ編みポニーテール、肌が不健康なくらいに白い女の子……それは、ハジメの姿だった。


 いや、そんなはずはない。ハジメは観客席のほうにいるはずだ。じゃあ、あのハジメは誰?


「おい……なに、よそ見してるんだよ」


 気がつくと、網膜に写った巨大な矢印に、自分の左手が触れていた。そして間もなく、何度目だろうか、宙に舞うわたしの左手。


「おほー! またかー」


「おほーじゃないわよ! 呑気なもんね! とっとと、そのまま砕けろ!」


 左手を吹っ飛ばされた反動で、よろけたわたしに追い討ちをかけるように、もう一発、斬撃をお見舞いしようとする。未来のわたしが、剣を振るとき、脚が生えた大剣を一度、宙へ浮かす必要があった。


 その瞬間だった。


 周回しながら、わざとポロポロ落として、あらかじめ地面に設置しておいた、何個かのわたしのカーバイドクラスター……炭化カルシウムのグレネードに、何発かわたしの銃弾を着弾させ、地雷のように起爆させる。


 思った以上の爆発が起きて、未来のわたしは、宙に浮かせた大剣ごとバランスを崩し、発射が失敗したロケットミサイルのように、グルグルとソーラーパネルのほうへと突っ込んでいった。


 これで、倒したとは思わなかった。わたしは追い討ちをかけず、そのまま全速力で走り出し、未来のわたしからの距離をなるべく離そうとした。


 ナイター設備の照明によじ登り、鉄骨にわたしのスカートを巻き付けて固定させる。いずれ向こうも、プロポーショングリッドを使って、こちらに気づくのは、時間の問題だった。それまでが勝負だ。わたしは、ソーラパネルの方向へ、プロポーショングリッドの射撃管制ソフトを起動させる。


 いちかばちかだった。ぶっちゃけ、わたしのこの銃の射程がどれくらいか、未だ分からないけど、未来のわたしが何でもありな剣と盾を振り回してきたのだから、わたしのミネラルウェアとフラクチャードレスにも、賭けてみようと思った。


 ゴホゴホと、わたしは喉に違和感を覚えて咳をした。


「へえ……ハルは、その銃がスナイパー的な何かになると本気で思ってるの?」


「そんなの、やってみなくちゃ、分からないでしょ。ハジメ……ハジメ?」


 鉄塔の柱に、ハジメがチョコンと座っていた。縁側に座るように、両足をパタパタさせている、制服姿のハジメがそこにいた。


「ありえない」


「まあねー」


「幻覚?」


「そうだよー。ヒントを教えようか?さっきハルが未来のハルを蹴ったときよ」


 今、やっと気づいたけど、わたしの右足の膝に、小さな穴のようなものが空いていた。


「なにこれ……」


「蜂に刺されたのよ。エメラルドの蜂にね」


 わたしは、ハジメと思しき幻覚を無視して、プロポーショングリッドに集中する。ソーラーパネルの下に隠れている未来のわたしを捉えた。良かった、まだこっちの位置に気付いていないようだ。


 ゴマスは以前、ミネラルウェアは自身の無意識的願望を強化する器だと言っていた。それならば、わたしが強く願えば、わたしが欲しいものをこの場で生み出すことが可能のはずだった。


 ガチガチと、いつもの氷が割れるような音を立てながら、わたしの銃がソフトクリームのように、みるみる溶けていく。スカートの裾が、めくり上がり、裾の先端の繊維から、細長い銃のようなものが形成されていく。わたしのフラクチャードレスが、銃を転移させていたのだ。


 貝紫色の狙撃銃が、わたしの手元に迫り上がってくるときには、いつでも撃てる状態にあった。ふと、マガジンに装填されている銃弾がどのように形成されていくのを見てみたら、いつもの九ミリ真珠の弾丸ではなく、もっと細長く円錐状で、網目模様の攻撃的なデザインの弾丸……まるで、放散虫のような、美しい弾丸がそこに装填されていた。さながら、チャートバレットといったところか。


「へえー、やればできるじゃん。ハルは何でも出来ちゃう女の子だもんねー」


 黙れ。わたしは、未来のわたしの頭部を狙って、引き金を引く。


 キュンという、空気を切り裂く、軽くて、鋭い音がしたと思うと、未来のわたしの頭部に、弾丸が着弾し火花を散らす。間髪を入れずに、更に数発撃ち込む。


「そっこだあああなああっ!」


 着弾と同時に、そんな叫び声が聞こえた。そして、蜂の盾が羽を広げ巨大な矢印と共に、こちらに向かってきた。


 蜂の盾に、何発か狙撃銃で撃ってみたが、よろめく程度でびくともしない。


「ハルだったら、エメラルドゴキブリバチって知ってるでしょ? 見た目は、キレイな蜂なのに、名前ですごく損しているよね」


 蜂の盾が、鉄塔を叩き壊しながら、わたしに襲いかかる。崩れる塔から、わたしは飛び上がり、その場から逃げようとするが、蜂の盾がわたしに襲いかかり、腕に数発刺されてしまう。


「こんなキレイな蜂なのに、生きたゴキブリの体内に、卵を産みつけて、ゾンビ化させるなんておっかないよねー。チェストバスターかっつーの」


 レーストラックに着地した時、わたしの身体になにかの異変を感じた。まず、咳が止まらない。ミネラルウェアなのに咳だって? 蜂に刺された時、何らかの毒を未来のわたしから貰ったのだろうか。さっきから、プロポーショングリッドの調子も悪い。電波が悪いストリーミング映像のように、ノイズを発生させながら、動作がいちいち遅延していた。


「要は、最初に未来のハルに刺された時点で、ハルは負けていたのよ」


 ノイズの多い視界に入ったハジメが、あぐらをかきながら、何かを見ていた。


 何か……それは、競馬で馬を出走させる、横長で巨大なゲートの車だった。


「発馬機とも呼ぶよね」


 未来のわたしが、五トンを超えそうな発馬機を、発砲スチロールのように軽々と持ち上げながら、わたしにそのまま放り投げ、ぶつけようとしていた。


 銃の転移が間に合うだろうか。即座に狙撃銃を溶かし、いつものハンドガンに切り替える。考えてる余裕はなかった。ありったけの、弾丸をあのクソッタレ発馬機に撃ち放つ。


 ガガガガと、激しい炸裂音が轟き、火花が炸裂する。うん……どう、抵抗しても無駄そうだった。


「ところでさハル。わたしがさ、偉そうに、ハルのことを分かっているような事を言っているって言っていたよね。それってさ、ハルだってそうなんでしょ? ハルは自分のことも、わたしのことまでも、全然、なぁんにも分かってないじゃん」


「……クソッタレ」


 ハジメの幻覚の囁きと共に、わたしは、飛んできた発馬機に衝突する。二、三十メートルの飛距離を滑空し、地面に叩きつけられる。発馬機を避ける事も出来たが、毒が全身に回ってきたのか、脚を動かすこともできなかった。




 三秒。わたしは大体三秒後に、未来のわたし自身によって、わたしの一〇五が奪われるだろう。


 最初の光景に話を戻そうか。ハジメの幻覚がわたしの首を絞めている。奥の方から、未来のわたしが、わたしにトドメをさしに突進してくる。身体はベリリウムの毒で動けず、武器は弾切れ。うん、絶対絶命というやつだった。この状況なのにも関わらず、わたしときたら、何故か、冷静というか……冷めていた。ハジメの幻覚が言っているように、わたしはどこか、感情が無くなっているのかもしれない。


 ハジメの背後に、大きな満月が浮かんでいる。インクルージョンが言うように、あれも偽物の月なのだろうか。偽物ね……よくよく、考えてみたら、片腕が一本無くなっているというのに、痛みを、現実感が無いというのは、変な話だった。


「で、死ぬ覚悟はできた?ハル?」


「わたしもいつか死ぬ」


「そんじゃ……」


「でも、今日じゃない。中島」


 いつか言ってみたかった映画の台詞を借りて、中島を呼んでみた。


「はあ……なによ? っていうか、今のバトルシップの台詞でしょ? 好きなのソレ」


 案の定、中島がヒョッコリ現れる。時間が停滞し、世界がゲームのポーズ画面のようになっていた。


「こんな状態なんだけど、今すぐわたしを回復させて、あの鎧のわたしを中島のダイヤの矢で、粉々にぶっ飛ばしてくれない?」


「……それは、出来ない。これは、和嶋さんの因果律の戦いだから。我々、NNは和嶋さんに干渉する事ができない」


「だよねー……じゃあ、逆はどう?」


「逆?」


「まだやり方が分からないけど、このミネラルウェアの機能の……痛覚を無くすっていうやつ、今すぐ切って」


「はあ……はっ?」


「今、わたしの首を絞めてるハジメの幻覚が……わたしは、痛みを感じないから、感情がないって言ってるの。だから、わたしは痛みを感じたい。生きている実感を感じたいの」


「本気なの? 今、そんなことをしたら……」


「自殺行為だって言いたいんでしょ? まあ、こんな状況だから言ってるのよ、どっちみち、他に出来ることがないからね」


「けど……」


「いいんじゃないー?」


 ゴマスが、中島の肩をポンと叩き、ヒョッコリ現れる。


「我々インクルージョンは、EI内の観測が主目的の一つだからね。前例のないことは大歓迎よ」


「わたしはあなたたちの実験台?」


「ううんー、実験とかそういうのじゃないのー。個人的に興味があるだけー」


「はあー……わたしは断固反対です。痛覚フィルタリングを切れば、ただの生身の人になるようなものです。和嶋さんにどんな影響が……」


「じゃあー……ノブヨは和嶋さんに、楽になって死ねって言ってるのー?」


「はあ……はあっ? ってか、ノブヨって、言い方止めてください! わたしはただ……」


「四の五言わず、とっととやれ! ノブヨ!」


 わたしは、ノブヨに怒鳴る。ノブヨは、やれやれといった顔をして、わたしのお腹をコンコンする。


「はあ……今、処理をしたからね。一応、言っておくけど……覚悟はいい? 凄く痛いよ」


「心配してくれるの?」


「ち、違う……そういう訳じゃ……」


「ありがとうノブヨ」


「え?」


 時間の結晶化が解除される。わたしの首を絞めていたハジメの幻覚は、消えていた。


「ばぁか、消えてるわけねーだろ」


 ハジメの幻覚が突然、耳打ちをした。すると……何だろう……何て形容したらいいのだろうか。


 すごくいたい。


 それしか言えなかった。例えがうまく言えない。生理痛の何万倍以上の痛み。全裸で時速二百キロの硬球を全身で当たったような、衝撃と激痛。ぶっちゃけ、痛すぎて笑ってしまうくらい。恐ろしく後悔した。


 言いようもない痛覚がわたしを襲う。気絶したほうがマシな痛みだけど、わたしの身体……ミネラルウェアが、それを許さなかった。プロポーショングリッドが混乱しているのだろうか、視界が真っ白な光に包まれていた。


 白。それは、否定の色。


「なんで、ハルは生まれてきたの?」


 赤。それは、怒りの色。


「なんで、ハルは死を恐れるの?」


 青。それは、逃避の色。


「なんで、ハルは逃げないの?」


 黒。それは、虚無の色。


「なんで、ハルは諦めないの?」


 緑。それは、受容の色。


「なんで、ハルは認めないの?」


 このクソッタレな痛みをどうすればいいだろうか。いっそのこと、死んだ方がいい。よくない。いい。よくない。ああ……思考が可笑しい。可笑しいですって? ああ、ヤバイやばいヤバイやばい……ははは、わたしが壊れてしまいそう。


「いっそ、殺して」


「わたしが殺してあげようかハル?」


 わたしの至福点……ハジメとの思い出を。映画のチャプターメニューのように、チャネリングする。


 ハジメとの出会いを。


 ハジメとのデート。


 ハジメとのキス……。


 もっと色を。もっと感情を。もっと楽しみを。もっと痛みを。もっと悲しみを。もっと重さを。もっと喜びを。もっと光を。




「うん。わたしハルと付き合うよ。もしかしたら、こんな面白い事が、また起きるかもしれないからね」


「なんか、ハルって面白いね。わたしと同じで、だいぶ屈折してるよ」


「大丈夫だよハル……わたしはハルのことを見捨てたりしないし、わたしは見届け続けるよ。ハルのこと好きだからね」


「わたしね、ハルの至福点になりたいな」




「おーい! 何、しみったれた思い出で痛みを和らげようとしてるの? そんなの、まやかしに決まってるでしょ? ハルらしくないなー」


「……おい」


「なぁに? ハル」


「ハジメはわたしのことを、なんて、絶対言わないんだよ」


 わたしは、ハジメの幻覚の喉元に銃を当て、引き金を引く。ハジメの脳味噌が放射状にぶちまけられ、ハジメの眼球が、わたしの顔に当たる。当たったような気がした。


 この言いようのない怒りを誰にぶつければいいのだろうか。こんな、ふざけた幻覚を見せやがった、わたし自身にだ。


「わたしの毒の味はどう? 哀れね……最後は楽に壊してあげる」


 未来のわたしがそんな事を言っている。三秒、そして剣を振りかぶる。


「くたばるのはお前だよ」


 これも言ってみたかった台詞の一つ。プロポーショングリッドが回復し、目の前の網膜に、弾幕シューティングのような、無数の矢印が向かってくる。


「こりゃ、ボムだな」


 わたしは、イメージした。両脚をスカートで素巻きにして、ドリル状にする。わたしは、イメージする。それを巨大なチャートバレットに転移させ、射出した。


 まるで野球だった。未来のわたしが、それを慌てて打ち返そうとするが、捨て身のわたしの弾丸は、エメラルドの剣を砕く。


 わたしは、無我夢中だった。唯一残っている右手を使って、バネのように力を込めて飛び跳ねる。人間ロケットのように、未来のわたしへと吹っ飛んでいく


 未来のわたしは、蜂の盾を構える。虎の子の弾丸を撃ち尽くし、右手も瞬時に、チャートバレットにへと転移させた。


「え、え、えっ? ロケットパンチィッ?」


 わたしが、言いたかった事を、未来のわたしが絶叫する。


 わたしの渾身のロケットパンチは、蜂の盾を砕く。両手両足を紛失し、都市伝説のだるま女のようになったわたしは、口でさっき砕いた、エメラルドの剣の破片をくわえ、彼女の胸元に飛び込む。


「なあっ……あなたが、わたしだったら、分かるよね。人間が持つ、一番の凶器ってなんだと思う?」


「えっ……」


「ヴァカッ! 頭に決まってるだろ!」


 わたしは思いっきり頭突きをする。砕け散るわたしの頭部の一部と、未来のわたしの兜面。


「あとさ……2001年宇宙の旅って知ってるでしょ? ……お前は、わたし、じゃない、とっとと、クタバレ」


「えっ……えっ? イヤ……やめてえええっ!」


 わたしはくわえたエメラルドの欠片を彼女の頭部に叩き込む。


 何度もわたしは叩き込む。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も……。


「やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて……」


 そのふざけた口から、「やめて」と、二度と言えなくなるまで、わたしは、未来のわたしの頭部を破壊し、撲殺し続けた。首から上が粉々に砕け散り、ビクンビクンと、釣り上げた魚のように、両手両足をジタバタしていた。やがて、胸元に見覚えのある宝石が露出してきた。


「……一〇五」


 わたしは、一〇五を凝視する。相変わらず、虹色とも違うような、異様な色をしたプリンセスカットの宝石だ。不思議なことに、わたしはその色から目を離すことが出来なかった。一〇五の模様がウネウネと、斑模様状のなにかに変化していく。


 斑のひとつに、見覚えのあるものを見つけた。さっき、インクルージョンに見せられた正八面体の鉱物……エミュレーション・イミテーションだ。


 わたしの、意識が、一〇五の、中にへと、吸い込まれていく。


 そしてわたしは、どんどんどんどん、EIのトライゴン逆三角模様へと、まるで、ズームレンズで寄っていくように、わたしの視点が、プロポーショングリッドが、一〇五の中へと入り込んでいく。


 幾何学模様の黒い内包物のさらに、その先へとズームしていくと、内包物が何処かの衛星写真のように見えてきた。衛星写真のスライドフィルムが、層のように重なり合っていき、何十、何百、何千と……曼荼羅絵のようにも見えてきて、無数のスライドの中を、わたしは通り過ぎていく。


 ふと、一つの衛星写真に更に寄っていくと、どこかの島の、点々とした車に寄っていく。車に寄っていくと、ピントが外れ、視界がぼやける。再び、ピントが合ってみると、いつの間にか、わたしは見知らぬ車内の後部座席に座っていた。


「あ……そうか、負けたのか……わたし」


 運転席と助手席に、さっきまでわたしと闘っていた、十年後のわたしとハジメ……ハジメと思しき女性が座っていた。


 十年後のハジメは、今より色々と丸くなった印象だった。あの、三つ編みポニーテールではなく、ショートボブになっていて、眼鏡をかけていた。どうしてだろう、ハジメの顔は、ひどく落胆した表情を浮かべている。


 わたしと、未来のわたし以外の時間は停滞していて、異様な沈黙が、車内を包み込んでいた。未来のわたしが、ゴールデンバットに火をつける。


「十年後じゃ、ゴールデンバットも千円になっているのよ。ほんと、ふざけてるよね……ここはわたしのIRよ。一度、来たことがあるでしょ? わたしが、本来死んだ場所」


 車外にいる人々の様子が妙に慌ただしい様子だ。未来のわたしが、チョンチョンと空の方を指差すと、なにかが爆発したような、ボコボコした楕円形の黒い雲が、白い雲の谷間から覗いていた。


「日本では、はじめての有人飛行だったの。結果は見ての通り失敗だったんだけどね。ここは種子島よ。わたしがどうしても、宇宙ロケットの打ち上げが見たいからって、ハジメと一緒に来たんだけど……この有様」


 この有様。どういう意味かなと思ったけど、すぐにわたしは理解した。


 車のフロントガラスに、十円玉ぐらいの大きさの金属片が刺さっていた。いや……刺さっていたというか、貫通しようとしている途中みたいだ。


「これね……あの、クソッタレロケットの破片よ。大体、後は想像できるでしょ。これも、インクルージョンが言うところの、強い因果律ってやつ。あなたがわたしの一〇五を手に入れたから、こうやって、わたしの最後を見届けに来たというわけ」


「……相変わらず悪趣味ね。インクルージョンも」


「ホントになあ……因果律の同期化って、体裁のいいことをインクルージョンは言っていたけど、一度倒したわたしの分身の死に様を、もう一度見るハメになるとは、思わなかったよ」


「……二十二人だっけ? 今まで、わたしを倒した数って」


「そう、二十二。わたしのキルカウントは二十三人よ。はは……なんか、ジム・キャリーの映画であったよね、二十三っていう数字に翻弄される映画が……ほんとは、あなたを倒して、ハジメとこれから温泉にもでも入ろうかなーと思ったけど、もう、叶わないみたい……」


 未来のわたしが、ハジメの髪を優しく触る。


「随分と冷静ね」


「冷静というか……疲れちゃったのよ。ぶっちゃけ、どうでもよくなってきたの。あ、別に手を抜いた訳じゃないよ。全力であなたにぶつかった結果よ。だから、後悔はしていない。これは、別に死ぬという訳でもないから、わたしとあなたが一つになるだけ」


 わたしは、黙り込む。もうすぐ、何が起きるかは予想がついた。


「でも……やっぱり、アレだよね……死ぬのは怖いし、嫌だな……ね? ハジメ」


 未来のわたしは、声を嗚咽させながら、時が停滞している未来のハジメにキスをした。


「でも、少し安心したよ」


「なにが?」


「未来のわたしはまだ、ハジメを好きでいる」


「ふふ……まあね、でも何度か、別れたりで大変だったんだからね……今、こうして付き合ってるのも、酒を飲んだ勢いなんだから」


「……うん、覚悟しておく」


「ねえ」


「なに?」


「インクルージョンを完全に信用しちゃダメよ。だってあいつらは、わたしたちを……」


 わたしに、言いかけた瞬間、フロントガラスの破片が突き破り、未来のわたしの頭を突き破る。


 不安定な時間の中、ゆっくりと、破片が、未来の、わたしの、頭を、貫く。


 血に浸した破片が、運転席の後方から飛び出してきて、わたしをも貫こうとする。けれど、破片はわたしを貫かない。貫こうとするが、貫けない。わたしの視点の四隅が、ピンホール写真のように、狭まる。破片がわたしを追いかけるが、わたしはどんどん、座っている座席に引っ張られる形で、遊園地の乗り物のように後退していく。


 まるで、未来のわたしの世界そのものが縮小し、消失し、削除されていくよう。


 いつか、真っ暗なトンネルに入ったように、車内の風景は遙か彼方に消え失せ、破片だけがわたしを追いかけ続ける。破片がどんどん、別のなにかに転移していき、それが、一〇五だと分かると、じゃあ、わたしが今いるココはどこなのだろうという疑問がわく。そんな事を思ったら、一〇五がわたしを……貫いた。


「ハル!」


 目覚めると、ハジメがわたしを抱き抱えていた。わたしの意識は競馬場に戻っていて、側にはゴマスと中島が、わたしを見下ろしていた。


「じゃ、引き継ぎは完了したから。後は任せたわよ……」


 そう言って、ゴマスの手のひらに乗せられたインクルージョンのペンダントが、粉々に砕け散る。


「おかえり……ハル」


「……ただいま、ハジメ」


 中島が修復してくれたのだろうか、いつのまにか、わたしの身体は元の姿にへと戻っていた。


「ハジメ……今度は本物だよね?」


 修復された右手を使って、わたしは、ハジメの胸をもんだ。


「もう……ハル、本物に決まってるでしょ……うん、いいよ。好きなだけもんでいいからね」


「おめでとうー! そして、お疲れさまー! これで、和嶋さんが手にすべき一〇五は、残り四つよ。何か欲しいものとかあるー?」


「……今は、色んな事が起きすぎて……とにかく寝たいわゴマス。熱い風呂に入って、ふかふかのベッドで寝たい。ハジメと一緒にね」


 そう言って、わたしは、ハジメの胸元へと飛び込んだ。

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