チャプター2 This Dying Soul
午後六時ちょうどぐらい。いつも自宅から見ているこの眺め……地上四十階から望む、わたしが住む街、ガスで蜃気楼のように霞む都心、スカイツリー、うっすらと浮かんでいる丹沢の山々から富士山まで見えるこの景色が、わたしは大嫌いだった。
けれど今、わたしはハジメと付き合っているということだけで、ここの眺めが好きになっていた。なぜなら、わたしが今立っているこの場所こそが、わたしとハジメとの、思いでの場所だったから。
わたしの目の前に、飛行機のエンジンと思わしきものが突っ込んできている。「思わしき」というのは、わたしは飛行機のエンジンというものをじっくり見たことがないからだ。煙を上げて、高速回転しているタービンを見ながら、「ああ、飛行機のエンジンかも」と、そして「飛行機のエンジンがわたしに向かって突っ込んでくる。四十階にいるわたしの自宅に向かって……うん、ありえない」と思った。
「そう、ありえない」
誰かがそう言ったような気がした。「ありえない」そう思っただけで、二秒ぐらいの出来事だった。ワン・ツー・フィニッシュ。そう思った束の間、わたしはふと、過去を思い返していた。過去の人生のフラッシュバック。走馬燈というやつを。
だから、あなたもわたしの二秒間に付き合ってくれない?体感速度はもっとずっとずっと、長いかもしれないけどね。
簡単な自己紹介をする。わたしの名前は和嶋治、十七歳。親しい人から、ハルとよく呼ばれている。私立里見女子高等学校、通称、サトジョの二年生で、生徒会長をしている。部活は写真部で、同じ部活の後輩、ハジメと付き合い始めてまだ間もない。
ここはわたしの自宅。JR市川駅から、ほぼ直結しているタワーマンションの四十階に、宝石商を営む母親と二人で暮らしている。
母は何度もインドやアメリカへ出張に行くせいで、ほとんど、わたしの一人暮らし状態に近かった。地上百四十メートルの眺望が独り占めできるから、羨ましいと思うかもしれないけど、実際、眺望なんてものは、数年もいれば飽きてしまう。
自慢だって? いやいや、実際、タワーマンションに住んでみれば分かると思う。通学時の朝なんて、エレベーターが込み合ってなかなか乗れないし、無駄に高いところに住んでいるせいで、気軽に買い物に行く気も失せる。なによりも地震だ。震度四ぐらいでも、船に揺られるような、ゆっくりとした揺れが、わたしは苦手だった。
地震の揺れで気持ち悪くなり、ゲロを吐いたこともある。それに慣れてしまったのか、わたしは地震で常にゲロを吐いてしまうのだ。震度が弱いか強いか関係ない。
そのせいで、マンション以外の場所で地震が起きようものなら、わたしは真っ先にトイレへ駆け込む癖が付いてしまった。情けないことに、学校でも授業中とかに地震が起きようものなら、わたしはゲロを堪えるのに必死で、地獄以外のなにものでもなかった。
だから、わたしはここでの暮らしに、あまりいい思い出がないし、大学へ進学したら、とっとと、ここから出ていきたかった。
もうすぐわたしは十七歳になる。今年で十七年……人によるけれど、まだたった、十七年しか生きていない。振り返ってみれば、敷かれたレールを超特急で駆け抜けたような日々だった。国立の名門幼稚園に入り、そこから付属小学校、中学校へトントンと進学する。
わたしが小学校の頃、両親が離婚し、母がわたしの教育に熱心になり始め、わたしもそれに素直に従った。素直に従っただけだった。妙に物覚えが良かったせいなのか、学校の成績は良く、テストの順位でも、一桁代をキープし続ける。このまま、東京の名門高校の推薦を貰い、進学していた筈だった。
母へのささやかな反抗だったのかもしれない。わたしは推薦を蹴り、サトジョへの特待生制度に応募していた。特待生になれば、入学金、授業料などの学費が免除される。別にわたしの家がお金に困っているわけではなかった。ただ、わたしの力だけで、高校に進学できたということに対して、母から優越感を得たかったのかもしれない。
わたしは特待生として入学したいと、母に反対されるのを覚悟して言ってみたら、「あら、そう。いいじゃないの」と、二つ返事で承諾してくれた。あまりにも、あっさりした反応だったので、何だかとても素っ気なく、つまらなかった。
サトジョも県内有数の進学校で、結局のところ、ここでも勉強が出来るヤツが、スクールカーストの上位に昇っていくシステムだ。高校から、中学とは比べものにならないくらいに勉強のレベルが上がり、わたしは今まで以上に、勉強に追われてしまう。テストの順位が一桁でも、わたしの後ろから、わたしを追いこそうとする人間がごまんといると思うと、どうしても耐えきれなかった。
ストレスが溜まっていく一方だった。というか、わたしは常にストレスを備蓄していた。学校では当たり障りのない優等生でいようとしたせいかもしれない。そのほうが、トラブルもなく、平穏でストレスのない高校生活を送れると思ったからだ。
上辺だけの表情、仕草、会話。友達と呼べるものはいたが、それも上辺だけの友達で、学校の外に出れば赤の他人だった。思ってみれば、わたしは小学校から本当の友人というものを作ったことがないかもしれない。
一度付いたキャラのレッテルというのはなかなか離れないもので、私が演じた優等生というレッテルは、生徒会長という地位にまで、持ち上げられてしまった。
「生徒会」
はじめは不純な動機だった。漫画やアニメの見すぎだったのかもしれない。学校内で絶対的な権力と力を持ち、生徒をアゴでこき使う。うん悪くはない。表の顔は誰もが認める優等生、裏の顔は学校を支配し、女生徒を女王様な感じでコントロールし、恐怖政治を行う女畜生。そんなわたしの姿を少しは憧れていた。でも実際、生徒会のやることといえば、書類、会議、計算、パソコンとのにらめっこ。退屈な事務作業の繰り返し、悪く言えば、学校のパシリ的な役目ばかりだった。
理想と現実のギャップ。皮肉だった。本当はストレスを溜めたくないが為に、優等生を演じていたはずなのに、わたしのストレスは溜まる一方だった。
その反動のせいかも、わたしはそのはけ口を娯楽に求めていた。娯楽と言っても、わたしの場合は、スポーツとかアウトドアな趣味のほうではなく、映画や音楽、アニメ、ゲームなどなどのインドアな趣味に対して、無心に欲していたのだ。
元々、本を読むのが好きだったせいかもしれない。わたしはフィクション、物語というものに対して、サプリメントのように摂取しないとダメな女だった。一種の現実逃避だ。フィクションであれば、ゲームであろうと、音楽だろうと媒体は関係なかった。
そのときだった。わたしと同じように、無性にフィクションを摂取したがる同類がいたのに気付いたのは。
火曜日だった。いつもわたしが通うレンタル屋は、火曜日の日に割引セールがやっている。わたしはこの日を狙って、大量の映画とアニメと漫画とCDを借り漁る。
いつも同じ時間、同じ場所に、同じ女の子がいた。歳は私と同じくらいだろうか。サトジョの付属中学の制服を着ていた。眉毛のあたりの掘りが少し深いボーイッシュな顔立ちで、背が大きく、髪形は三つ編みポニーテールで、肌が不健康なくらいに白い女の子だった。
そして、手だった。指がピアニストのように、すぐ折れそうなくらい繊細で長い。その手で、同い年なら、わたし以外絶対見ないであろうし、一般の人でもあまり手をつけないはずの、アサイラム製のB級サメ映画のパッケージを取り出しているのを見て、わたしは強くシンパシーを感じた。サメ映画だけじゃなく、ホラーやアクション映画などなど、彼女は女の子なら、絶対取るはずのない映画を選り好みして借りていた。つまり、趣味がわたしと丸かぶりだったのだ。
そんな彼女の姿を見て、わたしは胸のあたりが、強くキュンと締め付けられたのを感じた。これが初恋という感情だったのかもしれない。わたしの感情を強く揺さぶったその相手が鈴木一……ハジメだった。
気が付けば、翌週、わたしはハジメのあとをつけていた。ハジメが借りた同じ映画を、アニメを、漫画を、音楽を、翌週、わたしは借り続けていた。とにかくハジメが見て、聞いたものを同じように共有したかった。時々、クソみたいなものを借りさせられたら、お返しにハジメが見ているオカルト海外ドラマを中途半端なところからわたしが借りて、ハジメを困らせていたりしていた。
わたしが本屋で「ムー」を立ち読みしに行こうと思えば、ハジメは「ムー」をわたしより先に読んでいたり、CD屋で気になるアルバムを視聴していたら、すれ違いざまにハジメがわたしの聴いていたアルバムを視聴していたり、気になる映画があれば、ハジメはわたしのすぐ近くの席に必ずいた。
えっ? わたしがストーカーだって? 違うわよ。彼女の好みに合わせていたら、自然とわたしと彼女の行動パターンが一緒になっていただけ。徐々にわたしがハルの趣味に似てくることに関して、嬉しかったのは事実だけどね。
ハジメが高校に上がってくるのがとても待ち遠しかった。入学式の挨拶で、前のほうにいるハジメの姿を見つけたとき、わたしは喜びが隠せなかったのか、いつも仏頂面で、つまらなそうな顔でスピーチするわたしの顔が、気持ち悪いくらいに満面の笑みだったらしい。
「なんかいいことあったの? あんなに嬉しそうにして」
そんなわたしの顔を見て、苦笑いを浮かべた小麦色の肌をしたショートカットの同学年……上舘芳美。副会長のヨシミは、生徒会長室に戻ったわたしに、心配そうな顔で尋ねた。
ヨシミは生徒会として一年生の頃からの付き合いだった。陸上部と生徒会を掛け持ちしており、のんびりした優しそうな顔からは想像できないくらい、足が速く、短距離でインターハイに出場するぐらいの実力を持っている。陸上選手らしく、体格が引き締まっているのにも関わらず、体重はすごく軽そうだ。
「ううん。ちょっとね……」
わたしは浮かれていた自分に反省する。
「へえー、ハルがね……珍しー」
ヨシミは、電気ケトルに水を入れ、お茶を入れる準備をしている。わたしが甘党なのを知っているのか、いつもわたしのカップに大量のスティックシュガーを投入してくる。
「え? そんなに?」
「あ、ゴメン!入れすぎた?」
「いえ、そうじゃなくて……わたしいつも、そんなに嬉しそうな顔していなかったけ?」
「うん。いつものハルは嬉しそうというか……そんなときの作り笑い感がハンパないけど、今日のハルの顔は本当の笑い顔だったよ。なんか、恋でもしたようなカンジ……」
「ふーん……ヨシミはしたことがあるの?恋ってやつ」
「あるよ、部活でね。女子校とはいえ、大会とかで異性と接することも多いから……なに茶にする?」
ヨシミはティーパックのアソートをわたしに見せつける。
「じゃあ、ローズヒップで」
「ローズヒップ? ハル、すっぱいの苦手じゃなかったけ?」
「最近、飲めるようになっただけよ」
ハジメは超が付くほど、すっぱいものが大好きで、マイレモンシロップ、マイ酢昆布、マイカリカリ梅を持ち歩くほどだ。偶然(本当に偶然だから)、ゼリ屋にいる彼女が、紅茶に大量のレモンシロップをレーザービームのように、投入しているのを見ていてから、わたしもハルの好みに近づく為、苦手だったすっぱいものを克服しようと、色々挑戦していた。
ヨシミが入れたローズヒップティーは、砂糖を入れすぎたのが原因なのか、甘さと酸味が大喧嘩したような味で、正直言ってマズかった。でも、ハジメの好みに合わせる為、やむを得ないと思った。
「はぁ、部活ね……彼氏作るためになにか入ろうかな」
「柄にもないこと言うわね。はじめからそんなつもりない癖に」
「バレたか」
「バレバレだよ。まあ、ハルぐらいの運動神経なら、うちの部はいつでも大歓迎だけどね」
大歓迎だって? 嘘つけ。ヨシミは数少ない、わたしの本性を知っている人間のような気がする。わたしが恋愛対象、性的対象として男性ではなく、同姓のほうが好きなことも知っていると思うし、わたしがヨシミのことを「そういう目線」で見ていることも、うすうす感じていると思う。それが、わたしとヨシミとの壁になっていた。学校では、生徒会を支える会長と副会長の屋台骨。お互いをタメ口で談笑し、ときに喧嘩もする。他の生徒から見れば、友人以上の堅い絆で結ばれていると思われているが、実際、学校の外へ出れば、わたしとヨシミは赤の他人同士に近かった。お互いのメアドと電話番号は知っているけど、プライベート的なことで連絡したり、話したこともないし、ヨシミとどこかへ遊びに行ったことさえない。
わたしが優等生を演じているという腹黒さ、同姓が好きだという面倒くささ、それがヨシミがわたしとの壁を作っている原因で、お互いにそのことで気を使いすぎていたのかもしれない。
「でもそれって、カミングアウトしてもいいじゃないんですか?」
ハジメはいつも通り、紅茶にレーザービームのような感じで、レモンシロップを投入していた。場所と時間を変えよう。ゴールデンウィークの直中。わたしとハジメが晴れて付き合うことになり、部活動に必要なものだというので、わたしが使うカメラを中野や新宿にある中古屋でハジメの案内で買いにいくこととなった。実質、わたしたちの初デートというやつだ。一通り、目的のカメラを購入したわたしたちは、中野のパンケーキが美味しいと評判のお店で一休みしていた。話の流れで、わたしの生徒会の話になり、ヨシミとの関係をハジメに相談していた。
「え、どうしてそう思うの?」
わたしはハジメに負けじと、大量の砂糖を紅茶に投入していた。
「問題ないと思うからかな……上舘先輩に、ハルは女性が好きだということを言っても、本当のわたしは、頭のいい子ちゃんを演じている痛いコスプレ趣味のサブカルクソオタク女でぇーす。と言っても問題ないと思うよ。上舘先輩とはわたし以上に付き合い長いんでしょ」
「……いい子ちゃんを演じているのは、否定しないけど。痛いコスプレ趣味のサブカルクソオタク女は撤回しろ」
「いや……撤回しないよ。第一、今日のハル、なんなのその格好……」
今日のわたしの格好は、勝負服だった。ハジメとの初デートだったから、気合いを入れてみたのだ。十九世紀ヴィクトリア朝の禁欲的ファッションをこよなく愛するわたしは、通販で買ってから、クローゼットにしまったままのロングドレスを着てみた。正にわたしの初デートにふさわしい、ドレスコードだと思った。ドレスだけにね。
ハジメとの待ち合わせのとき、出会い頭、「なんじゃこりゃ!」と、言われてしまい、ハジメにどん引きされてしまった。とてもショックだったけど、ハジメは珍しいものを見るかのように、わたしが買い物をしている姿をよく写真に収めていた。
「……まあ、ファッションに疎いわたしが言える立場じゃないけど……ハル、そういうところとかを、もっとわたしだけじゃなくて、他の人にも……上舘先輩にも言ってもいいじゃないかなーっていう話よ。向こうも感づいているなら尚更……」
「うーん……ヨシミとハジメは違うのよね、カミングアウトするにしても……」
ハジメはすごくすっぱそうな紅茶を受け皿に置き、苦い顔をする。
「ハル。そのままだといずれ駄目になるよ。わたしが言える義理じゃないけど、たぶん駄目になると思う」
「そうかな」
「そうよ」
ハジメは真っ直ぐな目でわたしに言う。ああ、真剣にわたしのことを思って言っているんだな。と思うと、何とも言えない気持ちよさを感じる。
「ところで、ハルはどうしてそんなに甘党なの?」
「うん? なんで今、そんな質問をするの?」
「昨日、テレビで見たのよ。砂糖を取りすぎると、体に悪いってね……ハルのいい子ちゃん病より、わたしはハルが将来、糖尿病になるのが心配だよ」
「……それは、わたしの至福点を探しているからよ」
「至福点?」
「とある有名な炭酸飲料を作るメーカーが統計的に取決めた、人間が一度にどれくらいの糖分量を接種することによって幸福を感じるかの基準値。それが、至福点。その基準を超えると、その飲み物は売れないし、それ以下の糖分量でも売れない。砂糖ってね、快感中枢が刺激されるエンドルフィンとセロトニンがドバドバ分泌されて、合法的に快感を得られるドラッグみたいなものなのよ。菓子、飲料メーカーはその中毒性を隠しているけど、砂糖にはデメリットが大きくあるのよ。空腹でもないのに、デザートを別腹と言って、甘いものが無性に欲しくなるのは、砂糖による血糖値が上がっている証拠。血糖値を下げるインスリンが大量に分泌されて、脳が空腹だと勘違いしているだけなの。それが別腹の正体」
「……それが、ハルの甘党とどういう関係があるの?」
「わたしはね……甘いものを食べたり、砂糖を大量に接種しても、幸福を感じられなくなったのよ。初めは勉強とかのストレスでよく甘いものを食べていたけど、それが癖になっちゃったのかもしれない。わたしやハジメが、常にフィクションを摂取しないといけないと同じで、中毒ってやつかも。いつか、わたしの体が慣れちゃってね、いくら食べても、飲んでも、わたしは幸福とかリラックスとかを感じなくなっているような気がしたの。だから、わたしの至福点はどこなのか、どこまでわたしは砂糖を接種できるのか、ただ試しているだけ。体に悪いのは分かっているよ。いい子ちゃんぶってる、わたしなりの軽い自傷行為……じゃ、大げさかな……まあ、タバコみたいな感じよ」
わたしは一気に甘党の理由を話してみた。ハジメは少しポカンとしていた。また、引かせたかな。と、思ったらハジメはヒヒヒと笑う。
「なんか、ハルって面白いね。わたしと同じで、だいぶ屈折してるよ」
「そ、そう?」
屈折してる。そう言われて、わたしは少しムカッとしたが、同時にとても嬉しかった。
「女の子は砂糖とスパイスと素敵な何かでできている。って、マザーグースで言っているけど、正にハルはその通りかもしれない」
「ちなみに、男の子はカエル、カタツムリ、子犬の尻尾よ。なんなのこの差はってね……。女の子のほうが苦労が多いから、砂糖とスパイスで出来ているっていう話は少し納得できるけど」
ハジメはわたしの紅茶にレモンシロップをレーザービームのように注入する。
「まあ、砂糖だけじゃなくて、ビタミンも取れや。砂糖よりは体にいいぞー。わたしはビタミンとスパイスと素敵なビタミンで出来ている女の子だからねー」
「あら、ありがとう。ビタミン二回言っている女の子さん」
「ハル、だからさ、話すべきだと思うよ。さっきわたしに言ったことを同じようにね。面白いもん。上舘先輩もきっと笑ってくれるよ」
「……考えとく」
わたしは小さい声でそう言った。
その後、乗り換えが面倒だと、中野から一本で千葉に帰れる総武線に乗りながら、わたしは寝ているハジメに一つ提案してみた。
「ねえ、ハジメ。わたしのウチに来ない?」
「ふぇっ?」
よだれを垂らしているハジメは、ビクっとしながら、起き上がる。それがとても可愛かった。
「何だって?」
「だから、わたしのウチに寄らないかって話」
「いいの……っていうか、家族に迷惑なんじゃ……もう、夕方だし」
「ううん。たぶん大丈夫だと思うよ。駅から近いし……ね?」
「うーん……でも」
「大丈夫、大丈夫。絶対、何もしないから」
「ハル……それって、絶対信用できない奴が言う台詞だよ」
わたしは半ば強引にハジメを引っ張り、市川駅に直結しているわたしのマンションへと連れていく。わたしの住んでいるマンションをポカンと見上げているハジメが、ボソッと言った。
「ハルさん。ひょっとして、ひょっとしますけど……ここの何階にお住まいでしょうか?」
なんで敬語なんだ。「四十階」とわたしは、はっきり言う。
「よんじゅっ! えっと……ひょっとして和嶋家って勝ち組なのっ? 負けたっ? 負けたー!」
ハジメは、フロントからエレベーター、自宅の玄関前に来るまで「負けたー!」という台詞を十回ぐらい吐き出していた。
「大げさじゃないの?」
「大げさなもんか。こんな高層階億ションに住んでいるのは、外国人の成金ぐらいかと思っていたからね……実際、住んでいる人間がわたしの目の前にいるとは……わたし自身の格差とか劣等感で色々、へこむわー。容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群、みんなから頼りにされる生徒会長が、更にブルジョワとはね……なんという……なんという絵に描いたかのような完璧さ。これで、いい子ちゃん振った痛いコスプレ趣味のサブカルクソオタク女じゃかったらな、更に完璧なのに……」
わたしは無言で、ハルに空手チョップをする。頭にクリーンヒットしたハジメは、「ふぎゃあ!」と、猫の悲鳴みたいな声をあげた。
「わたしから言わせてもらうけど、ハジメの住んでいる一戸建てのほうが、ここより充分羨ましいんだから」
「ハア……そうですかー」
わたしにチョップされたハジメが、ふてくされたような返事をする。
「あれ? ハルちゃん。今日は友達連れてきたの?」
家に帰ると、母が出かける準備をしていた。大きなトランクに荷物を詰め込んでいるということは、これからまた海外へ出張なのだろう。香水の香りが、やけにキツい。
「あ、ど、どうもはじめまして……鈴木一と申します。突然、お邪魔してすみません」
ハジメが慣れない感じで、母に挨拶をする。
「ハルがいつもお世話になってるわね。話はつねづね、ハルから聞かせて貰っています。色々、面倒臭い子だと思うけど、仲良くしてやってね……本当のところ、お茶とか出したいところだけど、見ての通り、また出なくちゃいけないところでね……たぶん、このおてんば娘が、その場の思いつきでここに連れてきたんでしょ。今はなにも出せずにごめんね」
母はそう言うと、早々と自宅を後にした。昼夜問わず、いつも忙しそうで、以前、母と一緒に過したのは、何日前だっただろうか。と、しばらくわたしは思い出そうとしていた。自宅に連れてきたのが、ハジメではなくて、どこかの男だったら、母は一体どんな顔をして、どんな態度を取るだろうか。困惑するのか、それとも、さっきみたいに、何事もなかったように、とっとと仕事へ向かうのだろうかと、わたしはふと考えた。
「ハルってお母さん似だよね」
「そう?」
「うん。なんか年を取ったハルって感じだよ」
「……わたしはそんな自覚はなかった」
「お母さんって、なんの仕事しているんだっけ?」
「宝石関係よ。ネットやテレビでよく見る、ダイヤや真珠のネックレスとかの卸をやっている会社の社長なの。たぶん、今日も香港へ飛んでいったのよ。しばらく帰って来ないと思うから、しばらくわたし一人で、留守番」
「うーん……こんな、いい眺望のマンションを独り占め……うらやまけしからんな……って、今、しばらく帰って来ないって言いました?」
わたしは、リビングの扉を素早く、そして静かにパタンと閉める。
「あ、バレたか。そう、いわゆる二人きりってやつよ」
「あーハイハイ、そうかそうか、うんうん、そんじゃ、お邪魔しましたー」
ハジメはトコトコと帰ろうとする。そんなことだろうと思って、あらかじめ、ハジメの靴を隠しておいた。
「おい! 小学生のイジメみたいなことしやがって! 靴をどこにやりやがった!帰らせる気ゼロだろ!」
「まあまあ。そんなことより、この衣装着てみない?わたしには大きすぎるけど、ハジメには絶対似合うと思うのよー」
わたしは、クローゼットから何着かのロングドレスをハジメに見せる。本当の目的はハジメにわたしのような格好をして欲しかった。だから、この為に今日、カメラも買ったのだ。
「あんだけ、幽霊やUFOを撮るのはフィルムかポラロイドに限ると言っていたハルが、迷わずデジタル一眼を買ったのは、最初からこれが目的だったのね……」
「うんうん。そんで、着てくれる?」
「わたしを撮ってどうするの?」
「今夜のオカズにするぜ!」
「断るっ!」
「そんなー!」
ハジメは衣装をわたしに投げつける。わたしは、ハジメの膝を掴んで引き留めようとした。
「また、この流れ? 今度こそ、蹴り飛ばそうか? 金色夜叉みたいに!」
「交換条件があるの! これ着てくれたら、ハジメが好きなの! おいしいの奢るから!」
ハジメの動きがピタリと止む。
「……ほんとに?」
「ええ、相応の物を奢るから!」
「……じゃあ、梅干し買って。梅干しっても二十年物の梅干しね」
「え……梅干し? そんなもんでいいの?」
わたしがそう言うと、ハジメはスマホでなにかを検索し、わたしに見せる。
「え……うわっ、十粒で六千円? なにこれ、ワイン?」
「これ買ってくれたら、やってもいいよ」
「……見返りが梅干しって……ハジメらしいといっちゃ、ハジメらしいけど、六千円の梅干しって……たかが、梅干し、されど梅干し……」
「イヤなら帰る!」
「ああ! クソったれ! 分かったわよ!」
結局、わたしは六千円の梅干しで、ハジメとの取引に応じた。その後、わたしはハジメに私物のドレスを色々着せてみた。ドレスは大方、通販で買っているものなので、中にはわたしには大きすぎるものがあったりした。それをハジメに着せてみたら、ジャストにシンデレラフィット。背が大きく、スタイルがいいハジメには、鼻血が出るほど、似合い過ぎていた。今日、買ったカメラの使い方をハジメから教わりながら、わたしはハジメのドレス姿を撮影してみた。家にあるもので、スタジオ撮影の真似事ができるらしく、使い終わったカレンダーをテープで繋いで、大きなホリゾント幕を作ったり、デスク用のスタンドライトの弱い光量だけでも、光を当てる位置で、被写体の印象がガラリと変わることなど、ハジメはわたしの知らないことをどんどん教えてくれた。
「背景がつまらないと思ったら、ドライアイスとかあればいいのに……レンズの目の前でモクモクさせれば、ソフトがかった、いい雰囲気の写真が撮れるんだけなー。ゴスロリだし……妖艶なものが撮れるんだけど」
「煙草ならあるよ」
「え? ハル吸ってるの?」
「うん、時々、母親がカートンで買ってるから、こっそりくすねているの」
「へー」
「以外と思った?」
「いいや、これまでのハルの所行から考えると、あんまり驚かないよ」
ありきたりな表現かもしれないけど、わたしにとってそれは、至福の時間以外のなにものでもなかった。ハジメにドレスを着せるこの時間。ハジメと一緒に撮影をしているこの時間。ハジメからカメラを教わっているこの時間。ハジメにコーヒーを入れてあげるこの時間。ハジメとケーキを食べる時間。ありとあらゆる時間が、一瞬に過ぎて、そして惜しく、たまらなく至福の時間だった。
わたしたちが夢中で撮影をしていると、部屋の中が薄暗くなり、外の景色はすっかりと、橙色に染まっていた。一通り、撮影を終えたわたしたちは、窓際にソファを持ってきて、夕暮れの街を見下ろしながら、ハジメの爪を磨いていた。一度でいいから、わたしはハジメの綺麗な手先の爪を磨きたかったのだ。
「ハジメって、どこからカメラの知識を得たの?」
「んー? そうだな……気がついたら知っていたのかな。カメラとか写真は好きだったし、ネットとか雑誌とか読んでいたら、気がついたら知っていたの。こういうのって、知ろうとするより、気がついたら知っていたほうがいいし、楽しいでしょ」
「オタクになるのもそう」
「気付いたときには、もう遅いんだよねー」
「……わたしが、ハジメのこと好きになったのもね」
「……うん、そうだね」
わたしがそう言うと、ハジメが笑うのを止め、真剣な顔でわたしに詰め寄る。
「ねえ……一度、真剣に聞こうと思ったんだけどさ。ハル、なんでわたしなの? なんでハルはわたしなんかを好きになったの? 他にも素敵な人はいたでしょ?」
わたしは、爪とぎ用のグラインダーを止める。そして、眼下の景色を眺めた。
「わたしね……ここから見える、景色が嫌いだったのよ」
「そりゃ、贅沢な悩みで」
ハジメは鼻くそをホジる仕草をする。
「うん本当に贅沢よね。でも、嫌いだったのよ。高所からの眺望って、たまに見るからいいものなのよ。ずっとこの景色を見てると、人を俯瞰してばかりで、見下したような気分になるの。お高くとまる。ってやつね。わたしがこんな屈折した女の子になったのも、この景色が原因の一つかもしれない」
「でも今は?」
「うん。わたしはこの景色が好きになった。ハジメと一緒に見ているこの景色がね、今好きになったの。第一、誰かを家に呼んだのも、ハジメが初めてだしね」
わたしは入れたてのコーヒーを一気に飲み干す。砂糖を入れるのを忘れてしまい、そのコーヒーはとても苦かった。
「なんでハジメが好きになったかって? うん。正直言うと、理由なんてないし、そんなもんどうでもいいのよ。わたしたちが、オタクになったのと同じ。気付いたときには、好きになったんだから。ハジメが、レンタル屋でサメの映画を借りたときから、フェスや学校でハジメの姿を見つけたときから……他にも素敵な人がいた?」
わたしはゆっくり首を横に振る。
「ううん……わたしにとって、ハジメだけよ。それ以外なんて考えられない」
そのときのわたしの顔は、恥ずかしさで真っ赤だったかもしれない。わたしの告白を聞いたハジメも真っ赤だったからだ。少し気まずい沈黙が流れた。わたしは気を取り直して、ハジメの爪を磨こうとしたときだった。
「至福点」と、ハジメがボソっと言った。
「ハルにとって、わたしは至福点ということなの? さっきの砂糖の話で思い出したけど」
ハジメの口から、思いがけない言葉が出てきた。
「え……うーん、そうかもしれない」
「ハルは幸せ? わたしと付き合って、今、幸福に感じている?」
「うん」
「大量の砂糖を接種する以上に?」
「うん」
「そっか……じゃあ」
わたしが頷くと、ハジメはわたしにいきなりキスをした。ときどき、ハジメは予想外の行動をするけど、この行動には本当に驚かされた。たぶん、わたしにとっても、ハジメにとっても、これがファーストキスに違いないだろう。いや、そうじゃないと困る。
「キスの味って、レモンの味がするって言っていたのに……あれは嘘なんだね」
「どうして?」
「酸味好きとして言わせてもらえば、全然、酸っぱくないし、どちらかというと、スープの味だね。コンソメの」
「いや……そうじゃなくて、なんでキスを?」
「……え? わたしたちって、付き合ってるんだよね?」
「でも……いきなりで……なんか驚いちゃった」
「へえー、ハルでも驚くんだー?」
ハジメは意地悪な顔をする。ハジメはわたしの唇に、人差し指で触れる。
「これは、お礼よ。こんなわたしを誘ってくれたお礼。だって、こんないいロケーションで撮影できて、美味しい紅茶にケーキ、高台の夜景を望みながら、ハルとファーストキス。……うん、これ以上、恋人同士の贅沢ってないでしょ。だから、わざわざ誘ってくれて……ありがとね、ハル。わたしね、ハルの至福点になりたいな……って」
顔を真っ赤にしてハジメはそう言った。そしてこれ以上、言葉はいらなかった。わたしたちは、もう一度、キスをした。ゆっくりと、長いキスを。その瞬間、わたしは時間が止まって欲しいと心から願った。わたしにとって、キスの味は、甘いイチゴ味かと思っていたが、確かに、ハジメの言うとおり、なにかのスープの味に似ていた。優しいスープの味に……。わたしの至福点が絶頂に達しようとしていた。
ふと、わたしは窓のほうを見る。飛行機のエンジンと思わしきものが、わたしに向かって飛んでくる。不思議なことに、ハジメとファーストキスをした同じ場所にわたしはいたのだ。
あれから一ヶ月経った六月の頭。その日は、梅雨の時期にしては、珍しく晴れている日だった。
生徒会の簡単な事務作業を終え、学校から帰宅したわたしは、いつもどおりの日課で、勉強をしていた。午後五時頃から八時までの三時間、小学校一年生のころから、十年近く、特別な時を除いて、必ずこの日課を毎日繰り返している。わたしは集中力がいいのか、この三時間は、脇見も振らず、がむしゃらに勉強ができていた。ある意味、わたしがこうして勉学でトップになったのも、この三時間を繰り返し、サボらずに持続したおかげかもしれない。でも、その日は、何故か集中できなかった。まとわりつくような、梅雨の湿気のせいかもしれない。気分転換にでもと、ダイニングでコーヒーを作っていたわたしは、ふと、ハジメとキスをした場所に立っていた。
窓際のその場所は、わたしにとってかけがえのない場所で、ハジメにキスされたことを思い出すだけで、何とも言えない、充実した幸福感に満たされていた。梅雨の時期には珍しく、晴れた雲間から天使の梯子……薄明光線が放射し、街を照らしている。
「こんなに高いところだと、天使の梯子とか綺麗に撮れそうだなー」と、ハジメがそう言っていたのを思いだし、自室からカメラを持ってこようとしたときだった。かすかに小さな振動を感じた。最初は地震の前の長い揺れだと思い、また気持ち悪くなるなーゲロはイヤだなーと、身構えていたが、窓の外を見て、わたしは目を疑った。その揺れが地震のものではなくて、ジェットエンジンの振動によるものだということに、気づいた。
午後六時ちょうど。いつも高い空を飛んでいるジャンボ旅客機が、わたしの住んでいるマンションの高さギリギリ、わたしの目線の高さと同じくらいに、こちらに向かってきた。左側の翼がドス黒い煙を上げて、わたしの頭上を、轟音と振動と共にかすめた。
ボンッと、かすめる前、なにかが爆発したような音がした。そして、なにが爆発したのか、すぐにわたしは理解した。飛行機のエンジンと思わしきものが、わたしのマンションの、わたしがいる部屋の、窓際に立っているアホ面を浮かべたわたしに向かって突っ込んできている。
その瞬間、わたしはハジメとキスをしたときと、同じことを思った。ありえない、時間よ、止まれ、と。しかし、長い二秒は無慈悲にも過ぎ去り、わたしはエンジンに激突され、絶命した。そう、きっと……わたしは死んだはずだった。
どうしたのだろう、金縛りのように体が動かなかった。わたしの目の前、一メートル先に、エンジンが空中に停止している。やはりそれは飛行機の巨大なエンジンだった。直径は三~五メートルぐらいだろうか。燃えながら、黒い煙を上げて、タービンが高速で回転……していない? ということは、本当に、時間が、時間が止まっているということ? いったい、なにが起きている?
「よく見てごらん、タービンがゆっくり回転してるでしょ。時間が完全に止まっているわけじゃないよ。時間を止めるなんて、物理的に不可能だからね。実際は、時間を停滞させているだけで、ゆっくりさせているのに過ぎない。我々が簡易的にこの辺の時間を結晶化させただけだよ」
誰だろう。わたしの後ろで、誰かが語りかけてくる。すぐにその声のほうへ振り向きたいが、わたしは動けなかった。
「誰か……ああ、まだ自己紹介がまだだったね、我々はインクルージョンと呼ばれている存在よ」
インクルージョン? 内包物のこと? 宝石とかの? ヒビとか、曇りとかの?
「ああ、さすが……君のお母さんが、宝石を取り扱っているわけだ。まあ、実際、我々は内包物というより、包括や一体性という意味に近いかも……お、コーヒーだ。いただいてもいい? 久しぶりの受肉でね、コーヒーなんてしばらく飲んだことなかったんだ」
心を読んでいるの? 一体性? 受肉? いったいあなたはなんの話をしているの? 言っている意味が分からないんだけど。
「まあ、誰だってそうだよね……混乱はするか。簡単な状況を説明をすると。羽田発、那覇行きの第九二一便、機種はボーイング777型、通称、トリプルセブン。単なる整備不良か、バードストライクなのか、まあ……人為的なのか、そうじゃない要因が重なったことは明らかで、原因は色々考えられるけど、離陸十分後、原因不明のエンジントラブルを引き起こし、急遽、羽田に引き返したトリプルセブンは、突如、右翼エンジン部に起きた爆発事故により、羽田に着陸する間もなく、右翼エンジンを失った形で、千葉県市川市の東京湾上空を旋廻しながら、コントロールを失い、海へと墜落。乗客、パイロット、客室乗務員を合わせて、二百六十三名が犠牲となる、航空機事故のページを塗り替える大惨事になるはずだった。そう……なるはずだった。そして、それは飛行機での事故という話であって、墜落する寸前、爆発による分離されたエンジンに衝突し、悲劇的に……なおかつ、人類史において、誰も見たこともないプロセスを経て、死亡した者がいた」
なんだか、これから起きることを知っているような言い方ね……で、オマケのように、悲劇的に死んだ奴の一人というのが、わたしということ?
「そういうこ……甘っ! なんだ、このコーヒー……滅茶苦茶、甘いじゃん! ったく、二十世紀代の人間は異常に甘いコーヒーを欲しがるのかな……コーヒーの苦みがいいのに、それを殺すなんて……なんて愚考……」
結構入れてるから……砂糖ミルクとコーヒーの分量をハーフ&ハーフにしてて……甘すぎたら、謝る。
「ともかく……君は今、目の前にあるエンジンに激突し、ほぼ確実に絶命する因果にある。ちなみに、そのアホみたいにバカデカいエンジンはね、ゼネラルエレクトリックGE90と呼ばれていてね、君の年代の旅客機では、最大クラスの大きさを持つターボファンエンジンになる。十トン近いトラックが時速百キロで突っ込んでくるようなものだよ。万が一にも、君が生還できる可能性は、限りなくゼロに等しい。人類史において、こんな死に方……ハア、君はどうして、こんな死に方ばかりすのかな……」
こんな死に方ばかりって? ちょっと……いや、さっきから、あなたの言っている意味が分からないんだけど。
「ハーフ&ハーフだよ」
え?
「さっき君が言っていたよね。君は……失礼、和嶋治さん。ハルって呼んでも?」
断る。キモい。死ね。気安く呼ぶな。
「ハハ、口が汚いな……これから、死ぬ人間に死ねって言われるとはね……ハーフ&ハーフ。今の和嶋さんの状況だよ。死ぬ和嶋さんと、生きてる和嶋さん。今、この瞬間、和嶋さんは半分死んでいて、半分生きている状態。中途半端な状態だ」
なにが言いたいの?
「そこで取引をしよう。勿論だけど、和嶋さんは、今から生き残りたいよ……ね?」
当然でしょ……と、言いたいけど、何か裏がありそうな言い方よね。タダより高いものはないって、よく言うけど……超人的な奴らがふっかける都合のいい取引なんて、ロクなもんじゃないって、映画やアニメで十分知っている。生き地獄より、ポックリ逝ったほうが幸せなことがあるかも。
「ふーん、あっそう。って……なにそれ! 我々が和嶋さんを悪いように騙しているだって? それって、酷くない? これでも、和嶋さんの為にやっていることなのに……」
ふん、騙し方にもよるわね……っていうか、わたしはこの状況を現実とは受け止めていない。まだ、悪い夢だと思っているのが現状よ。
「これでも?」
インクルージョンと呼ばれるものが、突然、手を叩く。ふと、わたしの体が動き出す。体は動き出したが、時間はまだ停滞したままだった。振り返ると、インクルージョンと呼んでいる声の主がそこにいた。悠長に、わたしのコーヒーを飲みながら。
「どう? この姿を見て、まだこれが現実ではないと言い続ける?」
以前、学校の鑑賞教室で美術館にあったアルベルト・ジャコメッティの彫刻を見たことがある。異常なほど細長い胴体と腕と足を持った棒みたいな人の形をした、のっぺらぼうな彫刻。インクルージョンはそんなシュールな形をしていた。なにで出来ているのだろう。身体全体が、無色透明な水晶なもので構成されている。インクルージョンの体内に、わたしのコーヒーと思わしき液体が、ゆらゆらと漂っている。ハッキリいって、そのナリを見たわたしの感想はこうだ。
「うわっ、キモッ!」
「キモッて言うな! ここの時間を結晶化させるだけで、パケット許容値を超えてしまったのよ。だから、我々が、和嶋さんと干渉するのに、最低限のイミテーションにしかなれなかったのよ。第一、我々からすれば、和嶋さんらのほうが、充分キモいからね!」
「あっ、そう。なに言ってんのか、全然分からないんですけど!」と、わたしは、そのインクルージョンの横を走り抜ける。どういうわけか、動けるようになったわたしは、とにかく、第一に、優先的に、このクソみたいな場所から、とっとと、逃げ去るのみ。と考えた。
「ちょっと! 話はまだ終わっていないよ!」
わたしはインクルージョンと呼ばれる者に中指を立てる。頭一杯にわたしが考えたのは、まだこれは夢だということ。そう、悪い夢。インクルージョンが、なんと言おうと、わたしはこれが現実だと認めたくない。認めるもんか。飛行機のジェットエンジンに衝突してわたしは死ぬ? クソったれ。そんな途方もない話で、あっけない死に方、わたしは認めない。リビングから出て、廊下に出れば、少なくてもエンジンの衝突で死ぬ可能性は減るはずだ。廊下に出て、玄関からエレベーターホールに向かえば、少なくても死ぬ可能性は……。
「どうあがいても絶望だよ」
インクルージョンはそう言った。気づいたら、わたしは、さっき立っていた窓際に立っていった。窓の外で、ゆっくりと、こっちに突っ込んでくるエンジンが見える。
「……え、どういうこと?」
「どういうことじゃないよ。この空間や時間そのものを結晶化させているからね。いわば、リングワンダリングってやつ。同じ場所をグルグル回ることしかできない。視界が閉ざされた雪山や砂漠のようにね。どのみち和嶋さんに、この運命から……因果律にも逃れられることは不可能だよ」
「それって……選択もなにも、誘導尋問じゃない!」
「だから、我々は和嶋さんに生き残りたいか聞いているの。生きるか、死ぬかって」
「クソ……クソったれ! ふざけんな!」
わたしは、また駆け出し、リビングの出口に向かう。リビングの扉を開けて、玄関へと向かい、そして元の位置に戻る。そのまま、走り続けて、また、扉を開ける。元に戻る。扉を開ける。元に戻る。扉を開ける。元に戻る。扉を開ける。元に……。
扉の先の廊下は視認できるのに、わたしが廊下へ足を踏み入れた瞬間、わたしはなぜだか、窓際の元の位置へと帰されていた。グルグルとループしている。なにか、リビングの出口にポータルでもあるのだろうか。
「ん、ポータルって?」
元に戻る動作を十回ぐらい繰り返した後、インクルージョンが怪訝そうな顔で聞いてきた。顔なんてないが、たぶんそんな顔をしていたのだろうと思う。
「以前、ハジメと一緒にやっていたゲーム。壁に入り口と出口を自在に作ることができるポータルガンという銃を使って、謎解きをしていくの。まるで、今の状況がコレよ。リビングの出口が入り口で、今私が立っている場所が、出口よ」
「へー面白そう……今度貸してくれない? この時代にとって、我々の技術は、魔法のようなものだけど……ビデオゲームか……フィクションではある程度、想像されているようね……和嶋さんが冷静なのも、それが理由か」
呑気な事をインクルージョンは言っている。腹が立ったわたしは、リビングのテーブルにある椅子を持ち上げ、そのままインクルージョンに、遠心力を活かして、椅子を叩きつけた。バギャッ! と、バットが折れたようないい音がした。椅子の足は折れたが、インクルージョンの一部が欠けたのか、わたしの足下に、その一部と思わしき、鉱物の欠片がコロコロ転がってくる。以前、母が土産でくれた水晶のクラスターのような、透明度の高い六角柱の鉱物にそっくりだった。鉱物の中に神経細胞のように、糸みたいなものが張り巡らされている。ルチルクォーツにも近い気がした。クォーツや水晶は、内包物によって、細かく分類される鉱物の一種で……なるほど……こいつらが、自分をインクルージョンと呼んでいたのか、少し納得がいく。
「おいおいおい! なるほど、じゃないよ! 我々の頭をカチ割って、なに冷静に分析しているの!」
相変わらず、表情は分からないが、わたしの一撃に動揺して、怒りを露わにしていたのは、その必死そうな、身振り手振りでよく分かった。
「……なんか、アレでしょ? 本体ブチ壊したら、元に戻る的なヤツ? ってよくあるでしょ」
「……映画やアニメとかの見すぎだよ……第一、仮に我々を破壊したら、この結晶現実を抑えておくことは不可能になって、わざわざこの場を設けた意味も無くなるじゃないの」
元からフィクションを超越してるあんたに言われたくないと、わたしは思った。
「和嶋さんって、見かけに寄らず、乱暴な性格してるのね……まあ、いいわ。このままじゃ、らちが明かないから、我々は和嶋さんにひとつだけ、シンプルな問いを投げかけるよ。これに答えたら、契約は一応、成立ということにするよ」
「強引だし、強制だし、無理矢理じゃん。ヤクザかおまえは」
「うるさい! このまま、また鈍器で我々が破損されたら、たまったもんじゃないからね!」
インクルージョンは折れた椅子の足を片手に持ち、ブンブン振り回している。
「それで、その問いというのは?」
「……簡単な問いよ。今のあなたは幸せ? 今のあなたは幸福を感じている? 今のあなたは、充足した多幸感に満ちていますか?」
「……」
わたしはその答えを詰まらせる。
「我々から思うに、その答えはイエスでしょ。今、自分が幸せだと思う人間が、今すぐ死にたいと思うはずがない。その幸福を持続させる為に、人間は努力する生き物なの。
「は?」
「我々、インクルージョンは和嶋治を保護下に置き、IRへの緊急搬送許可を申請します。ええ……一〇五の用意を」
インクルージョンが誰と、会話をしている? 保護下? IR? 一〇五? いったい、なにを言っているの? なに、勝手に話を進めているの?
「じきに時の停滞は終わり、あのエンジンが動き出す。じきにといっても、あと十秒ぐらいだけどね。なにか言いたいことはある?」
急にやり残したことがあると言われても、慌てたわたしは何も考えずに、さっきインクルージョンが甘すぎると言ったコーヒーを、ゴクゴクと一気に飲み干した。
「うへぇ、よくそんな甘いの飲めるね」
「……これがわたしの至福点よ。わたしが幸せだって?余計なお世話……」
「……だよクソ野郎」と、言おうと思った刹那、轟音と共に、わたしは巨大なエンジンに衝突して……そして、死んだ。
死の間際、0.2秒ぐらいだろう、それこそ、わたしの体感速度は信じられないくらいに停滞していた。わたしは頭の中に、ハジメの顔を思いっきり浮かべた。黒煙を上げたエンジンはタービンを回しながら、ガラスの窓を突き破り、わたしとハジメがファーストキスをした場所を無慈悲に、粉々に破壊する。
やめて、やめて、やめて、やめて、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、ハジメ、ハジメ、ハジメ、ハジメ。
リズム感のいい、わたしの心の叫びは、エンジン轟音と共にかき消された。タービンが見える。三メートルを越すその巨大なブレードを持つ、タービンに吸い込まれそうだ。ああ、わたしの脳がバーストし、頭が混乱する。わたし、いや、安心して、大丈夫よ、そう、ああ、大丈夫よ、タービンが回る。大丈夫、タービンが回る。タービンが……。
「……え?」
大丈夫? わたしは、大丈夫なのだろうか。視界はブラックアウトし、エンジンに巻き込まれて、わたしは死んだはずだった。だけど、意識はあった。なにかの冗談だったように、さっきまでの轟音は消え失せ、わたしの前には、闇が広がっていた。鼓膜の中に、さっきまでの轟音が残響している。
段々、今の状況が飲み込めているようで、飲み込めないわたしは、とにかく自分を無理に落ち着かせようと、五感を慎重に働かせてみる。
わたしは足をトントンさせる。フローリングの床のような感触、でも、足の裏の感触は冷たくもないし、熱くもない。重力はあって、二本足で地面に立っている。現状、幽霊とかエクトプラズマというわけでもないので、少し安心した。臭いを嗅ぐ。無臭。あまり信用できない。聴覚。まだ、さっきのエンジンの衝突音がこだましていて、こっちも信用できない。触覚。とりあえず、わたしは自分の体を触る。
「あっ」と、声をあげる。わたしは服を着ていなかった。裸だったのだ。服を着ていないと気づくと同時に、わたしの身体になにか妙な違和感を感じた。
「ようこそ、死後の世界へ。気分はどう?」
インルージョンの声が聞こえた。わたしの目の前が、閃光のように光り輝く。光り輝いたと言っても、インクルージョンが見覚えのある電灯を点けただけだった。
そこは信じられないことに、わたしの家のリビングだったのだのだ。いまさっき、飛行機のエンジンが突っ込んできて、無残に破壊されたわたしの家のリビングだったのだ。
夜になった? 窓の外は暗闇に包まれている。よく見てみると、いつも見ている夜景などはそこに存在せず、ガラスの窓の向こうは、何もない漆黒の空間が広がっていた。リビングを出ようと思ったが、リビングの出口も、窓の外同様、空間から断絶されたかのように、黒い何かが行く手を阻んでいる。うまく説明できないが、わたしは、出口もない、自宅のリビングのような密室空間に閉じこめられてしまったのだろうか。これが……これが、死後の世界だというの?
「閉じこめられたなんて、心外だな……ここは、IRと言ってね、和嶋さんという存在を一時的に留めておく場所よ。本当だったら、ここを通す必要もないけど、現実の上書きが思った以上に手こずっていてね、和嶋さんにこれから行うことについて、ゆっくり話せるいい機会かなーっと、思ってここに呼んだの。いわば、ファースト・オピニオンってやつ」
振り返ると、食卓の横にインクルージョンが立っていた。インクルージョンは、見覚えのある人物の顔をしていた。長髪で丸いメガネをかけ、ヒョロっとした、薄幸そうで、売れないミュージシャンのような顔立ちの人物……わたしの父親だった。私が小学四年の頃に、母と離婚したわたしの父親。正直、その顔がわたしの目の前に出てくるまで、記憶の彼方へ消していたような存在だった。
「どうしてここに?」
「あ、よくありがちな設定だけど、別に和嶋さんのお父さんが、全ての黒幕とかそういうわけじゃないからね」
父親の顔をした誰かがそう言うと、インクルージョンは瞬時に母の顔へと変化した。カシャカシャと、ルービックキューブを組み立てるような音を立てて、一昔前の犯罪ドラマでよく使われていた、モンタージュ写真みたいに、その顔を変化させた。よく見ると、顔だけじゃなく、体格、身長、服装までも、元の人物ソックリそのまま、変化させているようで、顔を変える度に、伸びたり縮んだりしている。
「今、和嶋さんに、自然な形で接することができる人物を検索しているの。これから、長い付き合いになるからね」
「自然な形で接する? あんたらって、狸か狐、シェイプシフター的ななにかなの?」
「シェイプシフターか……変化する妖怪ね……それも間違いではないよ。一応、我々は和嶋さんを監視する立場だからね、こうやって、次々と化けてるのよ。IRって、こういう場所だから」
「IRって、なんの略称?」
「色々な意味らしいよ。情報検索を意味するインフォメーション・リサーチやら、企業が投資家に対する情報開示、インベスター・リレーションズの名残……あ、我々の部屋という意味でのインクルージョンやイミテーション・ルームという意味かもしれない……正しい意味は、もうよく分からなくなっているの」
インクルージョンは、わたしの知人……母の祖父母、伯母、従兄弟、小学校、中学校の頃の友人、学校、塾、習い事の先生、昔住んでいたマンションの隣の住人などなど、わたしが今まで出会ってきた人間関係を一から網羅したインデックスを表示するかのように、次々とその顔を変えていく。
「和嶋さん、友達少ないね」
ヨシミ……上舘芳美の顔に変えたインクルージョンは、そうわたしに言い放った。
「余計なお世話よ!」
「じゃあ、この子は?」
インクルージョンはハジメの顔になり、わたしはギョッとする。と、同時に強い怒りを感じた。
「和嶋さんのモーションスペクトル値を見てみると、この鈴木一という子に出会うと、振り幅が大きくなるわね。恋でもしてるの? あ、別に同姓だからって気にしないでいいよ、我々から見てみれば、性別だけで人を区別するなんていう野蛮な考え方は、ナンセンスだからね」
「……その顔でよくもペラペラと……仮にあなたがハジメの姿になったとして、元のハジメは何処へ行くの?」
「何処へ?ああ……潜在意識の話ね。我々が鈴木さんの意識を間借りする形になるから、意識の書き換えの問題で、上書きしてしまうかも。映画好きの和嶋さんなら分かると思うけど、遊星からの物体Xとか、ボディスナッチャーズみたいな感じよ……見たことある? 見た目は鈴木さんだけど、中身は我々であり、それと同時に鈴木さんの意識でもあるのよ」
ハジメの顔で、ハジメの声をしたインクルージョンは、サラッととんでもないことを言い放つ。
「……そんなことしてみろ、わたしはおまえをぶっ壊して、ぶっ殺してやる。そして、わたしも死んでやるから」
「はあ……そんな怖い顔しないで、和嶋さんと鈴木さんの関係は、我々も当然把握しているよ。我々が鈴木さんになることのデメリットは充分承知している……それにしても、和嶋さんは、今、死んでやると言ったけど、もう和嶋さんは、ぶっちゃけ言うと、死んでいるのよ」
わたしはインクルージョンの言葉にキョトンとする。死んでいる? だって、今、わたしの意識は?
「今の和嶋さん……和嶋治という女の子の現状はコレよ」
さっきから気にはなっていたけど、インクルージョンの目の前に、赤い雲のようなものが浮かんでいた。雲は、わたしと母が食事をするダイニングテーブルの上に、プカプカと浮かんでいる。インクルージョンは、その雲に指を指して、それがわたしだと言い放った。
「エンジンに巻き込まれた和嶋さんは、ミキサーみたいに粉砕されてね、ここへサルベージされた頃にはこんな有様よ。出来れば復元する際に、原型はなるべく留めて欲しかったんだけどね」
雲の中をよく見ると、霧のような赤い粒子の中に、白い固形物が混じっている。まさかこれは……いや、まさかと思いたくないけど、これは骨じゃないだろうか。この雲のようなものは、エンジンブレードで粉砕された、わたしのシェイクということなの。
「吐きそう……」
「どうぞ、吐けるならばね」
吐こうと思って、わたしはお腹を押さえつけるが、何かの違和感を再び感じた。よく見ると、わたしの身体は、なにか、固い何かで出来ていた。腕を見てみると、少しだけ透き通っていて、床のフローリングの色に透過していた。わたしは、顔、首、胸、お腹、アソコ、太股を順番に触っていき、鏡のように、わたしが映り込んでいるガラス窓を見る。そして、わたしは気づいた。自分が今、どんなナリをしているのかを。
「さっき和嶋さんがキモイと言っていた身体になった感想はどう? 今のあなたは、イミテーションと呼ばれるユニットで構成されている。真似という意味じゃなくて、模造という意味でのイミテーションよ。我々がココへ干渉する際に、人間の姿を模造したのがその姿。我々は受肉と呼んでいるけど、炭素な肉体でもなんでもなくて、二酸化ケイ素で構成された肉体だけどね。和嶋さんの時代では、石英や水晶、シリコンと呼ばれるものに近いかも」
ハジメの顔をしたインクルージョンは嬉しそうに、まるで、わたしの姿について、新品の家電を語る量販店の店員のように、流暢に語っている。
「ち、ちょっと待て! わたしが、そのイミテーションと呼ばれているものになっているなら、わたしの死体がその雲のようなものだったら、わたしの本体は? 脳は? 意識は? 魂は? 何故、わたしはこうやってあなたと会話が出来ているの?」
インクルージョンは、二本の指で巨大なルースを取り出す。正方形に近いプリンセスカットのような形で、大きさは百カラットはあるだろうか、オパールにも似ていて、光輝く虹色の
「これが今のあなたよ。一〇五と我々は呼んでいる。個人の因果律を圧縮パッキングした、いわば魂の鉱物。偶然なのか分からないけど、こいつの重さは二十一グラムあってね、百五カラットの大きさを持つの。だから、一〇五。二十世紀初頭の有名なオカルト理論でもある、魂の重さってやつが、まさか遙かな未来で実現しちゃうとはね……なんか、皮肉だよね」
「は?それが……その石が、その石ころがわたしだというの?」
「そうカリカリしないでよ、我々の本来の姿は、その石ころなんだから」
インクルージョンは、わたしの肉体の残骸の中へ、一〇五を放り込む。カチンと、なにか、カメラのレンズをセットしたような、金属的な音がしたと思う。すると、わたしの肉体が、みるみると変化を始めた。一〇五と呼ばれる鉱物の中にあるイリデッセンスが、ウネウネと生き物のように、大きさを、姿を、色を変えながら、薄い膜のようなものになって、わたしの肉体の残骸を包み込む。虹色のイリデッセンスが、薄めたアクリル絵の具を水に垂らしたように、円の波紋を浮かべながら、幾重にも対称に重なり合い、独特なフラクタル模様を描き出す。
「ビックリしたでしょ。一〇五はね、深宇宙探査の結果、発見された地球には存在しない鉱物……人工じゃない、天然の
「あんたのオーパーツについての授業はもうウンザリよ……そろそろ、わたしをこの大げさな舞台へ呼んだ理由を教えてちょうだい」
インクルージョンが、「なるほど」と言ったような顔で、ポンと手を叩くと、ハジメの顔から、今度は見覚えのある豊満な乳を持つ女の顔へと変化した。
「授業か……なるほどー。部活の顧問っていうのもいいかもしれないわねー。えーっと、とりあえず、簡単なキャリブレーションを始めてみるよー、本名、後藤真澄、年齢は二十五、千葉県市川市にある里見女子高校一年D組担任、担当科目は現国、写真部と軽音部の顧問を掛け持ち、身長は百六十二、体重は・・・え? 非公開? なんでよー? 我々からしたそんなことどうでもいいのに! は? どうでもよくない? デリカシーがない? BMI値は、二十六、ぎゃーっ!」
なにやら、インクルージョンの様子が変だ。急に一人芝居兼、自己紹介のような事をし始める。インクルージョンが、変化したのは確か、後藤真澄……ゴマス先生だ。ハジメのクラスの担任で、わたしが入部している写真部の顧問でもある。うん、確かにそうだ。そのGカップ以上のデカイ胸と、そのウザくなる特徴的な喋り方は、確かにゴマスだ。
「どうしたの……っていうか、あなた、一体誰と話しているの?」
「いやー、フィクションとかと違って、身体を、意識を間借りするという事はなかなか、容易なことじゃないのよー。元来、我々はあなた達に干渉は出来ないからねー。中途半端な間借りをするという訳にはいかないのー。個人の因果律を乱すのは色々と我々に不都合が多いしねー。こうやって、後藤真澄という潜在意識を借りるにあたって、手続きを踏んでるのよー。最適化。キャリブレーションというやつ。後藤真澄の意識を我々と対話することによって、徐々に慣れさせているのー。一体性……そう、インクルージョンね。いわゆる、異文化コミュニケーションっていうやつよー」
インクルージョンは、「異文化コミュニケーション」のあたりで、両手ピースをチョンチョン曲げる。アメリカ映画でよく見る、言葉を強調したいときや、皮肉を言ったときに使う「エアクォーツ」というやつだが、クォーツの身体をした奴にそれをやるというのは、何かの悪い冗談みたいだなと思った。笑えないけど。
「相変わらず、言っていることがよく分からないんだけど……さっきからあなたが言っている因果律っていうのは?」
「そうそうー、んで、本題なんだけど……和嶋さんには、これからこれと同じ、五つの一〇五を回収して貰いますー」
「五つの一〇五? 回収? わたし以外にも、こんな目に遭った奴がいるってこと?」
「そう、和嶋さんと同じように、因果率の高い人間がいてねー、回収と言っても、易々とハイソウデスカーって、差し出す訳ないからねー。多分、戦うことになるよー。向こう側も、和嶋さんの一〇五を全力で奪いに来ると思うけどねー。だから、我々が力を与えているの。拮抗する力をねー」
ゴマスは、一〇五によって再生を続けるわたしの身体の周りをグルグル歩いていく。さっきまで、シェイク状態だったわたしの身体が、ビデオの逆再生のように、一〇五の虹色のイリデッセンスによって、再構築されていく。粉末だった骨が、パズルのようにまとまり合いながら徐々に、元通りのわたしの骨格になっていく……元通りって言っても、わたしはわたしの元の骨格なんて知るわけがないけどね。骨の上を蛇のように、血管、神経細胞が這いまわり、大小の何かの臓器と脳の一部と思しき何かが蜘蛛のように、ぐちょぐちょ、ざわざわと集合し、肉塊のコロニーを形成する。いつの世紀、いつの時代、いつの時間に、自分の骨の髄から脳味噌を見ることが出来るJKがいただろうか……うん、これはキモい。キモキモだ……。
さっきから、ゴマスは上機嫌なのかよく分からないけれど、「チュッチュルー」と、スキャットじみた即興の歌を口ずさんでいる。わたしの身体が再生されながら、その周りを呪文のような歌を唄い、グルグル回っている。
わたしの身体がゆっくりと再生されるのを見ながら、わたしはその様が「九相図」の逆バージョンみたいだなと、ふと思った。
野にポツンと置かれた美女の死体が徐々に腐敗し、虫や獣に食い尽くされ、最後には骨となって、風化し灰になって消えていく過程を九の段階で描かれた、現世の肉体の無常さ、男性から見た煩悩の象徴ともいえる美女も、ただの同じ肉で出来た人間である事を訴えた仏教画。今、わたしはただの灰から、得体の知れない奴に、得体の知れない「何か」にされようとしている。まるで、九相図を逆の順で、見ているかのように。
「女の子は砂糖とスパイスと素敵な何かでできている」
ふと、わたしはハジメと話したときの言葉を思い出す。
肉体の無常さね……なかなか、悪趣味というか、猟奇的というか、黒魔術的というか……この光景を見ながら、段々、わたしはこの状況が現実味を離れ、解離症と言うべきか、そんな非現実感を帯びていく。そう思うのも、こんな状況になってから、一体何度目だろう。
「くどいなー何度も言うけど、これは現実だからねー……因果率というのは、雷に七回打たれた男の話みたいなものよー」
「それって、ロイ・サリヴァンの話?」
「おーさすがだねー、伊達にオカルト好きなだけあるねー。そう、ロイ・サリヴァン。人の一生で、雷に七回打たれる確率ってね、二万一千八百七十
「人間を対処ですって? じゃあ、あなたたちは何者なの? 侵略しに来た宇宙人? おせっかいな未来人? 友好になろうとしている地底人? まさか……クォーツだからって、古代レムリア人とかじゃないでしょうね!」
ゴマスは「はて?」と言ったような顔をする。
「レムリア人? あー、ちがうちがう……レムリアンシードってわけじゃないよー我々は……それにしても、いやー……色々、知っている和嶋さんと話していると、ほんとに楽しいなー。忘れていた知識がどんどん、吸収されていくのを感じるよー。でも、和嶋さんが言ったことはほぼ合っているよー。我々は、宇宙人であり、未来人であり、地底人なのー」
わたしはゴマスの言ったことに、しばらくポカンとする。
「……は? ふざけてるの?」
そして、この巨乳をぶん殴ろうと思った。
「あ、やめて! やめてよ! また、殴ろうと思ったでしょ! だーかーらー、我々は、和嶋さんら二十一世紀の地球人から見れば、宇宙人でもあり、未来人でもあり、地底人でもあるのよー。厳密には、カテゴライズが細かすぎて、正確に伝えるのは不能なのよー、今の和嶋さんに対して、検閲も固くて制限されていてね、出せる情報も限られるのよー」
わたしはダイニングテーブルを思い切り叩く。そんなに力は入れていないはずだけど、水晶で出来たわたしの拳は、テーブルの角を叩き壊した。
「さっきから、ペラペラと一方的に喋り続けていたくせに! 肝心なときには、制限ですって?」
「しょうがないのよー! パソコンの部品をネジからいちいち生産地、生産者から説明するような真似なのー、和嶋さんに今、我々から伝達したいことは以上のこと! 我々は和嶋さんの異常な因果律を保護する。我々は和嶋さんを救済し、観察する。我々は和嶋さんにミネラルウェアを譲渡し、他、因果律への対処を行う。それが、我々の、インクルージョンの存在理由!
ミネラルウェア? また、知らない単語が出てきた。
「ミネラルウェアとは、他、因果律と拮抗する力よー。我々の、本来の姿のひとつ……十万年の英知の結晶体」
「十万……じゃあ、あなた達は、十万年後のわたし達ということ?」
「色々と差異はあるけどね……そう、我々は和嶋さん達同様、元人類よ。十万年って数字、二十一世紀人から見たら、途方もない数字のように思えるけど、ダイヤモンドが結晶化するのが、早くて一億五千万年前、三葉虫の化石なんて二億五千万年も前なのよー、たかが十万年、プロトニウムの放射線量が十六分の一程度、減るだけのことでしょー」
「相変わらず、さらっととんでもないこと言っているけど……たかが十万年、されど十万年、二十一世紀人から見たら、十万年前なんて、やっとこさ火を見つけて、先っぽに石くくりつけた棒を振り回してるだけの猿だったはずでしょ。モノリス処女を卒業したばかりの、キューブリックの2001年宇宙の旅みたいに」
「おー! 2001年宇宙の旅! 我々も好きなのー!」
ん?どうした?ゴマスが、インクルージョンが、乙女のように目をキラキラさせた顔をする。
「あ……えっとー、うん……とりあえず、ミネラルウェアの準備を行うわー」
何事もなかったように、ゴマスは話を進める。ゴマスは一度、手拍子をする。すると、一〇五がまたまた、形を変える。わたしの身体は、もうすでに完全に復元されていた。さっきまでシェイクだったわたしの身体は、筋肉と脂肪が付け加えられた、皮だけがない肉体へと復元されている。わたしは、自分の身体にこんなに脂肪が付いているのかと知ってしまうと、さすがにヘコむ。
「ミネラルウェアは、他の因果律との交戦用に我々が急ごしらえで備えたものでねー、元来、闘争というものを進化の過程の中、放棄した我々が、他を排除するものを再び創り出してしまったの」
一〇五は、虹色のイリデッセンスを出す膜をわたしの復元された身体に、ピッタリと張り付く。シールのように、肌のように、わたしの身体が、一〇五によって、隙間なくコーティングされていく。
「要は、不安定なのよーミネラルウェアはねー。我々でもあなたがどんな姿になるかは想像できないのー」
「そんな得体の知れないシロモノをわたしに授けるというの?」
「怒らないでよー。これは和嶋さんの為でもあって、我々の為でもあるのよー。後は、和嶋さんの因果律次第。ミネラルウェアは個々の因果律によって相転移するの」
さっきまで、真っ赤にグロかったわたしの身体が、骨以外の個々の血液から臓器などのパーツが、赤から無色の色へと変化した。光沢のある、まるで……真珠のようなものに。
「まだ言っていなかったけど、この空間……IRってね、赤外分光法という略称でもあってねー、対象の物質がどのような分子構造をしているのか、赤外線を照射して、構造状態を分析する空間でもあるのよー」
「構造を分析ですって? ああ……ミネラルウェアの意味がようやく分かったわ……これは……無機物の鎧ということ。わたしは、真珠のようなもので出来た、何かで複製されようとしているの」
「ご明察だよー。今、スペクトル分析を見てみると、和嶋さんは、高密度の炭酸カルシウム状のミネラルウェアに相転移したらしいねー。厳密には、真珠というよりは、アラゴナイトに近い結晶体だけどねー、要は貝のようなもので、あなたは構成されているのよー。そのミネラルウェアの名は、ソリタリーシェル」
「ソリタリーシェル……孤独の殻ということ……」
「友達のいない和嶋さんには、ぴったりな名前ねー」
「放っておけ」
要約するとこうだ。因果律という訳の分からない強運を持つわたしは、ありえない死に方……飛行機のエンジンに衝突し、死亡したハズだが、十万年後の人類であり、宇宙人で未来人で地底人と名乗る、ゴマスに化けたインクルージョンという訳の分からない存在が、わたしを一〇五、魂の鉱物というオーパーツにより、強制的に蘇生させられ、ミネラルウェアと呼ばれる無機物で作られた装備を授かり、それを用いて、他のわたしのような、強い因果律を持つ者から五つの一〇五を奪えと……つまり、そういうことか。
「大体はそういうことー、五つの一〇五を回収した際には、和嶋さんは己の因果律から解放されるよー。つまり、晴れて自由の身ねー。死んじゃうよりはマシでしょー。悪くない話だと思うんだけどなー。それに……」
「それに?」
「また、生きて鈴木さんに会えるよー?」
わたしはしばらく考えてみる。確かに、またハジメと会える。今、わたしの生き甲斐と言ったら、ハジメと一緒に過ごすことだけ……ただ、それだけだった。このままポックリ死ぬより、わたしは今すぐにでも、ハジメに会いたかった。もう、独りぼっちは御免だ。だから、わたしは、覚悟を決めた。
「わたしを生き返らせて、あなたの言う訳の分からない事に巻き込むなら、ひとつ条件がある」
「んー? うん、叶えられる範囲ならいいよー」
わたしはよく考えてから、深呼吸をし、「ハジメ、ごめんね……」とボソッと言い、覚悟を決めて次の言葉を放つ。
「ハジメ……鈴木一さんに、わたしの成り行きを見届けさせて欲しいの」
わたしは目を覚ます。すべてが悪い冗談で、悪夢であって欲しいと願ったが、ダイニングテーブルで横になっていた事、わたしの身体に何かの違和感を感じた事、右の脇腹に鍵穴のようなものがある事、右手に真珠で出来たような鍵を持っていた……などなどの事柄から、これは現実なんだと、わたしは思い知る。
スマホの時計を見ると、わたしがエンジンに衝突して死んだはずの、午後六時ちょうどだった。スマホがメッセージを受信する。連絡先を教えた覚えがない、ゴマスからだ。
〈目が覚めた? 急で悪いけど、四時間後、和嶋さんと鈴木さんがいつも会っているいつものサイゼリ屋で、そのミネラルウェアのキャリブレーションを兼ねた、チュートリアルテストを行います。時間厳守で! あと……あなたの部屋から数本、勝手にゲーム借りましたから、ヨロシク! 一週間ぐらいでやり終えると思うから、またオススメがあったら教えてね〉
それを読んで、わたしはため息をつく。窓に水滴が当たった。死ぬ直前まで、天使の梯子が現れていた空が嘘のように、梅雨らしい、どんよりとした雨模様となっていた。これも、インクルージョンが行ったという「上書き」の影響なのだろうか。
突然、カタカタと床が振動する。わたしはビクっとして、窓の外を見つめるが、いつまで待っても、窓の外からあのエンジンが落ちてくる訳でもなく、それがただの地震だったと気付いた。また、地震で気持ち悪くなるな……と、思っていたが、いつまで経っても、わたしは気持ち悪くならなくなり、それが、逆に気持ち悪かった。わたしは、ハジメとキスをした場所で、呆然と立ち尽くす。
「わたしね、ハルの至福点になりたいな」
ハジメのその言葉を思い出し、わたしは、静かに涙を流した。梅雨の雨のように、シトシトジトジトと、ただ……ただ、わたしはむせび泣いていたのだった。
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