心眼

@ajinomoto26

第1話 艶糸ーつやいとー



「脊椎とは、すべて合わせると24個の骨で成り立っています。あなたは体の重心位置とも言える腰椎の5番目の骨が折れています。」



今年副主任に昇進した看護師の田中がせっせと横でカルテを整理する。次の患者のカルテがちらりと目に入る。また家事にいちいち口を出してくる嫁が私の腰痛の諸悪の根源よと、診察に30分以上かかるばあさんがくるではないかとため息を漏らしそうになるのを堪える。


「あのぅ、先生、じゃあこの腰の痛みを取り除くには手術しかないんでしょうかねぇ」


柴崎はレントゲン画像の、骨がぺしゃんこになっている部分にカーソルを合わせる。


「女性は一定の年齢になると、閉経と言って生理が終了します。と、同時に骨を丈夫にしてくれるエストロゲンというホルモンの分泌が激減します。そうすると骨が脆くなり、非常に骨折しやすくなるのです。そう、何気なくどすんと座ったり、少し物を持ち上げただけでも。」


へぇえと漏らしながら、目の前の白髪混じりの女性は呆けたように口を開けている。彼女は旦那と二人暮らしで、そろそろ木枯らしが強くなってきたからと、押し入れから炬燵を引っ張り出したときに腰に違和感を感じ、その後寝込んでいたという。体を休ませど休ませど腰の痛みはより一層強くなるばかりであったため、この手立病院整形外科にかかったというのだ。


カーソルを合わせる右手の腕時計に目を落とし、柴崎は続ける。


「佐藤さん、方法は3つあります。1つは痛みを我慢しこのまま骨がくっつくのを待つか。2つ目は骨を強くする注射を2年間打つか。3つ目は骨折した腰椎に直接セメントを入れる手術をするか。」



午前の診療が終わったのは13時を回っていた。Aランチは終了していたため、対して好みでもないカツカレーのBランチを頼む。


「先生、ちゃんと休んでる?表情が澱んでるよお」


この病院に13年務めている食堂のおばちゃんが笑いながら俺のカツカレーを山盛りにする。手術がある月曜と水曜は盛り付けを控えめにと、3年前から言っているのだがどうも浸透しないようだ。

スマホを驚くほどの速さでタップする看護師の後ろに座り、大きく息を吐いた。

テレビに目を向けると信じられないくらい足が細いモデルが自分の愛犬を抱いた映像が流れている。

――鎖骨がべっこりしてる女にはそそられねぇな。

ぼんやりとカレーを口に運んでいたら、胸ポッケのPHSが震える。通話ボタンを押すと聞きなれた機械的な声が午後の会議を知らせた。



柴崎悠一は、整形外科の医師である。

幼いころから人の役に立つことが好きだった。

母親と買い物にいくと率先して荷物運びをし、父親が肩が凝ったといえばいつまでも肩たたきをするような子だった。そんな彼が一番愛していたのは紛れもなく祖母であった。

早くに夫を亡くした祖母を見かねて、心優しい母が父方の祖母との同居を勧めた。父は田舎の小さい小学校の校長をしており、ほかにも投資などを行っていたため経済的には余裕があった。大好きだった祖母との同居で、毎日心を弾ませた事を覚えている。

教師であった父に厳しくされたとき柴崎はいつも祖母の部屋の襖を開け、部屋の隅で茶を飲むか、詩を読む祖母の膝の上に涙をためて座るのだった。

「ゆうちゃんはえらい子。きっと生まれる前に神様に触れてもらったんだねぇ」が、祖母の口癖であった。そうやっておでこに触れられると、不思議と嫌な気持ちや悲しみが溶けていった。


窓ガラスの外には、黄金色の葉がひらりひらりと舞っていた。

――この間まで盆だなんだって騒いでたら、とっくに秋だな。


今年の盆に柴崎は実家である福島県相馬市に帰省した。祖母の仏壇に手を添えるとき、いつも自分の医師としての自覚が嫌でも高まり、背筋が伸びる思いをするのだ。

柴崎の祖母、美子は癌を患い亡くなった。当時の東北では名の知れている大学病院で検査をし、癌が発覚したのだ。いや、正確には発覚できなかった。当初は耳の下に小さいしこりができているということで精密検査をし、結果は良性であり、切開するほどではなかったと言われた。が、徐々に美子の体に異変が起きたのだった。最初は体重が減り、そのうちに食欲が出なくなり、耳の下のしこりが大きくなりとうとう声が出なくなった。リンパ腺癌と診断を受け、即座手術をし彼女は一時の回復を遂げたが、時はすでに遅かった。


膵臓と肝臓に癌が転移していた。それも最悪のステージで。


柴崎の母も父も悲しみに明け暮れ、早期発見に焦点を当てられなかった医者を責めても責めきれなかった。

俺が医者だったら、祖母を救えてた――。どこからか湧き上がってくる恐怖にも似た怒りの感情が、当時高校生であった柴崎を奮い立たせた。幸い勉学もそつなくこなせる青年であった柴崎は、医学部に進学し、晴れて医師となったのであった。

医師としてこの手立病院に勤務して2年目の春、手術成績の優秀だった柴崎は学会発表を行い、それが見事論文化したのであった。最も、彼が好んで行ったものではないが。

正直、医師という立場に嫌気がさすこともある。患者の要望とこちらの指導の不一致、詰所での看護師の愚痴の聞き役、患者の命を預かるという責任感。俺は医師に向いているのかと一人家路につく際に自問自答したことも何度かある。しかし悩んだところで仕方がない。今日も柴崎の診察室は患者で満杯なのだ。


会議が終わり、再び午後の診療に向かう。関係者専用のエレベーターを降り、患者の待合室を通り抜け医局に入ろうとしたその時だった。

従業員専用の通路に1人の女が立っていたのだった。通路なので人が立っている事はそうそう不思議ではないのだが、どうみても病院スタッフではなさそうだ。ましてや医療機器の営業にしては、カットソーに膝上のスカートという格好はラフすぎる。


――入院患者の家族が見舞いにきて迷ったか?それにしても面会時間まであと2時間はあるぞ。


何かを探しているであろうその女に近づきながら医局を目指す彼は、妙な違和感を感じた。


身長160㎝以上はあり、肩まで伸ばした栗色の髪からも見て取れるような一見大人びているその女の横顔が目に入った時、まるで時間軸がずれるような、この目の前の空間がゆがむような言いようのない違和感が彼を襲った。


ぐるりと視界が回ったのち、一瞬目の前の女がのように見えたのだった。それも中学生などではなく、本当に赤子のように。


あ、という形のまま、柴崎の唇が震えた。

栗色の髪の隙間から覗く、黒目の大きい切れ長の目がゆっくりと、時を刻むようにこちらを見る。


何故か心臓が飛び跳ねた。恋のようなときめきではない。まるでサバンナにいる肉食獣のような気持ちになった。跳ねた心臓の後ろ側は、恐ろしく冷たかった。


息が詰まる。声が出ない。このままではいけないと本能的に察知し、息を大きく吸い込む。視線が絡み合ったとき、もう目の前にいる女は「子ども」ではなく、20歳前後の若々しい女性であった。


「あの」

――ここは病室ではないですよ


からからの咽頭からようやく出た声はかすれ、宙に寂しく落ちていった。

張り付いた喉から言葉をもう一度発しようとした瞬間、目の前の女がくしゃっと笑った。


「すみません。間違えちゃったみたいです。待合室に戻りますね。」


高いようで低い声のような、不思議な声色だった。語尾が妙に艶っぽく、柴崎の喉が大きく上下した。

かつん、と茶色のブーツが床を蹴り、真っすぐに彼女は出口へと向かった。



「…せい、先生。」


はっと顔を上げると、書類を俺の前まで突き出す看護師の神妙な顔がみえた。


「麻酔科の板野先生からの紹介状書いてください」


慌てて書類を受け取り、すまない、という暇もなく彼女は去っていった。紹介状にぼんやりと目を落とす。

柴崎はその後、あの艶美な雰囲気を醸し出す女が忘れられずにいた。


――なぜ、あの場所で何かを探していた?本当に間違えただけなのか?。


それにあの時俺が感じた妙な感情は何だったのかーー。


幼い時に姉の部屋の机に忍び込み、姉の書く日記を見たときのような、見てはいけないものを見てしまった気持ちにすらなった。しかし、その罪悪感にもとれる感情の裏の妙な興奮が治まらなかった。

医学書や過去の論文が散らかったデスクで、あの妖艶で、どうにも不思議なオーラをまとう女に思いを傾けながら、ペンを走らす。ところが、走りかけたペンは何度もつまずき、一向に重要な書類は進んでいかないのだ。左手でこめかみを抑え、昨年病棟からプレゼントされた万年筆をコツコツと机に打つ。黒豆のように艶やかな色を放つ万年筆の“Yuichi Shibazaki”という刻印が揺れる。

時計を見るともう17時だ。


――しまった。いつもだったら明日のオペ患者のレントゲンチェックにうつるのに――。


と、危うく舌打ちをしそうになったところでデスクの端に置いた携帯がヴヴっと鳴った。同時に、右隣の席の定年間近の内科医師が眼鏡を鼻まで下げ、目線をこちらに寄越す。肩をすくめ、スマホの横のボタンを押し、メッセージ内容を確認する。


『今日は何時に帰ってくる?ご飯用意しておくよ(ハート)』


メッセージは開封せずに、そのままアプリでカレンダーを見る。


そうか。今日は火曜日かーー。


柴崎が暮らす駅から乗り継ぎ、約30分ほどの場所に千咲の家と職場はある。都会のど真ん中で育ち、両親と今も暮らしている彼女は、箱入りな反面、しっかりと家庭的な一面もある。

こうやって職場である美容室が休みのときは逐一俺の家で食事を作ってくれるのだ。一人暮らしのアラサーの傾いた生活にはありがたいものだ。

急いで紹介状の記入を終え、白衣を脱ぐ。


――そういえばあの時も上着を脱いだんだったな


千咲とは、大学時代からの悪友に紹介を受け知り合うことになった。その日も俺は、いわゆる合コンというやかいな集まりに顔を出していた。いや、出さざるを得ない状況であった。というのも、世の女性は「医師」というレッテルが大好物らしい。全く気のりしなかったが、頼まれた手前断れない性格の俺はやすやすと引き受けてしまった。少し遅れて店に到着し、「こっちこっち」と声をかけられ席に座ろうとすると、計10人の男女が居た。ちょこんと座っている可愛らしい女子もいれば、堂々と煙草をふかす少々きつめの女子もいたが、みな一様に見えた。

ジャケットを脱ぎながら、『まぁ、なんだっていいけど』と多少投げやりな気持ちになりつつビールを頼もうとしたとき、左手にハンガーを持ち、右手を差し伸べた女がいた。


「お疲れ様です。ポッケのもの大丈夫ですか?」


それが千咲だった。


大きな目とピンク色の頬が印象的な、どこにでもいそうな可愛らしい今どきの子であったが、言葉の使い方やしぐさはしっかりとしていて、好印象を与えられた。話もまぁまぁ合ったので、周りにやいのやいのとどやされながら連絡先を交換し、その日は家路についた。何回か連絡を取ったものの、不精な性格の柴崎はどんどん返信が間延びしていった。ひと月ほどたったある日、家に帰って冷蔵庫から缶ビールを出したとき、携帯が震え、千咲からの着信を示す画面が光った。


「へんな人につけられた。怖い…」


あの合コンの時の明朗な声からは想像もつかない弱弱しい千咲の涙ぐんだ声が聞こえてくる。飲もうとした缶ビールを机に乱暴に置き、頭で考えるより先、玄関のドアを開け飛び出した。迎えに行った千咲はコンビニの外でうずくまっていた。「千咲さん」と声をかけると、顔をくいと上げた千咲の瞳には三日月形の涙がたまっていた。頬と同じ色をした唇が、震えながら「逢いたかった」と俺に告げた。その晩を境に、千咲は俺の家に頻繁に来るようになった。

玄関に鍵をさし、扉を引こうとしたらがちゃんと音を立てた。もう一度鍵を反対方向に回し、扉を開ける。途端に香ばしいにおいが鼻腔を刺激し、胃のあたりがぐぐっと動く。

ネクタイを緩めながら、鞄を革のソファに置く。


「鍵しめとけっていったよね」


なれた手つきでフライパンを動かす千咲の後ろ姿に投げかけるが、返事はない。一つ小さく息を吐き、千咲の背後に近づく。


「千咲、ただいま。今日も来てくれてありがとな」


ぱっと花が咲いたように彼女が振り向く。「今日は生姜焼きだよ!」

千咲の行動や感情のパターンは大抵読めてきた。育ってきた環境か、はたまた交際してきた男性の影響なのか、彼女は相当の構ってほしがりだ。そのくせ、優しい声かけにしか反応しない便利な耳を持っている。

ああ、と呟き、曖昧な笑顔を彼女に向けた。その瞬間、また来た。

あの女が、今日出会った女が俺の脳みそにやってきた。あの女はどういう風に彼氏と話し、どういう風に日々を送っているのか。そんなことが頭をかすめた。やはり、あの病院で出会った女が忘れられない。どこかで見たことがあるような、はたまたーー。


「悠君、なんか今日あった?」


はっと目を見張ると、綺麗に刻まれたキャベツの千切りを皿からほろほろとこぼしていた。千咲が俺の目をじっとのぞき込む。なんとなく罰の悪い気持ちになり、「んや、患者のこと考えてた」と答える。

ならいいけど、と小さくつぶやき、千咲はリモコンを手に取った。


「奈美が結婚するんだって。式は11月。いーなぁ。」

ころんとこちらに寝返り、俺の胸元でつぶやく。「そっか」といい、煙草に手を伸ばす。

「ねぇ、聞いてるの?」ふくれっ面で口をとがらせる千咲が、わざとらしく煙草を遠ざける。

「私、赤ちゃんがほしい。それに、一生美容師やっていくつもりないし…。はやくパパとママと離れたいし。」

どうして女というものは脈絡なく話せるのだ。最も、その言葉のゴールはいつも同じなのだが。

千咲の髪を梳きながら、そうだな、とうわの空でつぶやている自分がいた。




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