第36話 明日の街で─2
その夜、私は商店街を一人歩いていた。
周りには誰もいない。時折ほうっと息を吐きながら、少し寒さの残る街を進んでいく。
真夜中。静寂と暗闇が支配する世界。「世界に一人だけになったみたい」という表現がピッタリだと感じる。
太陽が昇っていた頃の喧騒は去り、今私に響いてくるのは、石畳を踏む私のブーツの音だけだ。
元の世界にいたときは感じなかった、別の形の孤独。だがその孤独は、私の知ってるものより心地よくて、包み込むような優しさがあった。
そう思う原因が心境の変化か、環境の変化か、それともどちらでもないのか分からない。ただ今は、この感覚に身を委ねたかった。
「なんて、ノスタルジックになってもしょうがないわねぇっと……」
独り言を呟きながら歩いていると、目的の店が見えてきた。
店の前の扉には、この世界の言葉で「CLOSE」を意味する言葉が書かれている札がある。しかしその言葉に反して、店の中は明かりが灯っていた。
私がしばらくその光景を眺めていると、店の扉が開いて、中から出てきた者がいた。
「いらっしゃい。舞ちゃん」
「……こんばんは、ルソーさん」
その日の夜、私は一人ルソーさんの元を訪れた。
「すみません、急に押し掛けてしまって……」
「良いのよ。それに舞ちゃんには何度も手伝ってもらったからねぇ。私に出来ることならやるわ」
そう言いながら、ルソーさんは私の髪を湿らせて整える。
「夕方に来た子もそうだったけど、舞ちゃんも大分髪が長いわよねぇ。切らなかったの?」
「切らなかったというより……切りに行けなかったというか……」
床屋が嫌いだった訳では無い。ただ、店員に話しかけられるという状況になるのが嫌で、引っ越してからは一度も言っていなかった。
お陰で髪は伸び放題になり、さらに毎日風呂に入りもしなかったから、私の髪は女性の物にしてはかなり荒れてる方だった。
それを見かねたルソーさんが、良ければ髪を切ろうかと提案してくれたのが夕方の事。
そんなわけで、今私はルソーさんの店にいる。
「それより良かったんですか? もうすぐ店閉めちゃうのに……」
「閉めるからこそよ。明日はもう店を開けないから、残った仕事は全部今日中に終わらせないと」
「…………」
明るく話すルソーさん。自分の店の事なのに、まるで他人事のような気がしてきた。
「……ルソーさん、本当に……お店、辞めるんですか?」
「……そうよ」
「でも……良いんですか? 本当に閉じて……」
私の言葉で、櫛を動かしていたルソーさんの手が止まった。
「……どうして?」
「だって……」
「だって……サンシアさんは生きていたじゃないですか……」
その瞬間、店の中の時が停まったような気がした。
「……気づいてたんだ」
先に口を開いたのはルソーさんだった。
「はい……クローネさんはルソーさんと初対面の筈なのに、やたらとルソーさんの事を心配していたから……それともう一つ」
「?」
「ルソーさん……一度もクローネさんの事を、『クローネ』って呼んでませんよね?」
私の言葉に、ルソーさんはため息をついた。
「……あの子をクローネと名付けた覚えは無いもの。あの子はサンシア、絶対よ」
「……じゃあ」
そこで私は疑問をぶつける。
「じゃあなんで店を閉じるんですか?」
「……サンシアと私の店に、何か関係があるの?」
「ありますよ。だってルソーさんが店を閉じようと思った理由って、サンシアさんの事を諦めたからでしょう?」
その時、初めてルソーさんの顔に動揺が走った。
私は続ける。
「最初は体調が悪くなるからだと思ってました。でも、店を閉じたら、サンシアさんはどこに帰ってくれば良いんですか? 自分を拾ってくれた人がいる場所が無くなったら、拾われた人はどこに帰れば良いんですか?」
「…………」
「ルソーさんは待ってたんですよね? サンシアが帰ってくるのを……でも、諦めてしまったんですね? サンシアさんはもう来ないって……」
「……その筈だったんだけどねぇ」
私の頭から手を離し、ルソーさんは後ろを向く。
「無理だって思ったの……ううん、ずっと思ってた。もうサンシアはいないって。私も前に進まなくちゃならないって……そう思って、まずは店を閉じようとした」
語るルソーさんの声。それが涙ぐんでいた事に私は気づいた。
「そしたら……帰ってきちゃうんだもんねぇ。せっかく決心したのに、また揺らいじゃった」
「じゃあ……まだ店は開けるんですか?」
私の問いに、ルソーさんは首を横に振る。
「ううん、それは無理」
「え?」
「だって……これ以上待つなんて無理だもの」
ルソーさん指が再び触れた。
「決めた。私エタトスに行くわ。そこでサンシアを取り返す。絶対に」
正面の鏡に、ルソーさんの顔が映る。
その目に涙はもう無い。あるのは燃えるような情熱だけだ。
「もし取り返すのが無理な時は、エタトスでサンシアと一緒に店を開くわ。床屋でも喫茶店とかでも構わない。この先の人生、あの子と離れたくないの」
「そうですか……」
「そうよぉ? 私、ルソー=メルク=フェルシェントの人生はここから始まるの!!」
高らかに笑うルソーさんにつられ、私も笑う。
「叶うと良いですね、その夢」
「叶えるわ、絶対にね。だからまずは──」
ルソーさんが手に持ったハサミが、私の髪へと滑り込む。
「舞ちゃんも、変わろっか」
パチンと軽快な音をたて、ハサミは私の髪を切った。
それから数日後────
私は買い物がてら、ルソーさんの店があった場所を訪れた。
店舗の中はがらんとして、そこに店があったなんて嘘だと思いそうになるほどだった。
「…………」
ふと私は髪の毛先を触る。
あの日、私の長ったらしい髪は、スッキリとショートヘアへと変貌した。
短い髪に最初は戸惑ったが、今ではかなり気に入っている。今まで髪を短くしたことなんて無かったから、今までとは違う新鮮な気持ちになれた。
ルソーさんは、サンシアさんと出会えただろうか。またこの商店街に帰ってきてくれるのだろうか。
いつになるかは分からない。だからそれまで、少しでも良いから頑張ってみよう。
そんな事を、透き通るような青空の下で考えた。
だが、この平穏を揺るがすような事態が起きようとしていたことに、私はまだ気づかなかった。
第二章 ─f i n─
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