魔女は自ら助くる者を助く

10 梁の上の天使

10-1

 翌朝、アーニャを迎えに来たユーリアンが意味ありげに笑いながら朝刊を見せた。

「いいニュースだオーリ。例の『花崗岩の竜人』事件が暴かれたせいで、からくり箱の存在意義が微妙になってきた」

 朝刊の3面には、竜人が封じ込められたリル・アレイの岩の写真と共に過去の忌まわしい事件に関する簡単な解説が『写真提供:魔女出版』として載っていた。


 あの落雷の日。オーリから連絡を受けた魔女出版の記者が急いで現場の岩に保護魔法をかけ、写真はちゃっかりと自社のスクープ記事にした上、各新聞社にもばらまいたのだという。

「何? 何て書いてあるの?」

 人間の文字が読めないエレインは写真を食い入るように見つめている。

「署名記事が付いているな。落雷によって竜人迫害の事実が暴かれたことを天啓と考えるべきでは、だってさ。よく言うよ今頃になって」


「いや、今だから意味があるんだよ。さきの大戦から7年、世の中が豊かになるにつれて、自分達のしてきた事に疑問を持つ人間が増えてきたんじゃないのか? 事実、水面下じゃお堅い連中も動いているらしい。からくり箱みたいなくそったれ制度を気に入らない連中が、魔女の協力を求めてきたって話も聞くし。これが蟻の一穴になればいいね」


「パパ、みてー」

 ロバのぬいぐるみに乗ったアーニャが、二階の軒先まで舞い上がり、上手に旋回してみせた。朝からずっとこんな調子で飛び回っているから、アーニャは機嫌の良いことこの上ない。そのすぐ下ではステファンが、古い箒に乗ってよたよた飛んでいる。

「たいしたもんじゃないか。オーリが10歳の頃より覚えが早いぞ」

 庭に出たユーリアンが面白そうに見上げている。


 今朝早く、オーリはNo.4の保管庫から古い箒を持ち出してきて、半世紀も前に廃れたという箒飛行術を少しだけ教えてくれたのだ。昨日のひどい飛行のこともあるのでステファンはこわごわ跨ってみたのだが、浮遊するだけなら思ったより簡単で、すぐに慣れた。もしかしたら自転車より簡単かもしれない。

 小さいアーニャは一緒に飛び回れる相手ができて大喜びだ。

「あんまり飛ばすなよステフ、風に煽られると……あ、ほら!」

 調子に乗って高く飛ぼうとしたステファンは、バランスを崩して落っこちそうになった。すかさずエレインが家の壁を蹴り、三角飛びでステファンをキャッチする。


「ステフ、重力から解放されるってのはいいもんだろ? 気に入ったならそれは譲るよ」

「え、いいの?」

「ああ、箒もそのほうが喜ぶだろう。ソロフ先生から譲ってもらった宝物だったけど、今なら君のほうが相応しい」

 そんなだいじな物を、と戸惑うステファンにユーリアンは笑いかけた。

「貰っときな。君はこの面倒くさい師匠オーリについてから随分頑張ったんだもの、それくらいの権利はあるさ。ただし骨董品だからな、それ。街中では飛べないし、使えるのはオーリの家の周りくらいか――さあおいでアーニャ、お家に帰る時間だ。ママが待ってる」

 ユーリアンはロバのぬいぐるみごと愛娘を抱き取った。


「またいつでもいらっしゃい、小さい魔女さん。ここは守られた場所だから、いくらでも飛んでいいからね」

 守られた場所――エレインの言葉を、ステファンは胸の中で反芻はんすうした。確かにこの家は、そうなのかも知れない。竜人も、魔女も、魔法使いも、周りに気兼ねせずに本来の自分でいられる。けれど本当は、街の中だろうが学校の中だろうが、いつでもありのままの自分でいられたら、どんなに楽しいか知れないのに。


「今度来るまでには、ぼくも上手く飛べるように練習しておくからね」

 小さいアーニャの頭を撫でながら、ステファンは本気でそう思った。

 もっと飛びたい。自分の力で、自分のやりかたで。ささやかな箒飛行は、ステファンの中の新しい扉を開いてくれた気がした。



 ユーリアン親子が帰った後、オーリは空を見ながらじっと考えていた。

 が、やがて何かインスピレーションを得たように、力を込めて言った。

「よし、描ける!」


 午後、オーリはアトリエに大きな縦長のカンバスを持ち込んだ。

 描きかけのまま屋根裏で眠っていた絵だという。なぜそれを今持ち出したのか、覆い布を外しながらオーリは感慨深そうに絵を見上げた。

「以前描いていた時にはなぜ挫折したのか分からなかった。画肌マティエールが気に入らないだの、構図がどうだの、表面的なことばかり気になってね。でも違う。この絵に何が足りなかったのか、今ならはっきり分かるよ」


 こんな綺麗な絵に何が足りないのだろう、とステファンは不思議な思いで見上げた。明るい色彩で描かれた画面は、なるほどまだ下絵の線が残っていたりする個所はあるが、ステファンにはこれだけでも充分なように思える。縦長の画面に何人かの人物が上へ、上へと向かうような姿勢で並ぶのは、何かの舞踊だろうか。一番上の空に近い場所に描かれた人には翼のような物も見えるから、天使を描こうとしたのだろうか。 


 ステファンの隣で同じように首を傾げているエレインの肩に手を置いて、オーリは力強く言った。

「エレイン、君を――いや、竜人フィスス族を描かせてくれ!」

「フィススの絵を?」

「そうだよ。思い出さなきゃ、この世界は人間だけのものじゃないってことをさ」


 オーリはステファンにも明るい瞳を向けた。

「ソロフ師匠の言葉を覚えているかい? 絵描きには絵描きなりの勝負の仕方があると言ってたろう。悪いが今からしばらくは、絵の制作が中心の生活になるよ。ステフ、君には助手をつとめてもらうけど、いいかな」

「もちろんです!」

 張り切って答えたステファンは、ああこの目の色だ、と思った。最初にオーリに会った時と同じ、自信に溢れた力強い水色の目。やっぱりオーリローリ・ガルバイヤンはこうでなくては。

 胸いっぱいに吸い込んだ風は、張りつめた新しい季節の香りがする。


 オーリは描きかけの画面全体に暗い色の絵の具を何度も塗り重ね、とうとう塗りつぶしてしまった。

 なんて勿体無いことをするんだろう、とステファンは思ったが、もとより絵のことなんかわからないし、黙って見ているしかない。それにオーリの目の輝きを見ていると、ここから何が生み出されるのだろうという期待のほうが勝ってくる。


 アトリエに、再びエレインが戻ってきた。

 相変わらず気ままに梁の上に寝転がって面白そうに作業を眺め、時折からかうような言葉を投げてくる。けれどそれだけで、寒々としていた部屋の雰囲気がいっぺんに変わり、皆をホッとさせるのは不思議だった。

 

 イーゼルに乗せると天井に届きそうなカンバスは、長身のオーリといえども画面の隅まで描き込むとなると大変だ。オーリはL字型のイーゼルを倒れないように固定すると、脚立を持ち込んで描き始めた。

 こと絵に関しては、オーリは一切魔法を使わない。数本の筆と刷毛とナイフを駆使し、描く、描く、ひたすら描く。ステファンは助手といっても絵が描けるわけでもなし、オーリから指示された番号の絵の具を手渡したり、筆を拭いたりするくらいしかできないが、油の調合を手伝うのは魔法薬でも作っているみたいで面白かった。――魔法修行とは何ら関係なさそうだが――それでも初めてオーリの役に立てる誇りで胸が躍った。


 問題はエレインだ。

 剣を構えたり弓に矢をつがえたりしてモデルを務めるはずが、ものの2分とじっとしていられないらしく、しばしばオーリに文句を言わせた。

「あーもう台無しだ。なんでそう動きまわるんだよ」

「だって退屈なんだもん」

「あの落ち着きのないユーリアンだって絵のモデルくらいは務まったぞ、君は筋力はあるくせにこらえ性がないんだ!」

「偉そうに言わないでよヘボ絵描き!」


 また、騒々しい日々が始まった。けれどステファンはもう心配しなかった。お互いの鼻先に噛み付かんばかりに大声でわめき合っていても、2人の間の空気が以前とは全然違うことに気付いたからだ。

「せんせーい、あんまりエレインを怒らせてると絵の中の人まで怖い顔になっちゃうよ」

 落ち着いたステファンの声に2人は吹き出し、それぞれの位置にまた戻る。


「おやまあ、すごい臭いだこと」

 アトリエにお茶を運ぶマーシャが顔をしかめた。

「いくらお仕事に熱中してても換気はしなくちゃいけませんよ、オーリ様。ステファン坊ちゃんにも良くありません」

「溶き油の臭い? ぼく慣れちゃったよ」

「そうら、その『慣れる』っていうのが良くないんです」

 マーシャは厳しく言って窓を全開にした。

「確かに揮発油の臭いは身体に良くないな。悪かった、ステフ。助手を頼んだからといって一日中アトリエに篭っていることはない、時々は外に出て箒で遊んで来ればいいよ」

「それで言うんなら絵の具も毒なんでしょ。絵筆を口にくわえるクセはやめなさい、オーリ。あたしまで被害を受けるから」

 お茶を飲もうとしていたオーリは顔を赤くして咳き込んだ。


 そんな日々を送るうちに、不思議な変化が起きた。

 オーリは以前のように大食しなくても魔力を保てるようになって、マーシャを大いに驚かせた。逆にエレインは人間の食べ物に興味を持って、焼き菓子くらいは恐る恐る口にするようになってきた。

「無理に人間に合わせることはないんだよ」

 心配そうなオーリにエレインは首を振った。

「別に無理はしてないわよ、前から食べてみたかったの、本当は。でもなんか怖くてさ。人間の食べ物を食べちゃうと、竜人じゃなくなるような気がして」

「何を召し上がろうと、エレイン様はエレイン様でございますよ」

 マーシャは嬉しそうだった。

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