V - 03

 空が青く晴れ渡っていた。


 播磨に渡された解錠道具の詰まった鞄を提げて部屋に入ると、僕が一番早く着いたようだった。誰か他の人間が使ったのか、一日五〇〇〇円のレンタルルームには長机とパイプ椅子がいくつか並んでいた。窓から真っすぐ陽が差し込み、濃い陰が床を黒と白にはっきり塗り分けている。

 冷えた空気が乾いていて、宙を漂う塵が輝いている。


 岸田が来て、播磨が来た。

 ドライバー亡き今、これが僕の知る火点け屋の全部だ。


 たった一人死んだだけなのに、残党、という言葉が頭に浮かんだ。


 播磨は前回と同じ平静で、岸田はいつもの皮肉な笑みを浮かべていた。岸田からは、数時間前に見た焦燥が抜けているように見えた。ちょうど円を三分割するように、Yの字のそれぞれの端のような位置と距離で、部屋の真ん中に置いたパイプ椅子に僕らは座った。


 僕の足下、解錠道具の詰まった鞄に播磨が僅かに視線を向け、口を開いた。


「今日はご足労頂きありがとうございます」


 一言目の播磨の言葉は、たぶん前回と寸分違わず同じだった。


「お久しぶりです」


 播磨が言い、僕と岸田は曖昧に相槌を打つ。

 状況に比して、信じられないくらい淡々としていた。


「この度は大変でしたね、お二人はお変わりありませんか」


 岸田は答えなかったし、僕も答えなかった。

 どう答えても嘘のように響く気がした。

 話の本題を待たず、会話の最短距離を選ぶように、僕は尋ねる。


「……結局、どうなったんですか」

「質問が抽象的過ぎますが、どうなった、というのは?」

「事後処理……いや、あの家と……死体、です」


 口にした言葉という言葉が奇妙に響いた。

 あのことがたった数単語にまとまってしまうことが不思議だった。


「家は、清掃が入ったので綺麗になりましたよ。ガソリンの揮発臭もうまく消えました。冬なので死臭もほとんどありませんでしたしね。これが床も見えないような散らかった部屋だったり、絨毯が敷いてあったりだと大変だったんですが、運がよかったですね」

「……そんな、簡単に、消えるものですか」

「消えますよ。現に、この部屋でも人が死んだことがあるのに木戸さんは気づいてないじゃないですか」


 僕は首を動かさずに床に目を走らせる。

 フロアマットを剥がされたような粘着剤の跡。オフィスデスクが鎮座していただろう凹みに傷、穴。他には何も見当たらない。


 播磨が言う。


「冗談ですよ」


 僕が播磨を見返すと、また言う。


「というのも冗談です」

「……どっちなんですか」

「どっちでもいいじゃないですか。要するに、消えるってことです」

「死体は」

「消えました。先人の言葉を借りるなら、透明になりました。もう少し調べる必要はあるかもしれませんが、二人とも人間関係も希薄だったみたいですからね。せいぜいどこかで無断欠勤か無断欠席だと思われて音信不通になる程度でしょう」


 そこまで話すと、播磨は口を閉ざした。


「……それで?」

「それで、とは?」

「その、話の、続きです」

「ありませんよ」


 あまりにも肩透かしで、岸田は、くく、と笑った。

 馬鹿げていた。


「何か……けじめというか、処罰は、ないんですか」

「何も、ありませんが」播磨は繰り返した。「仮に、お二人に責任があることにして、謝罪させるか、ペナルティを課すとして、それに、意味がありますか?」

「…………なら、なんで、こうやって呼び出したんですか」

「木戸さんに、これからもお仕事願いたかったからです」


 え?


 と、僕は反射的に訊き返した。

 播磨が口にしたのは「お二人」でもなく「あなた方」でもない。

 僕の名前だ。


「なんで、僕なんですか」

「この一件で、木戸さんが手を引くかもしれないと思ったんです」

「それは」

「違いますか? それとも、これからも続けてもらえます? 前に、話しましたよね。私は、あなたは手放したくなくないんですよ。この仕事は、私の精神安定剤ですからね」播磨が口調を崩して言う。「ね、岸田さん。いや、岸田くん、の方が今はいいかな。ね、岸田くん。私、前にも木戸くんを口説いたことがあるんですけど、全然首を縦に振らないんですよ。好きなときにセックスさせてあげるとまで言ったのに断られちゃったんですよ、私。どう思います?」


 話を振られた岸田が言う。


「そりゃなんていうか、狂ってますね」


 何もかもが。


「……それでも呼び出したってことは、何か、あるってことですか」

「そうです」


 播磨が笑った。


「さっき、死体は消えたって言ったじゃないですか。あれはね、嘘なんです。運転手さんの方は消えちゃいましたけどね。もう一人の方は、まだ残ってます。正確には、首から上だけ、まだ、消えてません」


 手刀を作って、播磨が右手を首の横でひらりと振った。


 それから、小さな袋を取り出した。

 袋はちょうど縦横がスマートフォンくらいのサイズで、平たく、透明だった。口を閉じるためのジッパーが付いていて、警察の証拠品袋に似ている。


 それの中に、何か、細長く黒いものが入っていた。

 細長く、黒く、人差し指くらいの長さで、一端が階段状に変形していた。

 全体に何かが付着していて、仄暗い闇の中、それが黒く艶を持って光った。


「凶器のヘアピンです」


 播磨が小さな袋を掲げて笑った。

 陽光を浴びて、金属片が深く黒く光った。

 窓からの逆光に背を向けて、播磨の貌が消えた。

 陰の中で、播磨の口が一つ一つ言葉を刻んで動いた。


「血と、脳と、木戸くんの指紋が付着しています」


 音が消えるのが聞こえた。

 岸田が笑った。


 ……指紋って。僕の口が動く。

 指紋って、ただの、細い、ヘアピンですよ。

 指紋なんか、出るんですか。


「確かに、片鱗指紋ですけどね、可能性は十分にあります」


 播磨が指先で首を撫でた。


「鼓膜を突かれて脳まで傷ついた頭があって、血と脳が付いたヘアピンがあって、そこに木戸くんの指紋が付いている」播磨は一度、明確に言葉を区切った。「かもしれない、だけで、十分なんです」


 ポケットの中でアーミーナイフを握った。

 爪の先で鈍い刃を引き出して、指で撫でた。

 刃で引いた線は輪郭がひどくぼやけていて、指先との境界が曖昧だった。


「さっきも言いましたけど、木戸くんが手を引いちゃう可能性をずっと危惧してたんですよ。だって、女の子のため、って動機だけなんですもん。例の女の子との調子はどうですか? 好き? 愛してる? もしかしたら、進展のひとつでもあって、それも手を引きたいと思った原因なのかな。自分は幸せになったからイチ抜け、みたいな。だめですよ、解錠できるのに手を引こうとするだなんて、ずるいじゃないですか。私には木戸くんが必要だって言ってるのに寂しいな」はは、と播磨の乾いた声が上がった。「だから、キミを破滅させてあげようって思ったんです」


 播磨の指先で透明な袋がひらりと舞っていた。


 パイプ椅子が軋んだ。


 椅子から滑り出すように、僕の身体が弾けた。剥き出しの床が靴底と擦れて甲高い音を鳴らした。播磨の手まで、数歩あれば届く。アーミーナイフがポケットから滑り落ちた。床を蹴った。がくんと身体が揺れた。服を掴まれ、首を振られた。

 岸田の顔が見え、像が振れる。


 殴られたのがわかった。


 視界が回転し、硬い床から身体に衝撃が響いた。座っていたパイプ椅子が倒れ、金属音が鳴った。解錠道具の詰まった鞄が床に横たわり、雑多な音を立てた。床を覆っていた埃が舞う。岸田が僕を見下ろし、僕の腹を二度蹴り上げた。


 数時間前の男みたいに足を踏み下ろしているわけじゃないから死にはしない。

 ただ咳き込む。


 岸田が僕を見下ろしながら、僕が立ち上がるのを待っている。


「何を奪いにかかってんだ」


 播磨が僕らを物珍しそうに見ている。

 よろよろと立ち上がり、僕は言う。


「……俺は、降りる」

「アホか。いまさら降りられるかよ」


 僕は播磨の方に一歩進もうとし、岸田に腹に一発もらう。 

 岸田の拳は、握り方も振り方もちゃんとわかっている一発だ。僕も岸田を殴りつけるが、喧嘩経験が皆無のせいでまるで重みがない。ちゃんと殴れよ、と岸田が言い、僕はまた軽い拳を繰り出す。岸田からまた一発返ってくる。


 埃まみれになりながら僕は床を這いずり回る。

 岸田が僕のアーミーナイフを拾い上げ、刃を引き出す。

 皮膚の一枚も切れない鈍い刃を撫で、岸田が僕の腕をちくりと突いた。


「仮にやめて、何になる?」岸田が言う。「お前に、鍵を開ける技術以外があるのかよ。何にもないだろ。それをとったらお前には何にも残らねえし、それが必要とされるのは、ここしかない」


 それは、お前だって同じだろ。

 ここにいる人間は一様にまともになり損ねている。

 僕は言う。


「続けてたって、何にも残らないだろ」


 それだけで会話は平行線になる。

 岸田は死に損ねた。

 あれがピークだったかもしれないことぐらい、わかっているはずだ。


 腕を伸ばしても届かないところに、播磨の黒い靴先が見える。身体が重い。床が冷たい。打撲やアザがずきりずきりと痛みを発し続けている。播磨が立ち上がり、一歩、二歩、と歩く。それだけで僕からはずっと遠のいていく。


「どうします?」播磨が尋ねた。「選択肢がない以上、私としては友好的になってもらいたいんですけど、どうしましょうか? ……あ、犯してみましょうか? 岸田くんは、どう思います?」

「……自由にすれば、いいんじゃないですか」


 その返答がおかしかったかのように播磨がくすくすと笑っていた。

 僕はよろめきながら立ち上がり、立ち尽くす。


 右手を握り、右手を開く。

 僕の右手。

 どこにでも入り込める右手。

 唯一、僕に価値を生じさせてきた右手。

 居場所を作るために手に入れたこいつのせいで、僕はここから抜け出せなくなっている。


 逡巡した。


 躊躇はしなかった。


 足下に転がっていた解錠道具入りの鞄を拾い上げる。

 鞄のジッパーを開けて鞄を傾けると、一本、二本と解錠道具が滑り落ちていく。ピックの詰まったケースが滑り落ち、コンクリートマイクが滑り落ち、破錠用のものだろうバールやハンマーが滑り落ちた。金属やプラスチックと硬い床がぶつかり合って騒々しい音を立てる。


 グリップに滑り止めが施された、打撃面が平坦なハンマーを手に取る。


 二人が僕を見ている。


「播磨さん、一つ、訊きたいんですけど」

「なんですか?」

「さっき、僕が必要だって言ったじゃないですか。解錠できるのに手を引くのは狡いって」

「言いましたね」

「もし、僕が鍵を開けられなくなったら、どうします」


 播磨が笑った。


「それは、引退してもらうしかないですね」


 さらに僕は尋ねる。


「そのとき、さっきの証拠品は、使いますか」


 鍵を開けられなくなってしまった僕に、利益とは全く関係のない追い打ちを食らわせるのか。

 そう僕は訊いたが、待っても播磨は答えなかった。

 沈黙。窓から差し込む光が眩しい。


 右手を握り、開いた。

 壁際の長机を中央に引き摺り出し、天板に右手を置く。

 左手でハンマーを握った。


「指、折るつもりかよ」


 岸田が言った。


「鍵が開けられないなら、俺の価値はないんだろ」


 僕の価値はゼロになる。

 解放される。僕はこのことを後悔するかもしれない。


「証拠がこっちにあるのは変わらねえぞ」


 岸田は言うが、播磨は何も答えない。 


「部屋は、どうする。俺次第で、お前の行き場なんかなくなるぞ」

「それも、お前に任せるよ」


 僕は笑って見せる。

 楽観的過ぎるだろうか。


 僕は二人のどちらについても、狂人や悪人だとは思っていなかった。


 ここにいる人間は皆がまともになり損ねている。

 孤独なくせに、他人を信じないし、他人を信じないからこそ、孤独だ。

 まともじゃないから世界に馴染めないし、まともじゃない人間同士でもうまくやれない。利益や従属関係でつながりを目に見える形にしないと落ち着けない。他人を縛れないと、信じられない。


 たぶん、どうしようもなく孤独で。


 それだけだ。


 僕は播磨に言う。


「すみません。僕には、播磨さんを救えないです」


 それから、岸田に言う。


「悪いな、最後まで付き合いきれなくて」


 二人とも、表情を変えなかった。


 ハンマーを握りなおす。指先に緊張が走る。人差し指、中指、その付け根と第二関節の間。振り下ろすならそこだ。僕の指を折るためのハンマーが曇りなく銀色に光っている。僕はあえて解錠と同じ儀式を行う。


 ゆっくりと息を吸い込み、息を止めた。

 ぴんと張った緊張状態に感覚がぴたりと止まった。


 もし。

 この右手で綺麗な絵の一つでも描けていれば。

 感動するような音楽の一つでも弾けていれば。

 居場所の一つでもできて、もう少し違ったんだろうか。


 そんなことを思った。


 仕方ない。

 僕の右手には鍵を開ける能力しか身に着かなかった。

 ままならないけど、仕方ないことだ。


 それをとったらお前には何にもない。そう言った岸田は何も間違っていない。わかりきっている。僕自身に何もなくなったとき、何が残ってくれるかはわからない。ただ、紫苑の言葉を信じてみたかった。


 僕は、一度ゼロになることに耐えなくちゃならない。


 岸田。

 見えてるか。


 僕の目は開いている。

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