第3課 プロシェーニェ(魔法)


――古典ラテン語。

紀元前のローマに生まれ、すでに事実上話者の存在しない「死んだ言語」。

だというのに、歴史上果たしてきた役割のあまりの大きさから、21世紀を迎えた今でも世界中の人間が学び続ける言語。

そして――俺が青春を賭けて取り組んでいる愛すべき存在でもある。


イグニス去るエクシーレー


グーマは確かにそう言った。聞き間違いじゃない。耳に馴染みのある言葉だ。

英語のアナウンスの途中で、日本語の「東京」だけ聞き取れてしまうような。

雑踏の中で突然自分の名前を呼ばれたような、「言葉が急に輪郭を持つ」感触。


「…グ、グーマ! ラテン語をラティーナムネ話すのかロクェリス?」

「…? カーなに? カーなに・ムルヴィーシュ?」


呆気にとられた表情のグーマ。通じていないようだ。だが――聞き間違いだと切り捨てたくない。俺が知っている言葉だ、俺の世界と直結する言葉だ。逃すものか。


「…カーなにティきみ・ムルヴィーシュ・オ・タハ・ヤザーカハ?」

「…ああ、もう、ええっと…ラテン語でラティーネー! ラテン語でラティーネー 言ってくれディーケ分かるからカピオー!」

「…カーなに? ネー・ロズミウ…」


通じていない。嘘だ。だってさっきはラテン語で。あんなに綺麗な――

(――綺麗な? そんなに綺麗だったか? )

どうだっていい疑問が、肝心なところで針のように思考に刺さる。悪い癖だ。

だが確かに彼女のラテン語は綺麗ではなかった。すでに話者のいない言語だから、何をもって「綺麗」と呼ぶかは定かではないのだけど――少なくとも、その響きはラテン語の本来のアクセントではなかった。意味は分かるけど、片言。響きが異質。

来日して一年ぐらいのアメリカ人の日本語みたいだった。


…それほど話せない? 来日したてのアメリカ人のように?


「…グーマ、…ラテン語ラティーナ君はトゥー分かる?カピス

「ラーティー…? カーなに…?」


それでも奏功しない。…どうしてだ。冷静に考えよう。グーマが確実に分かる語彙はなんだ。ここまで簡単な語彙も分からないとなると…さっき自分で言った単語はどうだ?


「グーマ。…イグニス?」


いつの間にか消えていた蝋燭の、火のあった部分を指で示して、ラテン語で問う。


「イェール。イグニス! 」

グーマがようやく「分かった」とばかりに反応し、続けて蝋燭に視線を向けて――

イグニス来るヴェニーレ!」


――無から、火が灯った。


「うおっ」

思わず声が漏れた。ドアの横の蝋燭までは随分距離がある。リモコン的な何かというわけでも、恐らくはない。電気的な明かりでもない、あれは紛れもなくイグニスだ。

「――ネー・スタースナ? ヤーズ・ナグレペイサ・ウ・ヴェースハ!」

得意げにグーマが何か言っている。

ヤーズわたしレーパよい・ウ・プロシェーニェフ!」

「プロ…プロシェーニェフ…?」

「イェール! プロシェーニェ・イェとは・モーヤ・ナグレペイサ・マギートノスティ…」

嬉しげにグーマが応える。何度か聞いているこの「イェール!」は「はい!」とか「その通り!」かな。伸ばすんだろうか。落ち着いて話すときは「イェル」って短くしてる気もする。検証だ。

イェールはーいイェルはい?」

どっちが正しいのか、両者並べて尋ねてみたが――

カーなにイェルはい

きょとんとした表情で返された。多分「イェル」と短く言うのが正しいんだろう。覚えたぞ。

「それで…あー、カー・イェなんですか・プロシェーニェ?」

いま一番気になるのは「プロシェーニェ」というやたら長い単語。

「プロシェーニェ、イェとは…、ンー…、ヤケー・ヴィヤスヌー…ヤケー…」

考え込むように「やけー」っていうの、少し可愛らしいな…と場違いな感想を抱いていると、何か思いついた顔をしたグーマが「イェル!」と顔を挙げて――


イグニスくるヴェニレ!」


張りのある声で、先程と同じラテン語を口にした。何も起こらない。


…「ヌー、イェシ・ラズ… イグニス来るヴェニーレ!」


今度は蝋燭に火が灯った。さっきと変わらない、静かな火が無から溢れた。

魔法のようだ、と思ったところに、とびっきりの笑顔でグーマが言う。


「…トー・イェこれが・プロシェーニェ!」


――《魔法》。そう訳しておくべきだろうか?

思ったより冷静な頭が、そんなことを考えていた。




蝋燭の火を見つめながら、俺はグーマに尋ねた。

「…ヤーズおれ、…あー、プロシェーニェまほう?」

「フシーシ・マギーユ・ロビート・プロシェーニェまほう

小さい子供に教え諭すような口調だということだけは分かる。

俺がこの子より年下ってことはないだろうな。

「ムルヴァーイ・ヤケー・ヤーズわたし。…イグニス来るヴェニーレ!」

身振りで、繰り返すように促された。呪文はラテン語らしい。望むところだ。未知の謎言語よりは古典ラテン語のほうがずっと安心する。なにせ文法書は親の顔より見てきたし、どんな流行歌よりも耳に馴染んでいるのはウェルギリウスだ。

大体なんだ「来るヴェニーレ」って。文法的に「火、来る」じゃおかしいだろうが。「来るようにヴェニアト」とか「来たれヴェニー」とかあるだろうが。

火よイグニス来たれヴェニー!」



――瞬間、蝋燭が燭台ごと爆ぜた。




「――シュムスカ!」

物音を聞きつけたのか、扉を開ける音と、それに続く怒声。

「…グーマ! …カーなに・ロビーチェ?」

肩を怒らせた男性が、俺たちふたりをきつく睨みつけていた。




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